うつくしききみに祝福を
かくして、最後の神は討ち倒された。カルデアとクリプターの共同戦線によって。
「……ねえ、いいの? それで」
「いいさ、それが正しいことなのだから。貴女こそ、私に付き合わせてしまって悪かったね」
「……あらあら。アナタもそうして諦めてしまうクチ? もしかして先が視える者同士、同類ってヤツなのかしら? 流石に自惚れすぎ?」
「はは。すまないが貴女の諦観に火を入れる気はない。安寧であればいくらでも語ってあげられるのだけど、貴女は求めていないだろう?」
「そうかしら、魅力的なお話に聞こえるけど。……でもいいの、アナタはあの子の所に行ってあげて」
「…………。…………すまない。ありがとう、ペペロンチーノ。この先の『世界』はきっと、貴女の助けになるでしょう」
「全くスケールが壮大なんだから! いいから行ってきなさいな。そういう話は二人きり、ちっぽけな世界でって相場が決まってるのよ!」
白い花びらが舞い踊る。それはさながら吹雪のように。「かつて」「どこか」の最期の再演のように。それに埋もれるように、横たわっている身体があった。
曼殊沙華の花言葉は果たして何だったか。求めていたのが、何だったのか。
今となっては……こうも壊れてしまっては、きっと問うことも野暮なのだろう。
個人に都合のいい解釈をするしかない。
ただ、汎人類史の私ではないことだけは明確だ。
「アルジュナ、起きていますか。私ですよ」
「……? …………、あ…………?」
過剰なほどの神性防壁が無力化された瞬間、干渉の隙が生まれた刹那に与えた祝福。それは死を先送りにしたが、運命の変更までは叶わない。
というより、それは許されない。
無論、消滅の主要因である傷の治癒も認められないので肉体の損傷はひどいものだった。
「よかった、怪我はどうですか」
「……? 痛みなど、ない」
しかし彼女はそう語る。実際、痛覚は不要として削ぎ落してしまったのだろう。
だって、痛みは悪だ。少なくとも、彼女にとっては悪だった。
「ないはず、なのに」
「……なのに?」
しかし、彼女はそう言葉を詰まらせる。
うろうろと持ち上げた指先が彷徨うので、柔らかく掬い上げた。触れた掌には、殆ど力が入っていない。
「……微かに、ここが…………わかる、か?」
神の瞳が、自らの胸部に向けられた。
痛みの原因を探るように目を細めてみても、もう千里眼を扱うだけの余力がない。何が「痛み」という悪を発生させているのか分からない。
無知は悪だ。神は困惑しているらしい。
「……触れても?」
「無論、で」
神気溢れる冷たい肉体。全てを詰め込んで、張り詰めて、切り詰めて、今にも弾けてしまいそうな。
ああ、前はこんな器ではなかったのに。もっと柔らかくて、温かくて……。
「痛むでしょう」
「う、……おかしい。おまえが、触ると……余計……いた、い?」
神は微かに眉を顰める。不快、苦痛、と悪を示す。
それはきっと、傷に触れられたから痛むのではない。
その程度で痛みを認識できるなら、こうも自壊するまで走れなかっただろうから。
「……なのに、…………ぁ、ああ……?」
数千年ぶりの心の痛みを、神は否定しない。それを悪と裁かない、裁けない。
それが猶更愛しくて、心苦しくて。
どうしてこの子を抱きしめるのが私なのだろう。やっと荷を下ろせたばかりの冷たい背をさすってやるのが、どうして私なのだろう。
きっと求められているのは、彼女の内の「わたし」だ。世界より、君の祈りを優先した「わたし」だ。
争いのない平和な世界を。
そんな誰もが持つような痛切な願いは、きっとどの世界でも果たされない。
争いなくして人類は発展せず、可能性を失うからだ。
争いなくして、世界は存続しないからだ。
理屈は分かる。道理も分かる。そして私はそれを善しとした男だ。
……けれど、こんなのはあんまりではないか?
恐らくこの世界の私は、終わるのならば終わってしまえと思ったのだろう。まさか空想樹だとかいう悍ましいモノが外より現れて、世界を延命させるなんて思わなかったに違いない。
この世界は終わらせるべきだった。終わらなければいけない、一時の箱庭だった。承知の上だった。
ある日唐突に、穏やかに眠るように消えていくべきだった。
そうして剪定されるはずだった。
……この子が壊れるまで、廻るはずではなかったのに。
「アルジュナ、私の愛しい子」
「わ、たしは、神で……名など」
「いいえ、アルジュナ。人の身でよくぞ頑張りました。神にさえ成せないことを、君はやってのけた。えらい。えらいですよ、アルジュナ」
「……え? ……ぁ、あれ? でも、あなたはもう」
ああ、全くひどいなあ。私という男は!
私は彼女より先に行き、彼は彼女と共に在ることを選んで。
そもそも神の愛は規格が違う。どちらを選んでも、人を嘆かせるばかりらしい。
「ほらごらん、この綺麗な花畑! 今まで見てこなかったんだろう? 神って忙しいからね、少し休憩しようか」
緊張した幼子のように、おずおずと私の首に腕を回すのがいじらしい。そうする程痛むと知りながら、私を求めるのは心苦しい。
無垢なる神よ。そうならねば、立っていられなかったヒトよ。
「君の心が映し出されたみたいだ。平和な国、善なる世界、ここはとてもきれいな場所だよ。君はどこまでも美しい子だ」
「……そう、ですか?」
「そうだとも。君に嘘偽りなんて言わないよ」
「そっか……」
ふふ……と唇から空気の漏れる音が、私の耳をくすぐる。引き攣れた傷口のせいか、圧迫された薄い腹のせいか、零れた微笑からなのかは分からない。案外、自嘲かも知れない。
「く……クリシュナ……?」
「はい、ここにクリシュナはいますよ。正真正銘、君の友だ」
不安げに名を呼ぶので、強く肯定する。夜闇だって恐れなかった君が、今更私を目の前にしてどうしたんだい。
今、肉体をもって君を抱擁しているのは私ですよ。君の内で燻ぶっている力も私だし、あやすように頬を撫ぜる風だって私ですとも。
「ああ、うん。やっぱり、わたし、抱きしめられる方が……みえないのは、さみしい……から」
「…………。はは、そんなことを言っては私に睨まれてしまいそうだけど……」
何はともあれ、目の前にいるのは最早神ではない。
痛みを認識し続けた彼女の絶対性は、「絶対の神が痛みに顔を歪めるわけがない」という理論ではらはらと崩れる。崩壊は加速する。
やがて神は決定的に零落し、最後には人間性を失ったヒトの器が残るのだ。
最後に残ったひとかけらを幼いと称するか、かけらを残した人間の意地とみるか。
何はともあれ、腕の中に残るのは素朴で純粋な、取り繕いようもない破片の彼女。
「クリシュナ、ひとつだけ、いいです、か?」
「ええ、どうしましたか。一つと言わずいくつでも」
そんな微かな彼女には、まだ願うことがあるのだという。それを叶えてやらなくて何が友だろう。
どうせ終わる世界だ。彼がやったように、私だって愛しい子の祈りを聞き届けてやろう。
というか、最期くらい貪欲に行ったっていいんだよ。それくらいのことはしただろう、君。
彼女は何秒か躊躇って、それから私のすべてに縋りつくようにして言葉を紡ぐ。
「こ、今度は……さいごまで! ……一緒にいてくれ、クリシュナ」
……あ。今回こそは、明確に笑顔だった。
それはひどくぎこちなくて壊れかけていたけれど。
とっても価値がある、初めて目にした星のような輝きで。
まったく、最後の最期に願うのがそれか。
言われずともそのつもりだったのに、この私の気まぐれと一言一句違わぬものをねだってしまうなんて!
「それは随分高くつくね、でもいいとも。君にはそれだけの報いが在るべきだからね」
正直、君をいつだって一人にした気はないけれど。
神の愛をヒトに分かるようにと望むなら、壮大でちっぽけな愛を君に贈るとも。