いたい、いたくない

いたい、いたくない


やめてくれ。

今、その言葉を言うのは。

それを言われてしまったら、俺は、


「お願い。」


俺は──────。


「お兄ちゃん」





二人の男が話している。

一人は、黒い髪を高い位置で二つに結わえた青年。

もう一人は、上半分が淡い色、下半分が黒髪の少年。

青年は、整った顔に走る一本の線から血のような液体を滲ませ、少年の肩を掴んだ。

「悠仁、どうして───」

「どうしても。俺と一緒に居たら、脹相まで、アイツに殺される。きっともう目を付けられた。だから一緒には居られない。大丈夫。俺は、大丈夫だから。」

悠仁と呼ばれた少年は、俯いた顔にその年嵩に似合わぬ諦観を湛えた表情で告げる。

青年─脹相は、俯いた顔を諸手で包み、自身と目を合わさせてから言う。

「……悠仁。本当に大丈夫な奴は、『大丈夫だ』なんて言わないんだ。」

「……。」

「その証拠に、お前はこんなに泣きそうな目をしている。お願いだ。お兄ちゃんにお前を護らせてくれ。」

眦を仄かに濡らし、瞳すら震えさせて、哀願する。


(自分だって泣きそうな顔してるのに)

そう思いつつ、今にも落涙しそうな兄の顔をしっかりと正面から見据え、意を決して言葉を放つ。

「俺、脹相の事嫌いじゃないよ。あれから俺と一緒に呪霊祓ってくれて、良い奴だってわかって、大事にしたいと思ってるよ。だから、だからさ、やっぱ────」

不意に空気がざわりと動く。

服の裾を掴んでいたはずの手がすいと上がり、指先が空を裂くように真一文字に払われた。

ギィン

と鼓膜を刺す金属音が鳴り響いた。次いで、

どさり、と。

目の前で自分の頬に手を当て、目線を合わせるために屈んでいた脹相が、足元に倒れ伏している。

白い和服の袖がじわじわと緋く染まっていく。

「ちょ…脹相……?だめだ……」

どうして。

視界がぼやけていく。涸れたと思っていた涙は、まだそうなってはいないようだった。

俺はまた何を間違えた?今だってやっぱり一緒には行けないって、そう伝えようとしたのに。

「残念だったな」

脹相の声だ。

「チッ」

今度は自分の頬から舌打ちが聞こえた。

脹相がゆらりと立ち上がる。

呆然と眺めることしか出来ない。

服の前身頃は胸の部分から裁ち切れ、だらりと垂れ下がっていた。

脹相の胸部から腹部は緋く染まっていたが、ただ血濡れている訳では無い様子だった。

ぱきりと金属が剥がれるような音がして、血片が落ちる。

白い手がつうと上がっていき、人差し指が顬を叩く。

「頭だったら死んでいた」

「フン、下奴めが。では望み通───」

はっと息を飲む。

呆けている場合ではなかった。全霊を込めて宿儺を抑え込む。

あの時とは違う。今は出来るはずだ。

自らの身体を掻き抱き、膝を付く。

何度か深呼吸をしていると、頬の違和感が消える。

いつの間にか近くにいた脹相が膝を付いてこちらを覗き、汗ばんだ顔を汚れていない袖で拭ってくれる。

そのまま背に腕を回して、背と頭を撫でながら、

「怖がらせて済まない。もう平気だ。自分で抑え込めてえらいぞ。やっぱりお前はお兄ちゃんの自慢の弟だ。」

と言った。

そのあまりに優しい声音に、堰を切ったように涙が溢れてきた。

優しいから。心強いから。温かいから。嬉しいから。大切だから。

「だから、だめなんだよぉ……っ!」

脹相の肩を押しながら絞り出した声に、脹相の眼が見開かれる。

「ぉまえ、は、やさし、から、ぁ、甘えっ、たくなる。いっしょ、にいて、ほしいって。でも、み、みんな、みんな、ぁ、アイツが……!だから、だからさ、だめ、なんだ。」

噦上げながら途切れ途切れに話す言葉を、脹相は遮ることなく聞いている。

「死なせ、たくない。ぃ、生きて、てほしい。だから、俺から、離れて。逃げて。お願い。」

涙でぐちゃぐちゃになった顔で上手く笑えるだろうか。それでも、せめてお前が最後に見る俺は、笑顔でいたかった。

俺を認めてくれてありがとう。許してくれてありがとう。優しくしてくれてありがとう。

「お兄ちゃん。」



言って欲しい言葉だった。一番聞きたいと思っていた言葉だった。

だが、それはこんな場面でなかった。そんな言葉の後ではなかった。

悠仁は涙に濡れた顔で優しく綺麗に笑っている。

見たいのはそんな顔じゃなかった。

涙なんかに塗れた笑顔が見たかったのでは、決してなかった。

唇が戦慄く。だめだ!弟の前で泣くなんて、俺には許されない!

ぐっと唇を噛み締め、堪える。

「わかった。」

声が震える。弟に情けない姿を見せるな!

「悠仁も、死ぬな。生きてくれ。お前が生きててくれるなら、俺は幸せだ。」

嘘だ。お前が幸せに生きれないのに俺が幸せになれる訳が無いだろう。

だが、今は心を殺せ。

お前が最後は笑顔でいたいと言うなら、俺もそれに準じよう。

「げんきでな。」

涙が一筋零れる。俺はだめなお兄ちゃんだな。

「うん。じゃあね。」

悠仁が答え、背を向ける。

去っていく後ろ姿を抱き締めることすら許されない。

ただ、共に生きている事を祈り、喜び、そうして生きていく。



俺たちは、二人でひとつだ。

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