ごめんねスレッタ・マーキュリー─友との別れと祈りの言葉─
※オリキャラ多数注意です
エラン・ケレスとスレッタ・マーキュリーの2人は、繋いだ手を離さないままソファに座ってその時を待っていた。
部屋の扉が叩かれる。ノックの音は全部で4回。この船へ来てから、2人はとても丁重に扱われている。
「失礼いたします」
部屋へ入って来た男は、手を繋いで隣り合っている2人を見ても表情を変えなかった。ただほんの少しだけ沈黙すると、静かな声音で約束の時間が来たことを告げた。
ぎゅう、と一瞬強く手を握り、スレッタと顔を向かい合わせる。もう泣いていない彼女は、エランと目を合わせると小さく頷いてくれた。
男の先導で通路を歩く。来た道とは逆の順だが、意識を失っていたスレッタは興味深そうに辺りを見回している。彼女が転ばないように、慎重に手を引いて歩く。
入って来た搬入口から今度は出ていくことになる。手早くハーネスでお互いを繋ぎ合わせている間に、船のスタッフが部屋の空気を抜いて準備を整えてくれる。
外への扉を男が開けると、すでに次の船が並走してエラン達が来るのを待っていた。この船よりも随分と大きな船だ。
見れば向かいにも人がいて、2人が飛び移るのを手助けしてくれるつもりのようだった。
エランは最後に男の方を向き、礼を告げた。
「ありがとう。本当に助かった」
「…いえ」
そこで初めて男は少し表情を変えた。眉根を下げて小さく微笑むと、武骨な雰囲気がどこか柔らかい印象になる。
「…あなた方の道行きにどうか幸運がありますよう、祈っております」
男の言葉は、それまでの事務的なものとは少し違っているように聞こえた。エランはぱちりと目を瞬かせる。
一緒に付いて来てくれていた女性スタッフも気付けば笑顔になっている。少し戸惑いながらも会釈をしたエランとスレッタは、名も知らぬ大人2人に見守られながら船を後にした。
ジェットパックを展開して相手の船に角度を合わせる。スレッタは邪魔にならないよう、ぴたりと体を預けてくれている。
向かいの船員が途中まで迎えに来てくれたこともあり、何のトラブルもなく2人は無事に船を乗り移る事ができた。振り返ると、男と女性スタッフが大きく手を振っている姿が見える。
「………」
エランはその様子をじっと見つめる。互いの船が離れるまで、2人は手を振り続けてくれていた。
新しい船では人の良さそうな線の細い男がエラン達を待っていた。最初の船の男と同じくらいの年だろうか。工作員というよりは、どこかで研究でもしているのが似合うような男だ。
ハーネスを外して改めて手を繋ぎ合うエランとスレッタの姿を見て、壮年の男は楽しそうに笑みを深めた。
「お待ちしておりました。この船では所定のフロントに着くまでの間お乗り頂くことになります。大体3日間ほどですね。まずはお部屋にご案内いたします」
男の案内に従って通路を歩いていく。最初に乗った船よりも作りは大きく、よく利用されているのか所々年季が入っている。
どうやらこの船は普段から輸送船として使われているようだ。エラン達は役員のいるエリアで匿われるが、ほとんどの船員は事情を知らず、船のスタッフとして普通に働いているらしい。
ここでエラン達は物資の補給と予防接種を受ける予定になっている。
地球では管理されたフロントと違って様々な病気が蔓延している。特にスレッタにとっては抗体がない危険な病気が多くあるだろう。
エランが要求した物の一つがこの予防接種だった。聞けば貧民では受けられないような最上級の物を用意してくれたという。これはシャディク・ゼネリの心遣いによるものなので、ありがたく受け取ることにする。
案内された部屋は応接室のような作りで、大きなテーブルとソファがしっかりと備え付けられていた。いくつかの扉があり、それぞれ洗面所やベッドルームに繋がっているようだ。
最初の船とは違い数日は滞在するので、わざわざ休む部屋があるところを用意してくれたらしい。中継地のフロントへ着くまでの一時的な拠点になる。
エランはまず基本となる部屋を見渡して、違和感を感じる箇所がないかを確かめた。次いでスレッタとの繋いだ手をそのままに、洗面所に繋がる扉も開ける。
排気口の位置や大きさを確認しつつ、誰かが隠れられる場所がないか素早く目視していく。シャディクを信用はしているが、これはペイル社にいた頃からの癖のようなものだった。
特に問題はなさそうだと知ると、スレッタの手をそっと放して場所を明け渡す。すでに着替えは用意されているので、パイロットスーツを着続けている意味はない。彼女は素直に着替えを持つと洗面所の扉を閉めた。
エランも扉の近くで着替えながら、壮年の男と打ち合わせをしていく。とは言っても、やる事はほとんどない。荷物を受け取る。予防接種を受ける。シャディクと話し合う。それくらいだ。
そのシャディクも今頃は忙しくしているだろう。昼ごろに時間が取れるらしいので、それまでゆっくり休むことにする。今はまだ午前中なので、1、2時間は休息できることになる。
壮年の男は用があればベルを押すようにとエランに言い、早々に退出していった。最初の船の男とは違い、扉の前で待機するつもりはないようだ。
これは単純に滞在期間の長さによるものか…または自分の警戒を察してのものか。理由は分からないが、どちらにせよ目を離しても大丈夫だとある程度思われているのだろう。
正直、研究員然とした男の雰囲気はペイルの大人を思い出すので、離れてくれて少しほっとした所はある。
スレッタが戻ってくるまでもう少し時間がありそうなので、一人になったエランは遠慮なく寝室の扉を開けてみた。入口に手を掛けたまま、その場から動かずに簡単に見回してみる。
隣り合ったベッドに眉を潜めるが、それ以外は特に問題は見当たらなかった。本来ならもっと詳しく調べるべきだが、中には入らずに扉をゆっくりと閉める。
今の状態では寝室に入っている隙に、スレッタのいる洗面所へ誰かが押し入る可能性がある。彼女の安全のためにも、基本的に外に繋がる扉がある応接室から離れる気はなかった。
次にエランは部屋に備え付けてある小さめの冷蔵庫を開けてみた。中には水だけではなく色々な飲み物のボトルが入っている。流石に酒や炭酸水はないが、紅茶やコーヒー、ジュースなどはある。
「おまたせしました。エランさん、何を見てるんですか?」
戻って来たスレッタの声に振り返る。体を横に避けて冷蔵庫の中身が見えるようにすると、彼女は目を輝かせた。
「わぁ、飲み物がいっぱいです」
「しばらくこの部屋で過ごすことになるから、気を使ってくれたらしいね」
スレッタが欲しがったジュースのボトルを手に取り、気付かれないようさり気なくチェックする。特に細工をされている様子はないので、そのまま手渡しして冷蔵庫を閉めた。
「水星では、あんまりジュースは飲めなかったんです。紅茶やコーヒーも、子供だったから飲ませてもらえませんでした」
「じゃあ普段は水ばかり飲んでいたの?」
「いえ、一応は体にいい乳酸菌飲料や清涼飲料水も飲んでましたよ。粉を水に溶かしたモノですけど。だから本物の果汁を使ったジュースは貴重品でした。水星は物流も細くていっぱいの荷物は送れないですから」
自然と品物も限られたものになるようだ。聞けばこの年になるまで生鮮食品の類は食べたことがなかったらしい。ミオリネに貰ったトマトが初めての食体験だったようで、口に含んだ瞬間の瑞々しさに衝撃を覚えたとスレッタは話してくれた。
しばらく会話していると、スレッタが眠そうに目をこすった。まだ昼前だが、今日は朝早くから色々あったので疲れたのだろう。薬の影響もまだ残っているのかもしれない。
エランは寝室の扉を開けて改めて中を確認し、遠慮するスレッタを説き伏せて休ませることにした。どちらにしろシャディクとの会話を聞かせるつもりはないのでちょうどいい。
ひとりになってしばらくの後、部屋にノックの音が響いた。ここでも4回、きっちりと鳴らされる。
返事をすると、壮年の男がモニターを持って部屋に入って来た。どうやらシャディクの時間が取れたようだ。
ただしそれほど長い時間は繋げられないらしい。これは仕方のないことだった。
いまの学園は多少なりとも混乱しているはずだ。エランがしたことの事後処理をすべて任せてしまったようなものなので、シャディクを労わりこそすれ、文句を言う立場ではない。
モニターがエランの座っている前のテーブルに乗せられる。画面には、少し疲れた様子のシャディクが映っていた。
『やぁエラン、朝方ぶりだ』
「シャディク・ゼネリ。…だいぶお疲れのようだけど」
『まぁね。朝から呼び出されて大騒ぎさ。まぁ、まだ学園には緘口令が敷かれているけれど』
それも時間の問題かな。
そう言うと、シャディクは体を解すように両手を上にあげて伸びをした。こんな姿は珍しい。基本的に彼は自然体でいることが多いが、同時にとても行儀がいい男なのだ。
『ん、はぁ…手短に言うよ。巡視艇はペイルが鹵獲したみたいだ。管理施設宛てにトラブルで帰れなくなったと虚偽の報告が来た。モビルスーツの方は民間の輸送船に見つかったようだけど、かなり離れた宙域からの連絡だったからどういう事だと少し騒ぎになったようだ。…ペイルが揉み消したけれどね』
「その辺りは予想の通りだね」
『今のところはね。ただ予想外の事があって、それがちょっと厄介かもしれない』
「…と言うと?」
『エランが森の近くのベンチに証拠として残した小物があるだろ?それを拾ったのがよりによってグエルだったんだ』
「グエル・ジェターク?」
ここに来てあの男が絡んでくるのか。エランは少し眉根をひそめた。
『間の悪いことに地球寮のメンバーと鉢合わせして事情を聞いたらしい。さっそくペイル寮に突貫して騒ぎになっていたよ』
「………」
『…噂はすごい勢いで広まりつつある。エランが水星ちゃんを連れ去ったってね』
噂を広げる工作はしなくてよくなったが、代わりに情報の手綱を握るのが難しくなったとシャディクは嘆く。
頭の痛い事にミオリネも巻き込みそうな勢いなのだという。
本当に何をするのか分からない男だ。すでにエランとスレッタは学園から離れているので直接の害はないが、代わりに相手をするのは目の前の友人だ。
「…謝ったほうがいいかな?」
『いや、いいよ。予想できるものでもなし、この流れも何とか利用して見せるさ』
強がりを言う友人に何か話しかけようとした時、画面外で誰かからの連絡を受けたらしいシャディクは慌てて言った。
『ああ、ごめん。ちょっと早急に対処する用事ができた。水星ちゃんとの仲直りの話は次の機会に聞くことにするよ。じゃあ、また夜にでも』
「分かった。シャディク・ゼネリ、あまり無理はしないで」
『ありがとう。まぁ、少ししたらこの状況も落ち着くさ』
それだけ言うと、シャディクの姿は画面から消えた。部屋の隅で気配を消していた壮年の男がモニターを回収してまた出ていく。
さて、これでまたやる事は無くなった。エランはスタッフが昼食を持ってくるまでの短い間、ソファで目を瞑って体を休ませた。
それからの3日間は、喜ばしい事に特筆すべきことは何も起こらなかった。1日目にパッチテスト、2日目に予防接種、合間にシャディクの愚痴を聞き、あとはひたすらに体を休める。
とは言っても、エランはあまり横になる事はなかった。ソファに座ったまま、すぐに起きられるように短い睡眠を繰り返す。あまりにベッドを使わないのでスレッタが心配していたが、彼女が寝ている間に自分もきちんと寝ていると嘘を付いていた。
起きている間は主にスレッタの話の聞き役になる。彼女の話はとても興味深かった。どんな事が好きか、どんな事に驚いたか、たどたどしく話す言葉に相槌をうちながら、少しずつ彼女の事を知っていく。
水星での救助活動に眉をひそめる事もあったが、誇らしげに話す彼女に水を差すこともできず、エアリアルと彼女の活躍をただ大人しく聞くに留めた。
そうして3日目、あともう数時間で中継地のフロントへ着くという頃、エランは最後になるだろう友人との会話をしていた。
『3日前と比べると大分周りも落ち着いてきたよ。グエルの方もおそらく大丈夫だろう』
「それはよかった」
確かに初日と比べると顔色がいい。色々と情報が出揃ってきて、今は水面下で動き始めるところのようだ。
シャディク側の話はだんだんと話題に上らなくなったが、これはエランがすでに学園から離れているせいなので仕方がないことだった。
外へ出る人間に過度の情報を渡すのはどちらにとっても危険な行為になる。だから話の内容を制限するのは至極当然のことだ。何か意見が欲しい時は、シャディクの方から話してくれる。
『君はこれからが大変だろ。今の地球はヘタな所に行くと危なすぎるからな。そんなに贅沢も出来ないだろうし。ここ最近の地球は本当に…かつての栄光が見る影もないから』
「地球の栄光なんて、もう100年以上前に失われているだろう。心配しなくても、僕は普通のスペーシアンよりは地球の状況に慣れている。最下層出身のアーシアンだからね。…それにフロントだと常に追われる危険が付きまとうんだ。地球のほうが、いくらかマシに思えるよ」
『言うじゃないか』
「おかげさまで」
こんなにリラックスして話すのも、これが最後になるのだと思うと感慨深い。
この3日間、エランはエアリアルの夢の話以外はすべてシャディクに洗いざらい話していた。
デリング・レンブランとプロスペラ・マーキュリーの共謀。21年前のヴァナディーズ事件に端を発した復讐劇。全貌の見えないクワイエットゼロ計画。ルブリスやエアリアルに───何らかの秘密が隠されていることも。
プロスペラ・マーキュリーが何を考え宿敵と手を組んでいるのか、夢を経ても今のエランには窺い知れない。だが、それを暴くのは少なくとも自分ではない。
エランはシャディクをじっと見つめた。それは目の前の友人が明らかにするのかもしれなかった。
『なんだい、じっと見て』
「いや、何も。ただとても世話になったなと思って」
『その分のお代は受け取ったからね。貰いすぎなくらいだ』
「皮肉?」
『いや、事実だ。君のくれた情報で、だいぶ使える武器が増えた。俺の目的も…叶えられるかもしれない』
「それは地球の立場を引き上げた上での宇宙側との融和のことかな、『プリンス』」
エランの言葉に、シャディクは元々の大きな目を更に大きく開かせた。しばらくの後、『敵わないな』と言いつつ苦笑する。
『いつから気付いてた?』
「そうだね、気付いたのは割と最近かな。君、妙に地球に好意的な言葉が多いから。僕が最下層のアーシアンだと聞いても、差別どころか逆に親しみを増した様子だったし」
『あー、気を付けるよ』
「背後には宇宙議会連合が絡んでるのかなって朧げに予想してたけど」
『あー…、いや、明言はしないぞ流石に』
「それでいいよ、僕が勝手に思っただけだ。誰かに話したりもしないから、絶対に」
『たすかる』
「最後だから言うけど、君の目的はこれから地球で暮らす僕にとっても有益なものになる。けれどあまり無茶はしないで。出来るだけ自分を大事にしてくれたらと思うよ」
『…ありがとう』
「僕の唯一と言っていい友人だからね君は。気に掛けるくらいはする」
『グエルは?』
「あれは友人じゃない」
ピシャリと言うと、シャディクは笑った。心底可笑しそうに、大きく口を開けて。
『はは、エランはホントに手加減を知らない。次に会う時はもっと優しくしてやりなよ』
「あれがもっと落ち着けば、話くらいはしてやってもいい」
『何年後になるかな。その時は酒でも飲もう』
「そうだね、その時は」
いつまでも話していたいが、もうすぐ時間だ。シャディクも気付いたようだった。
『…それじゃあ、元気で。水星ちゃんと仲良くね』
「ああ、君も元気で。ミオリネ・レンブランによろしく」
これが最後の別れになるかもしれない。お互いそう思いながらも、ほがらかに笑顔を浮かべて、気軽な約束と挨拶を交わす。
そうして、モニター画面は暗くなった。
「………」
「…エランさん、お話終わりました?」
しばらくして、話し声が聞こえなくなったとスレッタが寝室から遠慮がちに顔を出してきた。シャディクと話をする時は彼女にはいつも退室してもらっている。
「ああ、これで最後になる。いつもごめんね、スレッタ・マーキュリー」
「全然、構いませんよ。エランさん、お友達と喋ったあとは楽しそうです」
エランによって友達と引き離されても、スレッタは変わらず温かい言葉をくれる。胸が少し痛くなるが、その分彼女を守ろうと改めて誓う。
シャディクがグループを解体して、ミオリネを守り抜き、エランとスレッタが大人たちから解放される。そんな未来は来るだろうか。
「…自慢の友人なんだ。しばらくは、会えなくなるけど」
「…わたしと地球に行くからですか?」
「いや。彼の夢が叶うまで、お互い会わないと決めただけだよ」
「夢が叶ったら、会えるんですか?」
「そうだね。…夢が叶ったら」
「叶うといいですね」
「…うん。叶うといい」
最後のシャディクの姿を思い出す。年相応の、大きく笑った少年の姿を。
「僕の友人の夢が叶ったら、一緒に会いに行こうか。スレッタ・マーキュリー」
「いいんですか。はい、一緒に行きます。エランさん」
そうして、もう1つの約束をスレッタと交わす。彼女との約束が叶うかは、すべてはこれからのシャディクの頑張りしだいだ。
最初の船の男の言葉を思い出す。
幸運を、と男は言っていた。
どんな思いが込められていたのかは分からない。けれどエランも同じように、シャディクへの言葉を心の中で紡いでみる。
僕の友人の道行きに、どうか幸運がありますように。
それは何だか心が明るくなる、とても温かい言葉のようにエランには思えた。