ごめんねスレッタ・マーキュリー─怪物の献身(前編)─
※スレッタ目線です。
スレッタ・マーキュリーは夢を見ていた。
エラン・ケレス…今どうしても気になって仕方がない年上の男の子を、優しく抱きしめて慰める夢だ。
夢の中の宇宙空間で、彼はスレッタを救助しようとしているようだった。おそらくモビルスーツから脱出したばかりなのだろう。救助用のハーネスを付けて、彼はどこかへと向かっていた。
エアリアルはどうなったんだろう、スレッタは少し気になったが、それよりも目の前の彼の事が心配になった。
彼は息を荒げて、表情を歪ませていた。体は少し震えていて、変に力が入っている。先日の、決闘後の様子とは大違いだ。
怖がってるんだ。スレッタにはすぐに分かった。
水星での生活を思い出す。老人ばかりの水星で、幼いころのスレッタは常に厄介者扱いされていた。
生活基盤もギリギリで、唯一採掘できる資源のパーメットは他に採掘しやすい月があり、後は人知れず寂れるのを待つばかり。
そんな水星での生活に心が荒れ果ててしまうのは仕方がない。とてもじゃないが目新しい新参者は受け入れられなかっただろう。
今なら納得できる事柄も、幼い子供、それも当事者ともなれば呑み込むことなど出来なかった。
あの頃は、毎日がつらかった。人々に冷たく遠巻きにされて、とても寂しい思いをしていた。よくエアリアルの元へ逃げ込んでは、彼に慰められたものだ。
そんな生活に転機が訪れたのは、10歳を過ぎた頃だろうか。モビルスーツを操縦できるくらいに手足が伸びたスレッタは、信頼するエアリアルを相棒として、水星での救助活動をし始めた。
初めは胡散臭そうに見ていた水星の老人たちも、1人、2人と救われるうちに、段々とこちらを受け入れてくれるようになっていた。
自分が何もしなければ、相手も何もしてくれないのは当然のこと。
逆に自分が何かいいことをすれば、人々は興味を持って優しくしてくれる。
だから進んだ。初めての救助はとても怖くて逃げだしたいほどだったけれど、進んで2つを手に入れた。…本当に、泣いてしまうほど怖かったけれど。
エランも同じだとスレッタは思った。彼は今、初めて救助活動をした幼いころの自分のように、とてもとても怖がっているんだ。
スレッタはエランを抱きしめると、彼を一生懸命慰めた。分厚いパイロットスーツを着て、ヘルメットを被っている状態では効果は薄いかもしれないけれど、それでもひとりじゃないと伝えたかった。
エランがどうしようもなくなっても、自分は長年救助活動を続けていたベテランだ。体感では大きな怪我もしていないし、彼の代わりを務めることもできる。
それに。
エランの姿勢制御はとても丁寧で、まったくブレること無く前へ進めている。デブリがあってもごく自然に脇へ避けて、また元のポイントへ戻っている。
たとえどれだけ怖がっていても、エランの操縦技術はそうやすやすと脅かされないほどに高いのだ。
同時に彼がどれだけスレッタを気遣ってくれているのかも分かってしまう。初めてで不慣れだろうに、自分の粗っぽい救助活動とは全然違う。彼の心遣いがじんわりと胸に染み入っていく。
そうしているうちに、意識が朦朧とし始める。怪我はないと思っていたけれど、頭でも打ったんだろうか。早めに医者に診てもらわないとまずいかもしれない。エランの焦りも納得できる。
でも大丈夫…。
エランがそばにいれば大丈夫。彼なら自分を安心して任せられる。
そう口に出して、また眠りの世界へと漂ってしまったけれど、きちんと夢の世界の彼には伝わっただろうか。
伝わったらいいな。…そう思いながら、スレッタは今度こそ目が覚めた。
「……ん」
何だか眩しい。スレッタは光に目を眇めて、手の甲で影を作った。
地球寮で生活しているとよくこういう事がある。早起きのアリヤが起きたばかりなのだろうか、あるいはニカかもしれない。リリッケも同じタイミングで起きる時がある。…チュチュだけは、いつもギリギリまで寝ているけれど。
しばらくぼんやりしていると、部屋の内装が地球寮の女子部屋とぜんぜん違うことに気が付いた。
そのことの意味に思い当たると同時に、体…正確には肩の辺りに沿わされていた誰かの腕が、そっと離れていくのが感覚で分かった。
熱源が無くなって冷たく感じる体にまず驚き、体温が同化するほど近くにあった腕の主に焦点を合わせて、更に驚く。
「…起きた?スレッタ・マーキュリー」
「え、エラン…さん」
夢で見ていただけのはずの、エランの姿がそこにはあった。
「え、どうして…わ、わたし…」
スレッタは慌てて起き上がる。エランの姿がインナースーツだと気づき、急いで目を逸らした。濃い青色のインナースーツにエランの白い腰回りの肌が映えて、一瞬だったのに強く目に焼き付いてしまった。
まるで見てはいけないものを見てしまったように動揺すると、毛布の中で小さく体を縮こまらせた。そして自分もインナースーツを着ただけの姿だと気づいてパニックになる。
「ひぇ…えっ、わたし、ふく…、ッふ、服、きてな…っ」
あわあわして狼狽するだけのスレッタから静かに離れると、エランは宥めるように声をかけてきた。
「落ち着いて、スレッタ・マーキュリー。ごめん、気遣いが足りなかった」
少し待っていて。そう言うとエランはすたすたと扉まで向かった。体の線にピッタリと沿った彼のスーツ姿に、まともに見る事も出来ずただ恥じ入るばかりだ。
エランは扉の向こうにいる誰かに喋りかけている。スレッタはその様子を、ソファの端で小さくなりながら伺っていた。
ここはどこだろう?わたし、寝る前は何をしていたんだっけ?
昨日の記憶を思い出そうとするが、霞がかったように出てこない。
宇宙遊泳…違う、それは夢の中の話だ。地球寮で就寝…それも違う。
あれこれと考えて、エランに呼び出されたことを思い出す。あれも何だか夢の中の出来事のようだが、確かにスレッタは森の近くまで彼に会いに行った。
そして…。
「スレッタ・マーキュリー、すぐに用意してもらえた。これを」
目の前に服が差し出されて、思考が中断される。エランから服を受け取りながら、彼の顔を困ったように見上げてしまう。この場で着替えるのは流石に抵抗がある。
スレッタの戸惑いに気付いたエランは、部屋の奥を指し示した。
「ドアの先に着替えが出来るスペースがある。洗面所もあるから、そちらで身支度するといいよ。…説明は、その後に」
案内された通りに部屋の奥へと歩いていく。そっと見てみると、エランはこちらを見ないように前を向き、さらに目を瞑ってくれていた。彼の配慮にホッとして、脱衣所に繋がるドアを開ける。
顔を洗い、着替えをしながらスレッタは考える。
やっぱり森へ向かったのは現実だ。その後にエランと会ったのも。
今はどうしてエランと一緒にいるのかは分からないが、きっと何かがあったのだろう。不慮の事態のようなものが。
エランは説明してくれると言っていた。早く着替えて説明を受けなければ、だって今日は大事な…。
デート、という単語を思い出して、ポッと頬を染める。エランの話を聞いたら、心配しているだろう地球寮の皆やミオリネに連絡をして、そうしたら彼と出掛けられるだろうか。
昨夜の彼は一緒に行けないと言っていた気がするが、それならせめて次の約束をしておきたい。
スレッタはよし!と気合を入れると、洗面所のドアに手をかけた。服は厚手の可愛らしいワンピース風のもので、無重力でも大丈夫なようにスカート部分はキュロット状になっている。クリーム色なので自分に合っているかどうかは自信がなかったが、少なくともインナースーツのままよりはずっといい。
いつも付けているヘアバンドがないことが少し気がかりではあるが、きっとエランがどこにあるか教えてくれるだろう。
そっとドアの陰から見てみると、エランも着替えたようで、シンプルな白のシャツに紺色の細身のパンツスタイルになっていた。いつも制服姿しか見ていない為、普通の服を着ている彼を見ていると何だかドキドキしてくる。
「あ、あの、着替えました」
宣言して、そそくさとエランの元へ戻る。彼はスレッタの姿を見て、うん、と頷いてくれた。「ぴったりだね」と言葉も添えてくれる。
褒められたと感じたスレッタははにかんでソファへと座った。エランのすぐそばは緊張するので、出来るだけ端っこに腰かける。
「おなか、すいてない?」
エランの言葉に顔を上げる。それは初めて会った時に彼がかけてくれた言葉だった。
確かに起きたばかりで、少しお腹は減っている。頷いてお腹を押さえたスレッタを見て、エランはソファの前の机に水と携帯食料を置いてくれた。
「あの時とは違って、温かい食事とはいかないけれど」
覚えてくれていたんだ。スレッタは少しだけ泣きたくなった。
初めて会った時にはもうすでにエアリアルが目当てだったのかもしれないが、彼の優しさと言葉に心が救われたのは変わりのない事実だ。
心がいっぱいになりながら、水が入ったボトルを手に取る。彼の前でポリポリと音をさせながら食べるのは少し恥ずかしいので、携帯食料は後で頂くことにする。
「い、いただきますっ…」
こくこくと水を飲んでいると、エランは「そのままでいいから聞いて欲しい」と前置きをしてきた。
エランは暫く何もせず、少しだけ迷ったようなそぶりをする。いつも率直な彼の珍しい態度に、ボトルのキャップを閉めてきちんと聞く体勢を取った。
「…スレッタ・マーキュリー。まずここは、学園じゃない」
ようやく、といった風に喋り始めたエランの言葉に、スレッタは首を傾げた。
思い出すのはやはり初めて出会った時のことだ。知らない間に、また自分は尋問を受ける事になってしまったのだろうか。
それでもスレッタは慌てることはなかった。起きてからエランがずっとそばに居てくれているのもあって、気持ちは落ち着いていた。
エランは少しの間目を瞑ると、覚悟を決めたようにこちらの目をまっすぐに見て言った。
「ここは学園があるフロントから半日ほど離れた宙域だ。僕も詳しい座標は知らない。…けれど、行き先は知っている」
まだ移動途中、ということだろうか。すぐにでも質問したかったが、エランの次の言葉に開きかけた口を閉じた。
「地球だよ」
「───」
ちきゅう?
思っても見なかった単語に目を丸くする。事態がよく理解できないスレッタに対して、エランは静かな表情で宣言した。
「スレッタ・マーキュリー。これから僕は、きみを地球へと攫って行く」
どうして、とスレッタは戸惑いながら思う。
エランは怒っている様子じゃない、いつもの通り、優しいエランだ。
なのに。
緑色の瞳が、強い光を湛えて狼狽える自分を見つめている。
「───きみを拘束してでも、絶対に」
それはエランに似つかわしくない、他者へと強制するような響きに満ちていた。