病めるときも、健やかなるときも
各々が理想とする人生の終え方は、実に様々です。
──想いを寄せた相手と二人きり、静かに眠りたいと望む者もいます。
──家族や友人に囲まれて、温かく賑やかに眠るのを望む者もいます。
──踏み越え、道を拓く為のモノとしての最期を迎えたいという者も。
しかし、基本的にMTR部連合へ参加する子たちの望む最期には共通する部分があります。
まあ、簡単ですね。その最期に誰かが関与していること、です。
……そもそもMTR(看取られ)部として発足したわけですから、当たり前のことではありますが。
それを、自分勝手だと言う人がいます。
命の灯が目の前で小さく弱くなり、やがて消えることが、どれだけ辛いことか。
それが分かっているのか。分かっているなら、どうしてそれを嬉々として語るのか。
……あ、別にそれに文句を言いたいわけではないのですよ。ごく自然な感想だと思いますし。
とは言え、です。私からすれば、こうも思うのですよ。
生と死は不可分であることはよく世間にも知られ、そして「どう生きたいか」もよく語られる。
ならば──それに必ず付随する「死の形」や「どう死にたいか」を語ることが、どうして禁忌であるのかと。
生にとっての死は、物にとっての影。どうやっても切れない縁で繋がった、もう一つのカタチです。
身体と影は常に同じ動きをすることから、心の在り方が行動に出ることを『形影一如』と言いますが……
この言葉には、仲睦まじい夫婦という意味もあるそうです。
……先の言葉に照らし合わせれば、生と死もそれくらい近しい──言わば、伴侶だとさえ言えませんか。
であるならば、むしろその存在を忌み、見ないようにすることほど、悲しいことはないと言えませんか。
……そうそう。形影、という言葉を使った言い回しには、このようなものもあるのですよ。
『形影相弔う』。影とその主が、互いに慰め合うこと。つまりは、孤独で寂しい様を表す言葉です。
しかし見方を変えれば、形と影とは、いつどこだって互いを慰め合えるのです。
……どこまで行っても、いつになっても。他に誰もいなくなって、孤独に取り残されたとしても。
死だけはいつまでもどこまでも、私たちを哀れんでくれるのかもしれませんね。
私にとって死を語ることは、伴侶について語ること。
その理想のカタチを想うことは、伴侶をどう美しく飾ろうか思案すること。
私以外の方にこの考え方を強いるつもりはありませんし、そもそも理解も求めませんが──せめて。
せめて、すぐ傍の愛するものへ静かに心を寄せることを、邪魔はしてほしくないな、と思うのです。