プロローグ

プロローグ



……あたし、何してるんだろ……


シャワーでベタつく汗を流しながら、鏡に映る自分の姿を見つめる。

……うん、何も変わらない。

いつもと変わらないの筈だ。

だが暫く前から自分の心と身体が大きく変わった事は、自身が良く知っていた。

選ばれたんだ。

ううん、選んだんだ。

あの人と居れば、ずっと輝いていられる。

強くなれる。

あの人は優しくしてくれて、必要としてくれる。

たくさん、愛してくれる。

たくさん……気持ちよくなれる。

だから受け入れた。

決して取り込まれた訳でも流された訳ではない。

決めたんだ。

もう、後ろは振り返らないって。


……じゃあなんであたし、こんなに悲しいんだろう……


“あんな落ちこぼれに操を立てて、何になる!?”

“お前は、俺を選んだんだ。あの負け犬ではなく!!”


その言葉を思い出すと、ふと、涙が溢れてくる。

なんでだろ?

もう大丈夫なはずなのに?

もう、嫌じゃない筈なのに……


上手く受け止める事が出来ないなんて

おかしいなぁ……



ウワガキ

幼馴染の少女をNTRれた少年のその後のお話



空き缶が満載したゴミ箱が宙を巻い、

その中身が甲高い音と共に散らばる。

くそっ、くそ、くそっ、クソクソクソォ……

なんでこんな事に……どうして、こんな……

“発作”の苦しみを紛らわせる様に、橘修也(たちばなシュウヤ)はあらん限りの力を込めて、自販機の横のゴミ箱を蹴り飛ばしていた。

そしてそのまま力なく壁によりかかり、そのままへたり込む。

時間は昼過ぎを少し過ぎた頃、普段ならもう授業に行かねば、席につかなければならない時間帯だ。

だが、修也の心に受けた深刻な傷には、こうして校舎の裏でひとり蹲って必死で抵抗しなければ、どうする事もできないのだ。

こうして何かにぶつけないと、どうしていいかわからない。


それは少し前の事。

最近連絡が途切れがちだった女子バスケット部の榊晄(さかきアキラ)が、コーチの栗岡と校舎の隅にある体育倉庫に入るところを、偶然見かけてしまったのが、全ての始まりだった。

あの日、人気の無い場所へ入るショートカットの制服姿の彼女が、嫌でも目に入った。

見つけたのはほんの偶然。しかし修也は心のどこかで、最近長い休み時間になるとふと消えてしまう彼女を、無意識に探してしまっていたのかもしれない。

その時間は昼休みに入ってすぐ。

大抵の学生ならば昼食の時間だ。

三度の飯が何より好きな筈の彼女が、見たこと無い顔で頬を染めて、あの男を見つめながら、背後の扉が閉まっていく。


……遠くの景色なのに、倉庫の鍵か掛かる音がはっきりと聞こえた気がした。


……なんで?

その光景は一瞬にして修也に凄まじい吐き気と、血の気が凍る様な感覚を突然に叩き込んだ。

世界が揺れ、当たり前が崩壊した。

あまりに唐突すぎて、自分が何を見ているのか、頭が理解を拒んだ。

なぜ、どうしてあいつらが?……いつから?

不安と絶望の影がちらつく中、修也が祈る様に待ち構えていた隣のクラスに、晄が休み終わりギリギリに息を切らして入ってきた時、何故か晄が着替えた姿だったのを見た瞬間、修也は理解した。

……その意味を理解してしまった。

もしかすると、相手が他の生徒だったら、そこまで気にすることはなかったのかもしれない。


だが、晄は修也の幼馴染で、それこそ小さい頃からずっと一緒に生きてきた、かけがえの無い少女だった。

ずっと一緒で、ずっと好きだった。

多分、一生隣に居るのだと、そんな漠然とした想いを持っていた少女だった。


その事実に、自分の心がハンマーでめったうちにされた様な衝撃を感じて…その日の後の事は、まるで覚えていない。

学校にも行ける。

普段通りにも、……なんとか振る舞える。

ただ時折こうして発作の様に心が締め付けられ、どうにもできなくなる時がある。

そういう時は1人こうして教室を出て、この苦しみが収まるのを待つしかない。

今のところ友人達に自身の異変について聞かれることはないが、そろそろ、誰かが異変に気づくかもしれない。

その時、みんなにどう説明すればいいのか、

修也には、わからなかった。


(アキラ……なんであんな奴を…選んだんだ……)

修也は頭を抱えながら、幼馴染の少女へ想いを馳せる。

アキラはガサツで、バスケ馬鹿みたいな奴で、おだてに弱くて、それでも……大好きだった。

そう、ずっと好きだったんだ。

でも、ちゃんと言えなくて、この関係が壊れるのが怖くて、自分に勇気が出せたらと、ずっと思ってた。


”しゅーや、私、バスケの才能あるって!!もっと上手になれるって!!“

”私、頑張るから!!“

“しゅーやも、高校でも一緒に頑張ろうね!!”


ショートヘアの少女の明るい笑顔の幻影が、脳裏にちらつく。

彼女は確かに可愛くて、エネルギッシュで、輝くほどのバスケの才能があった。

小学生の頃、同じタイミングでバスケを始めた修也は、いつしか彼女の練習を手伝ったり、練習メニューを組んであげたり、そうやってずっと、2人でやってきた。

彼女が上達したり試合で活躍すると、自分のこと以上に楽しくて……凄く嬉しかった。

半年前の……あの時までは。


バラバラに裁断されたノート、

見下ろす冷たい視線、

去っていく見放された者達、


修也の敗北の、屈辱の記憶。

だが、正直あの時より、今の方が辛かった。

……奪われた。

よりによって“奴”に……大切な人を。

心の中でその事実がじわじわと根を張って行く。

だがしかし、それはもしかすると自分の至らなさのせいでもあって……

後悔と疑問が渦を巻き、答えの出ない苦しみに苛まれる。

最近のあいつの違和感を、もっと深刻に考えればよかったのか?

いつもだったらすぐに帰ってくる連絡が途切れがちになったり、練習から帰ってくるのが変に遅くなったり、心配すれば“コーチが居るから大丈夫”の一点張り。

もしかしたらあいつに、何か変な事が起きているんじゃないかと、不安になりかけてた時に、よりによって“あの栗岡”となんて………どうして……

「ちく……しょう……」

修也の心の軋みが、呟きになって漏れ出す。


「……荒れてるからって、ゴミ箱蹴飛ばすのはどうなの?」


蹲る修也の耳に、鈴の音の様な声が響いた。

静かで、澄んだ、少女の声。

唐突にかけられる女子からの声に、修也は力なく顔をあげた。

その視線の先には、茶色いローファー、膝丈のスカート、学校指定のブレザーに乗っかっている頭は、セミロングの黒髪の、どこか儚げな美少女。

否、“凄い”美少女だ。

彼女をどこかで見たことはある。だが思い出せない。

少女の表情は乏しく、フレームレスの丸メガネを通した切れ長の目からは、ゴミ箱を蹴飛ばす修也の蛮行への怒りか、悲しみか、それとも何の感情も浮かばないのか……伺い知ることはできない。

こんな美少女に声をかけられるなど、いつもの自分ならちょっとくらいはドキドキするかもしれないが、あいにく今は、そんな気分には到底なれそうになかった。

「うるせぇ……余計なお世話だ」

「橘くん、悪ぶってるつもりかもしれないけど……」

似合って無いから。それ。

そういうと、少女はしゃがみ込み、ひとり修也が蹴散らした空き缶を黙々とゴミ袋に入れ直し始める。

同じ学校の制服だが、こんな美少女なら名前くらい知っていてもいい気がするが、どこかで……

「なんで、俺の名前……」

「……知ってるからよ」

背中を向けたまま、振り返る少女。微かに篭ってる批判的な目線から、皮肉が籠っているの間違いない。

「あ、……お前、柳か?」

柳花梨(やなぎカリン)。学校の美少女ランキングというものがあれば、多分上から数えてすぐ名前が出る程の美少女。多分、アキラよりも可愛いと評判の……

だが、告白、勧誘、お誘い、そういった類には全てNOを突きつけ、コミュニケーションをとる気すらなさそうな、普通の女子と称するには、いささか変わり者の少女だった。

誰も学校で友人らしき人間も見たことがない、

みんなが知ってる、誰も知らない女の子……

柳花梨は正直、この学校でも少々浮いてる存在だった。


「橘くん…意外とそういうところあるよね」


榊さん以外の女子の名前、ちゃんと覚えた方が良いよ?

唐突に出たアキラの名前に、再び修也の心が締め付けられる……

「……余計な、お世話だ……」

今の修也には、そう答えるのが精一杯だった。

校舎の壁にもたれたままへたり込んでいる少年をそのままに、空き缶を片付け終えた少女は立ち上がり、ぱんぱんと手を払うと、すこし細い切れ長の眼が修也を見下ろす。

シミや荒れ一つない、完璧に整った顔の、本物の美少女。

…くそっ、なんの用だよ……“パパ活女”が……

そんな柳ではあるが、男子の友人からよく聞く噂の一つは、柳が他の人間と関わりを持たないのは柳が、「パパ活女子」だから。というものだ。

曰く、柳は夜な夜な街に繰り出し、その美貌で男を誘って荒稼ぎしている。それを知られたくないから、学校では大人しくしている、だそうだ。

その証拠に、そういう日の柳の下着は“凄い”とも……

正直、それと柳とパパ活女子にはなんの関連もなさそうだが、確かに、今修也の見える限りの柳の私物は、どれも上品で高そうなものばかり揃っている……気がする。

確かに、こんな子なら大枚を叩きたい奴もいるだろう。

……清楚な顔をして男を喰い漁る、少年漫画の淫魔みたいな美少女……

風評を加味した修也から見た柳は、大体そんな感じに見えた。


「……そんなにイライラしてるなら、ちょっと“運動”しない?」


そんな修也の値踏みじみた視線に気づいてか、柳はそう言うと、へたり込んだ修也をそのままに踵を返し歩き出す。

後ろ姿の柳は、学校指定の制服の上からでもわかるくらいにスタイルが良かった。

きゅっと引き締まった腰、そして尻から太ももにかけての綺麗さはスカート越しからでもわかる程だ。

しかしこういう体つきに、何故か馴染みがあった気がする……修也自身、特に女子と殊更多く交流しているわけでは無いはずなのに、何故か既視感を感じる。

そんな修也に柳はふと振り返って、どうする?と無表情のまま首を傾げる。くるの?こないの?と。

……おいおいマジかよ?噂は本当だったのか?

修也は少しだけ躊躇するが、アキラがコーチと背徳的な行為に溺れるなら、別に俺がパパ活女子とそういう事したって良いではないか?そう投げやりな感情で、ふらふら立ち上がると、少女の後に続いた。


俺、人生で初めて学校をサボってる。

修也はそんなことを考えながら、柳の後をついて行く。

授業を抜け出す事はあっても、学校そのものから抜け出すなんて事を、今まで考えた事はなかった。

制服姿の二人組が外を歩いていても、道ゆく人から咎める声は特に無い。なんか変な感じだ。

柳は…コイツはいつもこんな事を繰り返しているのだろうか?

校舎を抜け、駅までの通学路から少し離れた、人気のない道を、ただひたすら歩く。

目的地もわからない美少女からの突然のお誘いに、修也も期待半分、不安半分と言ったところだが、

当の柳は今のところ一言も言葉を発しない。

途中で拾った大きなバッグを肩にかけて迷う事なく進んでいく。


「あそこ」


学校を出て数十分、柳は高速道路の高架下、金網に囲まれたテニスコート程度の敷地に、ポツンと立つポールの様な物体を指差す。

近づくと、そこは修也も慣れ親しんだバスケボールコートに見えた。違うのは、ここは屋外であるという事と、コートが半分しかなく、ゴールも一つしかない、バスケットコートを半分に切り取った様な形だという事だ。

「なんじゃ……こりゃ」

「橘君も知ってるでしょ?」

そういうなり、柳はコートサイドにバックを置き、慣れた手つきでその中からシューズを取り出し、ローファーから履き替え始める。

なんとなく読めたという喜びと、まさかという驚きがないまぜになる。

柳は……まさか……

少女は羽織ったブレザーを脱ぎ捨て、メガネをケースにしまい、ひとり少年の足元を指差し、呟く。

「橘くんは…もうシューズ履いてるから大丈夫か」

そういうと少女はゴール前の中央、フリースローラインに立ち、ぽいと、バックから取り出したボールを修也に投げる。修也にも馴染み深い、トリコロールのボール。

「ファウル以外の反則は基本なし」

20セット、チャンスをあげる。

「20秒であたしを、抜いてみなよ」

そう言って、花梨は修也にボールを投げ、

手首のスマートウォッチのタイマーをセットする。

「あたしを抜けたら、…ご褒美、あげるよ?」

花梨の可愛いらしい顔が、先程までの無表情な少女とは思えない程、挑発的に歪む。

“運動”、しない?

その言葉の意味は、

柳との一対一のバスケ勝負。

所謂“1on1”という奴だ。

……なるほど、そう来たか。

というかむしろ、そっちの方が俺好みだ。

修也は闘志を剥き出しにする。

「……後で吠え面、かくなよ?」

まさかの1on1勝負とは、ちょうど鬱憤が溜まってところだ。

元バスケ部の自分に挑んだ事、後悔させてやる……

「橘くん、だからそういうの、マジで似合ってないってば……」

不敵に笑う柳が、ちょっとだけウザそうに片眉を上げた。


◇◇◇◇


そして暫くたった、10セット目

……こんな……こんな筈では……


「く、くそ……っ」

啖呵を切った筈の修也は息も絶え絶えになりながら、目の前の少女を睨みつける。

……全く抜けない。

眼前に少女に。バスケ経験者の自分が。

ブランクはあるのは理解している。だが、小学生の頃から続けていた事のプライド自体はそれなりにあった。

だが、これでは……

目の前の美少女は少々息は上がっているが、まだまだ余裕そうだ。緩めた襟元から、真っ白い胸元がちらりと覗く。

いやいや……今はそういう時じゃねーから。

修也は呼吸に喘ぎながらも、しかしどこか冷静に柳を観察する。

……間違いない。柳は現役バリバリのバスケットボールプレイヤーだ。

しかし、ウチの学校のバスケ部に所属してる訳ではないはずだ。

なぜなら、こんなに上手くて可愛らしい少女なら”奴“のお気に入りリストの最上段に入ってる筈だからだ。

そんな子を学校から…自分のテリトリーから出すはずがない。そういう確信があった。


ピッ、ピッ、ピー……


柳の手元のスマートウォッチからアラームが鳴り響く。

「はい、10セットめ、しゅーりょー」

一旦休憩しよ。

そう言って柳は全身に張った力を緩めると、コートサイドに戻り、地べたにおいたバックからボトルを取り出す。

取り出す時に足を伸ばしてお尻を突き出す仕草が妙に色っぽい。

……こいつ、わざとやってんのか?

汗が浮き出た柳の首筋。こくりこくりと喉を動かして、

水の滴る口元を手の甲で拭う。

柳は艶っぽい所作で給水を済ますと、まだ水の入ったボトルを修也に投げる。

「はい」

誘いに乗ってくれたサービス。

「……悪い」

しかし、水を受け取る修也にはやましい感情などもう何処かに飛んでいた。

今はとにかく汗だくで、体が水分を求めてる。

薄めたスポーツドリンクの冷たさが心地よい。

水分を摂り、呼吸を整え、思考する。

しかし、なんという酷い体たらくだ。

バスケ部から去っても、一応体力は維持しているつもりだった。だがこうして相手を取ってやってみると、自分の見積もりが甘かった事に気づく。

これでは、全くダメだ……何もかも。

「まだ、続ける?」

やるの?やらないの?

柳はどこか挑発的な雰囲気を維持しながら首を傾げて尋ねる。

……無論だ。

一度深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。

そうだ。今は目の前の事に集中するんだ。

……認めろ。

俺は……バスケ部を中途半端で辞めたくせに、ブランクにも気づかない、ついでに好きな女も寝取られたどうしようも無い男だ。

そんな男が、コイツを抜くにはどうすればいい?

体力もテクニックも現役のコイツに……

「じゃあ、残り10セット、やろっか」

少しだけ嬉しそうに、柳が再び手元のタイマーを起動する。

……よし、じゃあやってやろうじゃないか。

もう修也の中では目の前の少女が、美少女であろうがパパ活女子であろうが関係なかった。

こいつは敵。打ち倒すべき存在。攻略すべき相手だった。

修也の中の燃え尽きた灰に、

……ほんの少し火が灯った。



5セット、とにかく見る。調べる。

こいつの足は右利きか?、左利きか?ハンドリングはどちらが先か、揺さぶりまくる。対応を見る。

次の3セットは、自分の動きを強く印象づける。

そうだ、俺は攻め手をかけると左サイドに逃げる。

……だから柳から見て右サイドにプレッシャーを掛ければ良い。追い詰められて、おしまいだ。

ラスト2セット、ここからが勝負だ。

柳は確かに今の俺より上のプレーヤーだ。

だが……それでもここまで食らいついたのだ。


隙が……


少女は右サイドへとじりじりと少年に詰め寄る。


無いなら………


修也は小刻みにフェイントを挟みつつ、唐突にドリブルを柳の股の下に打ち込む。

下を抜かれた!?右サイドに沈み込む修也に柳は修也より早く体を切り替えして左に回り…しかし、視界の先にある筈のボールは、無い。ボールは?どこに?


……作るだけだ。


バウンドしたボールは……回転を伴って柳の背後を通り、彼女の脳天直上に戻って来る。修也はワンテンポだけ待って、そのまま柳の脳天スレスレのボールをひったくる様に確保して、柳の背中をすり抜け、加速する。

……やられた!

柳は慌てて追うが、修也のフェイントに引っかかったせいで一歩遅く、追いつかない。

そのまま修也は全力でゴールへ、その勢いのままゴール直前で一気にジャンプすると、そのままゴールを通過するコースのまま、置き去りにする様にボールを放る。取り残されたボールがそのまま真下の……ゴールリングに落ちる。

ボールがリングを通り越して瞬間、花梨の手元のタイマーが鳴る。

19セット目、

ようやく勝ち取った修也の勝利だった。


「……っしゃああああああっ!」


修也は雄叫びをあげて大の字に倒れ込む。

勝った。

嬉しい。……とてつもなく。

バスケットボールやってこんなに嬉しいのは多分、1年ぶりくらいだろうか?

勝利の充実感が、今の傷ついた修也の心を少しだけ癒した気がした。


「楽しかった?」

最後の最後でしてやられた柳は、全力を出し切り息も絶え絶えな修也のそばまで来ると、膝を抱えてしゃがみ込む。

修也の顔を覗き込むとセミロングの髪がさらりと垂れて、逆光で神秘的に輝く柳は驚くほど魅力的に映る。

息を呑む美しさとはこういう事かも知れない

……修也の息が整っていれば、だが。

「……無茶苦茶楽しかった」

「そう、よかった。」

「お前、バスケできたんだな……」

上体を起こし、修也は柳に視線を合わせる。

柳の着崩した制服が汗まみれになり、その下の色っぽい紫色の下着がうっすらと透けて見える。

“柳の下着は“凄い”らしい……”

そんな噂を思い出し、なんか見てはいけないものを見た気がして、慌てて視線を逸らす。

「ス、ステップもフェイントも、すげーし、なんでバスケ部入らないんだ?」

「……趣味の範疇だから」

あと、団体行動、苦手だし……小さく呟く。

「そっか。でも本当は俺も、バスケ部がそんなに好きじゃなかったんだよなぁ……」

団体行動とか、上下関係とか、いやバスケは好きだけどよ……と天を、高速道路の裏側の無機質なコンクリートのその先を見て続ける。

「なんかそういうの強調する時って、だいたいやりたくない事をやらせる時じゃん?」

バスケが上手くなりたい、上手くなってもっと高みを目指したり、楽しく試合が出来る様になりたい、それを叶えるのが部活動の筈だ。

コーチや先輩のああだこうだという指示に盲目的に従って、それだけで願いが叶うとは修也には到底思えなかった。

だから修也は中学の頃から練習メニューや構成を自力で考え、相談を受けた一人一人に提案していた。

パスが上手い奴、ドリブルが上手くいかない奴、シュートの精度をあげたい奴……無論、全てが受け入れられていた訳ではないが、それでも部員や顧問からは一定の評価は受けていた。

自らを高めたいという意思こそが、上達の第一歩だからだ。

そう、……1年ほど前、あの男が、来るまでは。

「橘くん、バスケはまだ、好き?」

「…………好きだ」

柳の問いに少しの沈黙の後、修也ははっきりとそう答える。

そう。バスケットボール自体は好きなのだ。

この学校で、それに関わる全てが嫌で、唯一それでも繋ぎ止めていたものを失っただけで…

「そう……」

少しだけ満足そうな柳の呟きの瞬間唇に感じる、暖かく柔らかな感触と甘い香り。


キスをされた。柳に……


一瞬の事で、その唇が離れても、修也は電池が切れた様に固まってた。


「……ご褒美」


しっとり柔らかい笑みと、頬を紅く染めた柳が一瞬視界に入る。だが彼女はすぐに立ち上がって、踵を返す。

「や、柳っ、俺……!」

飛び起きる様に慌てて立ち上がる修也。

柳には、色んな事を言いたかった。

そして、色んな事を聞きたかった。

「明日、駅前、5時半。学校終わったら、一緒に来ない?」

もし、よかったら、だけど。

修也の言葉を遮り、振り返りもせずにそれだけ言うとバッグを拾い上げてコートを後にする。

だが去り際に、少女はくるりと振り返ると、ふと小さく笑みを浮かべて、


「……あたしも、めっちゃ楽しかったよ」


そう言って、去って行った。

今の修也が惚けるほど、今日一番に美しい、柳花梨の笑顔だった。


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