ある親子の日常2
「ぅ、ん…」
唐突に目が覚める。デジタル時計を見ると表記はAM06:00、朝だった。
藤丸立香が、大きな欠伸をひとつして起き上がった。
───
洗面台で顔を洗って髭を剃ると、気持ちがしゃっきりと切り替わる。今日は休日、娘の陽美香と会う日だ。なので無精髭など生やしてはいられない。
…いやまあ、会わない日でも髭は剃るのだが。金持ちの道楽紛いとはいえ、立香は開業医。外見はできるだけ清潔にしておきたい。何せ自分以外の命を預かる大事な仕事なのだから。
そうしてさっぱりした状態で洗面所を出ると、起きてきた美遊と鉢合わせした。美遊は毎日陽美香と会っているため、立香にとって不測の事態が起こっても対処できる可能性が高い。頼もしい嫁さんである。
「おはよう、立香お兄ちゃん。起こしに行ったらもういなくてちょっとびっくりしたよ」
「そうなのか、ごめん。なんだか目が覚めちゃって」
「良いよ、一人で起きられるのも悪いことじゃないから。それで、今日の献立はどうする?」
「朝はシンプルな和食、昼は弁当って感じかな。夜は少し考えてみるけど、駄目そうだったら美遊の知恵も借りることにする」
「うん、分かった」
取り留めもない会話をしながらささっと着替え、二人で朝の支度をする。他の家族用の料理───申し訳ないが、今日は簡素にトーストとハムエッグ、それと野菜ジュースにさせてもらおう───と並行し、陽美香用の食事を作る。陽美香を守るための結界に出入りする機会を減らすため、朝食と昼食を一気に作りつつ(可能なら)夕飯用の仕込みもしてしまうつもりだ。
…陽美香は、朔月家の血を引く神稚児だ。願望機としての強い力を持つために、外部に存在が露見すれば確実に道具として利用される。それを回避するため、朔月家は神稚児として産まれた娘達を7歳まで結界に秘匿し続けてきた。7歳になれば、力を喪うから。
(……)
こんなのおかしいとは思うが、無差別に願いを叶えかねない娘を人前に出せるのか? 力の代償は魔力、それで足りなければ命なのに?
…そう考えてしまえば、朔月家の因習に倣う以外道はなかった。
(ええい、陽美香に変な心配させるなオレ。雑念は捨てろ)
白米を早炊きで炊きつつ、豆腐とわかめのオーソドックスな味噌汁を作る。子供の頃から濃い味に親しむと味の違いが分からなくなるので、顆粒出汁は使わず昆布と鰹節の合わせ出汁をとって作る。一番出汁なので二番以降より旨味薄めになるが、まあ味付けに合わせたということで多めに見てほしい。
隣では、美遊が朝食用の鮭を焼きつつ昼食用の唐揚げを揚げている。流石の手際だと感心していると、ピーッと炊飯器から音がした。
「炊けたか」
「じゃあ、昼のお弁当の方もやっちゃおう。おにぎりにしようと思うんだけど、良いかな?」
「ああ、良いよ」
美遊の提案に乗り、二人がかりでおにぎりを握る。具は種を抜いた梅干し(塩分控えめ)と、多めに焼いていた鮭を仕込むことにした。完成したおにぎりを丁度良いサイズの弁当箱に収め、唐揚げや付け合わせの野菜(レタス・プチトマトなど)で彩れば昼食の完成だ。
「とりあえず朝昼は完成、と。…で、結局思い浮かばなかったから聞くけど、夜はどうする?」
「えっ…? …その……夜空を見上げながら背面座位でシたい、かな…♥」
「いやそっちの夜じゃなく」
「えっ……あ、そ、そうだよね! 夜ご飯だよね! わたしは親子丼とか良いと思うな!」
「大丈夫? エロから脱却できてるそれ? 流石のオレも娘に欲情はしないんだけど…」
「親子丼自体は健全な単語だよ! お兄ちゃんこそえっちなこと考えないでっ!」
「ご、ごめんて…」
…式を(身内でこじんまりと)挙げてから美遊の色ボケが加速した気がする。立香的には悪くない変化だが、これが元の世界の知人に知れたらどうなるか。ちょっと興味がなくもないが、恐ろしさが勝るのでやっぱり会わない方が良いな、と思った。世界の移動が魔術の領分を越えている以上、無理して会うこともない。
「まあとにかく親子丼だね。じゃあ事前の仕込みはいらないか。今から浅漬けをつけると味が濃くなり過ぎるし」
「じゃあわたし、そろそろイリヤ達を起こしに行ってくるね」
「ああ、頼むよ」
美遊がイリヤ達の部屋へ向かう。後はこちらで、朝食と昼食を配膳するだけだ。完成した料理とポット入りの水、それとコップ一杯分の牛乳を木製トレーに並べ、取手のついた配膳用カートへ収納する。…良し、準備完了だ。
「起こしてきたよ」
「ありがとう。じゃあ、そろそろ良い時間だし行こうか」
「うん」
イリヤ達には悪いが、今はもう朝の7時過ぎ。陽美香が起きてくる時間だから早く行ってやりたい。…独りぼっちで寂しくさせる時間は少ない方が良いだろう。
───
ゴロゴロとカートを押して、美遊と一緒に廊下を進む。
───立香としては自慢することでもないが、陽美香の生活スペースにはかなり金をかけた。広い空間・冷暖房・風呂・トイレなどは当然ながら、和室と洋室両方を備えている(使用するのは基本和室だが)。当然ベッドなども高級品だ(…テレビはないが…)。
そんな生活スペースを守護するのは、ルビーとサファイアが如何なる手段を使ってか調べ上げた朔月家仕様の特殊な結界だ。なんでも、第二魔法の応用で美遊の出身世界を調べたとかなんとか。良く分からなかったが、二人が珍しく疲弊していたし、何より分かって良いことでもなさそうなので黙っていた。
「お兄ちゃん?」
「ん、なんでもないよ」
カートを置く用のスペースにカートを置き、扉を開く。
掛け軸や壺が彩る落ち着いた雰囲気の部屋。その中に、娘は……陽美香はいた。
「おはよう、陽美香」
「…とうさま、かあさま」
「うん。父様と母様だよ。今日は父様も一緒だから、久しぶりに親子三人でご飯にしよっか」
立香と美遊の姿を見ても、その表情に変化はない。或いは表情の変化に乏しいのか。立香はちくりと胸を刺す悲しみを押し殺し、カートからトレーに乗った料理を机の上に配膳した。
「「「いただきます」」」
「……」
(…ちゃんと食べてるな)
(うん。立香お兄ちゃんの味噌汁も気に入ってるみたい。…味噌汁作るのはわたし達の役目みたいなところがあるんだけど)
(イリヤ達になら毎日でも味噌汁作ってもらいたいけど)
(なんでそう自然に口説いてくるのかな、もう…。照れちゃうから頻繁にはしないでっ)
立香と美遊が、小声で会話しながら陽美香の食事風景を観察する。
立香をはじめとする家族の尽力により、陽美香の栄養状態はこれ以上ない程に良好だ。年相応の柔らかさが、夫婦に安心感を与えてくれる。
…7歳までの辛抱だ。そこまで耐えれば、この子も普通の人生を送れる。
(…そう、わたしの時みたいなことは絶対あっちゃいけない)
(美遊…)
それがどれ程尊い願いだろうと、娘を犠牲にするつもりなら断固として戦う。美遊は、子育ての中でそんな母の強さを得ていた。想いは立香も、何ならイリヤ達も同じだった。
───一から十まで健やかとは言えないまでも、できる限りの幸福を。そんな想いを胸に、今日も彼らの日常は続いていく。
───
それから数年後、とある休日の昼下がり。秋の陽光が降りそそぐ公園に、はしゃぐ子供達の声とそれを見守る親の笑顔が満ちている。噴水を囲むこの広場は、家族連れで和む憩いの場として大勢の市民に親しまれていた。
「秋だね」
「秋だなぁ」
『秋ですねぇ』
『秋ですね』
そんな広場のベンチで我が子を見守る、藤丸家の男女が四人。立香・美遊・ルビー・サファイアだ。
『しっかし、うちの子達も随分大きくなりましたねー。ルビーちゃん感激です☆ 立香さんが食育に力を入れたおかげですよー♪』
『ですが、ウルちゃん達への対応が昔の私達じみているのが懸念材料です。私達の背を見て学んでしまったのか……はあ…』
『あらあら、心配性ですねサファイアちゃんは。あれはそんな深刻に考える程のものじゃありませんよ』
「ああ。あれは多分、気になる相手へのアピールだよ」
『アピール、ですか?』
きょとんとするサファイア。
『ええ、そうです。あれはいわばウルちゃん達と仲良くなりたい、という想いの発露。だからそんなに悩む必要はありませんよ?』
「というか、昔のルビーは使用人というよりトラブルメーカーだったじゃないか」
「うん。たまにサファイアも暴走してたし、わたしも結構苦労した」
『そ、そこまでですか? お恥ずかしい…』
顔を赤らめながら娘達の方に向き直るサファイア。そこでは、微笑ましい光景が繰り広げられていた。
───
「陽美香さん、ほらこっちこっちー!」
「行きましょう陽美香ちゃん、ね?」
「う、うん…」
赤い髪の姉妹……夏美と冬華が、黒髪の少女……陽美香の手を引く。その先にはウルスラとウルリッヒ……愛称ウルがいた。皆、藤丸家の子供である。
「ヒミカ遅ーい!」
「何言ってるのよウル。鬼ごっこで鬼役やるのはわたしかウルなんだから、ちょっとは体力温存させてあげなさいな、全く」
そう言うウルスラだが、実はウルスラが鬼になるのは稀だ。大抵ウルが鬼になる。
逆紅一点にして5人中随一の体力を誇るウルを抑えるのは、姉であるウルスラはもちろんのこと、両親である立香達ですら難儀する。基本良い子なのでそこは助かっているが、それはそれとして遊ぶ時は有り余る元気が炸裂して周囲を振り回すのだ。
「今日は何して遊ぶ? せっかく公園に来たんだし身体動かそうよ!」
「じ、じゃあ……わたし、鬼ごっこがしたい」
「勇気あるわねー。ウルは足速いからすぐ捕まっちゃうわよ?」
「まあまあ、陽美香さんも足には自身がありますから」
「はい。私達が保証します」
そうしてあれよあれよという間に鬼ごっこが始まったのだが…。
「…まだ、捕まらない…!」
「あ……ありえないーッ!?」
「流石ね、ウルを負かすとか」
「だから言ったでしょう。陽美香ちゃんはウルちゃんにも負けないと」
「ふふ、ウルさんもたまには敗北の味を知るべきですからねえ」
陽美香がどうしても捕まえられない。…そう、陽美香もまた歴代神稚児の御多分に漏れないハイスペ少女だったのだ。
…確かに、体力自体はウルの圧勝だ。しかし、陽美香は度々小休止を挟んで体力を温存している。最初から全開フルスロットルのウルがバテるのは自明の理だ。ペース配分に関して、ウルはド素人なのだから。
(あ、ママ言ってたっけ。ミユ叔母さんは昔から色々すごかったって。ヒミカもそうなんだ…)
ゼェゼェ息を切らしながら回想するウル。ちなみに、イリヤが美遊に負けたのは短距離走である。
───
「平和だなぁ」
「立香お兄ちゃん、目の前で熾烈なデッドヒートが繰り広げられてるんだけど」
『それ込みでの平和かと。カルデアだと、念入りに準備しないとこのレベルの平穏はありませんでしたから』
『全くですよ。立香さんのマイルームはいつの間にお悩み相談室になったのやら……って、昔の話を蒸し返すのもアレでしたね』
四人でけらけら笑う。心身共に傷の多い旅路だったが、まあこうして話の種に出来る程度には傷も癒えたということだ。
「じゃあ話題変えるついでに、こんな話でもどう? …オレ、診療所に来る患者さんからこんな噂を聞いたんだ。『不定期に行われる美遊の占い、その時使われる杖っぽい物体が自発的に動いて、サファイアの声で喋る』っていうの。怖くない?」
『立香様、分かってて言っていますね?』
「ははは、ごめんごめん」
『まさか、わたしとサファイアちゃんのステッキモードを見た方がいるとは。これはセキュリティをもう少し改善した方が良いですねー』
和やかな雰囲気と共に時間が流れていく。今の彼らが気にしているのは、家で豚の角煮の仕込みをしているイリヤとクロがちゃんと調理に成功したのかどうかくらいだ。
───完全に元には戻らなかったが、それでも立香達が取り戻した日常がそこにはあった。