ごめんねスレッタ・マーキュリー─黒風白雨の小休止(後編)─
強化人士を擁護するエランの言葉に、シャディクは俯いて黙り込んだ。頭の中では利点と欠点がせめぎ合っているのだろう。
暫くしてシャディクは顔を上げると、真剣な目でじっと見てきた。
『約束はできない。けど機会があれば利用させてもらう。…それでいいかな?』
「それでいい。ありがとうシャディク・ゼネリ」
目を伏せて頷く。自分がひどい我が儘を言ったと分かっていた。一蹴されないだけありがたい事だった。
気を取り直したようにシャディクは話を続けた。
「気になっていた事がある。色々な証拠をわざと残したと言っていたけど、なぜなんだ?」
「それは簡単だ、ペイルの動きを縛るためだよ」
答えは簡潔に済むが、それだけでは不足かもしれない。少し考えて、補足となる言葉を追加する。
「僕は今の『エラン・ケレス』を務めているけど、僕が消えてもエランという存在自体は消えずに残る。色々な陣営から僕の行動が不審に思われたなら、その後のエラン達は動きづらくなる」
『不審に思われる行動って、例えば水星ちゃんを攫ったと推測されるようなこと?』
シャディクの言葉に小さく頷く。その通りだったからだ。
「僕は決闘委員会の仕事をでっち上げてフロントを出た。人が入れるような大きい荷物を持って…一晩経っても帰って来なかった」
これは管理施設のスタッフならすぐ分かる事だ。辺りは閑散としていたが、人がまったくいないわけではなかった。更には管制室にデータも残っているはずだ。
「偶然にも、その日の夜に人がひとり消えた。それも先日決闘騒ぎを起こしたばかりのホルダーの女の子が。───結び付けてくれと言わんばかりだろう?」
噂好きの者がいたらすぐに広まるはずだ。ペイル社がいくら否定しようと、疑惑の目は付きまとうことになる。
「ただ、強引に揉み消される可能性も考えられた。だから用心のためにも物的証拠を残しておいたし、地球寮の皆と一緒にいる時間にスレッタ・マーキュリーを外に誘い出した」
エランが残したのは自身の手袋と薬品のしみ込んだハンカチ、そして小瓶だ。
スレッタ・マーキュリーのヘアバンドは森の中なので、なかなか見つからないだろうが…。
「地球寮の彼らは仲間意識が強い。スレッタ・マーキュリーが帰って来なければ一度は様子を見に来るはずだ。そして森の近くのベンチで、僕の残した犯罪の証拠を見つけることになる」
『彼ら以外が見つける可能性は?』
「…もちろんある。その場合もあまり変わりないだろう。ゴミだと思って捨てられない限りは、エラン・ケレスは誰かに睡眠薬を嗅がせたことになる。それはスレッタ・マーキュリーに結び付く」
『証拠を見つけたとして、人によっては黙っている可能性もあるんじゃないか?』
「……まぁ、それもあるだろう。あくまで保険だから絶対とは言えない。その場合は状況証拠だけになるから、噂を故意に広げる必要がある。…君、そういうの得意だろう?」
『まぁね。自然に任せるよりはそっちを選ぶよ』
少し意地悪を言ったと自覚があるのだろう。シャディクは追及を止めると、半目になったエランに対して謝る仕草をした。
エランは鷹揚にそれを許して、更に言葉を続ける。
「別に僕は地球寮のメンバーだけで噂を広げて貰おうとは思っていない。彼らは学園では虐げられる立場で、それほどの影響力は持っていないからね。噂の種火を見つけるくらいで十分だ」
『その割にはずいぶん地球寮にこだわるじゃないか』
「彼らには違う役割がある。学園中に噂を広げるには適していないけれど、ただ1人だけ、地球寮から情報を伝えられるだろう人物がいる」
『ミオリネか…』
察しのいいシャディクに頷いて同意する。
「そういう事だね。ミオリネ・レンブランなら彼らの言葉を信じるだろう。証拠があれば猶更だ。彼女は影響力こそないけれど、グループにとって重要人物には違いない。出来れば味方に引き込んだ方がいい。君に渡した3冊目の日記が後押ししてくれるはずだ」
『………』
想像したのか、シャディクが痛そうに額を抑えている。出来るだけ巻き込みたくないんだろうが、スレッタに関連する事柄なら絶対にミオリネは後に引かない。それが分からないシャディクではないはずだ。
「よかったら小箱に入れられたヘアバンドは君が回収してくれ。最悪それだけでも証拠にはなる。ついでに盗聴器が仕掛けられていることをミオリネ・レンブランへと伝えれば、ペイルだけでなくプロスペラ・マーキュリーへの不信にも繋がる」
『俺が怪しくならないか?それ』
「何とでもなるだろう。話を聞いて森のベンチ付近を重点的に調べて見つけたとでも言えばいい」
そこまで言って、エランはもう一度水を飲んだ。かつてないほど一気に喋ったせいで喉がカラカラだ。シャディクもおそらく冷めてしまっているだろう紅茶を飲んでいる。
『話は少し変わるけど、船やモビルスーツにも何か仕掛けてる?』
「特別なことは何も。ただ船はもうすぐ管理施設に帰って来るかもしれない。通信が切れたと思ったら船の中は無人になっているんだから、スタッフは驚くだろう。もし途中でペイルやプロスペラ陣営に鹵獲されても、今度はいつまでも学園に帰って来ないことになるから、どちらにしろ騒ぎになると思うけど」
『大騒ぎになるに決まってる。早朝に呼び出されることになるかもしれない…』
「ご苦労なことだね」
『他人事だと思って…』
恨めしそうな声に、エランはふっと息をつく。微かな笑いにも似たそれに、少しだけ空気が弛緩する。
じっとりとこちらを見て来るシャディクに肩をひそめて、更に話を続ける。
「破壊されたモビルスーツは誰が見つけてもいいけれど、民間が見つけて報告するのが一番都合がいいだろう。モビルスーツは学園用だし、見つけた誰かからすぐに問い合わせの連絡が来る。スレッタ・マーキュリーの私物が溶けずに残っていれば、なおの事都合がいい」
『水星ちゃんの死の偽装か…』
「ご名答。そして僕も死んだことになる」
エランにとって重要な事だ。この工作が鮮やかに決まれば、地球に行った後の2人の安全は確実に上がるのだから。
ただそれは言わずに、この後の学園側についての話に合わせた。
「まぁ、どこかで情報は遮断されるだろう。恐らくエラン・ケレスの方は見回り中に何らかのトラブルが起きたことにされる。ペイル社が保護して療養中だとでも発表されるだろう。スレッタ・マーキュリーの方は、デリング・レンブランが手を回さない限りは行方不明者として扱われるだろうね」
『水星ちゃんと君の死はペイル社とプロスペラ陣営だけが知り、他は疑惑どまりになる…』
「一部の者はペイル社がスレッタ・マーキュリーの身柄を拘束したと考えるだろう。物的証拠があってもなくても、状況的に怪しすぎる」
『………』
「正直なところ、そこまで都合よくいくかどうかは分からない。僕たち2人は実際に生きているんだ。偽装に惑わされず、しつこくどこまでも追ってくる事も十分考えられる」
『それは今考えなくてもいいことじゃないか。こちらでも気を付けるよ』
考えすぎは思考のノイズになる。シャディクはよく分かっているようだった。自分とは大違いだとエランは苦笑する。
「そうだね、煮詰まらないように少し話の角度を変えてみようか」
『…というと?』
「僕はペイルの行動を縛り、プロスペラ・マーキュリーの武器を奪った。けどそれだけじゃまだ足りない。もっと敵を弱らせるための工夫が必要だった」
もう工作は終わっているけれど、現状確認は大切だ。シャディクならこの話も咀嚼して、上手く使ってくれるだろう。
エランは2人の女性に話しかけた内容を思い出しながら言った。
「先ほども話したけど、僕はいくつかの離間工作をした。ペイルとプロスペラ陣営が敵対するように情報を流したんだ」
『水星ちゃんのお母さんへの敵対宣言と、ペイルの研究者への助言だね』
「そう、ペイル社にはプロスペラ陣営へ情報を流す内通者がいる。僕はその内通者が裏切ったような口ぶりでプロスペラ・マーキュリーに敵対宣言をした。そして、ペイル社にはプロスペラ陣営が大切に保管している機体を奪取するように助言した」
『もしペイル社がその助言に従って動き出したら、プロスペラ側からはペイル社が内通者込みで裏切ったようにしか見えないな』
「そう見えるように努力はしたつもりだ。内通者は個人である事は分かっている。彼が止めようとしてもペイル社の全体の動きについてはどうしようもないだろう。結果的に、両陣営は敵対することになる」
少しの沈黙。シャディクは迷っているようだったが、結局は好奇心に負けて聞いてきた。
『…その内通者の名前は?』
「エラン・ケレス。僕のオリジナルだよ」
『………』
シャディクの眉間にしわが寄る。聞かなければよかったと後悔しているのかもしれない。
「…彼についてもう少し話をする?」
『……よろしく』
「彼はペイル社に籠ってなかなか表に出てこないけど、どうもペイル社を利用している節がある。プロスペラとの協力関係もその一環だろう。これは勘だけど、彼はペイル社ともプロスペラ陣営とも違う目的で独自に動いている」
『………』
「とは言っても、彼を仲間に引き込むことは難しいと思う。彼は得体が知れない。接触するときは細心の注意を払ったほうがいい」
エランの忠告にシャディクは手のひらを向けて待ったをかける。口を閉じると、シャディクは戸惑うように視線を彷徨わせた。
『…その、更に突っ込んだことを聞いていいか?』
「何?」
『君にその情報を与えたのは誰なんだ?推測にしては確信的だし、知りすぎてる』
「ああ、その事か。具体的な人名は伝えられないけど、それでよければ」
『頼む』
あまりに荒唐無稽なのですべては話せないが、それでも出来る限りの情報はシャディクに与えることにする。
エアリアルも許してくれるはずだ。
「彼はプロスペラ・マーキュリーの懐刀だよ。ただしスレッタ・マーキュリーの事をとても大切に思っている人物だ。今回の計画は彼女の犠牲の上に成り立つものだから、それだけは阻止したかったようだね」
『水星ちゃんの関係者?』
意外な事を言われたように、シャディクは眉をひそめた。ここに来て情を優先する人物の情報に、少し戸惑ったのかもしれない。
「家族のように思っていると言っていた。実際、家族なのだと思う。彼はスレッタ・マーキュリーを守る為だけに僕に情報を流した」
『なぜ君だったのか聞いても?』
これは自分しか物理的な候補がいなかったせいだが、エランは別の表現をした。
「消去法だと言っていたね。僕は何のしがらみもないただの貧民だ。それも命を失う寸前の。そんな僕がスレッタ・マーキュリーと命の2つを拾えるなら、後先考えずに飛びつくと思ったんだろう」
『その人物と接触は可能かな?』
当然の質問だ。だがエランとしては首を振るしかない。
「難しいと思う。彼はプロスペラ・マーキュリーの復讐については肯定的なんだ。スレッタ・マーキュリーが無事に地球へと逃げられれば、何事もなかったようにプロスペラ側に付くはずだ」
『………』
何度目かの沈黙。今シャディクの頭の中では、吐き出された情報を整理して今後の動き方を見定めているのだろう。
エランはその間にもう一度水を飲み、今度は携帯食料の袋を開けた。すでに場の空気はこれ以上の情報はいらないと伝えて来ている。丁度いいのでシャディクが見ているうちに色々と済ませるつもりだった。
ポリポリと携帯食料を齧っていると、シャディクは長い溜息を吐いていつの間にかこちらを呆れたように見ていた。
『…エラン、ちょっと地球行きはやめて、俺の助手でもしてくれないか?』
「……興味ない」
本当に興味がなかったので、そう答えるしかなかった。
元々エランに頭脳労働は向いていない。戦いならばその限りではないが、心理戦になると途端に脆くなる自分を自覚していた。
それに今後の自分の命はスレッタ・マーキュリーの為に使うと決めている。
相変わらず健やかに眠るスレッタの顔を見つめながら、最後の携帯食料の欠片を口に含む。
これが最後の晩餐になるかもしれないな、と思いつつも、欠片を水で流し込んだ。
もうすぐスレッタは本格的に起きるだろう。一時的な寝ぼけ眼ではなく、きちんとした正気の目で誘拐した男の姿を見るだろう。
その目がどうしようもなくこちらを拒否して来るのなら。
「………」
自分の命を、彼女の為に捧げようとエランは決意していた。