その男の名は、:破

その男の名は、:破


あれからひと月。コラソンは、随分変わった。

踏みしめられて氷みたいになった雪が解けていくように、ガサガサだった声はよく通るように、ぎこちなかった笑顔は自然なものに、ためらうように彷徨わせていた手はゆっくりとおれに触れるようになっていった。

コラソンは細い糸を手繰り寄せるみたいにして、慎重に自分のあり方を選んでいる風に見えた。人を信じるってことを、信じてるってことをどうやって伝えたらいいのか忘れていた男にも、思い出の中には優しくあれた日々があったのかもしれない。

それはドフラミンゴのやり方とは全然違って、けれど誰か、この男の中に温かいものを残した人間のものなんだろう。おれにとっての故郷のように。

バカみたいにおどけてみせて、ヘンテコだけど笑える話ばかりするその人は、ドラムまでの旅の間中病気のことに触れさえしなかった。北の海から遠く離れて、かつて当たり前に続くと信じて過ごした日常みたいに、平和で活気のある街を一緒に歩いた。

そりゃ、実は喋れるってことを実の兄に伝えようともしないのはどうかと思うけど、二人の間に何があったのかなんて何一つ知らないおれに今すぐどうしろと言えるはずもない。それに、どうせ旅が終われば少なくともコラソンはアジトに戻るのだから、そこからどうにでもなるようにも思えた。

そもそもあいつだって弟に隠し事ばかりしてるんだから、おれがわざわざ気を遣って間に挟まれてやる義理もないはずだ。いつもスカしたにやにや笑いのドフラミンゴも今のコラソンを見たら驚くだろうなと考えたら、勉強も放り出して旅に出たことだってなかなかどうして悪くなかった。

祭りで迷子になった子供を親に送り届け、女の人を襲おうとしたどこかの海賊を伸して礼を受け取りもしないコラソンは、人間のことを信じていなくても本当は嫌いではなかったんだろうなんて、そんな気付きもあった。

海賊が人助けなんて変な話だ。だけど、コラソンの差し伸べる手はいつも自然で、その手を取れば救われるのが当然みたいに誰かを助けていた。あまりにきれいに日常に溶け込んだそれは、傍目には簡単なことにすら見えた。多分コラソン自身もそう考えているんだろう。

そうじゃない。

そんなこと、誰にでも出来るようなことじゃ全然ないんだ。

目論見とか目的を持たない愛情や献身ってやつがどれほど、一度失ってしまえばどんなに望んだって見つからないくらいに得難いものなのか、おれは知ってる。

コラソンは、おれに"日のあたる場所を歩く"ことだけを望んだ。

そんなことが自分の役に立つはずもないのに、眩しいものを見るみたいに目を細めておれの手を引いた。旅費や治療費を稼ぐために独りで賞金首を狩って、いつも楽勝とはいかないはずなのに、おくびにも出さずに楽しい話ばかりしていた。宿で待つ間の暇つぶしにと買ってきてくれた絵物語は、おれが故郷で楽しみに読んでいたものの続きだった。アジトでは医学書の山に埋もれるようにして生活していたおれは、かつて誰かを救えるような人間に憧れていたことを思い出した。

これまでのことを思うと正直少し、いやかなりムカつくけど、おれは気付いた頃には不器用で寂しくて、なのにすこぶる優しいこの人を好きになり始めていた。


「おはよう……"コラさん"」

熱でぶっ倒れてる間に着いていたドラムの宿のベッドは、一晩中張り付いていてくれたらしいこの人の体温が移って温かい。

畜生、いいよもう、おれの負けだ。

勝手に意地張ってこの人は認識すらしてないだろう勝負を始めていたおれは、ついに折れた。

ラミにも負けず嫌いを指摘されるくらいだったおれが、あんたになら負けてやってもいいって思ったんだぞ。泣いてないで胸張れよ。

あんたの言う通りだった。珀鉛病に向き合ってくれる医者はいた。

それも腕利きだ。処方や医療データを見れば分かる。

この病で弱った子供なんて、合併症を治すのすら簡単なことじゃない。フレバンスでも、体力のない患者はかなりの数が肌を白に覆い尽くされるその前に死んでいった。

本当にいい医者じゃねえか。国がデータの公表さえしていたら、きっと父様のことを信じてくれた。

おれに占領されたベッドの傍に膝をついて、ビョーキを治してやれなかったと謝るコラさんの頭を軽く叩く。

似た症例のデータが残ってる街の情報が貰えたんなら、手がかりがなくなったわけですらないだろ。なのにおれの命を救ってくれたあんたのことを、責められるはずないだろうが。

合併症が癒えたからか、驚くほど軽くなった体を起こして窓の外を眺めてみる。

雪に覆われ朝日を受けて輝く白い町は、涙が出そうなほど美しく見えた。


「なったらいいじゃねえか、医者」

妖精たちに盗まれそうになった帽子をいつものドジが嘘みたいに素早く取り戻したコラさんは、そう言って笑った。

医者か。

治せないと言われる病気に蝕まれて、爆弾を体に括りつけて海賊団に入ったおれが。

でも、意識が朦朧としていたせいで顔も覚えていないドラムの医者の処方とデータは見事だった。あと何年あれば追いつけるだろうとか、そんなことを考えてしまったのも事実で。

「……考えとく」

そう返したおれに、コラさんはやっぱり嬉しそうな笑顔を見せた。

知らないだろ。おれの、あんな些細でちっぽけな治療をきっかけに変わったあんたを見て、人を癒す大人になるのも悪くないって思えたこと。

自分は適当なものばっかり食ってる癖しておれにはあれこれ美味しいものや珍しいものを食べさせたがるコラさんは、その日も変わらずドレスローザの華やかな市を物色して回った。

そこまでは、いつもと何も変わらなかった。

「出発の前に、墓参りだけ行ってもいいか?」

「…いいよ」

ドレスローザの街を歩くコラさんの足に迷いはなかった。墓参りに行くような知り合いがいるってことは、海賊団にやって来る前に住んでいたのかもしれない。この人がドフラミンゴの手に戻ったのは、実のところそんなに前ではないとおれは以前聞いたことがあった。

コラさんが向かったのは、スラム街に近い郊外の集団墓地だった。

故郷の最期に生まれたそれよりも、ずっと簡素でずっと古びていて、ちゃんとした手入れがされていない場所だった。

名前も読み取れないくらいになってる墓標の間を、コラさんは静かに進んでいった。目的地で足を止めるまで、並んだ墓標に刻まれた文字を確認することもなかった。

奥まって薄暗い場所で、両手を合わせて祈る背中を眺める。

こんな寂しい所に眠る人がコラさんにとってどんな人だったのか、おれは知らない。けれどコラさんの目が絶望を思い出したみたいに閉じられたのが見えたから、おれも隣で手を合わせた。しばらくしてそれに気づいたコラさんは、あの熱い手でそっと、おれを抱き寄せた。

「待ってくれ!少し話を聞いてほしい!」

墓地を離れようとしたおれたちの背中に、少し焦りを含んだ男の声がかけられた。

寂れたそこでひどく目立つ、色とりどりの花々を抱えた男だった。

そいつは声をかけてから、おれの存在に気が付いたようだった。振り返ったコラさんに歩み寄って、おれを気にかけながら言葉を探し、覚悟を決めた顔で口を開いた。

「私の妻は昔、郊外の花畑である少年に命を救われた」

「……へェ、親切な子もいたもんだな」

「ああ、とても優しい子だったと聞いている。それから妻はなかなか外に出られず、少年に礼も言えなかったと悔しがっていた」

コラさんは初めて会った頃みたいな、何を考えてるのかさっぱり分からない顔で男を見やった。

この人は今でも時々こういう顔をする。

「今の私たちがあるのは、彼の勇気のお陰だ。……もし君が、」

「おい」

突然声を上げたおれを、二人が不意をつかれた顔で見下ろした。

「おれももしかしたら、そいつに命を救われたかもしれない」

思い切り顔を上げて言葉を続ける。コラさんと同じくらいでかい男は、おれのプライドを考慮したのか屈むかどうか悩んで結局やめた。見てろよ、珀鉛病を治したら背くらい簡単に追い抜いてやるからな。

「だからもし会ったら、あんたと奥さんの分まで礼を言っておいてやる」

それでいいか。

黒髪に顎ひげの男は、その言葉に頷きおれに一言礼を残して墓地へと戻っていった。

男の背がずっと遠ざかってはじめて、コラさんは詰めていた息を吐きだした。

「ロー」

「なんだよ」

「……そろそろ街を出よう」

言った端から敷石につまずいてひっくり返ったコラさんを助け起こしながら、思い切り鼻を鳴らしてやる。

「どうせあんたは、礼なんて受け取らないだろ」

「んな事…」

「ある」

半年の旅でそんな場面は嫌というほど見てきた。

誰の中にも自分を残したくないみたいな、拒絶の顔も。

「だからあんたが受け取っても大丈夫だって思えるまで、おれが全部預かっとくよ」

こうして転がっててくれりゃあ、目を合わせやすくて助かるな。

心底困り果てた顔でうろうろと目を泳がせていたコラさんは、しばらくして観念したように首を縦に振った。






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