ごめんねスレッタ・マーキュリー─記憶にない故郷─
※登場人物の故郷を捏造しています
貨物列車で一晩を明かした後、まだ日も登り切らない早朝にスレッタ・マーキュリーは目を覚ました。
起きる予兆はあったので、エラン・ケレスはすでに彼女から体を少し離している。
目をコシコシと擦るスレッタに厚手の紙を濡らしたものを手渡しする。かなり丈夫に作られているので布代わりにもできる便利なものだ。何回か使ったら捨てればいいだけなので、重宝している。
「ありがとうございますエランさん。あ、おはようございます…」
「おはよう、まだ降りるまでもう少し時間はあるから、先になにか口にする?」
「…いえ、いいです。お手洗いに行きたくなってしまったら困るので…」
寝起きの彼女が、少し恥ずかし気に断って来る。生理現象なのだから仕方ないと思うのだが、女性は何かと大変なのだろう。
まだ大丈夫です!と報告してくるスレッタに対して、エランは何も言わず頷くだけにしておいた。
「…移動を優先してしまったけど、今度からキチンとした客車を使う事にしようか」
「はい。…いえ、わたしが乗ってみたいとか言ったから、エランさんがわざわざ交渉してくれたのに、ごめんなさい」
しょんぼりするスレッタに首を振る。
「謝らなくていいよ。体は痛くない?」
「はい、大丈夫です」
「…楽しめた?」
「…とっても!」
ならばいい。この旅はスレッタのためのものだ。
一つどころに留まれば外には気軽に出れなくなってしまう。だから移動の最中はできるだけ楽しんでもらいたかった。
「次はどのあたりに行くんですか?」
「そうだね、いくつか経路はある。暫くは西側に向かうけど、途中で内海から船に乗ってもいいし、そのまま陸路で南の方にも行ける。しばらくは宿にも泊まれるかも」
「おいしいご飯はあるでしょうか?」
スレッタは食べることが好きらしい。乗り物の中では携帯食で済ますことも多いが、それ以外ではきちんとした食事を食べるようにしている。
初めて見るものばかりのようだが、今のところはほとんどを美味しそうに食べている。
食事中に目を輝かせる彼女の姿を見るのが、最近のエランの楽しみでもあった。
「この辺りだと、まだ煮込み料理が多いかな。もう少し内海に近づけば魚が、南に行けばジャガイモ料理が多いよ。味は少し薄味な物が多くなるかも。…でも、おいしいよ」
「エランさん、ここに来たことがあるんですか?」
スレッタがふと気づいたように聞いてきた。
「……え」
「何だかとっても詳しいから」
「いや、そうだね…。僕は地球での記憶がほとんどないのに、何故だろう」
何かの本で読んだのかもしれないね。
そうスレッタには説明したが、正直そんな物を読んだ記憶もなかった。
知識だけが残っているのだろうか。だとしてもどうしてそんな具体的な知識が自分にあるのか、エランはよく分からずに内心で首を傾げた。
しばらく考えて、きっと旅の経路を確認するときについでに目にした知識だろうと結論付け、そのあとは特に気にしなかった。
貨物列車を降りた後は、少し時間をおいて通常の列車に乗り込む予定になっている。エランは端末を取り出して、宿が近くにありそうな駅の名前を検索した。
必要な情報を確認出来たら、すぐに端末をしまい込む。
今のエランは丈夫な服を重ね着して、足先に鉄板を仕込んだ安全靴を履いている。細身ではあるが体はそれなりに大きいので、手を出そうとする輩はあまりいないだろう。
スレッタも服を重ね着させて、体型を誤魔化している。彼女の体は女性らしいしなやかなものだ。不逞の輩に目を付けられないように、見た目から工夫するのは当然のことだった。
荷物はアタッシュケースに入れるのを止め、大きめのバックパックを背負っている。いざという時に両手を使えるようにするためだ。
護身用として大ぶりなナイフを持ち、常に取り出せるようにもしている。銃の所持も考えたが、店で買うと足取りを追われやすくなるため少し考えた後に断念した。
一応スレッタにも護身用として催涙スプレーなどを持たせている。ただ、使うのは逃げられなくなった時の為の最終手段だ。基本的には何をおいても逃げるように強く言い聞かせてあった。
「…スカーレット、違う道を行こう」
「はい、エランさん」
少しでも危険そうだと思えば、すぐにルートを変更する。スレッタもよくエランの言う事を聞いてくれていた。
そうやって注意深くしていたからか、特にトラブルに巻き込まれる事無く2人は少しずつ進んでいった。
ある日の事、初めて見る料理にスレッタは目を丸くした。
「な、なんですかコレ」
「魚の煮つけ。スープにも魚が入ってるけど、大丈夫?」
「…何だか変な匂いがします」
「この辺りの料理は香辛料で匂いを誤魔化したりしないから。いやなら別のに替えてもらうけど」
「い、いえ。とりあえず食べてみます。いただきます……あむ」
「………」
「ッ!!」
「おいしい?」
「はい!」
やはり内海に近づくにつれて魚料理が増えて来た。スレッタは食べ慣れない料理に少し躊躇する様子もあったが、一口食べると笑顔になった。
最近握り方を指先に変えたスプーンで、慎重に掬っては美味しそうに口に入れている。
旅の間の携帯食も、スレッタのリクエストで魚の缶詰などが混じるようになった。流石に移動中の車両では食べられないので、だいたいは外…すぐにゴミを捨てられる場所だけで食べるレアな食事だ。
ただ発酵させた缶だけは買わないでおいた。あれを開けると魚料理が苦手になってしまう可能性もあるからだ。スレッタは興味深げに見ていたが、エランは首を振って買うのを拒否した。
そうやってゆっくり西へと進み続け、とうとう突き当りにたどり着いた。この先へ更に進もうとするなら船に乗るしかない。
スレッタは初めて見る海に目を輝かせている。エランは彼女の手を引きながら乗船所へと足を進めた。
ここで2人は小さな選択を迫られた。使おうとしていた定期船が出ていなかったのだ。
「定期船はエンジントラブルで休止中…。復旧するまで待つか、ルートを大幅に変えなきゃいけない。どうする?」
「…ちょっと残念ですけど、このまま行きましょうか」
結局は船を使うことなく、陸路で南に向かうことにした。スレッタは少し残念そうだったが、また水の上を走る機会もあるだろうと、自分から先に行くことを提案してくれた。
陸路で少しずつ南へ進んでいく。このルートの場合、先の選択肢はいくつかある。ある程度南へ行ったらまた西に進むか、さらに南へ行って今度は東に進むかだ。
東に進むルートだと治安がもっとひどい地域もあるので、その場合は途中で空を挟んだ方が良いように思える。大分距離を稼げたので、そろそろ公共機関に名前が残っても大丈夫なはずだ。
…どちらにしても、今は南へと進んでいこう。考えるのはその後でもいい。
時折スレッタの意見を聞きながら、細かな進むべき方向を決めていく。基本的には列車で移動し、その先の路線がないなら別の駅へと歩いていく。
そうして進む。少しずつ南へ進んでいく。
魚料理が少なくなり、ジャガイモを使った料理が多くなる。スレッタは相変わらず美味しそうに食べていたが、同じ料理を口に入れたエランはなぜか体が固まってしまった。
スレッタが不思議そうにしているので、何でもないと言いながら、ゆっくりとその料理を噛みしめる。
その日を過ぎてから、エランは何かに急かされるように足を速めることが多くなった。
すぐに大変そうなスレッタの様子に気付き、その度に足を緩めるのだが、気付けばまた早足になっている。
逆にふと立ち止まって周りを見回すことも増えてきた。スレッタも景色を楽しんでいるが、それとは違う。胸の内には焦燥感のようなものがあった。
地形を見る。植生を見る。人々の服装を見る。……彼らの言葉に耳を傾ける。
エラン自身は何も分からない。それなのに、まるで分からない何かを必死になって探しているようだった。
そんな事が続いたある日、エランは泊まる宿を探そうと道行く人へ話しかけた。
この辺りは随分と田舎のようで、端末には宿の情報がまったく載っていなかったからだ。
「すみません、ちょっといいですか」
『ん、何か用か?』
『この辺りで泊まれる宿はありませんか?』
『大きい所はない。民宿ならそこの角を曲がったところに一軒ある。今なら多分泊まれるぞ』
『ありがとうございます』
あまり愛想はないが、簡潔に話してくれるいい人だった。服装からして近所の農家だろうか。
そんな事を思っていると、隣でぽかんとした顔をしたスレッタと目が合った。
「どうしたの?」
「いえ…エランさん、今の言葉分かったんですか?」
「?別に普通だったけど」
そこまで話してようやくエランは気が付いた。先ほどの会話が公用語ではなかったことにだ。
今はスペーシアンの定めた言語がアーシアン達にも共有されている。…という事になっている。彼らの法によれば、すべての人々が公用語を話すべきなのだ。
けれど地域によっては昔ながらの言語をそのまま使っている人々もいる。割合としては、律儀に公用語を話している総数よりも多いくらいだ。
エランはこの地域の言語を学習した記憶はない。また学習すべき必要性もまったくない。
それなのに、今の言葉が分かってしまった。
何故か。
「───」
その意味を、エランは正しく理解した。
「…エランさん、眠らないんですか?」
「うん。もう少しこの地域の情報を見ていたくて」
「あんまり夜更かしはダメですよ」
「分かってる。調べ物をしたらすぐに眠るよ。…おやすみ、スレッタ・マーキュリー」
「…おやすみなさい、エランさん」
「………」
地域情報を検索する。
町の名前、市の名前、山の名前、湖の名前、手当たり次第に検索する。
記憶にない、記憶にないけれど、覚えているものがあるかもしれない。
エランは検索する。自分の記憶に検索を掛ける。少しでいい、何か引っかかるものはないだろうか。
…その日は、明け方になるまで部屋の明かりが途切れることはなかった。
「おはようございます、エランさん。…ちゃんと寝れました?」
「うん、少しは眠れたよ」
翌朝、心配そうにスレッタが話しかけてきた。
最近は宿に泊まれればきちんと睡眠を取るようにしていたので、急に夜更かしを再開したエランに思う所があるのだろう。
少しの申し訳なさを感じながら、エランは自身の願望を口に出した。
「…行きたい所があるんだ」
現在位置からは、それほど遠いところではなかった。偶然なのか、記憶の残滓が導いたのかは分からない。
今は廃村になっているその場所に、エランとスレッタは手を繋いで立っていた。
「───」
「エランさん、この場所って…」
「…ここには、十年くらい前まで寂れた村があったみたいだ」
「………」
「今時珍しく放牧をして、畑を耕して、細々と暮らしている人が多かったんだって」
「………」
「もっと前は賑わっていたようだけど、スペーシアンとの戦争が起きて…」
「………」
「…その後は、ゆるゆると人が居なくなって、廃村になった」
「………」
「覚えてないんだ」
「………」
「僕が覚えているのは誕生日を祝ってくれる人がいたことだけ」
「………」
「その人が、僕にとってどんな人だったのかも分からない」
「………」
「この場所が、僕に関係あるのかどうかも分からないんだ」
言いながら、エランは改めて廃村に目を向けた。
柵は腐り、建物は半壊し、植物があちこちから顔を出している。
人気はまったくなく、家畜の類もまったくいない。
唯一、空から飛んできた鳥が羽を休めているくらいだ。
───こんなところへわざわざ来て、僕は何がしたかったんだろう…。
相変わらすエランの記憶には何もない。何か思い出すかと期待していたが、とんだ思い違いだった。
徒労感に、エランは大きく息をつく。わざわざ道を外れて、時間をかけてここまで来たのに何もないなんて。
スレッタにも悪い事をしてしまった。宿でひとりにするという選択肢を取れなくて、ここまで連れてきてしまったのだ。
先ほどから彼女は黙ったままだ。突然こんな所に来たいと言い出したエランに、怒っているのかもしれない。
「…ごめんね、スレッタ・マーキュリー」
ぽつりと呟く。…なんだかとても、つかれてしまった。
エランはスレッタの顔を見ることが出来ず、俯いたまま顔を逸らした。
いつまでもこうしている訳にはいかない。早く次のルートを考えて、先に進まなければならない。
そう思うのに、エランの足は根が生えたようにこの場所から動かなかった。
「エランさん」
スレッタが名前を呼んだかと思うと、ぎゅうっと思いきり手を握り締めてきた。
手袋をしているうえに女の子の握力なのでそれほど痛くはない。痛くはないが、驚いて彼女の顔を見てしまう。
「この場所、もっとよく見てみましょう」
そう言って、エランの手を引いてくる。彼女にぐいぐいと引っ張られて、思わずその場から足を動かしてしまった。
「スレッタ・マーキュリー?」
「ここ、エランさんの故郷かもしれないんですよね?いっぱい回って、目に焼き付けましょう」
「………」
スレッタに誘われるがまま、エランは廃村の中を歩き出した。
村の中は、全部で十軒ほどの家が建っていた。石造りなので外観は無事な家もあるが、大抵はどこかしらが崩れていた。
他にも、基礎だけが残っているところもあった。…これは、戦争で吹き飛ばされた跡なのかもしれなかった。
他にも家畜小屋のような場所もあり、それは人の家よりもボロボロになっていた。
水道も通っていたと思うのだが、村の真ん中には井戸があり、小石を投げてみると水の音が反響した。───まだ生きている。
「………」
エランは辺りを見回した。
あちらの家は、少し大きい。村長の家だろうか。庭も大きく取られており、草木が方々に生い茂っている。
あちらの家は、少し小さい。けれどその分頑丈なのか、ほとんどは原形を留めている。植えていた花が野生化したのか、青く可憐な花が咲いている。
そして、あちらの家は…。
エランの視線が引き寄せられる。それは、何の変哲もない廃屋だった。もう半分ほど壁が崩れていて、中が雨風で晒されたのか大分瓦礫や土で埋まっている。
柵もボロボロになっていて、雑草に埋もれるようにかろうじて立っている有様だ。
庭と思われる場所には何もない。用途も分からない何かの残骸が埋もれていて、ただ草が生い茂っているだけだ。
けれど、裏庭には…。
いつの間にか手を引いているのはエランの方になっていた。スレッタの手をお守りのように握りしめながら、恐る恐る家の裏側へと進んでいく。
「………」
そこには、1本のプラムの木が立っていた。
貧相な木だった。誰も世話をしていないのだから当然だった。周りの草木に栄養を取られて、よく成長ができなかったのだろう。
けれども、いくつかの小さい実がなっていた。
『〇〇兄、ちょっとすっぱいけどおいしいね!』
『■■■がよく世話すれば、来年はもっと食べられるぞ』
『やったぁ!がんばる』
そんな会話が、どこからか聞こえて来た気がした。
記憶じゃない、ただの幻想の類かもしれない。あまりに何もないばかりに、自分に都合のいい思い出を作り出してしまったのかも…。
それでも、自分には確かに何かがあった。何もないなんてことは、きっとなかったのだと思えた。
「これって、果物ですか?」
プラムの実を見た事がないスレッタが、不思議そうに指をさす。まだ熟していないものもあるが、食べごろの色をしているのもあった。
こちらを見て首をかしげる彼女に向かって、エランは眉根を下げながら笑いかけた。
「…ちょっと酸っぱいけどおいしいよ。食べてみようか」
「いいんですか?これ、誰かが植えたものですよね」
「これは僕らが食べても大丈夫なものだよ、きっとね」
エランの言葉に、スレッタは少しずつプラムの木に近づいていく。
まだ悩んでいるのか木の前で立ち止まった彼女を余所に、エランは繋いでいた手を離すと2番目に熟している実をもぎ取った。
「あ!」
飲み水を出して軽くすすぎ、そのまま皮ごとかぶりつく。
酸っぱくて、甘い。どこかで食べた事があるような味がした。
「…おいしいですか?」
「おいしい。君も食べてみるといいよ」
一番熟している実を指さして、エランはプラムを食べ続ける。行儀が悪いが、そんなこと今はどうでもよく思えた。
スレッタはむぅっと口を尖らすと、実を取ろうと果敢にプラムの木に向かって行った。
四苦八苦して、ようやく取った実を自分の飲み水で軽くすすぐと、「…いただきます!」挨拶をしてから目を瞑って齧りつく。
思ったより酸っぱかったのか、一瞬眉を顰めたけれど、彼女はすぐに笑顔になった。
「ちょっと酸っぱいけど、おいしいです!」
「…よかった」
エランは見つめる。彼女の笑顔を目に焼き付ける。
この旅は彼女の為のものだと思っていた。けれど、そうでもなかったのかもしれない。
この旅は、きっと自分の為のものでもあったのだ。
自信を持ったスレッタが、お土産にといくつかのプラムを取ってくれた。
それを受け取りながら、エランは微かに微笑んで礼を告げる。
「…ありがとう、スレッタ・マーキュリー」
その言葉には、色んな意味が含まれていた。…言葉で表現できないほどの、様々な感情が、色々と。
エランは大きく息をつく。甘酸っぱい果物の匂いと共に、何だか懐かしい思いも胸に満ちるようだった。
記憶にない子供の自分が、弾けるような笑い声をあげた気がした。