ごめんねスレッタ・マーキュリー─静かな夜─
エラン・ケレスとスレッタ・マーキュリーの2人は、何をするでもなく貨物列車の荷台に揺られていた。
大陸の中央部。まだあまり治安が良くない地域を、少しずつ進んでいく。
本当は一足飛びに治安のいい地域へ行った方がいい。それをエランは分かっていたし、当初はそのつもりで情報を集めようともしていた。
けれど数日前。地球に降下したその日のうちに、スレッタがこの辺りの景色をもっと見ていたいと控えめに頼み込んできた。
入管ゲートを突破して自由の身になった2人は、具体的にどこへ行くのかを話し合った。そうして、スレッタの口から出てきたのが先のお願い事だった。
よほど降り立った時に見た地球の景色が気に入ったらしい。
この辺りは特に風光明媚な場所という訳ではない。むしろ宇宙へ行く足がある割に寂れているような地域だった。
だが、それが却ってスレッタの琴線に触れたのかもしれない。
土地を効率的に使わなければいけないフロントに比べて、ここは贅沢と言えるほどに人も建物もまばらにしか存在していない。
少し進めば放置された公園や学校があり、植物が至るところに生えていて、野生動物がそれを啄んでいる。
管理されたフロントと違って、何もかもが出鱈目で混沌としているように見えるだろう。
地球に降り立った初めての日。郊外まで移動した際に、突然現れた地平線に目を輝かせていたスレッタの姿を思い出す。
まるで心奪われたかのように、いつまでも彼女は何もない線の向こう側を見つめていた。
彼女は本当に地続きになっているのか、その目で確かめたかったのかもしれない。
ただ、ずっとそこに居るわけにはいかない。いくら何でも入館ゲートに近すぎるし、治安もそれほど良くはない。終の棲家とするには何もかもが足りない場所だった。
そしていつまでも物見遊山を出来るほどの金もない。シャディクが持たせてくれた資金は潤沢にあったが、一生をそれで暮らせるほどの金額ではない。
そこで妥協案として、しばらくは旅路をゆっくりと進むことにした。
時間ならそれなりにある。ならば資金を節約してデータとして跡に残らない移動方法を取れば、少しは追手の目も眩ませられるだろう。
そう考えたエランは、いくつかの約束事をスレッタに呑み込ませてから移動を開始した。そうでないと、あまりに心配だったからだ。
───エランのそばを離れない。
───道行く人に話しかけず、また長く見つめない。
───人前で帽子や上着をとらず、女性らしい容姿を晒さない。
その他にもいくつかあるが、どれも似たような内容だ。
そんな簡単なこと…今までの道中でも約束していたことを、改めて強く言い聞かせた。まるで子供への注意のようだが、世間知らずなスレッタには何度言ってもいいくらいだ。
ここでは少しの油断で死に繋がる。
水星の話で似たような事をスレッタは言っていたが、地球では少し意味が異なる。
地球は、ただ生きるだけだと容易いのだ。
大気も、気温も、重力も、人間が生きやすいように出来ている。水や食料だって手に入る。
けれど。
人の悪意によって、簡単に死への扉が開かれてしまう。
ガタン、ガタン…。
貨物列車はゆっくりと進む。エランは古ぼけて埃で見えにくくなった窓を、何となしに下から見上げる。
時刻は深夜だ。もう夜の帳が降りている。
本当なら夜間列車があれば良かったが、生憎とそんな気の利いたものは近くの路線には存在しなかった。
仕方がないので貨物列車の運転士に交渉して、秘密裏に乗せてもらう事になった。
治安が安定した地域ならともかく、情勢が不安定なこのような場所では、個人の利益のために取引に応じてくれる者もいる。
幸い他に乗客もなく、今のところエラン達は雑に放って置かれている。ありがたいことだった。
たまに通り過ぎる街灯の明かりが小さな窓から荷台を照らしてくる。その度に荷台に積まれた荷の姿が影として浮かび上がる。
クンと鼻を嗅ぐと、干した草の甘く香ばしい匂いがする。
近くにあるのは牧草を乾燥させて固めた乾草だった。たくさんの塊が幾分乱雑に積まれていて、まるで出来の悪いオブジェのようだ。
どこかの牧場にでも運ぶのだろうその荷物は、随分とレトロで、また牧歌的だ。
数時間前のスレッタは、これを見てまるでタイムスリップしたみたいだとはしゃいでいた。そのせいかなかなか寝付けなかったようだが、今はぐっすりと夢の中にいる。
エランは、今日のところは眠る予定はない。
運転士以外の人間がいつこちらの車両へ乗り込んでくるか分からないし、大きな乾草がバランスを崩して倒れ込んでくる可能性もある。
一応角度を計算して被害を免れるだろう場所に陣取ったが、すべてが思い通りになるとは限らない。
スレッタが怪我をするなど考えるのも嫌な事だったので、エランの警戒は当然のものだった。
ガタン、と車両が一際大きく跳ねる。
「んむっ…」
一瞬目を開いたスレッタが、驚いたように辺りを見回す。
「大丈夫、何でもないよ」
出来るだけ驚かさないように静かに声をかけて、片手でポンポンと優しく肩を叩く。
しばらくそうしていると、ムズがるように唸っていたスレッタがまた健やかな寝息を立て始める。
無防備に預けてくれる体温が心地いい。
エランとスレッタは寄り添って、今は1つの毛布を共有していた。
普段ならもっと寛げるような体勢にさせるが、干し草に囲まれた荷台ではスペースがない為に、座って体を休めるしかない。
エランは最初、体を傷めないように自分の膝の上に乗せることを提案した。特に何も考えておらず、ただ彼女の体を気遣う、それだけだった。
焦ったスレッタがそれを断ったので、今は肩を貸すだけに留めている。
よくよく考えてみると、相手は年頃の女性なのだから当たり前のことだった。
想像が働かず、ついポンと口に出してしまったのだ。エランは浅はかな自分の考えを少し恥ずかしく思った。
若い女性が異性を怖がるのはごく自然なことだ。基本的には体も力も男の方が大きく強く出来ている。…力ずくで来られたら、敵わないことが多いのだから。
記憶の片隅で嫌な思い出が甦りそうになるが、エランは小さく息を吐いて、気を散らそうと試みた。
人に触られるのは嫌なものだ。今後はスレッタにそれを強要しないように、よく気を付けたほうがいいだろう。
今回は失敗だった。いくら自分が平気だからといって、相手もそうだとは限らない。
「………」
エランは自分の思考の流れに、何か違和感を感じて眉を潜めた。
ガタン…、ガタン…。
貨車が揺れる。
静かな車内だ。
傍らには、小さな寝息。無防備に脱力している、温かい体。自分に身を預けている、大切な少女。
しばらく考えて、エランはスレッタに触られる事が何も嫌なことではないことに気が付いた。
いつからだろう。…最初からだっただろうか。
たしか、パイロットスーツ越しに手首を握られたのが初めての接触だった。大破したファラクトのコックピットから、彼女が連れ出してくれたのだ。
手を繋ぎながら宇宙遊泳をして、そうして、しばらく後に夢の世界の記憶を見せられた。
その後はタガが外れたようにエランからの接触が増えた。必要だからと彼女の体に無遠慮に触り、また許されるからと手を繋ぎ合った。
ある意味緊急事態の最中だったのだから、仕方ないことだと言えるかもしれない。
今だってそうだ。こんな風に体を寄せ合って、自分の体を支えにして彼女を休ませている。学園にいた頃のエランからしたら何事だと思うだろう。
拠点を見つけるまでの一時的なものだと、そう言ってスレッタを安心させた方がいいだろうか…。
彼女は何も言わない。何も言わずに許している。許してくれている。
眠る彼女の吐息がかかる。彼女の髪がふわふわと首筋をくすぐる。
「………」
エランは何となく、首を少し傾けてスレッタの頭に自分の頬をくっつけてみた。ふわふわの髪は、実際に触ってみると思ったより硬く芯があり、また滑らかだった。
少しひんやりとした彼女の髪が、エランの体温を奪っていく。
なのに不思議だ。とても暖かく感じる。
エランは静かに目を閉じた。
眠る事はしない。スレッタが起きたらすぐに離れるようにもしておく。誰かに見られる前に帽子も素早く被せてあげよう。
けれど今だけは。
眠る彼女の体温を、近くで感じていたかった。