その狙撃手がみたもの
ドレスローザの湿度をどうにかする会◆
「―――このドレスローザ王宮の地下にサー・クロコダイルが?」
ニコ・ロビンが信じられないといった様子で聞き返した。麦わらの一味の中でも常に冷静な彼女にしては、ひどくまれな反応だった。
「ああそうだ、間違いねえ。おれはこの目で確かにみたんだ」
ウソップはあの地下の一室で見たものの、そのおおよそ全てをロビンに伝えた。それはあまりにも非現実的な出来事であったため、彼の頭の中でもまだうまく整理しきれていなかったが、それでも彼は自分の見たものを精一杯説明しようとした。
未だ深い混迷と恐怖に囚われ、顔色の悪いままのウソップに、努めて穏やかさを意識した声音でロビンが聞き返した。
「それで、その……彼の首には縫合痕があったのね?」
「……そうだ。首を一周、ぐるっと縫い目があってよ、その跡がはっきり残ってたんだ。だけど胴体の方には見る限り傷ひとつなかった。まるで頭と体だけを切り離して、もう一度繋げたみてえな跡だった」
「まさか、そんなことが……」
二人の間に重苦しい沈黙が流れる。だがそう長くは続かなかった。ウソップが再び喋りはじめたのだ。
しかし、その内容はさっきまでとは打って変わって弱々しいものだった。
まるで自分の言葉を確認するかのように、ゆっくりとした口調でウソップは続けた。
「あれは地下牢なんかじゃないぜ。どう考えても長期入院患者用の病室だ。……おれはもう、何がなんだかわからねえ」
ウソップが本格的に自問自答を繰り返し始める前に、ロビンがいつもより低い声で話し始めた。
「私の知るサー・クロコダイルはとてもプライドの高い男だわ。そしてその傲慢に見合うだけの知性と強さが彼にはあった。無抵抗に飼い殺しを受け入れるなんてことは到底あり得ない。だから、あの男相手にそんな真似ができるのは、あの国王様以外にいないと思うの」
ロビンの口調はあくまで静かだった。しかし、そこにははっきりとした確信が籠っていた。
だがウソップはどうにも納得しきれていないようだった。同時に理解を拒んでいるようにも見えた。
「……いや、待ってくれよ。だってそれじゃあドフラミンゴはこの二年の間ずっと、てめえで殺した……いや、殺したってことにしてる男の世話をしてたってことになっちまうだろ?そんなバカなことあるもんか!……あ、わりい、怒鳴っちまって」
つい興奮してしまった自分に気づき、慌てて謝ろうとするウソップを制してロビンが続ける。
「いいのよ、それだけショックが大きかったのよね。……私もまだ信じられないわ。でも、そうとしか考えられないの。あなたが見たその部屋の光景を説明するためには」
地下を彷徨う砂粒に誘われるがまま地下室の扉の一つを開き、そこでウソップが見てしまったもの。
それは奢侈な内装と趣味の良い調度品、ものものしい医療機器に囲まれたベッド。そしてその中央に横たわった、死体と見まごうほどに窶れ果てたサー・クロコダイルの姿だった。仰向けのままピクリとも動かない、あれほど不遜だったはずの男の、以前にも増して血の気の失せたその顔がウソップの脳裏に甦った。
―――やはりあのクロコダイルは、既に死んでいたのかもしれない。
一度その発想が浮かぶと、ウソップにはそうとしか思えなくなった。自分が見たあれはクロコダイルではない。過去にサー・クロコダイルだったものを、無理矢理機械に繋いで生かしているだけの、温かく柔らかな、ただの死体。
体温はあれど回復する見込みはなく、脈拍を感じようとも決して意識を取り戻すことはない。薬と機械によって心臓を動かし続けているだけでしかない。脳全体が働くことを辞め、後はただ心臓が停まるのを待つのみ。
人体とはそういう状態に陥ることもあるのだと、年下の船医が以前話していたのをウソップは思い出した。
それならばあの、偏執的なほどに美しく飾られた部屋の有り様も何とか呑み込めそうだ。あの、いかにも悪趣味然としたドンキホーテ・ドフラミンゴであれば、目覚めることのない哀れな男のために嬉々として贅をつくす姿が容易に想像できたからだ。
「おれはとんでもない勘違いをしてちまってたのか」
ようやく得心がいったという表情を浮かべながら、ウソップが呟いた。惨たらしく、非常識で、変質的ではあるが、それならばなんとか理解の範疇の瀬戸際で収まりがつく。
しかしロビンはゆるゆると頭を横に振り、覇気の無い口調で、そのまだしも救いのある推測を否定した。
「私もトラ男くんから脳死というものについて聞いたことがあるわ。ウソップ……脳死というのはね、そのほとんどが長くても数日以内に心停止……つまり完全に生命活動が止まってしまうんですって。だから、彼が、サー・クロコダイルがあの日からずっと今日まで脳死の状態で生きていた、ということはとても考え難いことなの」
あの日―――二年前のマリンフォードで、確かにサー・クロコダイルはドンキホーテ・ドフラミンゴの手により命を落としたはずだった。少なくとも公式には。ウソップとロビンもこの二年間、その前提を疑ったことは無かった。
しかし、もしもそれが間違いであったとしたら? クロコダイルはあの決戦の中で、確かに死んだはずだった。だがその遺体の行方が公になることはなかった。そしてそのまま、誰にも知られることなくどこかで密かに生きていたとしたら……。
「まさか、そんなことが……」
「……ありえないことかしら?」
ロビンの問いかけはウソップに、というよりむしろロビン自身に向いて発せられたように聞こえた。彼女の顔には今、何の感情も表れてはいない。まるで能面のように、白い無表情だけが張り付いている。
ウソップの顔にもまた、ロビンに劣らず何の色も浮かんでいなかった。二人とも悪名を轟かせている海賊と言えど、目の前に横たわった奇々怪々たる事実をすんなりと受け入れられるほど、心を狂気に明け渡してはいなかった。
「……いや、ありえるかもしれねえ。じゃあやっぱり、おれが見たクロコダイルは……」
「生きている可能性が高いわ。……その部屋にあった医療機器は稼働していたのでしょう?」
「……あ、ああ。そうだ。それだけは間違いねえ、機械はしっかり動いてたぞ」
精密機器の微かな駆動音まで聞き取れるほど、あの部屋は恐ろしく静かだったことをウソップは思い出した。まるで墓の中か海の底のように。
「だとしたら、やはりあなたの見たサー・クロコダイルは生きていたのよ」
―――もし仮に、その部屋に寝かされていたクロコダイルに見えた物がエンバーミング処理を施された死体だったのだとしたら、生命維持装置は不必要なはずだもの……―――
ロビンがその推量を付け足すことはなかった。それは至極良識的な感性で生きているウソップに、これ以上猟奇的な妄想を抱かせたくなかったからであると同時に、己がそういう想像を容易に働かせる女であると彼にひけらかすのが躊躇われたからでもある。