あなたの隣に這い寄る〇〇〇
アンジャッシュ大好き人間——それにしても、酷い目にあったぜ……。
正しく、厄日と言っても過言ではない1日であった。ズキズキと痛み始めたこめかみを抑えつつ、鉛のように重たい両足を引き摺り、ドンキホーテ・ロシナンテ准将は愛しの我が家(港から7分、海軍勤めの単身者に人気の一室である)へとつながる廊下をノロノロと進む。
部下たちと共に巡回に出た先で億越えの海賊に遭遇し、乗ってた軍艦は大破。
なんとか港まで到着したものの、腕利きの船大工たちに『ロシナンテさん、今度はどんなドジを踏んだんだい?』と呆れられた挙句、襲来した始末書の嵐。眠気が一発で冷めると噂のコーヒーを死んだ目で啜りながら、やっとこさ書き上げた時には、時計の針はすでに夜の2時を回っていた。
カチッと錠の外れる音が廊下に響く。
今日の晩飯、どうしよっかなァ……。溜まりに溜まった空腹と疲労感のせいで、頭がろくに回りやしない。もういっそ、一直線に愛しのベッドに飛びこもうか。そんなことをつらつらと考えながら、後ろ手でドアを閉める。
「——おかえり」
「…………、おぅ。……ただいま」
ぼんやりと霞む視界の片隅、来客用のダイニングチェアでくつろいでいた青年が声をかけてくる。
ロシナンテの帰りに合わせて準備してくれていたのであろう。テーブルの上にはほかほかと湯気を立てるご馳走が並んでいた。ロシナンテの視線の動きに気付いた青年は軽く肩を竦めると、自らの真向かいに座すようにロシナンテを促した。
——茶碗の蓋を開ければ、ふっくらと見事に炊き上がった白米の香りが鼻腔を擽る。
ついつい、腹を鳴らせば、向かいに座る青年がゆぅるりと口の端を持ち上げる。それに少しの羞恥を覚え、誤魔化すように長角皿に乗せられた焼き魚を箸先でほぐす。じっくりと焼かれた切り身は水分を逃さずふっくらとしており、皮はパリッと焼きあがっていた。耐えきれず口に含めば、程よい塩気と共にじゅわりと広がる魚の旨味。噛めば噛むほど甘みが滲む、白米との相性はバッチリだ。
「…………。……うっ、まぁ……‼︎」
「——あんたに食べさせるもんだからな、当然だ」
思わず零れた賞賛の言葉に、青年は澄ました顔で返す。
魚も旨いが、他の料理も気になる。少し迷ったが、小皿に飾られた、だし巻きへと箸を伸ばす。宝石のように輝く黄金色を箸先でつつけば、プルプルとふるえ、熱々のだし汁が溢れ出した。
ポリポリと添えられたお新香を齧り、上品な香りが漂う味噌汁を啜る。
なめらかな舌触りが魅力的な絹ごし豆腐、ピリリと辛い金平牛蒡。空になったお茶碗をするりと取り上げ、青年がこれでもかと白米を盛り付けてくれる。その気遣いに感謝して、海老の天ぷらを一つ、青年の皿に乗せる。ふわりと青年の口元が綻んだ。
噛めば噛むほど、体中に栄養素が染み渡っていくような感覚。
真夜中までの激務で草臥れきった体躯に、じわじわと活力が蘇ってくる。
ぼんやりとした視界は徐々に色彩を取り戻し、散漫だった思考は明瞭さを取り戻す——美味しいものを食べ終えた幸福感にロシナンテの心身が満たされる中、液体の落ちる柔らかな音色が鼓膜を揺らす。テーブルの上に広がる、温かな靄。
「————ん」
「悪りぃな…………」
差し出された白湯を受け取り、身に染み付いた動きのまま、口元へと運ぶ。
熱すぎず、微温すぎず、ちょうどいい塩梅だ。ゴクリと一口で飲み干せば、頬杖をついた青年が幸せそうな表情を浮かべながら、こちらを見つめていたことに、ようやく気付く。
「——ん”ん……っ‼︎⁉︎ ごふっ‼︎⁉︎」
——そう、青年が。
目を見張る、息が詰まる。ありえない光景を目撃し、咄嗟に距離を取ろうとして足がもつれる。しかし、ロシナンテの全身が床に打ち付けられるよりも先に「“シャンブルズ”」の囁きとともに、青年が”DEATH”と刻まれた指先を器用に振る。
視界に映る光景が、一瞬でダイニングから寝室の天井へと切り替わった。
固いフローリングではなく、柔らかなベッドのスピリングがロシナンテの全身を抱きしめる。大男の重量を受け、弾むクッションがロシナンテの鼻をぶつ。軽い開閉音と共に寝室の扉が開き、枕を片手に抱えた青年が姿を現した。
「大丈夫か、コラさん?」
「ま、まてまてまて……ッッッ‼︎⁉︎ ト、ト、トラファルガー・ロー‼︎‼︎‼︎ な、な、なんで、30億の賞金首がおれの部屋に‼︎⁉︎」
いったい、どうして、どうやって⁉︎
ロシナンテの絶叫を受けて、悪名高き“死の外科医”は呆れた表情を浮かべた。
そうして、やれやれと言わんばかりに嘆息しつつ「今更かよ……」と、至極もっともな呟きを落とす。そのまま、腕を組むと、寝室の出入り口に寄りかかった。
黄金の艶を帯びた灰色の双眸が、ロシナンテを捉える。
極々自然な動作で脱出口を塞がれたロシナンテは半泣きになりながら、せめてもの防波堤にとクッションを抱きかかえた。この世で最も安心できる場所で30億越えの賞金首が居座っていただなんて、どんな悪夢だ。できれば、早く覚めてほしい。
“死の外科医” “元王下七武海” “最悪の世代”……。
様々な悪名を恣にする大海賊とロシナンテ率いる巡回船が鉢合わせたのはつい数時間前のことである。
しかし、この大海賊、初対面のはずのロシナンテを前に「コラさん、コラさん」と本名とか擦りもしない名前で呼び続け、号泣するわ、海に落ちかけるわ。終いには、軍船を真っ二つに両断するほどの大暴れを繰り広げたのであった。
救難信号を聞きつけてやってきてくれたドレークの助太刀がなければ(本当だったらあの海域で彼と落ち合う予定だった)、きっと能力でバラバラにされた状態で箱詰めにされたに違いない。
手配書でしか知らない海賊に縋りつかれるという、想像したこともない恐怖に怯えながら、あの場を助力を申し出てくれたドレークに任せ(ちなみにドレークは『この泥棒猫……、いや、泥棒ザウルス‼︎‼︎』と謎の罵倒を受けていた。かえすがえすも弟分には感謝しかない)なんとか撤退したのだが、なんで我が家にトラファルガーが。
半泣きになりながらも、滋養で活性化したロシナンテの頭脳は最適解を叩き出す。
どうやってここを突き止めたのか、とか。なんで住所がばれてんだ、とか。
突っ込みたいところは諸々あるが、ここが真っ当な海賊であれば即座に回れ右する海軍関係者の集合住宅であることに変わりはない。真夜中に叩き起こされる同胞には悪いが、大勢に無勢。これは、世間を騒がす大海賊を捕らえる絶好の機会ではないか?
「——別にいいぜ? そうしても」
「‼︎⁉︎」
依然としてドアに凭れかかったままのトラファルガーが、鷹揚に口を開く。
本当に、毛ほども気にしていないのだろう。準四皇にまで昇り詰めた大海賊としての矜持か、それとも、単なるハッタリか。その真意は定かではないが、世迷言に惑わされるロシナンテではない。構わず大声を上げようとした矢先————
「だけど、この光景を見た他の連中はどう思うかな?
清廉潔白、海の正義の執行者たるべき海兵、それも元とはいえ元帥の養子が、30億の賞金首と食卓を囲んで団欒してただなんて、海軍を揺るがす一大スキャンダルだ」
「うぐ……っ‼︎」
養父のことを引き合いに出されて、ロシナンテは押し黙った。13年前に記憶を失い、なんらかの理由で降格させられ、ロシナンテはセンゴクに多大なる迷惑をかけている。そんな養い親にさらなる心労をかけることは、ロシナンテの本意ではなかった。
「おれとしても、あんたを海軍から攫う理由が増えるのは悪くない」
「…………なにが、のぞみだ」
ギリギリと噛み締めた口の端から、唸り声が漏れる。
認めよう、この大海賊は一介の准将にすぎないロシナンテに対し、形容し難い執着を抱いている。一体全体何をしたら、冷酷非情と名高い“死の外科医”を、ここまで執心させるに至るのか。いつか絶対に、全ての元凶である“コラさん”とやらに一発叩き込むことを胸中で誓いつつ、巻き込まれたロシナンテは海賊の脅迫に屈するという屈辱に歯噛みした。
「そうだな……煙草の数を減らしてほしい」
「へ?」
「あんたが重度のヘビースモーカーだってことは承知の上だが、医者としてドクターストップをかけさせてもらうぜ。煙草の本数を減らせば火傷の回数も減るはずだ。徐々に本数を減らしていって、最終的には禁煙に成功してもらうぜ」
「え?」
「あと、あんたが帰ってくるまでに冷蔵庫の中をみたが、生のキャベツと胡瓜以外、碌に食材が入っていやしねぇ。——海兵だろうが、海賊だろうが、体が資本であることに変わりはねぇ。明日からはおれと一緒に規則正しい食生活を送ってもらうぜ」
お、おかしい。相手はこの海を騒がせる、億越えの賞金首のはずだ。
目を白黒させるロシナンテの当惑など歯牙にもかけず、トラファルガー・ローは滔々と言葉を綴る。
いやいやいや、まてまてまて。
危うく聞き逃すところだったが、いま、とんでもないことを口にしなかったか、この大海賊は。
「“明日からはおれと一緒に”……?」
「ああ、そうだ。安心しろ、コラさん。——13年も待たされ続けたおれの忍耐強さは折り紙付きだ」
「いや、だから、おれはコラさんじゃ……」
がっくしと肩を落としたロシナンテに優しい眼差しを注ぎながら、大海賊・トラファルガー・ローは薄日が差すような微笑みを浮かべる。
——あの日。
宝箱に閉じ込められなかったせいで返せなかった言葉を伝えられる、それだけで俄然無敵な気分だった。