real nightmare:another side

real nightmare:another side


 その日の晩、俺が隊舎を殊更遅く出たのは完全に事故だった。

 近頃、瀞霊廷のとある一角で多発している連続変死事件。その捜査に当たっている大前田や吉良が瀞霊廷通信を訪ねてきて、そこにその後砕蜂隊長や雀部副隊長、そして彼等に引き摺られるように連れられた刈薙が現れて。

 かつて次期当主が消え、そのまま断絶した狩儺家。それと同じ響きの名を持つアイツが無関係とは思えず、疑念のままに追いかけた。何かを隠している確信。今回の事件に関わっているんじゃないかという疑い。真実を追いかけたいのはジャーナリストの性で、敵を見定めようとするのは護廷隊士の責任感。そのまま追いかけ、そして捕まえたアイツは、俺が今まで見たこともない顔をしていた。

 

——私が誰か、なんて。そんなの…あなたに何の関係があるんだ

——何だって良いだろう、そんなもの…

 

 目に見えて様子のおかしい様子のままふらついていて、雀部副隊長にも何も言っていないことはすぐに分かった。あれだけいつもベッタリだった彼に言っていないということは、様子がおかしいのもその雀部副隊長絡みで何かあったからなんだろう。

 そこまで簡単に理解出来てしまった時点で。既に俺の中で、目の前の刈薙を放っておくという選択肢は消えていた。

 副隊長との不和、猜疑と好奇の目に晒される疲弊、更に誰かから何か吹き込まれたのか、刈薙はキャパオーバーで限界だった。もう何も知りたくない、何も見たくない——薄く涙の膜が張られた眼でそう語る彼に、気付けば俺は「だったら俺を利用しろ」と口走っていた。目の前の男が共に戦うべき護廷隊士なのか、瀞霊廷に仇をなす敵なのか。それを突き止めるまでは、自分で涙も拭けないコイツの味方でいてやろうと思ったから。

 

——やっぱり優しすぎる、あなたは。人を斬るのには向いていない

——うっせえ、性分なんだからしょうがねえだろ

 

 そのまま別れることも出来ず、ズルズルと瀞霊廷通信の編集部までなんとなく連れてきて、色々な話をした。銀城空吾を殺す為に黒崎一護を囮として利用する是非。事件のこと。狩儺と刈薙の関係、次期当主の失踪を機に歴史から姿を消してしまった狩儺の謎。新しく淹れた茶から湯気が立たなくなるくらい長い時間話しこんでいた気がする。その後息を切らして雀部副隊長が来て、逃げ出しはしなかったが今にも逃げたくてたまらない…そんな顔をした刈薙に向き合えと諭して。あの後山本総隊長までふらりと現れてきた時は、本当に唐突過ぎて心臓が止まるかと思った。けどあの後部屋を後にした刈薙達の様子から見て、結局あまり話は上手くいかなかったんだろう。「うちの馬鹿どもが世話をかけてしまったようじゃのぉ、本当にすまんかった、檜佐木副隊長」、総隊長直々にこんなことを言われた時にはもう一度心臓が止まりかけたが、心のどこかで刈薙の様子が気掛かりだった。

 狩儺について調べたり刈薙を追いかけたりしたことで、今日の俺の仕事は完全に止まっていた。〆切が迫っているものはないが、溜め込みすぎれば痛い目を見るのは数日後の俺自身だ。嵐が過ぎ誰もいなくなった編集部で少し残って仕事をある程度片付け、明日のスケジュールなんかを確認していくうちにすっかり遅い時間になっていた。

 近頃は物騒だし、さっさと寝ないと明日に響く。さっさと帰って寝ないと。そう思って隊舎を後にし瀞霊廷内の慣れた道を歩いていく。まばらだがそこかしこに感じる霊圧は、各隊の隊士のもの。何だかんだで残業もあるし、夜勤もある。完全に人がいない時間というのは案外ないのかもしれない。今日は新月なのか、空を見ても星と雲しか見えてこない。道理でいつも以上に道が暗いわけだ。

 その時、何かが視界の隅で翻った。

 

「……?」

 

見えたのは一瞬。いや、意識して視認したわけではないから、ちゃんと視認したのは一瞬にも満たない。しかし目に映ったものは、自分の考えが正しいとしたら。

 

(今のは…白い裾、か?)

 

もはや起きているのは残業中か夜勤中の死神か俺くらいの時間だが、休みの者が寝付けなくて散歩でもしているのか。あるいは酔っ払いだろうか。なんだか無性に気になってきたので、白いものが見えた曲がり角へ駆け寄ってみる。

 そしてそこには確かに人がいた。

 簡素な白い帯で締められた白い寝間着。何も履いていない、真っ白い足。何も持っていない白い手、形の良い爪。少し癖があるが、長さ故の自重で真っ直ぐ伸びた黒い髪。整った顔と首に刻まれた傷。

 月も照らさない薄暗い白の石畳の道に、その人物は立っていた。腕をだらんと垂らし、脱力しきった様子でぼんやり立ち尽くしてた人物が振り返る。

 

「……」

「…刈薙?」 

「……」

 

少し前に別れたばかりの筈の奴が、何故こんなところに。振り返ったそいつの寝間着の袷から白い首筋と鎖骨が覗く。そういえば今日は夜も気温が下がらないなどと話になっていたっけか。寝苦しくはならないが、少しじっとりとした夜。その湿気に浮き出た汗でしっとりと濡れた肌に浮かんだ鎖骨の隆起が街灯に照らされ影を薄く浮かばせているのが妙に艶っぽく見えて、咄嗟に目を逸らす。が、それに違和感を覚えた。多分それは今日の日暮れ辺りから共にいたからこそ気付けた、微かな違和感だった。

 刈薙は色が薄いし、整った顔立ちと長い髪に飾りをつけた姿をしているからか少し女性的…というとまた少し違うが、雄の気配が薄い。しかし喉仏は出ているし、斬魄刀を握ってきた手の皮は厚く、入隊当時は斬術より寧ろ白打を得意としていただけあって身体もそれなりに厚みがある。近くで見ればきちんと戦い慣れた男の身体つきをしている人だ。

 なのにこの目の前の刈薙は、やけに女性的な気がした。精神的に追い詰められ先ほどまで泣いていたとはいえ、ここまでアイツの身体は薄かっただろうか?ここまで爪を綺麗に手入れしていたか?ここまで首や指は細かったか?

 傷はある。顔立ちや目の色も本人に間違いない。しかし、何だろうか。

 

(こいつ…ここまで、女っぽかったか?)

 

 そんな、普段では絶対に考えないであろう気色の悪い疑問が、脳内に浮かんで消えなかった。

 

「——……こんばんは」

「!」

 

 声がする。

 

「そして、初めまして。良い夜だね。良き死神の人」

「——!?」

 

 その声を聴いた、その瞬間。

 俺の目の前に立っている筈のその人物の姿に霞がかかる。

 

「何だ、これっ…!?」

「あなたにわたしは〝視え〟ない。わたしは、名前のない姿だから」

 

 女なのか、男なのか。それすらも判断出来ない声。それを聞くことで、目の前に立つ白い人が「刈薙剣司ではない」ことを理解する。しかし、それだけだ。

 立っていることは見える。そこに人がいることは正しく認識出来ている。

 しかし、どんな顔をしているのかが見えない。どんな表情をしているのかが見えない。

 先ほど「刈薙剣司だと思った人物」がどんな姿をしていたのかが、全く思い出せない。

 認識した側から、あらゆる認識が記憶の外に零れ落ちていく。足元に穴が開いてずっと落ち続けていくような、本能的に恐怖を煽るそんな感覚。

 

「こんな月のない静かな夜だから、せっかくだしお話でもしたいところだけど…駄目かな。

あなたは、随分と秩序の側に立っているようだから。あなたも食べてあげたいところだけど…あなたがいると、魂がここに縛られてしまいそうになる」

「何を、言って…?」

「あなたのことは、嫌いじゃないってこと。けど、それでおしまい」

「待て…!」

「待ってあげない」

 

ぼやけた姿が遠ざかり、霊圧が距離を取る。

 

「さようなら、善良で模範的な死神の人。良き夜を」

 

 そしてこの落ち続けるような感覚を振り切るように俺が被りを振ると、既にそこには誰もいなくなっていた。残されたのは少ない灯かりに照らされた白い夜道と月のない夜空、ただ一人立ち尽くした俺。最初から何もなかったかのように、ただいつも通りの瀞霊廷の姿だけが広がっていた。

 

「……何だったんだ…」

 

 まるで起きたまま夢を見ていたような感覚だった。いつの間にか詰めていた息をゆっくり吐きだしながら、徐々に全身の緊張を解いていく。その間も音も人の通りもなく、本当にここには俺しかいないんじゃないかという気がしてくる。しかしそんなわけはない。

 

(確かに、ここにいたんだ)

 

 こちらの存在に気付いた途端、姿を認識出来なくなった白い人影。もはやその姿は思い出せず、それどころか声すら思い出せなくなっていく。

 あれはどんな声だっただろうか。確か、刈薙には似ていなかった気がする。けど、なんでそう感じたんだったか。高かったのか、低かったのか。というか、何故俺はここで刈薙をさも当然のように比較の対象に出しているんだろうか。記憶の中にぽっかりと穴が出来て、そこから全て流れ落ちていくような感じがする。

 しかし、だからこそ放置するという選択肢は残らない。こんなものを放っておくなんざ、俺の主義に反する。

 さっき遭遇した人物は何者なのか。

 俺は今、一体何を忘れているのか。

 それを確かめる為の手掛かりは、遠く離れたところを走っている。俺達とは違う色をした、台風の目のように静かでいて、その下にとんでもない暴威を隠しているような霊圧。

 

「……追いかけねえと」

 

 その持ち主が何者なのかは分からない。顔ももう思い出せない。それでもそれに違和感を覚え不気味と感じた自分自身の感覚だけは覚えているから。俺はどこかへ向け飛んでいく台風を追いかけるべく、地面を強く蹴った。

 

 

(間)

 

 

 俺の追いかけていた人物は、果たしてまもなく見つかった。

 ゆらゆら、ゆらゆら。走るのは疲れたのか一旦止めたらしい、夢見心地な足取りでゆっくり歩くその姿の背後に音を殺して降り立つ。

 

「なんだ、追いかけてきたんだ。さよならって言ったのに」

「あのまま放っておくのは性に合わなくてな。悪ぃが聞きたいことがある」

「真面目な人。…美点だけど、せっかくの夜を台無しにするのは減点かな」

 

 振り返ったその人影は、やはり顔が見えない。解らない。見た側から記憶が消えていくせいで、霞がかかったその姿を真に理解出来ない。しかしその声を聞いて、確信する。先ほど俺が会っていたのは、コイツだと。

 

「大事な時間なんだ、今は。だからね?」

「……!」

『し』

 

 形の良い指が伸び、俺の口の前に立てられる。瞬間、喉が固まる。

 声が…停まる?

 

「————!?」(何を…!?)

「驚かせてごめんなさい。すぐに解けていくちょっとした暗示だから、大丈夫」

 

 思わず驚きに霊圧を揺らがせる俺に、その人影は悠然と説く。まるで通りすがった猫のことを話すような何でもなさで。

 

「静かな夜くらい、ゆっくり味わいたい。穏やかな夢の中で長くまどろんでいたい…そう思う時って、あるでしょ?」

「————」

「どんなくだらないことにも侵されない、ただの静寂。心を乱すものなんて何もない時間を、謳歌するでもなく、ただ過ごす。わたしはそれを、叶えたいだけ。叶えた夢を、見せてあげたいだけ」

 

 そう語る人影の声は終始穏やかだ。だが、これは多分俺に向けて語り掛けているわけじゃないんだろうという気がした。理由はないし、その顔も見えないからただの直感だが…その声音は、どこか遠くを向いていたように感じた。

 それは、誰に向けて言っているんだ。そう言ってやりたいのは山々だが…悔しいことに、喉より上に声が登ってこない。口から音を発せない、ただ呼吸だけが気道を行き来する。

 

「だけど…それも刻限か」

「……?」

 

 一体何のことを言っているのか。そう思った時、白い人影の向こうの曲がり角から新たな気配がふらりと現れる。

 

「ほら」

「…!」

「ここにいたか。手を煩わすな」

 

 角を曲がり影から踏み出したのは、1人の男だった。深緑の羽織に袖を通し、胸の前でその両手は組まれている。斬魄刀らしいものはない、死神ではないのか。

 

「良いところだったのに。もう番犬さんが来てしまった」

「……気味の悪い奴め。調子に乗って外道に堕ちすぎたな」

「外道だなんて、あなた達にそう言う資格なんてないでしょうに」

「減らず口を」

 

 言うが早いか周囲に霊圧が増えていく。右、左、あるいは後ろ。兵の向こうや曲がり角から続々と人が寄ってくる。そのどれもが同じように深緑の羽織をしている。同じ勢力、組織の人員ということか。斬魄刀は見当たらないが、この頭数は純粋に凶悪。声を封じられ記憶がピンポイントに抜け落ち続ける状態だが、周囲に漂うピリついた霊圧を感じてすぐに思考が通常運転に戻っていく。最初に現れた頭目らしい人物が俺を見る。

 

「退け、護廷十三隊九番隊副隊長、檜佐木修兵。」

「……?(何だと?)」

「…ああ、既に声を封じられているのか。我々はここでそちらと事を構えるつもりはないのだ。——我らの用は、そこの白い狂人にある」

 

 男が、組んでいた手を解く。

 ふとそこから感じる、針金のような殺意。——来る。

 

「疾ッ!」

「!」

 

 爆発的に膨らんだ殺気を感じた自身の直感を信じ咄嗟に飛び上がる。そこから一拍と置かず空を切って通り過ぎるのは、真っ黒に塗り潰された短剣、暗器。

 

(予備動作はほとんどなかった、多分平隊士なら気付きもせずやられていた。その上この月のない夜に黒い暗器による奇襲。こいつら…夜襲に慣れてやがる!)

 

 ダン!と音を立て塀に飛び乗り、咄嗟に手元で霊圧を練る。

 ここは瀞霊廷で、今は戦時特例も出ていない至って平和な時期だ。そんな中で刃傷沙汰等もっての外、発覚すれば重罪は免れない。だというのに彼は何の躊躇いもなく刃を出した。自身が罪に問われることを恐れていないのか?いや、そもそも俺に用事がないとは——そこまで考えて感じる、うっすらとした異臭。

 そうだ。奴の狙いは俺じゃないと言った。ということは、今の暗器で狙ったのは。

 振り返った俺の視線の先で、ぽたぽたと音を立てながら瀞霊廷の白い地面が濡れていく。白い寝間着には肩から染みが広がり、鉄の臭いが充満する。そこから飛び出した飛沫で頬や首を汚しながら、しかしそれを一切認識していないように変わらずぼんやり立ち尽くしながら、白い人影が血を流して立ち尽くしていた。

 

「…!」

「————」

 

 刺されたというのに、悲鳴すら上げない人影。それを見て手を上げる男、それを合図に、周囲の刺客もまた同じように剣を取り出し構える。駄目だ、これ以上やり合うなら止めなくちゃならねえ。血の臭いに思考が急速に切り替わっていく。ただの檜佐木修兵から、護廷十三隊の死神に。目の前でされた違反行為を護廷十三隊の隊長格として見逃してやる道理はないのだ。それが、そこで黙って立ち尽くす記憶の穴から目を逸らす為に自ら飛びついているに過ぎない行為だと分かっていても。

 声が出ない以上、言霊で鬼道の精度を上げるのは不可。詠唱破棄どころか技名すら出さない完全な言霊の放棄は霊圧操作のイメージすらあやふやにするのでやったことはないが…四の五の言ってはいられない、やるしかない。

 

「所詮は狂犬、躾に言葉は不要だ」

 

 その言葉と同時に、一斉に動き出す。

 俺の手で練った鬼道が走る。

 誰かが短剣を放つ。

 誰かが白い首に短剣を突く。

 白い人影が、揺らぐ。

 

「?!」

 

 バキッと音を立てて短剣が砕けた。

 

「なっ、」

「——本当に、残念。わたしはただ。綺麗な夜を見せてあげたかっただけなのに」

 

何も持っていない筈の手は、いつの間にか拳に変わっていた。

 

「なんだか、おなかがすいてきたかも」

 

五指を広げた底から、砕かれた短剣の黒い破片がバラバラと落ちていく。

 そしてその手を離れた破片が地面に落ちぶつかるより速く、その白い影が沈み——跳ねた。

 

「!?」

「ガッ!?」

 

 獲物を砕かれた男の手を掴むと、手首を捻り、そのまま投げ飛ばして地面に叩きつける。咄嗟に受け身を取る男だが、その間に自分の首を掻き斬ろうとしていた別の刺客を白い影が跳ねるように迎え撃つ。最初の刺突を避け、回るような体捌きで脇に潜り込む。肩に突き刺さったままだった短剣を、傷が開き血が吹き出すのにも構うことなく引き抜く。刀身に付いた血が灯かりを受けてぬらりと輝きながら翻って、刺客の首に全て吸い込まれた。素早く刃を引き抜かれた傷口から噴き出した血が白い首筋をまた赤黒く染めるが、それでも白が止まらない。絶命し弛緩しきった身体が傾き、ちょうど受け身を取って立ちあがろうとしていた男の上に折り重なる。あれでは死体の重みで致命的な隙が出来る。

 白い手が虚空を薙ぐ。そしてカーテンを開いたように景色がズレ、そこに姿を現したのは、幅の広い刃。断頭台で落とすような刃が鈍く虚空に浮かんでいた。支えるものも何もない刃が重力に従って落ちる。男が目を見開く。駄目だ、回避は間に合わない。

 

「ぁ——」

 

 その目が恐怖に染まって、見開かれた。

 

(間に合え!)

 

 俺の手で練り終えた蒼火墜が弾け、鈍く分厚い刃をゴンと低い音を立てながら吹き飛ばした。横から弾き飛ばされた刃は軌道を変え、近くの地面に転がっていく。下敷きになる筈だった男の命運が変わったことに気を悪くしたのか、拗ねたような雰囲気をまといながら白がこちらを向く。

 

「どうして邪魔を。あと少しだったのに」

(止めねえ理由の方がねえよ!)

「けど、それも無駄に終わる。わたしは、止められない。だって今、こんなにも——」

 

お腹が空いてる。言うが早いか、異変は起きる。

 

「翻れ」

 

 その一言で、死体に刺さったままの短剣と、地に落ちた黒い短剣の破片が動き出す。割れたガラスのような音を立てながらそれぞれが宙に浮き、クルクルと回り、勢いを増す。その動きは、俺の知っているものに似ていた。

 

(…刈薙?)

 

 そんなわけが、ないのに。

 

「鉄は翻れ。血は従え」

 

 声に従い、黒い破片が回る。短剣を握り潰した際に切れた掌と肩から流れ出ては腕を伝い落ちていこうとする赤黒い血が固まり、氷柱のように伸びていく。やがて伸び切ったそれは、荊のようにも、杭のようにも、剣のようにも見えた。

 纏う黒と握った赤と共に、再び跳ねるように白は動き出す。今度は、俺が鬼道を練る暇すらない程の爆発するような勢いで。

 そこから起きたことは、言葉で表そうとするなら余りにも怒涛過ぎた。

 

「ガ、」

「ぎゃっ」

「あ」

 

 1人は首に宙を舞う短剣を叩き込まれ。

 1人は飛んできた破片を叩き落とそうとした間に距離を詰めた本人に斬り捨てられ。

 1人は詠唱破棄で発動した鬼道に押し潰された。

 俺が1つの凶行を止めようとする間に、奴は5人を殺していく。止められない。追いつけない。手を伸ばすのすら間に合わない程の速度で、次から次へと命が消える。

 

(何だ、コイツは)

 

 目の前で瞬く間に狩られ続ける命。血が飛び交い、悲鳴を上げる間もなく誰かが殺され、誰かが死ぬ。蹂躙。その言葉がよく似合う大惨事とそれを止められない自分の無力さに、心が軋む。

 抵抗して、誰かがその上で殺されて、また防ぎに行っては躱され。それを繰り返して、どれほど経ったんだろうか。

 気付けばその場で息をしているのは奴と、息を乱した俺と、それから血を流して肩で息をしている頭目らしい男だけだった。

 

「やっと、また静かになる」

「……化け物め」

 

 何もなかったかのように静かな白い人影が、膝をついた男と俺を眺めている。あちこちに夥しい量の返り血を浴びておきながら、その姿はいやに綺麗に見える。

 

(………)

 

 こいつは、こんなにも綺麗に佇んでいるのに。

 ここで這いつくばって、俺は一体、何をしていたんだろう。

 脳裏に過ぎるのは、自分の目の前で跡形もなく散っていった元上司の姿と血飛沫。あの時もそうだった。何も出来ないまま、ただ茫然としている目の前で死なれた。その時と目の前の大惨事が重なって見えて、息が苦しくなる。

 呼吸すらままならなくなる俺を尻目に、男が白を睨む。

 

「そうして、のさばっていられるのも今のうちだ…!」

「随分と、わかりきったように言うね」

「当然だ…」

 

今にも息絶えてもおかしくない程の出血だというのに、男の勢いは衰えない。血を吐きながら、それでも閉じない眼はどろりと底なしの沼のように暗い狂気が渦を巻いていた。その目には白い霞の向こうの姿は映っていない。目の前すら映さない眼で見ているのは、恐らく、違う人影。

 

「どれだけ取り繕おうと、どれだけ姿を似せようと。所詮貴様は化けの皮を被った紛い物よ。それとも、それすら解らんまでに脳が腐ったか?」

「……」

(…嘘だろ?)

 

血と共に男が吐き出した言葉に、思わず寒気を覚える。

この白い霞は、誰かを模倣しているとでも言うのか。こんなデタラメな強さと理不尽なまでの暴力を振るっておきながら、それが誰かの真似事だって言うのか。

 それは、つまり。

こんな滅茶苦茶な——あるいは、これ以上の暴虐を振り撒く奴が、他にもいるって言うのか?

 その事実に再び頭から打ちのめされそうになる俺を置いて、白い霞と深緑の狂気はなおも対峙する。そんな理不尽が当たり前に存在することを前提にした上で。

 

「良いか。貴様が何をしようとあの方には及ばぬ。我らの求めるものは、唯一あの方のみ。貴様がいくら醜く無駄なことをしようと、驕ったことを——」

「ネタばらしは、そこで御終い」

 

 対峙は、一方的に打ち切られる。

 白が振るった一太刀で、男の首から上がごろりと落とされてしまったせいだ。

 ず。ご、ごと。重く硬い音を立て、滑らかな断面からずり落ちた頭蓋が石畳に落ちて転がった。

 

「っ……!」

 

 何度も戦場を経験してきた。

 惨たらしい姿で死ぬ隊士も見てきた。

 俺が変わったあの夜、振り返ったら俺の名前を呼びながら学友が死んでいた。

 偽物の空座町で今までの思い出と全ての感謝を清算して斬った裏切者の元上司は、 最期に俺達の顔を見ようとしながら跡形もなく消された。

 後悔、恐怖、絶望、安堵。今まで俺のいる戦場で死んでいった彼等は、本当に様々な顔をしていた。様々な思いを抱いたまま、消化する間もなく死んでいた。

 だが——この顔は、何だ?

 何を考えている?何を想っている?

 暗がりの中、転がった頭についた眼と視線がかち合う。

 

「————」

 

 そこにあるのは、虚無と熱。

 その眼にはただ、狂気的な何かだけがあった。

 

「——……!」

 

 こんなもの、俺は知らない。こんな目で死んでいった奴を、俺は見たことがない。未知のそれは俺の知る世界では明らかに異端なもので、本能的に頭が理解を拒む。余りにも歪な渦を巻いたまま終わったそれは、俺にとっては見ることすら嫌気が差す。

 ふと、生ぬるいものが頬を伝うのに気付く。鉄臭い、嗅ぎ慣れた嫌な臭いと慣れた温度。鉛のように重くなってしまった気がする腕を動かし、視界にかかる前に何とかそれを拭おうとする。強くこすって拭っても、痛みはない。ただ手の甲がぬかるむ、そこで気付く。…違う、これは俺の血じゃない。そこまで思考が追いついたところで、白い手が俺の手を掴んだ。血に塗れた、すぐに脳から抜け落ちて忘却の穴に落ちていく蝋のように白い手。

 

「随分と汚れてしまったね」

「っ、」

 

自分で持った俺の手をしげしげと見つめているような白い影が思った以上に間近にいて、思わず息をのんで身じろいだ。俺の目の前に屈んだ白い影は、どこかしゅんとした気配を纏って「ごめんなさい」と口にした。

 

「あなたを、ここまで巻き込む筈じゃなかったのだけど」

「……」

「こんなに血がついてる。こんなに匂い立つあなたを放っておいたら、うっかり間違えて食べてしまいそう」

 

血を流し、血を浴びた白い手が俺の頬に触れる。その手は生き血でぬるついていて、温度なんてものはなくて、まるで作り物のように思えて仕方がない。

 

(悍ましい)

 

 その手で触らないで欲しい。そう言えるわけもない俺のこめかみを、汗のように血が伝う。伝った血は、ズタズタになった白い掌に触れる。

 白い人影と俺を、瀞霊廷の灯かりがほのかに照らしている。血と死体と静寂に満ちた鉄臭い道に、俺達の影が薄く伸びている。その影の形が、次第に変わっていく。俺に触れた人の姿をしていた影が、みるみるうちに広がっていく。伸びていく。その肩あたりから、何かが伸びていく。それは蝙蝠の翼のようにも、木の枝のようにも、あるいは根のようにも見える。複雑に広がっていくそれが、赤黒く染まった俺や白い道や、物言わぬ死体に覆いかぶさっていく。

 

「悪いけど、わたしはまだ遊び足りないんだ。でも、うっかり酔って、あなたを殺してしまっては悪いから。『あなたはここでおやすみ』」

 

 先ほどまで人を大量に殺していたとは思えない、ひどく穏やかで凪いだ声がする。

 まだ遊び足りない、なんて。さっきまでの蹂躙が、この目の前の人影にとってはほんの遊びに過ぎなかったのか。その事実に戦慄し、そして止めなければという使命感が何とか首を起こす。しかし。

 

(……駄目だ…)

 

 使命感に逆らうように、身体に力が入らない。顔に触れた手から精気を吸われているかのように、一気に意識が遠くなる。目の前の視界がぼやけていく。駄目だと理解している筈なのに、抗いようもなく全てが遠のいていく。自分を叱咤しようにも声は出ない。動けない。ただ、暗闇に引き摺り込まれていく。

この期に及んで何も言えないまま微睡む俺の脳内で、首を落とした男の言葉が反響する。

 

(………化け、物)

 

 そうか。この、人らしさを感じない手は。理性を感じないほどに滅茶苦茶な破滅を振り撒く暴力は。顔も声も意識と記憶の網からすり抜けていく、誰の目にも留まらない蜃気楼のような存在は。まさに、化け物と呼ぶべきものだ。

そこまで理解して——そこで俺の世界は、ぶつんと切れて真っ黒な奈落に落ちた。

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