delito de abort (完)

delito de abort (完)


「おめでとうございます、平子隊長。ご懐妊ですよ」

そろそろアイツが来る頃か、ならば慣らしておかねば気分次第では痛い目を見る、と与えられた自室——とは名ばかりの、藍染の私室を通らねば出入りできないなぞなんて趣味の悪い座敷牢だと本人は思っているが——で褥に横たわり、ぼうっと不本意極まりない思考を巡らせていた時だった。

憎らしいほどの晴天が時間間隔を狂わせる虚夜宮の天蓋の下、それでも漠然とした勘と、日夜凌辱を繰り返される身体の回復具合から把握していた頃合いより少し早く訪れた憎き仇が、自分の腹に触れながら平然と告げたその言葉を、脳は理解することを拒んだ。


「……はあ?何言うとんのやボケ。寝言は寝てから……いや、やっぱ言わんでええ。ヤることヤったらさっさと帰れ」

浮世離れも甚だしい、常人の理解できる範疇を遥かに逸しているこの男の口から出た言葉とは思えず、いや、逸しとるからこそむしろ一周回って俗っぽくなっとんか?とやや混乱しつつ呆れた目を向けながら答えた。

よりにもよって自分をこんな身体にした張本人が、いつもの如くに自分を弄ぶ手段としてそれを選ぶのか、という胸糞の悪さもあり、このときはただ、悪趣味なことこの上ない冗談だと思っていた。思っていたのだ。



懐妊を告げたあの日——あの後、意外にも藍染はすんなりと帰っていった——から、藍染は自分を抱かなくなった。

行為と、本人曰くお仕置という名の執拗な虐待も鳴りを潜めており、それ自体は喜ばしいことなのだが、今までにないその挙動があの日の言葉を裏付けるようで、気が休まることはなく。

検診と称して、藍染の付き添いのもとやむなくザエルアポロの宮へ訪れた回数が片手で足りなくなる頃には、胎の膨らみが目立つようにまでなっていた。


「さて、この期に及んでもまだ、冗談だと言い張りますか?」

帰り道で揶揄うようにのたまう男の、やたら秀麗な顔面を蹴り飛ばしたい衝動に駆られながらも、

「……せやな。こうまでなったからには、とりあえず受け入るしかあらへんか」

とため息交じりに返す。


妊娠にまつわる諸症状——つわりやら何やらといった体調不良——はおろか、月経にすら苛まれることもなかったため、これは流石に有りえないだろうと問うてみたこともあったが、

成り立ちも何もかもが歪で特殊な破面が死神の精を受けて孕んだ子ということで何かと理屈を捏ねる二人に、門外漢である平子はすっぱりと論破されてしまっていた。

「貴方が望むのなら、堕胎することも可能ですよ」

そうさらりと言ってのける男に再度ため息を吐きたくなる平子であったが、今度はしっかりと藍染と視線を合わせ、足を止めてはっきりと告げた。


「アホ言うな。俺らの都合で生まれた命や。コイツは俺が産んで、育てる。オマエのええようにはさせへん。コイツのことは俺が守る」

いくら地獄のような苦痛の果てに生じた望まぬ命とはいえ、胎から感じる霊圧は紛れもなく平子と藍染を足して割ったようなそれであったし、

近頃では胎の中で動いている気配すら見せるこの小さく弱々しい命を摘み取ることなど、平子にはとても許容できなかった。



*********



藍染の手前、ああは言ったものの、何も心底胎の子を想って、という訳ではない。

男の身体で生きた時間の方が遥かに長く、当然自意識も男のそれである。

我が身に巣食う得体の知れない生命体を、その胎動を、気味が悪いと思わなかったといえば嘘になる。

怯えも恐怖も戸惑いも、当然あった。


だがそれと同時に、子が親へ向ける無償の愛というものに、無意識のうちで仄暗い期待を抱いていたのかもしれない。

死神と虚の紛い物に成り果てた自分の、藍染以外滅多に顔を合わす存在もいないこの孤独を、癒す誰かがいてくれれば、と。

救いの手も、信じられるものも何一つとして有り得ないこの行き詰まった地獄へと不意に垂らされた蜘蛛の糸に、手を伸ばさずにはいられなかったのだ。



そうして産まれた——といっても想定していた出産とは大いに異なっていたが——子は、藍染と同じ鳶色の髪と瞳を持ち、顔立ちと仮面は平子によく似た男の子だった。

(髪色見たときは肝冷えたわ……。アイツと瓜二つやったら流石に参ってまう)

顔は俺似でよかったなあオマエ、と生後間もない我が子を指であやしながら思う。


「ご出産おめでとうございます、平子隊長。体調に問題がなければ、母子ともに帰ってもいいそうですが、どうされますか?」

それと、必要なものがあれば仰ってください。何でもとは言いませんが、可能な限りご用意しますよ。と別室にいた藍染が、心にもないような祝福を口にしながら、急ごしらえの病室へと入ってきた。

——まったく、僕の宮は研究施設であって病院ではないのだが、とはザエルアポロの談である。

といっても、今回の出産で執刀医を務めたのも彼であるし、既存の術式をなぞるだけなどつまらない、と産気づいて呻く自分を嬉々としながら薬で眠らせたのも彼であったが。

そんなこんなで目が覚めた時には臨月——どうやら死神や人間の赤子よりも発育が早いらしい——を迎えてから数日泊まり込んでいたこの部屋に寝かされていて、

彼の従属官から我が子を手渡され、今に至るというわけだ。


閑話休題。

「帰るてオマエ、あのジメ~っとした辛気臭い部屋に赤ん坊ごと放り込む気か?」

あと、実感はあらへんけど出産したての妊夫がそうほいほい出歩ける思てんのか、と疼く身体を持て余しながらも、こちらは口には出さず思うに留めた。

この男にわざわざ弱みを晒すなど、未だ微かに残る矜持が許さなかった。

「では、どうされますか?このままここで育てるにしても、環境的には大差ないように思いますが」

どこか揶揄うような色を含んだ、それでいて平坦な声が再度平子に問いかけた。


最小限の明かり取りと換気ための小さな窓が遥か頭上にひとつと、彼に抱かれるためだけの、やけに豪奢な天蓋付きベッドが鎮座する、暗く冷たい真白な箱の中を思い浮かべる。

今は鳴りを潜めているが、あの部屋であらゆる苦痛を与えられ、凌辱の限りを尽くされたことは記憶に新しい。

今間借りしているこの部屋も、調光器によって適度な明るさに保たれてはいるものの、本質的な無機質さはあちらと似たり寄ったりであるし、

何よりあのマッドサイエンティストの膝元たるここで生活をすると思うと、藍染の宮とは違う意味で息が詰まる。

とどのつまり、どちらを選ぶにせよ、自分にとってはストレスしかないのだ。であれば。


「……俺の宮がほしい。ちょうどこの前、オマエらに歯向かって粛清された奴がおったやろ。アイツが使うとった宮でええ」

ちょうど藍染とザエルアポロの宮の中間地点に位置するソレは、

前の主の趣味故か他の宮より比較的窓が多く、中も人間の住居に近い間取りであることは、何度も付近を通っていたため把握している。


オマエさっき、必要なもんあったら用意する言うとったでなあ?と、望み薄ではあったが、自分と我が子の安寧のため、試すように藍染へ投げかける。すると、

「何でもは無理だとお伝えしたはずですが。……まあ、いいでしょう。明日には移れるよう準備させます」

と、殊の外あっさりと頷いて見せた。

独占欲も嗜虐心も人一倍強いこの男が、その矛先を向けている自分に対し、僅かであれ独立した住居という自由をすんなり与えるものかと疑念が生じない訳ではなかったが、

「何ということはない、僕からの出産祝いですよ」という一言に封殺された。


(……人事みたいに言いよって、オマエも父親やねんぞ)

そう思いはしたものの、言葉として吐き出す気にはなれなかった。



*********



藍染により自宮を与えられ、赤子とともに住居を移してから五か月が過ぎた。

妊娠と出産によりぐちゃぐちゃだった内腑がようやっと回復してきた頃であったが、意外にも、藍染が以前のように自分の身体を求めることは無く、

監視兼補佐役として付けられた女破面を通して行う事務的なやり取り以外では、ほとんど関わることもなくなっていた。

尤も、散歩のために宮の外へ出かけた時などは、遠くから見られているような気配を感じることはあったが。


それにしても、とソファに掛けながら平子は思う。

(……アイツ、こっちが安定したらてっきりがっついて来るもんやと思とったが、こうも音沙汰ないと逆に怪しい。

俺に飽きた…ならとっとと処分すればええ話やし……どうも釈然とせん)

とはいえ、こちらからコンタクトをとって真意を図ろうにも、どうせ徒労に終わるだろうし、何よりあの男と顔を合わせずに済むならそれに越したことはない。

ならば現状の生活を維持しつつ、警戒レベルだけは上げておこう、と結論を出したところで、ちょうど監視役とは違う女破面とともに、日課の散歩へ出かけていた息子が帰宅した。

「まーまっ!」

「おう坊、おかえり。アンタも悪いな、いっつもコイツが世話んなって」

最近なんとか歩けるようになった息子が、女破面の腕から降り、その重みに頭をぐらつかせた勢いのままによちよちと歩いてくる。

無事に膝元へとたどり着いたのを抱え上げながら、同伴していた女破面に声を掛けた。

「気にしないで。私も楽しませてもらっているもの。それじゃあ悪いけど、任務があるから、今日はこれで」

そう、笑みを浮かべながら答えた女破面は、「またね、坊くん。貴女も、あまり無理はしないことね」そう言って、柔く波打つ若草色の髪を靡かせながら去っていった。


そう、藍染の動きと同程度に想定外だったのが、両親由来の潜在霊力やその血縁を度外視して、赤子という存在そのものに興味を持つ破面が一定数いた、ということだ。

先ほどの彼女はその筆頭であり、時間を見つけては様子を伺いに訪れ、

一時期体調の安定しなかった平子に代わって坊の面倒もみてくれたため、それなりに信用している。

今日の散歩も、いつもなら平子が同伴するのだが、昨晩から微熱が下がらず倦怠感に参っていたところに折よく彼女が表れたため、代わりに連れ出してもらっていたのだ。


「えらいご機嫌さんやなあ。綺麗なお姉ちゃんに遊んでもろて、楽しかったんか?」

なあ、坊?と軽く揺すりながら問いかける。


名前はまだ、付けていなかった。名とは、親が子に与える最初の祝福であると同時に、呪縛でもある。

自らの仄暗い願望を押し付けてしまっているという罪悪感と、自分の与えた名が、いつか足枷になるかもしれないという憂いが、平子に名を与えるという行為を躊躇わせていた。俺にそれは相応しくない、と。


「あい〜!」

こちらの言葉を理解しているのかいないのか、嬉しそうにキャッキャと笑う息子につられ微笑みながら、「ほな昼寝でもするか」とクッションを手繰り寄せ、二人そろってラグへと横になる。

すると監視役の女破面が、心得たとばかりに二人を十分に覆って余りある大きさのブランケット——坊は寝相がお世辞にもよろしいとは言えないため、ちょっとやそっとの寝返りでは脱出できない大きさのそれは非常に重宝していた——をかけてくれた。


ふかふかの毛布とラグに包まれた愛息子は、単純なことに早くも欠伸をこぼし眠たげに目を蕩けさせていて、そんな我が子のおなかをポンポン叩きながら、平子はすっかり今の生活に馴染んでしまっている自分に苦笑いを浮かべた。


近頃、よく考えることがある。

この調子なら、この地獄でも生きていけるかもしれない、と。

既に、本心から帰りたいと望む場所は失われた。

行き着く先も、自分には無い。

ならばここで、この生活が続けられれば、と。


息苦しいだけだった自室は、今や場所も姿もすっかり様変わりし、この虚圏で唯一、気を休めて寛げる場所になった。


藍染以外と顔を合わせることもない薄暗い部屋の中、血塗られた恥辱と苦痛に独り怯えて凍り付いていた心は、坊の笑顔と温もりに溶かされていくのを感じていた。


それに、協力者も増えた。若草色の女破面は言わずもがな、監視役の女破面だって、表情こそ乏しいものの、坊を抱くその手は優しく、こちらに危害を加えることもなかった。

監視役とはいえ、育児の範疇を超えなければこちらの不利益になることはしないというのも、この半年足らずで分かっている。

この二人ならば、自分に何かあったとしても、坊を悪いようにはしないだろうと思えた。


いずれは、以前のように藍染と褥を共にするようになるかもしれないが、今は帰る場所がある。

もう、あの冷たい部屋で独り、甚振られるのを待つためだけに呼吸を繰り返さなくてもよいのだ。


そうして、薄氷の上を歩むような平穏が続けばいつか、いつか、藍染を斃す誰かが、この虚圏を訪れるかもしれない。

そのときには、若草色の女破面に頼んで、坊をその誰かに託してもらうのだ、とうつらうつらしながら考える。

自分は無理でも、自分が勝手に拠り所として産み落としてしまったこの子だけは、平子のことなんて忘れて、自由になる道を選べるように、と。


そうなればもう、独り残されたとしても大丈夫だと思えた。この暖かな記憶と、触れあった温もりを覚えている限り、自分はこの子の幸福を祈りながら、煉獄の炎に身を焼かれたって構わない。


(——藍染を斃しに虚圏まで乗り込んで来るようなヤツや。俺よかよっぽど、オマエの名付け親に相応しいんやろうなあ)

ああでも、オマエの名前、いつか俺も呼んでやれたらええのに——と、いつの間にか眠りに落ちていた息子に引き摺られるように、平子の意識も深い闇へと沈んでいった。



*********



ふ、と意識が浮上して目蓋を開け、瞬きをひとつ。

どれくらい時間が経ったのか、ずいぶんと深く眠ってしまった。

「坊……?」

さて今日はどこまで転がっていったか、と我が子の姿を確認しようとして、その姿が見えないことに気が付く。

「————っ」

まだぼんやりと霞がかったような意識を無理矢理覚醒させ、霊圧探知を自宮全体に広げる。しかし、微かな霊圧の残滓しか捉えることができなかった。

息子だけでなく、監視役の霊圧も、だ。

こんなことは今までなかった。自分より早く目覚めた坊を連れ、気を利かせた彼女が再び散歩にでも行ったのではないか、という淡い期待に反して、何かよからぬことが起きている、と本能が警鐘を鳴らす。

どっ、どっ、と一気に騒ぎ出した鼓動を努めて鎮めながら、探知範囲を虚夜宮全体に拡大した。


果たして我が子は、いた。よりにもよって藍染の霊圧とともに。

「——!くそっ」

がばり、と勢いをつけて身を起こす。くらりと眩暈がしたが、そんなことはどうでもよかった。

声が聞こえなくなって久しい逆撫を手にとり、捕捉した地点へと全速力で向かう。坊の霊圧が、泣き出す直前のように震えていた。



「——藍染っ!!」

咆哮とともに放った斬撃は、敢え無く片腕で受け流された。無理な追撃は避け、その勢いのまま、間合いを取って着地する。

やけに重い身体を引き摺りながら辿り着いたその場所は、藍染の宮の屋上であった。


「平子隊長。想定よりお早いご到着ですね」

「……!オマエ、どういうつもりや!なんで——っ」

どうして今になって干渉してきた、逆になぜ今まで放っておいた、監視役はどうなった、聞きたいことは多くあったが、どれも言葉にならなかった。それよりも。

「なんで、坊を……!オマエ、その格好——っ」

藍染が、我が子の首を鷲掴みにして立っている。

その光景が、平子から冷静さを奪っていた。力量差やブランクを度外視し、開口一番で初撃を仕掛ける程度には。


「ああ、これですか?僕もそろそろ飽きてきましたし、頃合いなので処分しようかと思いまして」

貴方に見つかる前には片づけるつもりだったのですが、とまるで天気の話をするように軽く放たれた言葉が耳に届き、冷静にならねばと宥めていた心が再び逆立つ。

首を握る腕に力が込められたのか、坊の泣き声が歪に乱れた。

「ま…ぁ˝、ま゛……」

愛する我が子が、この世の終わりのように泣き叫びながらも、苦しげに己を呼んでいる。


「——っ」

この男を、斬らなければ。

いつか誰かが、じゃない。今、自分が戦わなければ、このままでは、死んでしまう。

やらなくては、たとえ刺し違えてでも…!

いまだ動揺に揺れる精神を無理矢理研ぎ澄ませ、斬魄刀を構え直した。

上気した頬を、冷汗が伝う。

(つっても、正面突破じゃまず無理や。とりあえず坊から手ぇ離させて、何かしら搦手を打たんと……)

そうして何とか逃げおおせて——これが一番の難関ではあるが——、最悪の場合、坊だけでも黒腔で現世か尸魂界に隠せればいい。

自分が残れば、藍染の意識はこちらに向くはずだ。


敵意と怒りと、ほんの少しだけ虚勢を乗せて藍染を射抜いていた視線が、ヤツのそれと交錯する。

昏い欲を孕んだそれは、四肢を搦め取り、呼吸すら奪うようそれは、実に五か月ぶりに相対する、自分を支配するものの目だった。

戦意に高揚する心に反して、かち、と刀身が音を立てた。


「ふふ、君のその表情は久しぶりに見たよ。やはり君には、その目がよく似合う」

こちらのかけるプレッシャーをものともせず、どこか楽しそうに、歌うように告げる。

「少し前までの君は、何をするにも従順だったからね。些かつまらなかったんだ」

ねえ、真子?と、口の端を歪めながら名を呼ばれた瞬間、

平子は自らを射抜く視線と目を逸らせないまま、地面に膝を着いていた。


「——っう……ぁ………っ」

目が零れ落ちそうなほど見開かれ、ひゅ、と喉が音を立てる。泣き声は、どこか遠くに聞こえた。

先ほどまでの気勢が削がれていくのを感じながらも、まるで金縛りにあったかのように、自らの意思で身体を動かすことができなかった。

無力感と恐怖に苛まれながら、ただ思い出す。

藍染が自分を“真子”と呼びながら何をしたか、何をされたか、悪夢が際限なく蘇る。


毎夜のように身体を強引に拓かれた。快楽なんて少しもなく、ただ痛みだけが鮮明だった。

薬物を盛られ、この世で最も憎い男によがらされるという、吐き気を催す屈辱も味わった。

抵抗や逃亡を図れば、四肢を磔にされたことも、切り刻まれたこともあった。回道も用いて致命傷は避けながら、溢れ出る血の赤と激痛に、いっそ壊れたいとすら思った。

運命のあの夜、助けられなかった仲間たちを、目の前で一人ずつ殺された。何度も、何度も。脚を捥がれた自分は、それを見ていることしかできなかった。

鏡花水月が見せる幻覚だといくら自分に言い聞かせても、ひよ里が■■回殺されたあたりからもう、幻覚か本物かなんて区別はできなくなっていて。

まだ辛うじて思い出せる彼らの姿が、声が、どんどん死に姿に塗り替えられていくのが、恐ろしかった。


その意に背けば、身も心も、余すところなく蹂躙された。そして、今回もきっと—。


呼吸が乱れたまま落ち着かず、冷汗が背筋を伝う。

目の前の現実が、どこか膜を隔てた映像のように感じる。

耳鳴りが泣き声を掻き消して、どうしようもなく手が震えている。嫌だ、怖い。


でも、それでも——!

左手の鞘を手放し、右手に添えて無理やり震えを抑えつける。


『真子、まタウちチらのコと殺スんカ?』

脳裏に蘇る声——もう本物かどうかも分からない——にそうや、と心中で返答する。許さんでもええ、と。

(……それに、オマエらの命惜しさに子ども見殺しにした、なんてバレたら、オマエらもっと怒るやろ)

そう胸中で独り言つ。

覚悟は、決めた。泣き声はまだ、止んでいない。

深呼吸とともに、地に着いていた膝を立てる。

脚に力をこめ、立ち上がった。

刹那——


ばちゅんっ


「——————……ぇ?」

びしゃっ、と生暖かい液体が頬を濡らす。ついで、ぽてり、と足元に何かが落ちた。

泣き声は、止んでいた。



「うん。久しぶりに、いいものを見せてもらったよ」


「無用となった玩具でも、最後にいい仕事をするものだ。あとで製作者にも礼をしないとね」


「ああ、どうか絶望はしないでほしい。貴方が希望をもち、恐怖に抗う姿はとても美しいものだから」


「でも、あまり私以外に心を傾けるのは感心できないな。君のすべては私のものだ。そうだろう?」


藍染が何やら言葉を捲し立てている気がするが、音だけが鼓膜をすり抜けていき、意味を解することができない。


「ぼ、う……?」

再び片膝を着き、ただの肉塊と化した腕を拾い上げる。真白い装束が血の赤に染まったが、そんなことはどうでもよかった。


考えないようにしていた。

たとえば、己に妊娠を告げたときからすべてが、藍染によって終わりを定められた茶番かもしれないということを。

赤子の存在そのものが、己を揺さぶるための舞台装置でしかない可能性を。

気づいていながら、必死で目を逸らし、蓋をし続けていた。

だって、やっと手にした希望なのだ。この行き詰った地獄にようやく齎された、たった一本の蜘蛛の糸。

だから、飢えた者が何の疑いもなく差し出された食べ物に喰らいつくように、その細く脆い糸へ必死に縋りついた。

無邪気に己を求め、慕ってくる存在を疑うなんて、耐えられないから。


だがその結果が、これだ。

これは罰だと思った。浅はかな望みのために、我が子とはいえ第三者をこの地獄に巻き込んだことへの、

不確定な未来に縋ったことへの、罰なのだ。


ふ、と腕から視線を動かすと、光を失った眼球がひたり、とこちらを見つめていた。


どくん、と鼓動が脈打つ。

これは、己への罰だろう?

では、この子は?勝手に生まれて、勝手に殺されたこの子の無念は、どこにいけばいい……?

守れなかった。名前を呼ばれたのに、何もできず、見殺しにしてしまった。


ならばせめて、取らなければ、仇を。

だって、そうじゃないと、この命があまりにも報われない!

腕を抱いたまま、沸々と込み上げてきた激情に身を任せ、形振り構わず仇へと刃を振り翳した。

その時、

ぐちゃり、と支点としていた右膝から下が潰れた。


「————っぁ……ぁぁぁあぁああ˝あ˝ッ!!……っぐぅ、ん…っ……はっ、…ふッ……ふっ……!」

衝撃に次いで襲ってくる激痛に耐え切れず声を上げてしまうも必死に噛み殺し、地に伏せながら藍染を睨みつける。

この期に及んで刀傷ひとつつけられない自分が、酷く惨めで情けなかった。


「言ったろう。私以外に心を傾けることは感心しない、と」

聞き分けの悪い子には、お仕置きが必要かな。

呟きとともに、目の前に掌が翳される。

ふっと視界が霞み、そこで平子の意識は閉ざされた。



*********

はい、これにて本編は完結となります!

想定の3倍長くなってしまいました。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました!貴重なお時間頂戴して申し訳ないです。

力量不足により本編中で出せなかった設定を以下にいくつが補足しておきますので、まだこのお話にお付き合い頂けるという寛大な方がいらっしゃいましたらご覧下さい。


・藍平の赤ちゃんは妊娠から出産に至るまですべて藍染とザエルアポロの仕込みです。

・ザエルさん的には人工破面とか破面の生殖とか感覚共有とかそういうののデータ取りの為に小芝居に付き合ってあげてます。

・藍染は監視役か坊と視覚聴覚を共有出来るため、ずーっと見てましたし聞いてました!無干渉だと思ってたのは平子だけです。監視役さんは坊の前に処分されました。

・平子は自死やそれに類する行為を無意識下で禁じられているため、自分の命を盾に藍染を脅すという手段はとれませんし思いつきもしません。

・この平子にはもう自分が逃げる、助かるという意識はないです。どこまで行っても藍染の影からは逃れられないと思い込まされています。SAN値がピンチです。



以上、本当にありがとうございました!!






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