風のゆくえ

風のゆくえ

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 “偉大なる航路”前半──。

「…………よし、じゃあこの時間のレッスンはこれまでにしよう。何か質問があったら訊きにおいで。次は夕方、シスターから算数の授業だ」

 背の高い男が、優しい声で数人の子供たちに声をかける。

 子供たちは元気よく「はーい」と返事をしてから、

「起立、礼」

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 と挨拶をする。

「ああ、お疲れさま」

 男はにこやかに、優しい声でそれに応えた。

 ここは、音楽の島エレジア。

 時刻は二時半。

 空は青く澄み渡り、海から吹く風が爽やかな日だった。

 そんな天気だったから、ゴードンは子供たちを外へと連れ出し、外で歌のレッスンを行っていたのだ。

 この子供たちは、半年ほど前に移住してきた孤児だった。

 ウタがエレジアで起こった真実を知り、それをブルックの力添えで乗り越えた後のことだ。

 エレジアを復興させたいという思いから、ウタは修行や音楽活動の傍ら、外部からの移住支援等についてゴードンと相談を重ね、試行錯誤していたのだ。

 音楽の売り上げを使い復興へ向けて職人を雇いながら、移住希望者を探した。そんな中、真っ先に移住を希望したのは、エレジアに近い島にある港町、トナミにある孤児院だった。

 シスター曰く、『ライブで、子供たちが生きる元気をもらった』から。

 両親を亡くしてからずっと暗い顔をしていた女の子が、ある日を境に笑顔を見せるようになった。そしてその子が『あのお姉ちゃんのいる国なんでしょ? 行ってみたいなァ』なんて、自分の気持ちを言うようになったのだから、その気持ちをないがしろにはできない。

 そうして、皆の希望もあり孤児院ごとエレジアに引っ越してきたのだった。

 誰かが先陣を切れば、また誰かがそれに続く。

 そうしてじわじわと増え始めたエレジアの国民は──いや、まだ国民なんて呼べるほどの人数はいないが、もう五十人を上回っていた。

 孤児たちだけじゃない。

 音楽をやりたい大人も。

 復興作業に力を入れると気分がいいから、と居残ることにした職人も。

 この周辺はいい漁場になっている、と移住を頼み込んで来た漁師も。

 少ないながらも、様々な人間が暮らし始めていた。

 国とは言えないかもしれないが、小さな村、くらいは名乗ってもいいのかもしれない。

 それくらいの規模にはなっていた。

 ウタとブルックの修行の余波で壊れたかつての廃墟街には、簡素であるが彼らの居住が新たに建てられている。

 授業に使っていた黒板や資料を片付けようとしているゴードンの耳が、こちらへ駆け寄ってくる、トテトテという小さな足音を拾った。

「ねえゴードン先生!」

 鈴のように可愛らしい高い声。

 ゴードンが振り返ると、そこに小さな女の子が立っていた。

 活発な茶色いボブカットに、曇りのない鳶色の瞳。白く清潔なワンピースが、風に揺れる。

「おやリリー、どうしたんだい?」

 その瞳をキラキラと輝かせながら、リリーと呼ばれたその少女は言う。

「ウタお姉ちゃんと、ブルックおじちゃんは、今度はいつ頃帰ってくるの?」

「……そうだな」

 ゴードンは少しだけ困ったような表情を浮かべてから、思案気に空を仰いだ。

「?」

 そんなゴードンの様子に、リリーが首を傾げる。

 ──全く、あの子たちにも困ったものだ。

 ゴードンは小さく苦笑する。

 あの子たち、というのはもちろん、ウタたちのことだ。

 船出前に、彼女はこの島の島民にこう説明していたのだ。

『ちょっと世界を変えに行ってくるね!』

 なんて。

 まったく、抽象的すぎるなんてものじゃない。言葉足らずなんてものじゃない。

 彼女の“夢”を知る者でなければ、首をひねるのも仕方がない。現に、多くの島民はそのいきなりの発言に皆首を傾げていたのだから。

 さて、子供にわかってもらうには、どこから説明したらいいものか……。

 首を傾げたリリーが、不思議そうに呟く。

「あれ、お姉ちゃんたち、また音楽会しに行ったんじゃないの?」

 その言葉にゴードンは、サングラスの奥の目を大きく見開いた。

 ──ああ、そうか。

 ゴードンは知らない。ウタもきっと、知らない。

 目の前の少女が、暗く濁った瞳で生きて来た世界を。

 ただ、シスターから断片的な話を聞いただけ。

 だが──。

(……その世界を変えたのは、あの子か)

 三人で初めて行った路上ライブ。

 外の世界を──、人々の生きる姿を久しく忘れていた彼女が、心を外へと向ける決定的な契機となった、あのライブ。

 変わったのは、ウタだけではなかった。

 その時彼女は図らずも、一人の少女の世界を変えてみせたのだ。

 希望も楽しみもないと、色のない煤けた世界を見つめるだけの少女の心を、彼女が動かしたのだ。

 音楽と、一つの約束で。

 つまり、リリーにとっての『世界を変える』とは──。

 ゴードンは開いていた目をゆっくりと閉じて、優しく微笑んだ。

 それなら、わざわざそれを正す必要もない。

 そんな彼女が──彼女たちが、気兼ねなく音楽に触れられて、二度と色のない世界に迷い込まずに済むような──。

(お前は、そんな時代を迎えに行ったんだものな)

 自分のことをもう一人の父親と呼んでくれた彼女の顔を思い出しながら、ゴードンは口を開いた。

「ああ。たくさんの世界を変える旅に出たから、帰りは遅くなるかもしれないな」

 その言葉を聞いたリリーが、俯き加減で少し寂しそうに口を尖らせた。

「ちぇ、ツマんないの」

 ぽろりと零れたその言葉に、ゴードンはリリーの頭に、大きな手を優しく置いた。

「安心しなさい。じきに、新しい風が吹く。──“新時代”はもう、目の前だ」

 そうだろう? ウタ、ブルック。

 撫でられて「ひゃー」と言っていたリリーの頭から手を放して、ゴードンはその手を差し出す。

「ほら、みんな君のことを待っているぞ。行こう」

 伸ばされた小さな手を取って、ゴードンはリリーを待つ孤児院の仲間たちのもとへ歩き出す。

「ねえ先生、なにか歌ってよ」

「えっ」

 不意にねだられて、ゴードンはびくりと肩を震わせる。

 そんな二人のもとに、待ちきれなくなった子供たちがわらわらと集まって来た。

「なあリリー、なんの話してたんだ?」

「先生になにか歌ってもらおうと思って」

「えー、どうせならみんなで歌おうぜ!」

「さんせい!! じゃあ、曲は──」

 わいのわいのとゴードンを中心に据えて、子供たちが作戦会議を始める。

 彼ら彼女らの口々から、様々な曲名が上がる。

 その中でも一番人気なのは──。

 ゴードンは、ゆっくりと息を吸った。

 ──やれやれ、声楽はあまり得意ではないのだが。

「この風は──」

 大地のように、低く暖かで雄大な声が響く。

 子供たちは一瞬だけ驚いたようにゴードンを見上げ、そして皆笑顔になって歌を紡ぐ。

「この歌は──」

 風のゆくえ。

 そんなもの、きっと誰も知らないだろうけれど。

 ウタ、お前の描く“新時代”の萌芽は、確かに今、ここに──。

 どこかの海にいるお前に、この歌は届くだろうか。

 目が眩むほど透き通った蒼穹へ、賑やかで美しい歌声が響く。

 その歌は、風に乗ってどこまでも──。

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