Zauberkugel(25)
それはまるで、ヴィオレッタに愛を謳うアルフレードのようだった、なんて。
何度も口ずさんできたのに、知らなかった。
純粋な愛の音は、こんな色をしているのか、と。
「す、好きです、ポッケさん!」
それは、ボクらには縁遠いものだった。
後にも先にも、端役者にもなれないものだと、思っていた。
「…え、えーと……オレ…?」
戸惑いの色を乗せた音に、耳がきゅっと絞られる。
姿は、見えなかった。振り向く勇気もなかった。
仮面を脱ぎたくて身を潜めた木陰はボクの姿を隠してくれたが、塞ぎたくなる会話は筒抜けだった。
(…大人しく、ついていけばよかった)
アヤベさんとトップロードさんと併走することになったんです、オペラオーさんも、ぜ、ぜひ!
悪気のないドトウの誘いを断ったことに、今更ながら後悔した。どちらが魔弾の行き先かなんて、考えたくもないけれど。
「ポッケさんのレースで、勇気をもらって…ずっと追いかけて、気がついたら、好きになってたんです。よ、よければ、私と……付き合ってくれませんか…!」
愛する人に愛されるなんて。と。
歌うフレーズは形無く回って、知らないふりをしようとする。
もし、ポッケさんが彼女の告白を受け入れたら?
決まってる。ボクらの関係はそこでお終い。
綱渡りの道化は、ピリオドを打たれて奈落へ真っ逆さま。その程度の、細い細い糸で繋がっているだけの関係なのだから。
…構わなかった。
間違っていないと、胸を張っていえるようなものではなかった。本当は、離れた方がお互いのためだとわかっていた。
だから構わなかった。
その手を取ればいいと思った。
そうしたら、終われる。君の手で、終わらせてくれと。自ら引き金を引く度胸もないボクは、ただ終焉を夢見ていた。
「……悪い」
好きなやつがいるんだ。
果たして、椿の花は無垢な少女に送られはしなかった。
心臓に充てられた銃口が、命を奪うこともなかった。
…最低だ。
最低だ。
最低だ…!
命を免れた心臓が脈打った。
それは喜びの鼓動だった。
知っていたくせに。
彼女が、受けいれるはずもない事を。
彼女が、誰を求めているかなど!
そう。
ここには、アルフレードもヴィオレッタもいない。
湖上の歌姫になり損なった亡霊が、ただ愛を求めて彷徨うだけだ。
気がつけば、片割れの気配はなくなっていて。
静かに啜り泣く音が聞こえる。
ボクだけが聴いてしまった哀しみのアリアは、ボクの心をじくりと突き刺す。
同じだなんて、烏滸がましい。
きっと、ボクは、ボクたちは、あれにはなれない。
例え叶わなかったとしても、まっすぐ想いをぶつけた彼女に、敵う日はこない。幻想に浸って、夢を謳って、幻影を抱くボクらは、──ボクは。
やがて去っていく後ろ姿を、横目で捉える。
鮮やかな栗毛。
つややかな尻尾を持つウマ娘だった。
それは恋のせいなのだろうかと、亡霊は暫くの間、そこで蹲っていた。
さて、そんな無理矢理記憶の奥底にしまいこんだはずの悲哀の一幕を思い出したのは。
単に、ひとえに、単純に。その彼女を見かけたからだ。
鮮やかな、艶かやかなその色は、あの時と変わらない。違うのは、その隣にいるのが幻想ではないこと。花のような笑顔を浮かべていること。
それが、あの日届かなかった歌が色を変えて辿り着いた相手なのだと知るのに、時間はかからなかった。
そうか、と。
酷く納得して、同時に悲しくなった。
ほら、みたことか、と。過去の自分が嘲笑う。
ボクは、ボクたちは、あれにはなれない。
夜空の一等星に手を伸ばすこともできなければ、先往く粒子を抱き寄せることもできない。
椿の花を持つことも、告げることも許されない。
そのふたりの隣にはもう、別の誰かがいるのだから。
だから、焦がれた。だから、求めた。
愚かなことだとわかっていても、同じ幻想を夢見る彼女の瞳に夜空を映して、溺れた。
"理解される"ことは、存外、居心地がいいものだと知ってしまった。どこにいたって苦しいなら、偽りの酸素と交わることくらい、許してほしいと。相手を騙して、自分にさえ嘘をついて、そんな幻想の中でしか、ボクたちは生きられないからと。
──本当に?
例えば、そう、例えば。
ポッケさんが、思いに区切りをつけて、他の誰かを好きになって。そうしたら。
そうなれば、ボクは。
いつの間にか、ふたりはいなくなっていた。
立ち尽くすボクを、周りの人達が不思議そうに通り過ぎていく。
引き金の引き方は知っていた。
終わりの告げ方も知っていた。
もし。
もしまだ、間に合うのなら。
手のひらに携えた魔弾を、ボクはゆっくりと握った。
その日の夜。
ふらりと足を向けた、二人だけの秘密の場所。
約束なんてしていないのに、彼女はそこにいた。
なんとなく、そこにいるとわかっていた。
だから、終わらせるつもりでここに来た。
このままでは、きっとボクたちはダメになる。
すでに、なっているかもしれないけれど。
もし、手遅れではないのなら。
あの花の歌姫のような未来を、願うなら。
ボクは引き金を、引かねばならない。
金の花冠が弾いた先が、例え己の心臓であっても。
ボクが、ボクだけが、ボクこそが。終わらせなければいけない。
「…奇遇だな」
空に星は見えなかった。
月明かりに反射した、黄昏に輝く色が、ただ、ひどく愛おしく思えた。
ポッケさん、と。
口に出したつもりだった。
口に出さなければいけなかった。
引き金を引いて、この関係に終止符を打たねばならなかった。
震えた唇から溢れたのは、音になり損ねたか細い吐息だった。
「…座らねぇの?」
彼女はボクを見上げていた。いつもなら。看過して、したつもりになっていたその奥の感情が。今は何も、わからなくて。
ふらりと光に引き寄せられるように、気がつけばその隣に腰を下ろしていた。
「…今日は、星が見えねぇな」
ぽつりと、闇に溶けた音に顔を上げる。
星は見えなかった。雲に隠れた月明かりだけが、僅かにボクたちを照らしていた。そのことに安堵した薄情な心に、泣きたくなる。
触れない距離。それでも肌寒さに伝わる体温が、酷く落ち着くことに。今更気がついた。
「…すまない」
「…なにがだよ」
どうか許してほしい。
弱いボクを。君を手放せないボクを。
夢を見ないまま、君を求めようとしてしまったボクを。
いつか必ず、終わらせるから。
だからいまだけは、いま、だけは。
その夜。
ボクたちは一度も、お互いの名前を呼ばなかった。