この子は「黒」

この子は「黒」


※ローがロック枠で、例の鬱シーン

※10/24にグレーテルの最期まで追記







「真夜中、星と君と共に

真夜中、そして逢瀬を

君の目は優しく物語る。


『私の愛、全ては貴方に捧げるわ』と

真夜中は、私たちに与える

甘美なロマンスを。


わかるんだ、これからの一生

君のことを覚えているよ。

たとえこの先、何が起ころうと。


真夜中、星と君と共に……」


潜水艦の船内で、まさしく鈴が鳴るような声音の歌声が聞こえる。

船の性質上、気密性が当然高いのだが、その歌声はよく響いた。


「いい歌声だな。

声だけは天使のそれだ」


響いたのは、「二人」がいる部屋の扉を全開にしているから。

それだけはと、普段はイエスマンに近いぐらいキャプテンを信頼している船員達が頼み込み、その懇願に命令されることを嫌うローも応じたから。


その懇願は、心配は当然のことだとロー自身も思っていたから。


ローも受け入れた船員達の心配の種を、シャチがペンギンの感想に頷きながら、シンプルに答えた。


「イカれた殺人鬼とはおもえねえ歌声だ」


※   ※   ※


華美だが喪服じみた真っ黒なスカートを摘んで頭を下げ、歌の終わりを少女が告げると同時に、ローは拍手で歌の評価を、賞賛を表す。


「綺麗な歌だな。どこで覚えた?」

「ふふふ、伝電虫の配信で聞いたの。私、この歌が大好きなのよ。

でもね、兄様以外にこの歌を聴かせたのは、お兄さんが初めてなの」


ローの質問に笑って答え、無邪気に彼女はローの長い足の間に、無防備に座り込んだ。

開けっぱなしの扉の先で、自分たちを、少女を見張る部下達が全員、警戒体制を取るが、ローは彼らを視線で制する。


「……キャプテン」とベポは泣きそうな顔と声音でこちらを伺うので、ローは最初から一瞬たりとも手放していない鬼哭を見せ、決して自分は油断しているわけではないことを見せるのだが、そんなやりとりをローの足の間から見上げて眺める少女は、やはりどこまでも無邪気で無垢な笑顔で言った。


「お兄さんは、なんだか違う感じがするわ。

別の所……別の世界にいる人みたい」

「……そろそろ海賊に馴染んだつもりなんだがな」


少女の評価に、落ちぶれっぷりはらしいかもしれないが、子供時代は海賊らしくない恵まれた環境だった自覚があるので、ローは気まずげに目を逸らして、肯定なんだから否定なんだからな答えを返した。

その答えも彼女からしたら新鮮なのか、おかしげに、楽しそうに少女は笑う。


「うふふ。

お兄さんはいい人ね。私、いい人を見分けるのもうまいのよ?」


普通の子供にしか見えなかった。

いや、普通というには容姿が整いすぎているかもしれないが、それだけだ。

それだけだったはず。

それだけがあったから。

それしかなかったから。


だから、彼女はどうなったのかを、ローは知っている。

知っているけど、わかっているのに、放ってなど置けなかった。


世界を敵に回すことだと分かっていたからこそ、手を伸ばして匿った。


『……だって、あんたならそうする。なら、俺がしたって文句はないだろ?

……コラさん』


白い子供の自分にめいいっぱいの愛をくれて、救ってくれたから。

だから、この血に飢えた黒い子供を助けることは、ローにとって当たり前のことだった。


※   ※   ※


「ああ、海!

海に来ているのに、ちっとも見ることも泳ぐこともできないわ。

残念!」


パタパタと足を動かし唇を尖らせて、潜りっぱなしの現状に不満を漏らす姿は、誰が見ても年相応な普通の子供。


「潜水艦だからな。悪いな、狭くて息苦しいだろ?」

「いいわ、慣れてるもの」


しかしローの謝罪に、あっさりとその不満を飲み込むのは、聞き分けがいい子だと見逃すことなどできなかった。

特に、「狭くて息苦しい」を「慣れてる」で許す言葉は、聞き逃せない。


「……海は、好きなのか?」


思わず舌打ちしそうになったが、彼女に向けたものではない舌打ちに怯えさせたくもなかったので懸命に堪えて、ローは尋ねる。

彼女のことを知りたいと思うのは、医者としてか、兄としてか、それとも知ろうとしてくれた人に救われたからか。

全部であると自覚するには偽悪的なローだが、それでも彼は自分の意思で知ろうとした。

歩み寄る。


「わからない。遊んだことないもの」


自分が触れようとしているものが「地獄」であることなど、わかっていた。


「北の海(ノースブルー)にいた時も、孤児院でも、見てるのはいつも灰色の壁ばかりだったもの」


わかっていた。わかっていたのに。


「生まれたのは山の中。北の海の寒村、岩山の中。いつも曇ってて、とっても寂しい所だったわ。

神様(天竜人)に買われてからは、ずうっと血と闇の中。

海は綺麗だったけど、とても遠くて––、細い隙間から覗き見ることができたらとっても運が良い日。

大体いつも、死ぬほど殴られたり、蹴られたり、真っ赤なおしっこが止まらない夜もあったわ」


少女は語る。

自分の知るもの。持っていたもの。自分がいた世界。

自分が今もずっといる世界を。


「最初はね、よく兄様と話していたわ。

どうして神様は––私たちにこんなにも辛く当たるんだろう?」


あまりにも淡々とした言葉、今日の天気でも語るような平坦さで思い知る。


「でもね、私も兄様も気づいたの。

他の子が私たちの前に連れてこられて、––泣いてるその子をバットで繰り返し叩いた、その時にね」


ローは思い知らされた。


「『みんな』笑ってた。

私も兄様も笑った。

笑いながら思ったの、『これが仕組みなんだ』って」


何もわかってなどいなかったことを、思い知らされる。


「そう、兄様はこう言ったわ、『神様』は『仕組み』を作ったんだって。

自転車のタイヤが回るように、世界を動かす力……それは誰かの生命(いのち)を奪うことなのよ」


ローの背に甘えるようにもたれかけ、彼女は楽しげに、誇らしげに語る。

きっとその顔は、医学書を読み解いて父に語っていた時の自分によく似ていることは、理解できた。

理解してしまった。


これが、彼女と助けることができなかったもう一人にとっての「日常」であること、「普通」であることを思い知る。


「そのためにこの世が作られたなら、私たちがここにいる理由もそれだけなの。

殺し殺されまた殺すの、そうやって世界は円環(リング)を紡ぐのよ」

「……お前の兄様はそのために死んで……悲しくはないのか?」


血を吐くような思いで、縋るようにローは尋ねる。

いっそ彼からしたら、責め立てて欲しかった。

どうして自分の兄は助けてくれなかった!?と泣き叫んで怒り狂ってくれたら、ローはその贖罪を糧に出来た。


「何言ってるの?お兄さん」


ローの足の間から立ち上がり、心底不思議そうな顔をして振り返り、尋ねる。

『長い髪』を外しながら。

もうその時には、『彼女』はいなかった。


「『僕』はちゃんと『ここにいる』。いつだって姉様と一緒にいるんだ。

だって僕たちは『永遠に死なない(ネバー・ダイ)』。

ずっと続く円環(リング)にいるんだもの」


長髪のかつらを外し、兄と同じ髪型になった「彼女」だった誰かは、よく似ているが別の声音で、「兄」の声音で語る。

自分たちはずっとずっと一緒であると。


互いの「個」としての境界を無くすことで孤独ではなくなったが、完全に閉じた世界を作り上げてしまった子供。

それ以外、どうしようもなかった子供が歌うように告げる。


「僕たちはずっと殺してきたんだ。

昔から……これからも世界が回るように殺すんだ。

殺すために世界があって、みんながいて、私たちがいるの」


していることはただのかつらの着脱に過ぎないが、完全に別人へと入れ替わっているのが一目でわかる。

「彼」はかつらを被り直して「彼女」に戻り、ローの膝に自分の手を置いて、目線を合わせて朗らかに言い切った。


「だから、ね。お兄さん。

もう私たち、殺すのだって悲しくないわ。血の臭いも、悲鳴も、臓物の温かさも––

今は大好きでいられるの!」


わかってしまった。

何もわかってなかったのに、わかりたくなどなかったのに、これだけはわかってしまった。


この言葉は、本心であることだけではなく、彼女は、目の前の子供は間違いなく、本心から、目の前の男を、ローを「気遣って」言っているということを、理解してしまう。


強がりではなく、優しさと本心から相手が気にする必要などないからこそ、彼女は自分の「好きなもの」について語り、笑っているのだと理解してしまう。


だからこそローは、鬼哭も手放してその手を伸ばす。


「……違う。違う!」


開いた扉の向こうの仲間達は、ローが「ちゃんと警戒している」という証だった鬼哭を手放し、彼女を抱きしめたことを非難しなかった。

彼らにも彼女の話は聞こえていたし、理解してしまったのだろう。

誰もが茫然とし、ただローと少女を見ている。


祈るように、彼女も自分たちと同じく、素直ではないがとてつもなく優しいキャプテンに救われることを願って、彼らは見守る以外何も出来なかった。


「世界は本当は……お前を幸せにする為に……あるんだ」


小さな小さな、自分の腕の中にすっぽりと収まる少女を守るように抱きしめ、ローは哀願するように語る。

自分が与えられた愛を、彼女にも与える。


「いいか。

血と闇なんて、世界のほんの欠片でしかないんだ。

全てなんかじゃ……ねェんだよ!!」


彼女に、そして自分に言い聞かす。

恩人が教えてくれたもの、見せてくれたもの、恩人からもらったものは確かに存在していることを。


涙なんて溢れなかった。

溢れないくらいに悲しくて、溢して憐憫による言葉だと思われたくなかったから、溢さなかった。


「……ねえ、泣かないでお兄さん」


けれど、そんなことは少女にはお見通しだった。

だから彼女は、優しくローから離れる。


拒絶ではない。


ローの言葉が、抱擁が、思いが、優しさが、願いが、全てが確かに嬉しかったから。


「ねえ、お兄さん。

あなたのような優しい人は、初めてよ。

だから、ね」


嬉しかったから

好きだから


だから

だから


だからこそ




「お礼」




世界はローに、トドメを刺した。



※   ※   ※



「くそ!くそッ!!畜生ッ!!」


部屋から飛び出し、船内の片隅で床に拳が砕けそうな勢いで叩きつけ、自分の無力さを、世界の不条理さを、あの子供は末期どころではないことを思い知った嘆きを叫ぶ。


「キャプテン……」


背後のベポに何も返せない。そんな余裕などない。

そしてベポも、ローを気遣いに来たわけではないのは、その助けを求めるようなか細い声が証明している。


きっとローだけではなく、彼女をこの船に匿うことに反対していた船員達も、彼女がどんな地獄にいたのかを知れば、覚悟を決めていた。

世界を敵に回す覚悟なんて、何の躊躇もなく決めていたのに。


なのに、ローも、誰も止められなかった。

何も出来なかった。

逃げることしか、出来なかった。


「畜生……ふざけんな……!」


スカートの中に両手が潜り込んだ時点で、察してしまった。

部屋の外の連中も同じように、目を見開いて固まっていた。


察していたのに、嘘であることを悪あがきで期待した。

ストッキングと一緒に脱いだ下着が見えても、それでもタチの悪い冗談であることを願った。


嫌がらせであれば、むしろ救われた。

彼女らが本当に助けて欲しかった時に間に合わず、片割れも失った今頃になって、優しい言葉を吐くような自分を傷つける為の行為だったというのなら、まだ希望はあったのだ。


『お礼』


言葉通りだった。

嫌がらせなどではなく、本当に彼女はローの言葉も、抱擁も嬉しかったから、偽善ではなく本物の優しさとして受け取ってくれたから、だから彼女は返したのだ。

善意と好意を、そのまま彼女流に。


彼女にとって、「大人の男」が一番「喜ぶこと」を、自らの意思で選んで行った。

それが、ローにとっての致命傷。

下腹部の刺青よりも、悍ましい行為の痕跡が生々しく残っていた体よりも、

純粋な好意と善意による返礼として、あんなことができる心を目の当たりして、ローは逃げることしかできなかった。


医師としての自分の答えから、逃げ出したかった。


「どいつもこいつも……寄ってたかって、あいつを虎に仕上げたんだ。

人喰い虎にしちまったんだ!!」


嫌がらせで行ったのなら、それが「礼にならない」ことを理解できていたのなら、癒すことができた。

自分の恩人がしたように、惜しみない献身と愛情が、時間はかかってもその心を癒しただろう。


けれど、彼女はもう手遅れだ。

致命傷だの末期だのというレベルではない。


あの子の治療優先度(トリアージ)は、黒。

手遅れであり、他の助けられる患者のために見捨てるべき、終わりきってしまったもの。


彼女は、彼女達は、あの子供はとっくの昔に終わっている。

壊されて、終わっているのだ。


体の傷なら、ローが得た悪魔の実の能力でどうにでもできた。

あの忌まわしい所有物の証を綺麗に消すことも、悍ましく穢らわしい行為の数々で傷つき、壊された体だって、自分が持つ医療知識も技術も全て総動員して癒してやるつもりだった。


けれど、それらも意味がないと思い知る。

いくら体を治しても、あの子の「心」はもうそれらの行為によって、壊れ果てている。


今、彼女がここにいるのは、一命を取り留めたのではない。

骨も血管も神経も粉々に砕けて千切れたのに、それがてんでバラバラな形に繋がって、内臓だっていくつも失って欠けているのに、どうにか命だけはまだ残っているような状態だ。


そんな状態の治療なんて、それは再び彼女の傷を開く行為に他ならない。

その痛みに耐えたから生き延びたのではなく、耐えられなかったのに死ねなかったからの今なら、それは治療ではなく拷問にすぎない。


『……ねえ、泣かないでお兄さん』


彼女にだって真っ当な部分、綺麗な部分なら残っている。

けれどそれさえも、誰かを傷つけるものにしかならないほどに、壊れている。


だから、手遅れなのだ。

末期ですらない。

彼女自身がもはや、誰かを、世界を傷つけ、腐らせ、犯す癌細胞そのもの。


彼女は患者ではない。

患者にしては、いけない。


「だ、大丈夫だよ!キャプテン!!」


ローの慟哭にベポは、泣き声にしか聞こえない声で言った。


「き、きっと意味がわかってないだけだよ!だってまだ、あんなに小さい子供なんだし!!」


それはベポの願望に過ぎない言葉。

そして、それが事実だとしても、ローを救えない言葉。


真正面から見てしまったローからしたら、それは意味がわからないままあそこまで壊されたという事実になってしまう。

意味がわからないまま、医者であるローでも一目では……、「彼女」は本当に「彼女」なのかもわからない体にされたという絶望に他ならない。


「だから……だから!ちゃんといろんなことを教えてあげたら!嫌なものを全部忘れるくらいに楽しいものを教えてあげたら!!

俺らが––」

「あいつを養うか?

無理だ。あいつは殺しをやめられない」


ベポの希望を、懇願を、覚悟を、ローは切り捨てた。

壊死した体の一部のように。

悪性腫瘍と成り果てた臓器のように。


「……あいつはもう、治せない。

治す為に開く傷の痛みに耐えられない。……傷ついた時点で耐えられなかったのに、生かされてしまった、生き延びてしまった……壊されて、壊れ果てたのに、壊れることで痛みを忘れることができてしまったんだ」


背後のまだ何か言いたげな、足掻こうとしているベポの言葉を遮るように、ローは潜水艦の低い天井を仰ぎ見て、告げる。


「……誰かが、ほんの少し優しければあいつらは––

学校に通い、友達を作って、幸せに暮らしただろう」


あり得た未来。

世界を敵に回しても、与えたかったもの。

だけど、あまりにもローは遅過ぎた。

手遅れだった。


「でも、そうはならなかった。

ならなかったんだ」


深い海の底で、水圧から守る厚い天井を見上げてローは、医者は、兄は、救われた者は、告げる。


『––––ごめん。コラさん……』


余命宣告のような、最終結論。


「だから––––この話はここでお終いなんだ」





太陽はここには届かなかった。




※   ※   ※




彼女が望んだ、海賊でもない個人の犯罪者などが御用達の「逃がし屋」がいる島まで、ハートの海賊団は何度も何度も彼女と対話を試みた。


その結果は、どこまでもローの結論を裏付け、それしかないことを思い知らされるだけだった。

どれほど彼女に倫理を説いても、彼らが海賊であることなど無関係に、通じない。


そんなこと、わかっていたのに。

ターゲットより先に、高跳びの手段がなくなることをわかっていても依頼主を皆殺しにした理由を問えば、彼女は無邪気に、壊れきった笑顔で、おかしくてたまらないと大笑いしながら言ったのだから。


『そうしたいからよ。

他にはなあんにもないの、そうしたいからそうするの』


倫理や道徳を説いても無駄なことくらいわかっていた。

正義を謳う海軍こそが、彼女をここまで壊した諸悪を「神」と奉って、護るのだから。


それでも……、世界も神も敵に回してもでも、救いたかったから、何度も何度も話した。

彼女が次第に苛立ち、引き金に指がかかり、ローに止められるまでずっと、彼らも足掻きに足掻き抜いた。


その結果が、今ここ。

少女を船から降ろし、そして––ローがいつでも鬼哭が抜けるように、指をかけている。


歳と非能力者であることを考慮すれば、彼女の戦闘力の高さは怪物級。その由来が、最悪すぎる暇つぶしの曲芸に過ぎないとは思えぬ程なのは確か。


それでも、なんでもありな悪魔の実の中で特に多彩で反則級であるオペオペの前では、彼女はそれこそ見た目通りの普通の少女と変わらない。

「room」を展開し、武器をシャンブルズしてローが彼女の間合いに入ってしまえば、それでお終い。

あとは彼女を、この「黒」を、世界から摘出してしまえばいい。

しなくては、ならない。


彼女が海賊だけを狙う賞金稼ぎとなるのならいいが、あの宗教観と死生観なら「そろそろ命を補充しなくちゃ」と思いついた瞬間、周囲の命を奪い尽くすのはわかっていたから。

もう彼女はとうの昔に、守るべき被害者ではなく、排除すべき加害者に堕ちきっているのだから。


だから、……浅はかは自己満足で匿って、ここまで連れてきてしまった責任をローはとるべきなのだ。


それしかもう、ローにしてやれることなんてなかった。

なのに––


「お兄さん!」


黒い縁の大きな帽子が飛んで行かないように押さえて、少女は振り返って笑顔で言う。


「またいつか会いましょうね。

今度は二人で、ランチを持って」


船員たちの言葉には、綺麗な笑顔を浮かべて、引き金に指をかけた。

けれど、ローにはどこか困ったような笑顔を向けていた。


ローがあの「お礼」から逃げ出した後、何が悪かったのかを全くわかっていなかったが、ローを喜ばせるどころか傷つけたことはわかっていたのだろう。

それを残念がるような顔をしていた。


ローには決して、引き金に指を掛けなかった。

武器である銃を背負ったまま、両手は帽子とトランクで塞がって、あまりに無防備な体勢で、ローが能力を使わなくとも、ローでなくとも殺せる状況で、彼女は朗らかに……光のような笑顔で「約束」を口にする。


未来を彼女は確かに、夢見ていた。


「……ああ」


鬼哭にかかっていた指から、力が抜ける。

ローは恩人の最期のように、恩人と同じ下手くそな笑みを浮かべた。


恩人とは全く違う、悔しげで泣き出しそうな笑顔で彼は、伝える。


「そいつは素敵だな。本当に素––––」






バンっ



※   ※   ※



乾いた銃声。

一斉に飛び交う海鳥たち。

少女の呆然とした顔から吹き出す血潮。




「…………あ……

……きれいだわ、そら。––––どうし……」




何も理解しきれないまま、体重を感じさせない軽やかさで、少女は倒れた。

彼女が倒れたことで、はっきりと見える。


未だ硝煙が噴き上がっている銃を構えたままの、顎にXの傷がある大男を、ローがようやく認識できた。


「ドレエエエェェェェクッッ!!!!」


双子のハントの際に少しだけ話をした、元海軍という異端の経歴をもつ海賊。

話の端々に、「これは確かに元海軍だ」と思える生真面目さが見てとれた男だった。


そんな男が何故、ここにいるのかなんてどうでもいい。

ローは能力を使うことすら忘れ、船から飛び降り、船員達の制止の声も聞こえぬまま、ドレークに駆け寄り、胸ぐらを掴み上げて怒声を上げた。


「そんなに……そんなに金が欲しいか!?

そんなに!こいつの血に染まった金が欲しかったのか!?」

「……それはこちらのセリフだ、トラファルガー。

いくら積まれた?それとも、同情か?

……同情だと言うなら、この子が誰の所有物なのかを知っているのなら、なおさら今!ここで!殺してやるべきだろうが!!」


ローの言葉にドレークは一度鼻で笑ってから、嘲るように聞き返す。

だが、その嘲りの皮はすぐに剥がれ落ち、その下の怒りを……ローと同じものを曝け出し、ローの手を振り払って怒鳴り返す。


「この子供はとうの昔に、『被害者』であることすら壊された!壊される生しか知らない子が、何も壊さずに生きて行ける訳ないだろう!!

そして何より……、この子が海軍に見つかれば、『飼い主』の元に連れ戻される!!

そのことをお前は、考え付かなかったのか!?」


ドレークの言葉に何も返せない。

そしてドレークも、それ以上は何も言わなかった。


わかっている。二人とも、ちゃんと全部わかっている。

ローは彼女を野放しにする危険性も、そして彼女が再び地獄に連れ戻される絶望の未来もわかっていた。

だから、殺そうとしていた。

殺してあげるべきだった。

未来を夢見れる内に、来世という希望に託すべきだった。


わかっていたのにできなかったのは、ローが弱かったから。

悪あがきですらない現実逃避で、彼女と同じ未来を夢見てしまったから。


そんな、ローが逃げ出した汚れ仕事を、ドレークが代わりに請け負ってくれただけの話だ。


彼だって、きっと同じ夢を見ていたのは、同じ夢を見たかったのは、自分で額に穴を開けた少女を、あまりにも悲しげに、痛々しげに見下す眼でわかる。

ドレークはもうローに目をくれず、彼の横を通り過ぎ、来ていたコートを脱ぎながら呟いた。


「––今際の際が、『お空がきれい」か。

しまらないな」


脱いだコートをその小さな小さな遺骸に被せようとした手を、ローが止める。


「…………いらねェよ」


再び怒りが灯った目をドレークはローに向けるが、その怒りは先ほどの自分と同じく少女しか見ていない横顔で消火される。

ただただ少女を悼む眼で、ローは彼女の傍に膝をつく。


「いいんだ。このままで」


悼むからこそ、隠したくなかった。

ローは少女の乱れた髪を指で払い、血で汚れた顔を拭ってやりながら言った。


「この子は、空を仰いで––海を眺めて……眠るんだ」




ようやく彼女の元に、太陽の光が降り注いだのだから。


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