end of tranquil

end of tranquil


ここ数日は訳の分からないことばかり次々に起きる。檜佐木が思うのはそればかりだ。初めて足を踏み入れた四十六室の議場に広がっていた光景が脳裏に蘇る。机、床、壁に散った夥しい量の血液。特有の鉄臭い匂いはまったくせず、それが流れて随分長い時間が経っていることは触れずとも理解出来た。何かがあった。賊の侵入か、それともまた別の何かなのか。

それよりも檜佐木を混乱させたのは、いつの間にか自らの傍まで来ていた己の隊長がその光景に動揺のひとつも見せていないことである。東仙要が――争いを、無為な死を、誰より厭うはずのその人が、淡々と檜佐木についてこいと言ったきり何も言わずに奥へと進んでいくその背中が別人のようだった。


そして今、もうひとつ。檜佐木の前に信じられない光景が広がっていた。

「藍染……隊、長……?」

死んだはずの彼が目の前に立っている。四十六室専用の居住区などという、檜佐木にとっては非日常の象徴のような場所に、当たり前のように。誰からも慕われた柔らかい表情を顔に貼り付けて、藍染はそこに居た。

「やあ、檜佐木くん」

「何故……藍染隊長が此処に……」

本物なのですか、と問いかけた檜佐木に藍染はやはりなんでもない事のように答える。

「そうだよ。この通り生きている。本物だ」

「何……それなら、こんなところにいないで、雛森に……」

「雛森くんは知っているよ」

僕が生きていることを。僕にやらねばならないことがあることも。だから協力をしてもらっている、と藍染は語った。檜佐木の心臓が大きく跳ねる。檜佐木を先導してきた東仙は何も言葉を発さない。脳が理解を拒否していた。

「雛森くんは僕が居ないと生きられない子だ。こういう時のためにそういう風に仕込んだからね。だから僕の指示にも今は従順に従ってくれている」

「何を、言って……藍染隊長!」

思わず一歩を藍染に向けて踏み出した檜佐木を、藍染ではない誰かが押し留めた。

「東仙隊長……?」

「檜佐木。藍染隊長は、成すべき事のために死を偽った」

「ですから、それは何故……」

「お前が知るべきことではないよ」

檜佐木の肩に触れるのはいつもと変わらない手だ。死神として致命的な弱点を抱えた檜佐木に恐怖を持つことの大切さを説き、戦いの手解きをしてくれた師の手。有無を言わさぬ響きに口を噤んだ檜佐木を、東仙はその光を映さない眼で静かに見据えた。


「……赦せ、檜佐木」


瞬間。檜佐木の身体を、衝撃が貫いた。

「………ぇ、」

下げた目線、焦点の合った胸元に深々と突き刺さる銀色。そこにある雫のような形をした鍔を、夕焼け色の柄を、檜佐木はよく知っていた。今はそれらを握る褐色の腕も含めて、一色が彩っている。中途半端な温度を纏った、ぬるつく赤い液体。それが己の身体から溢れたものだと理解するよりも先に、ぐらりと視界が歪んだ。

「東、仙……隊、長――……?」

どうして、という言葉が吐けたのかどうか。それすらわからないまま、檜佐木は硬い床の上に崩れ落ちた。




胸から背中までを貫通した傷口が絶えず血を零す。広がる赤い縁はとろとろとぬめり、白木の美しい床をゆっくりと染め上げた。藍染が見守る中でかつて副官として遇した青年が倒れた音を聞き、東仙は手にした斬魄刀の血を払う。ぱた、ばたた、と雨にも似た音を立てて注がれる血の雫が檜佐木の髪を、死覇装を、晒された肌を汚していった。

それを視覚の代わりなのか人より優れた聴覚で聴きながら、東仙の顔には何の感慨も浮かばない。ただ静かに檜佐木を見下ろし、そうして東仙は刃を鞘へと納めて藍染へと視線を向けた。

「……もういいのかい」

「ええ」

ひとつ頷いて、踵を返す。藍染は満足そうに微笑みながら頷いて歩き出した。

「なら、行こうか。要」

その後を追って一歩を踏み出しながら、東仙は目を閉じる。踏み出した足が、きしりと床を軋ませた。

「はい。参りましょう、藍染様――」


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