きっとそれは、悪意ですらなく 後編②

きっとそれは、悪意ですらなく 後編②





その人物は、ルフィとウタにとっては恩人とも呼べる人物であった。

海兵としての振る舞いをまだ知らぬ頃。彼の船に乗り、多くのことを学んだ。拳では解決できないこともあるし、そしてそれならばそれで戦い方があるのだということを教えてくれた人だ。

尊敬している。信じてもいる。

だが、だからこそ。

今ここで、この状況で。最も相対したくない人物のうちの一人だった。


「どうして」


呟いたのはオリンだ。そんな彼女に対し、息を一つ吐いてモモンガは応じる。


「昨日の夜。簡単に当日の動きを確認しただろう。73番GRに船を停めるつもりだとその時に言っていたことを忘れたか?」


刀の鞘で地面を軽く叩くモモンガ。そうだ、とルフィも思った。確かに昨日の夜に確認したのだ。


“明日は遅刻だけはするなよ”

“わかってるっておっちゃん”

“はい。大丈夫です”

“信用できんな……前科があり過ぎる”

“あはは……一応、私が連絡役をしますので。73番GRですし、60番GRも近いですから”


それは当たり前の確認であったのだ。だがそれが、こんなところで。


「“天竜人”に危害を加えることは重罪だ。知っているな?」


小さな金属音を立てながら、モモンガが刀の柄に手を添えた。直後、動いたのはオリンだ。


「行ってください!!」

「オリン!?」


彼女の名を呼んだのはウタだ。悲鳴のような声を上げてオリンの名を呼ぶその声を背に、その女性海兵は突き進む。

銃口を向ける先にいるのは、自分と同じ海兵。しかし遥かに高い地位にいる相手。叶うはずのない存在だ。

しかし彼女に躊躇いはない。


「……本当に、いい部下を持ったな。いや」


呟き。長銃を構えて迫るオリンにも届かぬほどの声量。

そんなモモンガに対し、オリンが引き金を引こうとして。


「友人と、いうべきか」


しかし、その引き金が引かれることはなかった。

一瞬だ。十歩以上はあった距離を一瞬で詰め、刀の柄をオリンの腹部へとモモンガは叩き込んだのだ。

崩れ落ちるようにして倒れ込むオリン。思わずといった様子でルフィが叫ぶ。


「オリン!」

「ただの当て身だ」


こちらを見据えながら言うモモンガ。そのまま彼は、鋭い視線を二人に向ける。


「理由については察している。姿を見れば一目瞭然だ。……言いたくはないが。『そういう場面』を見たことは何度もある」

「……おっちゃん。おれは」

「だからこそ見逃せない」


腰だめに刀を構えるモモンガ。そのまま彼は言葉を続ける。


「それを“正義”だと飲み込んで。それでもか弱き人々を守るのだと。そう誓ったから私はここに立っているんだ」


血を吐くような言葉だった。

だが、だからこそわかる。モモンガも退けないのだということが。


「悪いようにはしない。私がさせない。だから頼む」


まるで絞り出すかのような言葉だった。

それもまた彼の本心だということはわかった。だが同時に、だからこそルフィはそれに頷くことはできない。


「駄目だおっちゃん」


足元にある正義のコートをルフィは拾う。

見慣れたはずの“正義”の文字が、今はとてつもなく重く感じた。



「──それじゃあ、ウタが笑えねぇ」



息を呑む気配が伝わってきた。それは隣に座り込んでいる幼馴染からであり。

目の前の、師とも呼べる人からでもあって。


「それが……お前の“正義”か。モンキー・D・ルフィ大佐」

「そうだな」


船を降り、ルフィは言う。


「気付いてなかっただけだ。おれの“正義”は、ずっと昔からここにあった」


そして彼は正義のコートをその身に纏う。

それは、彼の誓い。

それは、彼の覚悟。

彼が掲げる、“正義”の形。



「“大切な人が、笑える正義”」



今この瞬間に。

ようやく、モンキー・D・ルフィは背負う“正義”の形を見つけたのだ。


「退いてくれ。おっちゃんとは戦いたくねぇ」

「我儘を言うな。……嫌なことなど、この先いくらでもあるんだ」


この先、という言葉でルフィは察した。彼は一度顔を俯けると、そのまま右の拳を地面へと突き立てるようにして振り下ろす。

それは彼の戦闘における構え。その構えを見てモモンガも頷く。


「私をここで退けられないようでは、結局逃げることなど不可能だ。……できれば、こんな形で聞きたくなどなかった。もっと、そうだな。それこそ──……」


しかし、その先の言葉をモモンガは紡がなかった。

そして、その二人が向かい合う。


「ギア、2」

「“一刀居合”」


かつては二人がかりでも手も足も出なかった。

強く、厳格で、誇り高い。

モモンガという海兵は、ルフィとウタにとってはいつかは超えたいと願った存在で。

何よりも。

──“海兵”という生き方を、その背中で教えてくれた人だ。



言葉はなく。

二人の海兵が、全力で地面を蹴る。



共にその背に宿るは“正義”の文字。

一度は交わり、そして別の場所で戦うことになっても。

それでも、互いに信じていたもの。


“私とて今よりも強くなる。そう容易くはいかん”


思い出すのは、あの日のモモンガの言葉。

いつか超えてみせるとそう言ったあの日から、随分と時間が経ったような気がする。

拳と刀。その二つのぶつかり合い。

それを見守るのはたった一人だ。涙で視界を滲ませながらも、それでも彼女は決して目を逸らさなかった。



「うわあああああああああ!!」



若き海兵の叫びには、あまりにも多くの感情が込められていて。

その先達は何も言わず──しかし、終ぞ。


──その刀が、抜かれることがなかった。


鈍い音と共に、左の頬を殴られたモモンガが吹き飛ばされる。

姿が見えなくなった。拳を振り抜いたルフィは、噛み締めるように呟く。


「……痛ぇ」


ズキズキと、右の拳に走る痛み。

嫌なこと。

苦しいこと。

辛いこと。

その全ての始まりがこの痛みであったのだと。

後に彼は、大いに痛感することになる。


「オリン。大丈夫か」


数秒の間そうしていたルフィだが、すぐに思考を強引に切り替えた。今ここで立ち止まっている暇はないのだ。

倒れていた部下の体を揺する。薄くその瞳が開いた。


「ッ、ごほ……行って、ください」


身を起こし、咳き込みながら言うオリン。


「自分のことは自分で何とかします! だから行ってください!」


彼女の言葉にもまた、強い覚悟が宿っていた。

それを無碍にすることはできない。故にルフィは立ち上がり、船に飛び乗る。

帆を張り、風を受けてゆっくりと船が動き出す。

その最中で、ルフィもウタもこちらを見つめる部下へと視線を向けた。


「誇りです!!」


涙の混じった声。

いつだって、“英雄”たちの船出は万雷の拍手と歓声と共にあった。

多くの幸せと共に“新時代の英雄”は歩んできたのだ。


「お二人の部下であれたことは!! 私の生涯の誇りです!!」


だが今、二人を送り出すのはたった一人だ。

そこには笑顔も歓喜も──幸福もない。


「ありがとう」


どちらが呟いた言葉であったのか。

その言葉を残し、二人の“英雄”は海へと漕ぎ出した。


かつて、モンキー・D・ルフィは自由な冒険というものに憧れた。海賊という存在に憧れていた。

しかし、海賊に対する憧れは捨て去ることになった。そこに未練はない。だが“冒険”というものに対して未練がないのかというと嘘になる。未知なるものへの好奇心はいつだって彼の中にあったのだから。

だが、この時は違った。

未来が何もわからない。行く先もわからない。それはかつて憧れたものであったはずなのに。

その“未知”にはただ、底知れぬ“闇”が待っていた。



◇◇◇



「……逃げられたようだねェ〜」


現場に着いた黄猿が部隊を率いて向かった79番GR──そこにいた二人に対する第一声はそれであった。

今日行われるイベントの責任者でもあったモモンガと。

この事件を引き起こした大罪人の部下であるオリン。

この場所にその二人しかいないということが、その結果を示している。


「申し訳ありません」


頭を下げるのはモモンガだ。黄猿は肩を竦める。


「聞けばCP0も倒されたっていうんだから……いやァ、あの子供が強くなったもんだねェ」


その口調と態度からは真意が読み取れない。黄猿はサングラスの位置を直すと、後ろに控えている部下たちへと声をかける。


「軍艦の用意を。さっさと追うよォ〜」

「は、はい!」


その言葉に慌てて動き出す海兵たち。その光景を一瞥すると、彼もまた移動を開始する。


「……79番GR、ねェ〜」


呟く声はモモンガとオリンにのみ届いた。こちらに背を向けた海軍本部最高戦力は、そのままこの場を立ち去っていく。

残されたのは二人だ。思わず息を吐くオリンに、モモンガが言う。


「凶悪犯を取り逃した」


思わずモモンガの顔を見るオリン。彼は自身の刀を見つめながら言葉を紡ぐ。


「……それが我々に対する評価だ」

「しかしモモンガ中将。私は」

「大佐を……ルフィを私は斬れなかった」


遮る言葉を紡いだその表情は、苦悩に満ちていた。


「そして貴様もまた、あの二人を足止めできなかった」


それが全てだと、モモンガは語る。


「海兵は私情を挟むべきではない。だからこれが最後だ」


まるで自分自身に言い聞かせるような言葉だった。その言葉に頷き、オリンは空を見上げる。

既に日が落ち始めている。忙しくなる一日だと思っていた。駆けずり回ってくたくたになって、明日も頑張ろうとそう言って。

そんな、風に。


“あのね、オリン。サプライズがしたいの”

“サプライズ?”


ふと、数日前のことを思い出す。

今日はあくまで前日挨拶だった。短い時間だけの本当に顔見せで、明日のイベントの告知が目的であったのだ。


“うん。挨拶だけっていうのは折角来てくれてる人に申し訳ないなって”

“……歌う気ですか?”

“うん”

“当日の責任者はモモンガ中将ですよ?”

“わかってる”


しかし、折角来てくれたのだから礼をしたいとウタは言ったのだ。


“お願い”


両手を合わせてそう言われてしまっては、どうしようもなかった。

だから部隊全員を巻き込んだ。怒られるなら全員でと。秘密裏に準備して、そして今日そのサプライズを行うはずで。

そうなる……はずだったのに。


「……二人は、どうなるのでしょうか」

「そこらの海賊とは訳が違う。……あまりいいイメージはできんな」


世界のルール。子供でも知っていること。

──この世界の支配者たる“天竜人”に、逆らってはならない。


「信じたくはある。だが……」


モモンガはそれ以上の言葉を紡げなかった。オリンは空を見上げたままに思う。


この世界の“神”によって、あの二人は積み上げてきた全てを奪われた。

ならば、誰でもいい。何でもいい。

悪魔でも、魔王でも、どんな存在であってもいい。


(どうか)


あの人たちを。

あの優しい人たちを。


──助けてください。



◇◇◇



こちら抱き締めながら肩を掴む強い力を感じながら、ルフィはその作業を行っていた。


「もうちょっとだ」

「…………ッ!」


布を噛むウタが苦痛に表情を歪ませながらも小さく頷く。その太ももに打ち込まれた海楼石の弾丸。それをルフィが救急用の道具で取り出そうとしているのだ。

麻酔などという気の利いたものはない。本当に最低限のものしかない以上、傷口にピンセットを突っ込む形になる。傷口を抉るような行為だ。痛くないはずがないのだ。

真剣な表情でその作業を行うルフィ。久遠のように長く感じられた作業の後、ようやくその弾丸を取り出すことができた。


「頑張ったな」

「……うん」


小さく頷くウタ。その彼女の足へルフィが包帯を巻いていく。

医療行為は得意ではないが、最低限の手当ての仕方は彼も身につけている。彼自身のためというよりは目の前の彼女のためのものだ。

無駄じゃなかったと思いつつ簡単な手当を終えるルフィ。彼は努めて明るい調子で言葉を紡いだ。


「なあウタ。おれ航海術なんて持ってねぇからよ。頼んでもいいか?」


いつも通りの口調であった。その彼を見て、再びウタの瞳から涙が溢れる。


「ごめん」


何度目かもわからない、謝罪の言葉。

今日一日で何度も聞いただろうかと、そんなことを思った。


「ウタ。右手を出してくれ」


俯く彼女に対し、ルフィは自分の手を差し出しながら言う。

おずおずと、ウタが右手を差し出した。その手の小指にルフィは自分の右手の小指を絡ませる。


「約束しただろ」


あの日。誓いを立てた。約束をした。

だから良いのだと、ルフィは言う。



「──ずっと一緒に」



ウタの瞳から、大粒の涙が流れ出す。

それは二人だけの約束だった。

あの夜に誓った、二人だけの。


「だからもう気にすんな」


いつも通りの笑顔を浮かべるルフィ。その胸へと飛び込むようにウタは縋り付く。


「……ッ、う、あ、あああ……!」


何かが決壊したかのように声を上げて泣き始めるウタ。その彼女を優しくルフィは抱き締める。

安心させるように。

ありとあらゆる全てから彼女を守ると、そう伝えるかのように。


「…………」


だが、抱き締める手とは違ってその表情は険しい。

夜の闇の向こう。姿も見えぬそれを睨みつけるように。

世界そのものを見据えるかのように、彼はその視線を外へと向ける。


覚悟は、ずっと前からあったのだ。

世界を敵に回すことになろうとも。

この手の中の、大切な人を守るのだと。

──世に“英雄”と呼ばれる青年は、ずっとそれだけを決めていたのだ。



二人の“英雄”が堕ちた日。

その絶望のニュースは瞬く間に海を渡り、世界へと伝播する。

世界は荒れるだろう。

人々は嘆くだろう。

いつか、いつかきっと。

この苦しい時代は終わるのだと信じた人々の“希望”は、悪意ですらない“何か”によって奪われた。

──その“何か”とは、何なのか。

人は自分自身に問いかけることになる。

この世界そのものに、疑問を抱くこととなる。


ただ、わかるのは。

かつて“新時代の英雄”と呼ばれた二人は。

積み上げてきた全てを、たった一日で失うことになった。


後の世において歴史を変えた事件と謳われるその一日は。

悪意ですらない、一つの意思によって起こったのだ。


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