きっとそれは、悪意ですらなく 前編②
「悪ィ、ちょっと行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
遊園地──シャボンディパークで遊び始めてから数時間。ウタはパークの外で地面から生えているヤルキマンマングローブの小さな根に腰掛けていた。
イベントの時間が近いことに気付いた二人は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらもここを出ることにした。今はルフィがトイレに向かっていったところだ。
「……ふふ」
思わず、といった調子でウタは笑みを溢す。時間が近いとして切り上げた時、ルフィが言ったのだ。
“今度は時間なんて気にしなくてもいい時に来よう! 絶対だ!”
それにはウタも賛成した。彼と一緒にまたこのシャボンディパークに来る。その約束が嬉しい。
彼自身は自覚がないかもしれない。だがその約束は。
「……デート、だよね」
自分達の関係をなんと表現するべきかを、ウタは知らない。
幼馴染、親友、義姉弟、家族……どれも正しいようでいて、しかし、少し違う。
ルフィとウタ。
ウタとルフィ。
互いの想いをどう表現するべきなのかがわからない。
「…………」
左腕のアームカバー。そこに描かれたマークを見る。かつて幼き頃にルフィがくれたマーク。
二人の誓い。誰にも明かさない、ウタにとっての“新時代”そのもの。
(もう、一歩だけ)
勇気があればと、ウタは思う。
いくつもの形容ができる互いの関係。しかしそこに、ウタが本当に望む関係は含まれていない。
いつからそう思うようになったのか。
或いは最初からだったのか。
始まりはもう、わからないけれど。
「……最近、同じことで悩んでばっかりだなぁ」
今の関係では満足できない。でも壊したくもない。
だから停滞している。
──勇気を。
ほんの少しの、勇気を。
「────」
祈るようにしてマークへと触れる。幼き日々。自分にとっての全てに。
……どれぐらいそうしていたのか。
ウタの耳に、不意にその声が聞こえた。
「おい、天竜人だぞ」
「膝をつけ。近くの奴にも声をかけろ」
囁くような声であったが、ウタの耳には確かに届いた。思わず眉顰めるが、ウタは木の根から降りると他の者たちと同じように地面に膝をつく。
首を垂れる体勢をとる途中で、彼女は確かに見た。
──人に跨り、首をつけた人間を連れ歩くその人物を。
この世界において、“神”と呼ばれるモノの姿を。
◇◇◇
およそ800年前に世界政府を創造した20人の王たち。その末裔たる“世界貴族”──“天竜人”。
絶大なる権力を持つその存在を前にしては、この世界の人間は首を垂れるしかない。
世界政府はあくまで加盟国によって形成される組織だ。故に本来ならば彼らの影響力も加盟国にのみ作用するのが道理である。しかし現実はそうはいかない。
加盟国であろうと、非加盟国であろうと。
物心つく頃には教え込まれる。
──“天竜人には逆らうな”。
それは常識よりも先にある絶対のルールだ。その背景にある圧倒的なまでの力に逆らうことなど、個人には許されない。
「…………」
首を垂れながらウタはそれが通り過ぎるのを待つ。幼き頃、何も知らない頃ならいざ知らず。絶対的な存在に逆らうことがどれほど愚かなのかを知っていた。
今の彼女は海軍本部准将という強い『公』の立場を持っている。よくセットで扱われる幼馴染と騒動を起こす問題児扱いをされているが、それでも二人とも自分の中に『一線』は持っているのだ。それが世間のそれとは違う位置にあるだけで。
そんな彼女にとって『天竜人に逆らう』という行為は決して超えてはならない一線であった。
誰もが無言で首を垂れ、その存在が通り過ぎるのを待つ。
──だが。
「んん〜?」
不意に、ウタの前で人に乗っていたその“天竜人”が声を上げた。
ビクリ、とウタの体が震える。
「お前、見たことあるえ〜!」
嬉しそうな──それでいて、どこか粘つくような声。
ウタの背筋に冷たい汗が伝う。
「顔を上げろ、そこの女」
言葉を紡いだのはその“天竜人”の斜め後ろに控えるように立っていた黒服の男であった。サングラスをかけたその男の言葉に従い、ウタは顔を上げる。
妙な格好だ、というのがその“天竜人”に対するウタの最初の感想であった。服装もそうだが、わざわざ顔をシャボンで覆っているのがよくわからない。どういう意味があるのだろうか。
そんなウタの感想になど微塵も気付かぬまま、その“天竜人”は笑みを浮かべる。
「やっぱりだえ〜! お前の歌は下々の民のくせに上手いと評判だえ〜!」
「あ、ありがとう……ございます」
精一杯の愛想笑いを返す。とにかく今は問題を起こさないようにやり過ごすしかなかった。
だが、しかし。
そもそもの話として。
──“天竜人”という存在は、興味がなければ話をしない。
そして彼らにとって、“天竜人”以外の存在はただの自由にできる“モノ”に過ぎない。
「決めたえ! お前、わちしの妻にしてやるえ〜!」
その時、ウタは何も言えなかった。
言われたことを理解できなかったのだ。いや、したくなかったのかもしれない。
だがやはりその“天竜人”はウタのことなど何も気にしないままに言葉を紡ぐ。
「毎日わちしのために子守唄を歌うんだえ〜!」
楽しそうに笑う“天竜人”。対し、ウタは吐き気さえも覚えた。
──ふざけるな。
この歌は。この歌声は。お前なんかの──
「では早速手続きを行います、チャルロス聖。光栄に思うといい、女」
黒服の言葉。こちらに歩み寄ってくる男に対し、ウタは言葉を紡ぐ。
「……嫌……です」
だが、その返答はあまりにも弱々しかった。いつもの快活な彼女からは想像できないほどに弱い言葉。
もしも彼女が世界を知らぬ生き方をしていたならば、おそらく違う返答をしていたのだろう。堂々と『否』と言えたのかもしれない。
だが彼女は秩序側の人間としてこの十年を生きてきた。故にこそ知っているし、理解しているのだ。
──“天竜人”という存在。その絶対性を。
「んん〜?」
だが、ウタの返答は確かに届いたらしい。不愉快そうに眉を顰める“天竜人”──チャルロス聖。
まずい、とウタは思った。そこからの行動は早い。息を吸い、その能力を行使しようとする。
しかし、彼女は気付いていなかった。
チャルロス聖の後ろに控えていた黒服の男とは別のもう一人。白いスーツの男がいることに。
「──妙な真似をするな」
一瞬だった。
組み伏せられ、地面へと抑えつけられるウタ。直後、乾いた音が響いた。
「───ッ!?」
右の太ももに激痛が走る。同時に体から力が抜けていく。
何が起こった、と思うと同時に腕の関節を極められた。動きを完全に封じられてしまう。
「海楼石の弾丸だ。力が入らないだろう?……しかし、流石だ。この至近距離で銃弾を打ち込まれて悲鳴を上げないとは」
こちらにしか聞こえないような声量で言う白いスーツの男。そこでウタは思い出した。“天竜人”直轄、“世界最強の諜報機関”──CP0。
特徴として白いスーツを着ており、“世界貴族”の直属として動いている存在だ。更に仮面をしている者たちは別格の力を持つという。
今ウタを抑え込んでいる男は仮面をしていない。だがその力は強く、海楼石の弾丸によって力を奪われた状態では抜け出すことはできなかった。できるのは歯を食い縛って耐えることだけだ。
「おいお前! 勝手なことをするんじゃないえ!」
「申し訳ありませんチャルロス聖。しかしこの女、貴方様に危害を加えようとしましたので」
「何ィ〜!?」
鈍い音が響く。チャルロス聖が抑え込まれたウタの頭を踏みつけたのだ。
「生意気だえ! わちしの妻にしてやろうというのに!」
何度も、何度も。
踏みつけて、蹴りつけて。
怒りのままにチャルロス聖はウタを傷つける。
「…………ッ」
ウタは悲鳴を上げなかった。それだけはしたくなかった。
たとえ悲鳴であっても。
──こんな奴に、僅かであっても声を聞かせたくはなかったのだ。
「なんだえ!? その目は!」
何度も蹴られ、顔が血に染まったウタ。しかしそれでも目が死なないウタにチャルロス聖は怒りを募らせる。
逆らわれることなど決してない立場と人生。それが“天竜人”という存在だ。だというのに目の前の人間は拒否の意思を示し、そして今も抵抗できない状態でありながらも屈していない。
屈した人間ばかりを見てきたからこそチャルロス聖にはそれがわかる。それが彼の神経を逆撫でした。
「躾をしてやるえ!」
そして彼が取り出したのは、一丁の銃。
たった一発で容易く人を殺せる武器。
その照準を、彼がウタに合わせたところで。
「──おい」
例外など、なかった。
たった一言。たったの一言だ。
それだけで──誰もが動きを止めた。
「────ッ!?」
悲鳴は上がらなかった。
ウタに理解できたのは、自分を抑えつけていた力が消えたこと。
チャルロス聖や黒服、周囲の状況を見ていたものが見たのは──白いスーツのCP0が地面へと叩きつけられた姿だった。
世に“世界最強の諜報機関”と謳われる存在──CP0。
そのメンバーの一人が、渾身の拳一つで沈黙していた。
「…………あ…………」
その姿を見て。
思わず、呟くような声をウタは漏らす。
(だめ)
赤いベストに、麦わら帽子。
あの時とは違う格好ではあるけれど。
それでも、あの時と同じように。
「……ル……フィ……」
その背中に安心感を覚えながらも。
それでも、ウタはその背を止めようとする。
あの日とは違う。“金獅子のシキ”という海賊と目の前の“世界貴族”は違うのだ。
──私は大丈夫。
──だから退いて。
そんな言葉が思い浮かぶ。だってそうだ、当たり前だ。
ただでさえ、私は彼の“夢”を奪ったのに。
彼の“未来”までも奪うなんて。
だが、それでも。
その口から紡がれた言葉は。
「……たすけて……」
彼へと縋る、そんな言葉で。
「──当たり前だ」
やはり返答には、迷いがなかった。
知っていたのだ。わかっていたのだ。彼が迷わないことも理解していたのだ。
だからこそ、その言葉は言ってはならなかった。
そのはず、なのに。
「なんだえお前は!?」
チャルロス聖が銃口をその乱入者に向けようとする。だが、その前に青年の──ルフィの動きは終わっていた。
言葉はない。
彼が相手に何かを告げることはない。
──その拳が、彼の答えだ。
「ヴォゲァアアアアッッッ!!!!」
轟音と共に、“世界貴族”が──“天竜人”が殴り飛ばされた。
沈黙が降りる。その中でルフィはウタの頭へ、その傷を隠すように麦わら帽子を被せた。
「……すまねぇ」
一言、ルフィは呟くように言う。それに対してウタは首を振るしかない。
何故、彼が謝るのだ。
謝るべきなのは──こちらの方なのに。
「……なんてことを」
こちらへと手を伸ばそうとしたルフィ。その彼に対し、黒服の男が言う。
「誰を殴ったのかわかっているのか……? 覚悟はできているんだろうな!?」
その言葉を受け、黒服の男を睨みつけるルフィ。ひっ、と小さく黒服の男は悲鳴を上げた。
だがルフィは黒服の男には何も言わない。ウタに手を伸ばし、後悔を滲ませた言葉を紡ぐ。
「……すまねぇ」
呟くと共に、ウタへと触れるルフィ。その手は優しく、温かかった。
どうして、とウタは思った。
「ごめん」
自分のせいだ。
「ごめん、ルフィ」
どれだけ傷つけられようとも悲鳴一つ上げず、涙一つ流さなかったウタ。
「私の、せいで」
しかしその瞳からは大粒の涙が溢れ。その口からは弱々しい声が漏れている。
だが、ルフィは言うのだ。
「ウタは何も悪くねぇだろ」
いつも通りの口調で。当たり前のように。
そして、確かな決意を込めて。
その青年は──“麦わらのルフィ”は、積み上げてきた全てを捨てる言葉を口にした。
「──逃げよう」