White Lie

White Lie




 トラファルガーが移動先に選んだのは大鐘楼の鐘の傍。

 誰にも邪魔されず、ドレスローザ全土を見渡すことの出来る場所だった。


 壁の縁へと腰掛けた黒衣の男がドフラミンゴを見つめる。空に背を向けて鐘を囲む柱に身を預け、滴る血すら拭おうともしない。ただ、眠たげな金の瞳が瞬いた。

 視線で促すトラファルガーを見返し、ドフラミンゴは自身の胸元へ手を伸ばす。

 取り出したペンダントを突き出せば、元の持ち主は首を傾げた。


「返す」


 ドフラミンゴの短い言葉に、黒衣の男はゆっくりと首を振る。


「それはもう、お前のものだ」

「違う。これはコラさんから預かったんだ。片方はあんたのだろ。返す」


 再びかぶりを振ったトラファルガーは自身の肩を抱くように縮こまり、ペンダントから距離を置いた。


「それはあいつにやったんだ。おれのものじゃない」


 頑なな態度にため息を落とす。

 トラファルガーが不思議そうにドフラミンゴを見上げた。


「話はそれだけか?」

「そんなわけねェだろ」

「あまり時間がねェ。言いたいことは早く言ってくれ」


 そう言ってドフラミンゴを見る金の瞳は鈍い光を浮かべたまま曇り、すぐにでも翳ってしまいそうなほど霞んでいる。瞬きの度に、その輝きが永遠に閉ざされるのではないかと錯覚し、背筋が凍った。


「時間がない? お前があれくらいで死ぬタマか」

「おれだって生物だ。死ぬ時は死ぬ」

「お前がやろうとしてるのは自殺だろうが。てめェのナワバリはともかく、他所のガキを巻き込むんじゃねェよ」

「おれが巻き込んだわけじゃねェだろ。麦わらを連れてきたのはお前だ」

「……それは、そうだが」


 バツが悪い。思わず言葉を濁せば、トラファルガーが小さく笑う。


「安心しろ。もうお前らに殺してもらおうとは思ってない」

「それでも時間がねェのか」

「さあな」


 嘯く彼はそれ以上を語らなかった。

 沈黙が落ちる。


 ドフラミンゴは王宮を眺め、口を開いた。しかし、声が出ず、唇を湿らせる。

 拒まれたペンダントを握りしめていると、トラファルガーが小さく咳き込んだ。止まらず溢れる血と細い息に気付き、思わず顔を顰めた。


「まさかとは思うが、てめェの治療はできねェのか、お医者様」

「おれ自身、必要を感じてねェからな。治療には患者と医者の間で合意が必要だろ」

「また屁理屈を……いや待て、てめェいつも自分勝手に辻医者して押し付け医療行為に勤しんでるじゃねェか」

「おれは海賊だからな。好きにする」


 ああ言えばこう言う。組んだ腕を苛々と叩けば、トラファルガーが呟いた。


「生憎この程度じゃ死なねェ。お前が邪魔したんだろうが」

「おれだって海賊だ。好きにする」

「道理だな」


 頷いた黒衣の男は、しかし、胡乱気にドフラミンゴを見つめる。


「何で海賊なんかになった」

「おれの出自じゃ表の道は進めねェ。それに、あの頃はあんたを殺したくて仕方なかったんだ。あの人を殺したのが、あんただと思ってたからな」

「……いつ、気付いた? ああ、違うか。誰かに聞いたんだな」


 ドフラミンゴが黙り込むと、トラファルガーは手招きをし自身の横を指した。

 隣に座れと言うことだろうか。今更警戒も何もないが、一応対峙していた身としては戸惑ってしまう。

 なかなか動かない偉丈夫に対し、黒衣の男はぼそりと文句を言った。


「首が疲れる。どいつもこいつも無駄にデカくなりやがって」

「あんた、そういうとこあるよな……」

「どういうとこだ」

「身勝手というか、妙に惚けてるところだ。あと距離が近い」

「ファミリーの奴らは喜ぶんだが」

「そりゃそうだ。おれだって嬉しかった。今だって別に嫌じゃねェさ」


 隣に掛け、呟く。


「あんたのそういうところ、コラさんにそっくりだ」


 反応はない。ただ、耳を澄ます気配だけは感じられた。


「あの人はおれを助けてくれた。身勝手におれを連れ出して、惚けた馬鹿でおれを笑わせて、そばにいてくれた。一緒に旅をして、一緒に悩んで、世界の変え方を教えてくれたんだ」


 彼女の正義。

 ドフラミンゴを連れ出した当初、崩れ壊れかけていたその光は、二人の旅が進むほどに元の形を取り戻していった。

 変わってしまった兄に恐怖し、なおも変わらない優しさに戸惑い、自身に課せられた使命に怯えていたコラソン。彼女は兄のそばを離れ、自身と同様に光を見失っていた子どもと共に過ごすことで、在り方を見つめ直すことが出来たのだろう。


「世界がおれを拒んだとしても、おれが変わり続ければいい。そうすれば、きっと世界の方が変わってくれる。あの人はそう教えてくれた」


 彼女自身が変わったように。

 彼女は言った。


『ドフィが私を変えてくれたんだよ』


 彼女の愛は、共にあること。

 同じ目線で、そして自身で見聞きして確かめ、逃げずに考えて。一緒に泣き、笑い、悩み、共に歩み続けること。

 その拙くあたたかな愛はドフラミンゴと彼女自身の世界を変えたのだ。


「世界なんざ、壊さなくても変えることが出来る。あの人はあんたにそれを伝えたがってた」


 柱に寄りかかり細い息を零す男。声が届いているのかすら曖昧なほど、その表情は変わらない。

 だが、金の眼差しの向かう先を知った今、言葉は止めどなく溢れ続ける


「コラさんに会ったよ。あんた、ずっとあの人を守ってたんだな」


 今もなお、彼女は王宮で眠っている。

 一時期、トラファルガーがモリアの部下と接触していると噂が立ったことがあった。当時はついに死者の冒涜にまで手を出し始めたのかと思ったものだったが、あれはつまり、そう言うことだったのだろう。


「この国に留まり続けたのもコラさんのためか?」


 トラファルガーは小さく頷いた。


 お人好しの王族と小人族。そして、愛溢れ懐深き国民達。ドレスローザは美しい国だ。恩人が生きていればきっと好きになっただろう。

 彼女の在り方はこの国とよく馴染む。

 だが、新世界の中、この国がありのままに生き残り続けることができたのは、トラファルガーの関与あってのものなのではないか。


「なァ、トラファルガー。あんただって世界を変えたじゃねェか。この国を守って、十年過ごしてきたんだろ。見ろよ、ドレスローザを。こんな国が他所にあるか?」


 大鐘楼から見下ろした先、国の至るところで煙が立ち上っていた。それは戦火の灰色ではなく、白く柔らかな湯気だ。危機を脱した国民達は既に復興のことを考え、動き始めているのだろう。

 彼らは意志の示し方を知っていた。

 助け合い、生きていく意志を火にして、あたたかなスープを煮込み、隣人と分け合う。それがドレスローザの在り方だった。

 その力を呼び覚ましたのは、トラファルガー・ローなのだ。

 彼の薫陶を受け、コラソンの愛を知ったドフラミンゴだからこそ分かる。

 世界を壊す必要など、どこにもない。トラファルガー・ローは世界を変えることができるのだから。


「……フレバンスのこと、コラさんから聞いた」


 緊張が走った。いや、緊張しているのはドフラミンゴだけで、当の本人はと言えばただ頷くのみ。

 諦念に圧し潰されるように黒衣の男が視線を落とす。言葉はない。

 重く苦しい沈黙に飲み込まれないようにと続けた声は焦燥に上擦っていた。


「故郷を失ったのは知ってる。それでも、だ。なんで、あんたみたいな人が世界を敵にしなきゃならねェ。あんたが一番分かってるはずだろ。誰も止めようがなかったことくらい」

「…………」

「感染症も、戦争も、一人一人の願いなんかじゃ止まらねェ。どんなに苦しくても、誰も彼もが憎くても、世界全体を巻き込むのは間違ってる。それなのにどうしてあんたは世界を壊そうとする」


 答えは返ってこなかった。

 トラファルガーの中にも答えはないのだろう。憎しみ、そして恐怖が彼の思考を濁らせてしまったのだろう。

 きっとそうだ。

 冷徹だった金の瞳が憤怒に燃える様を幻視し、ドフラミンゴは唇を噛む。

 憧れた男が、命の恩人が我を忘れる様など見たくはない。だが、それでも見届けなければ。

 そう思い、彼を見た。


「何故、笑ってる」


 思わず、声が漏れる。


 何故なら、彼は笑っていた。

 泣きそうな顔で笑っていたのだ。


「ラミも、そう言ってたんだよな?」


 呟きは安堵に掠れている。

 命を賭けた望みが今この瞬間に叶ったかのような、絶対的な幸福に満たされた吐息が零れた。


「ああ、よかった」


 ドフラミンゴが言葉を失う中、男は一人、話し始める。


「正直、最初は八つ当たりだった。知っているくせに黙っていた奴らを殺した。許せないとか、気持ち悪いとか、何か考えていたはずだが、すぐどうでもよくなった。そもそもが世界を壊すついでだったんだ」


 黒衣の男は暗い眼差しのまま、どこか遠くを見て自身の胸を押さえた。


「だが、ラミが生きていると分かって、そこからは知ってそうな奴らを狙って殺した。さすがに上の方までは手を出せなかったが、それ以外の奴らはあらかた殺した。国ごと滅ぼしたこともあったか。うっかり真実を漏らされても困るからな」


 何を言っているのか分からない。微塵も理解できない。だが、饒舌に語る口調から、彼が胸に秘めていたものが怒りや憎しみなどではなく、自責と愛情なのだと気付き、その異質さにぞっとする。


「復讐なんてどうでもいい。そんなものには何の意味もない。ただ、おれはガキの頃に吐いた馬鹿げた嘘を貫き通さなければならなかっただけだ」

「嘘? 何の話をしてる」

「内緒だ……と言っても、お前は調べるんだろうな。まァ、別に構わねェ。今更、意味のないことだ」

「ガキの頃ってことはフレバンスのことか。まだ何か隠してることがあるんだな?」

「言っておくが、ドフラミンゴ、お前は執われるなよ? お前には自由でいてもらわなきゃ困る」


 明日の天気について話すような、軽い口調で嘯き、トラファルガーは目を閉じる。


「しかし、おれのような罪人にも救いを与えるとは、神の末裔ってのもあながち間違いじゃねェのかもな」

「おれは神の末裔なんかじゃねェ」

「ああ、そうだった。元、か」

「違うだろうが。ただの人間だ。おれも、あんたも」


 含み笑いを落とし、自称罪人はゆらゆらと足下を遊ばせた。妙に子どもっぽい仕草から彼の喜びが伝わり、ますます混乱する。眉を顰めたドフラミンゴを横目で見上げ、彼は口元を綻ばせた。


「ああ、失敗した」

「何がだ」

「もっとお前と話せばよかった。せめて二年前に気付いてりゃな。残念だ」

「別に、今からだって話せるさ。コラさんのことならいくらでも話してやる。たとえあんたがインペルダウンの最奥にぶち込まれたとしても、いくらでもやりようはあるんだ」


 過去形で語られた願いに焦燥を覚える。引き止めようと言葉を重ねかけたドフラミンゴの腕を軽く叩き、トラファルガーはかぶりを振った。


「そろそろ時間だ」


 彼の意志は変わらない。

 まだ何も伝えられていないのに、どこかに去ろうとしている。

 勝手に納得して、勝手に満足して。


「待て、待ってくれ。おれはまだ、あんたに伝えなきゃいけないことが」

「ドンキホーテ・ドフラミンゴ」


 声を震わせたドフラミンゴを見上げ、眠たげに降りた瞼がゆっくりと瞬いた。

 それまで濁り、沈んでいた金の瞳に光がさし、一際強く輝く。

 それは極光。誰も触れることが叶わない、凍える天上の色彩。

 そのあまりの鮮やかさに言葉を失った。

 トラファルガーは静かに尋ねる。


「お前、嘘は得意か?」


 それはまるで、泣いている子どもにふいに話しかけるような、ひどく無責任で優しい声だった。


 ドフラミンゴの答えを待たず、男は身勝手に言葉を繋いでいく。


「頼みたいことがある」

「……何だ」

「過去は変えられねェ。だが、真実はいくらでも挿げ替えることができる。どこかのお人好しの馬鹿共が藪を突いて蛇を出さねェように、嘘で塗り固めてほしい」


 話が読めず眉間に皺を寄せたドフラミンゴを他所に、黒衣の男は語り続けた。


「例えば、そうだな。おれは過去に囚われ、世界に当たり散らす馬鹿で醜悪な悪党だ。ラミはそんな兄を討とうとして……いや、この国への侵攻を阻止しようとして殺されたって方が自然か。お前はラミの意志を継ぐ役割。どうだ?」

「どうだも何も、あんたの言っていることが皆目理解できねェ。おれに何を望んでるんだ」

「物語だ。大衆向けのな。十三年越しのバケモノ退治、悪に身を窶しながらも恩人のために本物の悪を討つ、ダークヒーローってやつか。おれはあまり興味がねェけど、世の中は好きだろ、そういうの」

「……何が言いたい」


 語られたのは馬鹿馬鹿しい『設定』の羅列。しかし、『バケモノ』が何を望んでいるかを理解するには十分だった。

 湧き上がる怒りに声を低くする。明確な拒絶の色を伴った問いに対し、しかし、トラファルガーは告げた。


「ラミから託された使命を全うするため、あるいは、ラミの仇をうつため。そのために、お前はここに現れた。そういう美しい物語を語ってくれ」


 永遠に眠る宝物。

 穢れた海賊が、悍ましいバケモノが、己の所業が、自身の死後巻き起こる未来の嵐が、伏せられ語られぬ過去の真実が、清廉な彼女の眠りを暴かないように。


「心配するな。保存処置の手法については記録を残してる。部屋のメンテナンスはトンタッタ族がやってくれるから、そこまで苦労はしねェ」

「…………」

「麦わらとの同盟の件もある。表立っては難しいだろうが、この国の奴らはお人好しだ。事情さえ伝えれば、案外こっそり手伝ってくれるかもしれねェ」

「……トラファルガー」

「あいつには悪いことをした。ずっとバケモノのそばで、さぞ怖かっただろう」

「トラファルガー、おれは」

「やっと解放してやれる。お前が生きてて良かったよ。これからは、あいつが愛したお前が」

「────ふざけるんじゃねェ!」


 怒りでもない、憎しみでもない。

 得体の知れない気持ちが込み上げ、怒鳴りつけた。

 びりびりと響く声は大鐘楼の鐘に反響し、歪んだこだまを返して落ちる。

 目を見開く。そうでもしないと、何かが溢れてしまいそうだった。


「おれは使命なんざ託されてねェし、コラさんの仇を討ちにきたわけでもねェ! あんたと話をしに来たんだ!」

「分かってる。その上で頼んでんだ」

「どこがだ、何も分かってないだろ! あんたはいつもいつも、昔からそうだ! 誰の話も聞かずに勝手に!」


 思わず襟首を掴み、その頬を殴りつける。力は入らなかった。しかし、相手も防ぐつもりが毛頭ないものだから、拳には肉を打つ生々しい感触が伝わる。


「コラさんは‼︎」


 抑えきれない激情が迸り、叫びの形を成した。しかし、肝心の以降が言葉にならず声は引き攣るばかり。

 喉の震えを見られるのが嫌でずるずるとしゃがみ込み、顔を伏せる。男の襟首を掴んだまま、その膝頭に額を押し当て、声を振り絞った。


「コラさんはあんたを止めたがってた」

「そうだな。命をかけて会いに来た」

「違う。あの人は兄としてのあんたを信じてた。悪いことをするのは苦手だろうから、きっと苦しい思いをしてるって」

「ふ。そんなことねェのに」

「嘘をつくな。あんたは気付いてねェだけでずっと苦しんできたじゃねェか。コラさんはちゃんと見てた。正しい目をもった人だから」

「……あァ、そうだな」


 空虚な渇きを以て、トラファルガーは相槌を打つ。それは泣きじゃくる子どもを宥めるような、優しくも無遠慮な肯定だ。内容の真偽など気にもとめず、ただ受容するだけの姿勢。

 ああ、何も届いていない。

 この男は何も信じていない。

 何故ならば、真偽など、この世界では簡単に覆されてしまうものだから。

 恩人は、彼にどうやって寄り添おうとしていたのだろうか。何にせよ、それが出来たのは彼女だけで、ドフラミンゴが何を言おうとその代わりにはならない。そう分かっていても、言葉は止まらなかった。


「おれを預けたらあんたの元に戻る。コラさんはそう言ってた」

「ファミリーに居場所なんかねェのに、心中でもするつもりだったのか。正義も考えものだ」

「違う。あの日、あんたが会ったのは使命に生きる海兵なんかじゃねェ。あそこにいたのは潜入捜査員のコラソンでもなければ、おれを愛してくれたコラさんでもなかった」


 瞼を閉じると浮かぶ笑み。最後の記憶。

 心配のあまり付き添うと言ったドフラミンゴを半ば騙し討ちの形で宝箱に押し込め、彼女は一人雪原に立った。


「あの人は、トラファルガー・ラミとして、あんたに会いに行ったんだ」


 そう。

 彼女はあの日、あの瞬間。

 ただ、妹として兄と向き合うためだけに、あの場所に立っていた。


「あの時、ラミは何を言おうとしてたんだろうな」


 トラファルガーが呟く。真に知りたいというよりはただ疑問が溢れただけの、受け止められるはずもない問い。

 襟首を掴んだままだった指を解き、顔を上げ彼を見た。

 ドフラミンゴの視線に気付き、彼は目を伏せてかぶりを振る。答える必要はないと語る仕草を無視し、伝えた。


「もう一度、ちゃんとあんたの口から話を聞きたい、あんたの苦しみを知りたい。世界を壊そうとする理由を知りたい。あの人はそう言ってた」

「むしろ、あいつにだけは知られたくなかったんだけどな」

「それでも、コラさんなら聞けたさ。あの人はやると決めたら最後までやる人だ」


 恩人は兄と向き合うことに決めた。

 そして、彼女だけがこの世界を追われ、残された兄は雪原に留まり続けている。


 彼女はある意味成功したのだろう。自身の死を以て兄を止めた。しかし、既に遅かったのだ。或いは、痛ましいことに、むしろ悪化させた可能性すらある。

 計画はあの時点で成熟していた。世界転覆は既定事項であり、それを止めることができるのはトラファルガー・ロー、ただ一人だ。

 もし、計画の進行を止めるというならば、彼を止めるだけでは事足りず、彼が自身の意志で計画の中断を選択しなければならない。しかし、妹の死が、否、自らの手で妹を殺めたという事実が、彼から新たな道を選ぶ力を失わせた。

 以来、彼はただ決めたことを決めたように進めているだけ。全ては消化試合のようなものなのだ。

 停滞している。

 悪の道を進み、技を磨き、研鑽を重ね、一見目的に向かって邁進し続けているかのように見えた男。しかし、その実、彼はあの日から一歩も前に進んでいない。


 選択することができない。変化することができない。前進することができない。

 挙げ句の果て、堕ち切ることすらもできなくなってしまったのだ。


「なァ、ドフラミンゴ。あいつはおれと話そうとしてた。海兵としてではなく、妹としておれを説得するためだ。これは合ってるか?」

「微妙に違う。あんたの計画をとめることが目的だったわけじゃねェ。あの人にはあんたに伝えたい思いがあった。おれはそれを伝えに来たんだ」

「教えてくれ。結局、おれは何を聞きそびれた? あいつは何を伝えたがってたんだ? 理由は分からねェが今なら……お前の口からなら、聞ける気がする」


 麦わらの拳を受けたこと。ドフラミンゴという新たな墓守が現れたこと。ファミリーが会いに来てくれたこと。フレバンスに纏わる『何か』を守り通せたこと。

 その全てが重なり、凍りつく彼の心を僅かに動かしたのだろう。トラファルガーは満ち足りた緩やかな口調で語る。


 緊張に強張り、思うように動かない身体をおし、深く息を吸った。

 穏やかに瞬く金の瞳。ドフラミンゴの言葉を待ち望む光を見上げ、一言、告げる。


「愛してるって、言ってた」


 一瞬の沈黙。


 ふ、と。

 ドフラミンゴの耳に小さな吐息が届いた。それは笑声に似た響き。


「────お前、嘘、向いてねェな」


 揶揄うようなひどく優しい声で、トラファルガーが言う。


 そうだ。


 本当は、恩人が何を告げようとしていたかなど、ドフラミンゴは知らない。

 彼女がトラファルガー・ラミとして兄と向き合い、話し、兄の計画を止めようとしていたのは確かだ。兄の苦悩を知り、憂いを分かち合いたいと願っていたのも真実だ。だが、その根底にどんな思いがあったのかまで、彼女は語らなかった。

 伏せられていたわけではない。ただ、思いを告げる前に彼女は死んだ。

 話もできずにいなくなってしまった。


 トラファルガー・ローが雪原に一人取り残されたあの日、ドフラミンゴもまた、宝箱の中に遺された。

 だが、それでも。

 だからこそ。


「おれはあの人の生き方を知ってる。あの人の愛を知ってる」


 トラファルガー・ラミは自身が愛されていることを知っていた。そして、彼女はその示し方も知っていた。


「あの人はあんたのそばに戻ろうとした。一緒に生きようとしてた。あの人にとって、それは愛なんだ」


 ただ、そばにいて分かち合うこと。それが彼女の愛。

 約束を違えることなく、それは今もなお、ドフラミンゴの中に在り続ける。

 それは世界を変える力だ。


「おれは世界の変え方を知ってる。コラさんの愛が教えてくれた。このくそったれた世界でおれが生きのびて、あんたの前に現れたことこそが、あの人の愛の証明だ」


 トラファルガーを見上げ、ドフラミンゴは啖呵を切った。


「今度はおれが、あんたの世界を変えてみせる」


 黒衣の男は笑みを浮かべたまま問う。


「方法は?」

「賭けだ。死ぬつもりなんだろう。それを止める」

「それで?」

「もし、おれが勝ったら信じてくれ。あの人があんたを愛してたこと、世界を変える方法が他にもあること。そして一度でいい、もう一度だけでいいから、この先に期待してくれ」


 笑え。

 苦境にある時ほど笑え。

 彼女がそう在ったように。


 誰かを引き上げるために力を奮え。


 ペンダントを握りしめ、ドフラミンゴは口の端を引き上げた。


「おれが勝ったら、一緒に前に進め」


 祈りを込めて差し伸べた手を見つめ、黒衣の男は呟く。


「それ、お前に得があんのか?」

「ある。あんたがそんな様子じゃコラさんも眠るに眠れねェだろ。それじゃあおれは自由になれねェ」

「たとえ他に方法があったとしても、世界を壊そうって考えは変えねェぞ」

「そもそも壊そうって言い方がよくねェ変えるんだよ。別のやり方を考えてな」

「やっとここまで来たのに」

「フッフッフ。まさか、自信がねェのか? その程度でバケモノを自称してたとは笑わせる」

「自信は、確かにない。おれのやり方は結局誰かの猿真似だからな」

「そうだろうとも。てめェのやり方は悪としては下も下、三下がいいとこだ。馬鹿みたいに時間をかけやがって、おれならもっとうまくやる」

「…………」

「感謝しろ。本物のバケモノが指南してやるって言ってんだよ」


 煽られても気にした節もなく、トラファルガーは一度目を閉じる。悩むというよりはただ時を待つかのように一つ呼吸を落とし、彼もまた口の端を引き上げた。


 浮かぶのは艶然とした笑み。

 自身の勝利を疑わない、強者のエゴ。


「いいぞ? やってみろ」


 顎をあげて傲岸に言い放った男は、人の悪い笑みを浮かべて足を組む。さらに腕も組み、拘束具をつけたような体勢で、膝をついたままのドフラミンゴを見下ろした。


「ハンデをやる。おれは能力も覇気も使わねェ。悪党としては三下でも、おれはお前より強い。遥かにな。うっかり手加減しそこねると困る」

「フッフッフ、言ってくれるじゃねェか」

「事実だ」

「そうだな。だが、今だけだ」


 言い切る偉丈夫を見返し、黒衣の男は身体を傾がせる。躊躇いなく後ろへ倒れていく身体は大鐘楼を離れ、空へと堕ちた。

 後を追って飛び降りたドフラミンゴを見上げ、トラファルガーは手を伸ばす。


「さて、どう助ける」

「舐めんじゃねェ!」


 伸ばされた手を引き寄せ、黒衣に包まれた身体を抱える。後ろ手に糸を放って身体に巻き付け自身を固定。抵抗もせず抱えられたままのトラファルガーを睨みつけた。

 投身自殺など造作もなく防げる。そんなことは互いに分かりきっているはずだ。

 元より『時間がない』と言っていた。既に仕込みは終わっており、トラファルガー自身が何をせずとも結果は出るということなのだろう。

 悠々と時間稼ぎに興じながら、黒衣の男は嘯いた。


「ところで、ドフラミンゴ。今回、お前がこの国に海軍を招待してくれたわけだが」

「藪から棒に、嫌味か? そりゃ確かにおれが悪かったが、遅かれ早かれあいつらは来てただろうが」

「いや、むしろ助かった。礼を言いてェくらいだ。ただ、今日は客が多いって話をしてる」

「は、大人気で結構なことだろ」

「トレーボルはビッグ・マムのガキ共と雑魚海賊、賞金稼ぎ共を呼んだ。革命軍は招いた記憶もねェが、麦わらの縁が呼び込んだのかもしれねェな」

「急に何の話だ」

「だから、招待客の話だ。おれも何人か招いた奴らがいてな。サイファーポールなんだが……」

「────は?」

「一応言っておくが、伝手があるわけじゃねェ。積極的に呼んだというより入りやすいよう穴を開けておいてやっただけだ。尤も、ジョーラ達に邪魔されてお目当てのものは盗れなかったようだが」


 地上へと視線を投げかけ、男は嗤う。


「やっぱり世界政府の精鋭は違うな。タダじゃ転ばねェ」

「奴らに何を与えてやったんだ」

「まだ何も。いや、もうすぐか?」

「やけに勿体ぶるじゃねェか……そんなことより、なんだ、この背中」


 無駄話の最中に気付いた。

 黒衣の背。支えるためにそこに回した腕に違和感がある。例えるならば、雲を抱えているような頼りなさ。

 違和感の原因を確かめる前に、トラファルガーが動いた。糸で二人を支えるドフラミンゴの手を掴んで引き寄せ、自身の胸へと押し当てる。


「なァ、ドフラミンゴ。おれはラミと何を入れ替えたと思う?」


 偉丈夫の手を上から覆う死の刺青。その指に力が込められ、ドフラミンゴの手ごと押し込んだ。

 抵抗なく深く沈む掌が、彼の胸に空いた虚を教えた。


 まさか。


 地下の気配を探る。

 崩落に巻き込まれず、形を残した『眠りの家』。その扉の前、見知らぬ仮面の人物が立っていた。

 錠などものともせず蹴り開けられた扉。

 その先にあるものは。


 血の気が引く。

 自身の勝利を確信したトラファルガーの顔に浮かぶ、蕩けるような笑み。


「切り札は最後まで残しとくもんだ」


 低く凪いだ声が囁いた。 




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