ある夜
少女の手が私の身体に触れた次の瞬間。
自分の身体が布の中に閉じ込められたような感覚に陥った。
いや、違う。
私の手が、布そのものになっていた。
『契約ね。人間に危害を加えないこと』
『ファミリーの命令には従うこと』
淡々と告げられる言葉。それに伴って自由を奪われて行く身体。
私はそれをただ聞いているしかなかった。
何なの?どう言うことなの?何で貴女はこんな事をしたの?
疑問が次々と浮かんで来るが、あまりにも疑問に思う事が多すぎて声にならない。ただ、自分の体に取り憑いているネジとオルゴールの音がキィキィと鳴るだけだ。
『…オモチャが歌っても耳障りなだけ…契約を追加するわ。一生歌わないで』
次に彼女の口から放たれた言葉は、絶望するには充分な一言だった。
その瞬間から、私は声を発する事が出来なくなった。
どうして。
何で。
何で私の一番好きなものを。
その疑問を彼女にぶつけたかった。
でも無駄だった。代わりに鳴るのは、耳障りなギィギィ音だけだった。
ただ、絶望はこれだけでは終わらなかった。
自分の存在が、大切な人たちの頭から綺麗さっぱり忘れられてしまっていたのだ。
『この人形、何故だかおれの事を気に入って離れないんだ』
違うよ、シャンクス。私だよ。ウタだよ。あなたの娘だよ。どうして分からないの。
『おれ、女の子の友達いないんだけどなー、まあシャンクスから貰ったから大事にしとくか』
何言ってるの、ルフィ。私、ウタだよ。あなたとは一緒によく勝負していたじゃない。
大切な人たちに向けてどれだけ言葉で伝えようとしても、一言の声も出せなかった。出るのは耳障りなギィギィ音だけ。
誰も私を思い出さない。
みんな、私を置いていく。
もう嫌だ。誰か助けて。
お願いだから…
********************
「………タ!ウタ!!大丈夫!?」
「は…………っ」
肩を揺さぶられる感覚で目が覚めた。
「………ナ、ミ……ロビン……」
目を開けると、目の前には心配そうにこちらを覗き込むナミと、ロビンの顔があった。
「良かったぁ…目が覚めたのね…」
「大丈夫?物凄くうなされていたわよ」
私が目を開けたのを見て、2人とも安堵の表情を浮かべた。
「はぁ………っ、はあ…………」
震えが止まらない。息が苦しい。冷や汗がどんどん出て来る。玩具に変えられた時の困惑、一番大好きな歌を歌えない苦しみ、大切な人たちから存在自体を忘れられてしまっていると知った時の絶望…その時の事を、未だにこうして夢に見る時があるのだ。
もう大丈夫。私は人間に戻れた。
言葉は普通に話せる。大好きな歌だって歌える。感覚も普通に戻った。ルフィにも思い出してもらえた。
もう人間に戻れたんだ。だから大丈夫なんだ。なのに…
「…ウタ?」
気がつくと、私は大粒の涙を流していた。心配そうにこちらを見つめてくれるナミとロビンの顔を見ると、急に今まで堪えて来た悲しさと寂しさが溢れて止まらなくなってしまった。
「えっ、ちょ、ちょっと!ウタ、大丈夫!?」
私が突然泣き出したことで、ナミが焦り始めた。
「うぅ……ナミぃ………ロビン………ひっく…」
だめだ。泣いちゃいけない。
ただでさえ、2人とも航海で疲れているだろうに。やっと夜になってぐっすり眠れる様になったのに。私の方が、ナミよりも2歳上のお姉さんなのに。
どれだけ頑張って堪えようとしても、涙は止まってくれなかった。
「わあああああああん!!!ナミ"〜〜〜〜っっロビン"〜〜〜〜っっっ!!!!」
私は、ナミに抱きついて子供の様に泣きじゃくった。
ナミは突然泣き出した私に戸惑っている様だったが、それでも、私の事を泣き止むまで優しく抱きしめてくれたのだった。
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「さあ、飲んで。温まるわ」
「ありがと…ロビン」
ロビンが私の為にハチミツ入りのホットミルクを淹れてくれた。受け取ったマグカップに口をつける。
「おいしい…」
「そう?なら良かった」
甘くて温かい、優しい味だった。恐怖で冷え切った心を癒してくれる気がした。しゃくり上げながらも少しずつ飲んでいく。
その間、ロビンはずっと私の横に座って黙って私の背中をさすってくれていた。彼女の優しさが伝わってくる。玩具だった頃、出会い方こそ最悪だったが、一緒に過ごして行くにつれお茶目で優しい人なんだと徐々に理解を深めて行った。
あれから私が大声で泣いたせいで、男部屋で寝ていたルフィ達も全員起こしてしまったらしい。こちらの女部屋に殺到して来たのを、今ナミが対応してくれている。
「…いーから今は一旦戻りなさい!私とロビンが付いてるから!アンタ達が周りで騒いでたら落ち着くものも落ち着かないでしょうが!!」
ナミがルフィか誰かに対して喋っている声が聞こえてくる。たぶん、私の事を心配してこちらに来てくれようとしてるのを、落ち着かせる為に男部屋に帰らせようとしているんだ。
すごく、申し訳ない。心配して来てくれたのに、会うことが出来ないルフィ達に対しても。疲れているだろうに、泣き出した私の面倒を見て、その上殺到して来た仲間たちの対応をしなきゃいけなくなっているナミに対しても。
「はー、やっと戻ったわアイツら…まったく、心配なのは分かるけど…少しくらいウタの気持ちも考えなさいよね…」
「あら、おかえりナミ」
ナミがぶつぶつと言いながら戻って来た。ロビンがそれに応対する。
「どう、ウタ?少しは落ち着いた?」
「……うん………」
ナミが私に優しく声をかけてくれる。私の事を本気で気にかけてくれている事が伝わってくる。とても嬉しかったが、同時に私の心に罪悪感が湧いて来た。
「…ごめんね、2人とも。疲れてるのにこんな迷惑かけちゃって…」
「何言ってるのよ!そんな事気にする必要ないわよ」
「ええ。貴女の方こそ、悪い夢を見たのでしょう?疲れたのはお互い様よ」
2人とも、本当に『なんて事ない』とでも言わんばかりに即答する。すごく嬉しいしありがたい言葉だけど、優しくされればされるほど、私の中で罪悪感はどんどん膨らんで行く。
「……ねえ、2人とも…」
「?どうしたの、ウタ?」
私が『こうなって』から、ずっと頭の中で考えていた事を打ち明けた。
「わたし…サニー号から、降りようかな…」
「「えっ!?」」
2人が声を上げた。
「ちょ、ちょっと、急に何言ってるのウタ!?」
「だって…私、人間に戻れてからずっと、今日みたいな調子で…精神が不安定で…仲間の役に全然立ててない……」
そうなのだ。
大泣きしたのは今日が初めてだけど、人間に戻ってからの航海では、たまに、おもちゃにされていた頃の不安や恐怖が襲って来て急に何も出来なくなったり、久しぶり過ぎる五感の感覚にどうしても適応できず、混乱して体調を崩したりしていたのだ。
その度にチョッパーが私を診てくれたり、仲間の誰かが側にいてくれたお陰で、何とか大事に至らずに済んでいた。
だがそれは、みんなの本来の海賊としての仕事を奪っている、という事でもあった。
「私、人間に戻れたのに、ずっとみんなの足を引っ張ってる…ただでさえ航海は大変なのに、みんなに余計な負担をかけちゃう…」
良いながら、また段々と悲しくなって来てしまう。いやだな。もう迷惑をかけたくないのに。
「…何より、ルフィの海賊王になる夢を、こんな所で邪魔したくないの」
とうとう涙が溢れてしまった。嫌だ。
私だって、本当は一味のみんなと別れたくない。やっとみんなと話せるようになったのに。みんなの名前が呼べる様になって、話したい事がたくさんあるのに…
…それでも。大好きな仲間たちだからこそ、迷惑をかけたくない。『シャンクスに会いたい』なんて自分の為だけの願いしか無く、役に立たない人間なんて船に乗っていない方がいい。
私は、そんな事をずっと考えていたのだ。
「……はーー………」
長い沈黙が続いたあと、ナミが急に息を深く吐いた。
何だろう。怒ってるのかな。それとも「理解するのが遅い」って呆れられたのかな。
…と思っていたら。
「まったくもう…このおバカっ」ピシッ
「あいてっ…」
私の額に軽い衝撃が走る。ナミが私にデコピンしたんだ。
「あんたが私達の足を引っ張る?バカ言わないで!あんたはおもちゃだった時からずっと役に立とうと一生懸命だったじゃない!」
「え…?」
私が?おもちゃの時から?
「アーロンとの戦いの時、あんたはずっと私の側に寄り添ってくれた…どれだけそれで私が励まされたと思う?」
アーロンとの戦いの時…?私も正直よく覚えていない。ただ、ナミが泣いているのを見て、何とかしなきゃと思った事だけは覚えているけど…
「私の時もそうね。エニエス・ロビーで私が解放された後、ずっと守ってくれる様に側にいてくれたわ。それにその前だって、鍵を手に入れる為に奔走してくれていたんでしょう?後でウソップ達から聞いたわ」
ロビンも続ける。そう言われるとそんな事をした様な気も…あの頃はとにかく自分が破れない様に気を付けながら、仲間を何とか助けようと走り回っていた気がする。無我夢中すぎて正直よく覚えてなかったけど。
「いい?ウタ。よく聞いて」
座っている私の真正面に来て、目線を合わせる様にしゃがんでナミは続けた。
「あんたがどう思おうが、出会った時から仲間の為に一生懸命頑張ってたあんたはとっくに私達の仲間なの!仲間が苦しんでるのに、見捨てたり船から降ろす様なマネは絶対にしないわ」
「ナミ…」
真っ直ぐに私を見つめながら伝えてくれるナミの真剣な表情を見ている内に、胸が熱くなってくる。ロビンとはまた違う、真っ直ぐな温かい心が伝わってくる。
「ふふ、私も同じ意見ね。それに…」
ロビンが優しく微笑みながら会話に入ってくる。
「幼馴染の貴女なら分かるでしょう?ルフィが貴女の事を邪魔だなんて思うかしら?」
「………」
「もし貴女がサニー号を降りたとルフィが知ったら、地の果てまでも追いかけて連れ戻すでしょうね」
「ロビン……」
確かに、ルフィは昔から何度負けても勝負を挑んでくる、諦めの悪いやつだった。
…私の事も、諦めないで追いかけるのだろうか。おもちゃだった私をずっと大事に持ってくれていた、ルフィなら…
「第一…貴女がいなくなったら…」
「私達だって寂しいわ」
2人が続ける。ナミの声が少し震えている様に感じた。
2人が私の側に寄り添ってくれる。2人のあたたかさが伝わってくる。
「お願いだから、これからも一緒にいて」
「ナミ…ロビン…」
また涙が溢れる。でもこれはさっきの涙とは違う。嬉しさからの涙だ。
「うん…ありがと、ナミ…ロビン…」
「…全く、泣いてばっかりね、ウタ」
「うん…えへへ」
ナミに指摘されて、少し恥ずかしくなる。2人の優しさを噛み締めながら、私はしばらく泣き続けていた。
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「……ごちそうさま。ありがとう2人とも、ちょっと行って来るね」
やがてホットミルクを飲み干した私は、マグカップを持って立ち上がった。カップを片付けるのと、もう一つ、しなきゃいけない事があるからだ。
「え?どこに行くの?」
「ルフィ達のところ…みんな起こしちゃって、心配してるだろうから…」
「そう?一応あいつらには『明日になったら説明する』って言ってあるけど?」
「…それでも、私からちゃんと謝って、安心させてあげたいの。それに…」
この船の一員として、私に出来ることを考えた。
「もし眠れなくなっちゃったら、私の歌で眠らせてあげたいから」
「…そっか、分かったわ」
「いってらっしゃい」
「うん、2人もありがとうね!先に寝てて良いからね!」
そう告げてから、私は部屋を出てルフィ達の所に向かった。
ナミとロビンが励ましてくれたおかげで、だいぶ気が楽になった。
…正直、まだ不安が完璧に無くなった訳じゃないけど、大丈夫。私には、優しい仲間達がいる。出来る事が少ないなら、仲間達には真心で接したい。
これからもサニー号に乗る為に、私は、そう決心した。