The darkest hour is just before the dawn.

The darkest hour is just before the dawn.


※ifDR本編風SSの続きです。






 ただ一人、王宮を駆け戻りながら、ドフラミンゴは考え続けていた。


 十三年前から、ずっと。

 ずっと考えていた。


 何故、彼女が死なねばならなかったのか。何故、あの男は彼女を殺したのか。何故、己は見逃されたのか。


 何故。


 答えのない問いを追う中、大きな動きがあった。トラファルガー・ローが王下七武海の一員となったのだ。

 手配書から消えた彼を追うように旗揚げをした。クルーを頼りに舵を取り、飲まれないよう憎悪の波を渡る。

 まずは生きるに必死のドフラミンゴを置き去りにして、トラファルガー・ローはその在り方を変えていった。

 加盟国の防衛に寄与して秩序として動き、海軍に見せる恭順。噂に聞く穏やかな在り方。新聞の一面を飾る人命救助の様子。それはまるで、別人のような有様だ。

 当時、ドフラミンゴの胸中にあったのは苛立ちと怒り。

 そして、仄かな期待であった。


 あの男は目的を変えたのではないか。

 数年の時を経て、恩人の願いが届いたのではないのか。


 そんなはずはないと分かっていた。

 恩人はろくに話すらできず殺されたのだ。共に旅した己以外、彼女の想いなど誰も知りようがない。

 だが、もし。

 もし、万が一あの男が変わっていれば。変わってくれていれば追わずにすむ。


 自らの思考に気付いた時、ドフラミンゴは改めて認識した。


 己はあの男に会いたくないのだ、と。


 ドフラミンゴとて恩人の願いを叶えたい。彼女の祈りを届けたい。そう思う気持ちに嘘偽りは一片もなかった。

 ただ、あの男が憎くて憎くて仕方がない。彼女を奪ったあの男が憎いのだ。

 ひとたび相見えればきっと、己は彼を殺してしまう。

 目を潰し喉を潰し、無惨に切り刻んで生きたまま火に焚べ、死を請うまで痛めつけて殺す。

 何を引き換えにしても絶対に殺す。

 そんな自分が分かっているから、心底疑いようもなく自身の性がそう叫ぶからこそ、会いたくなかった。


 なんのことはない。

 ドフラミンゴは恐れていた。トラファルガー・ローとの対峙そのものではなく、自身の憎悪に恐怖していたのだ。


 会いたくない。殺したくない。恩人が愛してくれた人間のままでいたい。

 それに、トラファルガー・ローは。

 あの男はドフラミンゴにとって─────


 期待は儚くも裏切られ、調べれば調べるほど彼は変わっていなかった。むしろ、苛烈に秩序崩壊への歩みを進めてすらいた。

 例えば、暴虐を為す軍隊を失権させる。だが、軍という抑止力を失った国は統制を失い、ただ秩序が崩れるのみ。国を失った人々が逃げ惑い寄り添い合う過程で彼は姿を現し、手を差し伸べた。

 各地で起こる紛争の凡そ四割に彼の影があり、首をすげ替えられた王達が血濡れた玉座に並ぶ。

 少しずつ、だが確実に彼は動いていた。秩序の担い手を手折っては世界政府の価値を薄れさせ、人々の内に混沌の中で生きる手段を植え付けて回る。


 時に暴力、時に信仰。

 彼は存在一つで人々を掻き回し、世界の在り方を根本から書き換え続けていた。


 彼の行動全てが悪とは言い切れない。

 誰が糸を引こうと引くまいと秩序は移り変わるものであり、過渡期に彷徨う人々を助けること自体はむしろ善行と言える。

 

 トラファルガー・ローの悪性。

 その悍ましくも強かな本質は、破壊や謀略の奸悪さにはない。

 真の脅威はその進行速度だ。


 百年かけて崩れる国を一蹴りで壊し、また百年かけて生まれる国を瞬き一つで組み上げる。そうして彼は、本来別の時代に起こるはずの崩壊と新生の数々をこの時代に収束させてきた。

 収束点は彼自身。

 彼が世界に牙を向けば、数百年単位の異常進化が人々を襲う。逆に世界が彼に手を出せば、彼を爆心に崩壊した秩序が大津波となって人々を飲み込む。


 王手はとうの昔にかけられていた。


 だが、彼はそれ以上盤面を進めようとはしていない。不気味な沈黙の影で駒を集め続け、さらに盤面を広げるばかり。

 意図の読めない行動は彼の暗躍に気付く者全てを脅かし、疲弊させていた。


 いずれ時は動くだろう。恐怖に負け、彼を害する者が必ず現れる。

 その時、彼は刀を取るか、或いは────


 何にせよ、結果は同じ。

 彼は本物のバケモノに成る。


 それだけはならない。

 会わなければ。会って話さなければ。彼女の代わりに彼を止めなければ。

 そう心に念じながらも常に思っていた。


 どうやって?


 恩人の心を伝えることはできるかもしれない。だが、はたして、あの男を止めることはできるのだろうか。

 彼女の死ですら、彼を加速させるばかりだったというのに。

 もはや、制止する手立てなど世界のどこにもありはせず、トラファルガー・ローは目的を成し遂げるのではないか。

 あの男自身が方針を変えない限りは。


 そもそも、わからないのだ。

 何故、彼が世界を壊したいのか。

 その歩みを探るほどに分からなくなる。


 ベビー5の告白を経て真実を知った今、なおさらあの男の真意を理解できない。

 何故、妹の仇を部下に据え続けるのか。何故、麦わらや己を助けたのか。

 医者としての顔。争いを生み出しながら人の死を厭う性質。ただ暴虐のみを為せる程に圧倒的な能力を持ちながら人々に生きる術を説く姿。

 知れば知るほどに謎は増えていく。


 このまま進んで、何も分からないままあの男に対峙する。それでいいのだろうか。

 もし、恩人の遺志を伝え、それでも彼が止まらなかったとしたら。その時、己はどうすればいいのだろう。


 もし、彼が死を望んでいるならば。

 その時、己は。


 足が止まる。

 手には意味を無くした鍵。お気に入りの外套は置いてきてしまった。クルーはいない。誰もいない。誰も導いてくれない。


「くそ……」


 喧騒から離れた王宮はやけに静かだ。

 足音が途絶えてしまえば、恐ろしげな静謐が迫る。

 指先を侵食する、灯りのない夜のような薄寒さ。


「ここまできて馬鹿じゃねェのか!」


 思わず幼少期からの癖で足を踏み鳴らす。その数歩先、締め切られた窓を一つの影がよぎった。

 顔を上げると同時に、舞い戻った影が飛び込んでくる。


 けたたましい音と共に散る硝子。

 きらきらと輝く破片。


 陽光を纏い、その男は振り返った。


 麦わらのルフィ。

 同盟を組んだ青年。


 彼は目を眇めてこちらを眺めた後、実にあっけらかんと笑う。


「誰かと思えばミンゴか。こんなところで何やってんだ?」

「……何もしてねェよ」

「いやだって、今すげェ足を」

「何も! してねェ!」


 さらに足を踏み鳴らせば、ルフィは口を噤んだ。その顔から笑みが消え、ただ無言で見上げてくる。

 どちらかといえば能天気とすら言える青年が黙り込むと妙な迫力があった。

 ドフラミンゴを見る目は心中を見透かすようでいて、そのくせ嫌味は全くない。


「ミンゴ、何でこんなとこにいるんだ」

「何でって、そりゃ鍵を見つけて戻ってきたからに決まってる」


 まあ、その鍵も意味はないのだが。

 苛立ちを隠せないドフラミンゴを見上げ、青年は首を傾げた。そして、何か思いついたように背を向けて数歩進む。

 硝子を踏んだ草履が音を立てるが構った様子はなく、再び振り返った彼は右足を後ろに引き腰を屈めた。

 握りしめられた両の拳がぎしりと音を立てる。


 それはまごうことなき戦闘態勢。


「────は?」


 呆気に取られるドフラミンゴを前に、青年は告げた。


「よし。やろう」


 意味がわからなかった。

 勘違いで巻き込んだとは言え、同盟は同盟。海賊に裏切りはつきものだとしても、この青年が裏切るとは想定外だ。まして、本番を前にしていきなり敵対するなど理解を超えている。


 そこまで考えて、気づいた。


 もしや、己は、この訳の分からない年若き海賊を、馬鹿としか思えない無鉄砲な青年を、心の底から信用していたのか。

 裏切るわけはない、敵対するわけはない、と。

 何の根拠もなしに。


 混乱するドフラミンゴをじっと見つめ、青年は顎をしゃくる。


「ほら、準備運動ってやつだ」

「馬鹿言え。こんなところで無駄に消耗できるか」

「無駄じゃねェ」


 声音が特段鋭いわけではない。語調が厳しいわけでもない。

 ただ静かなだけの声がやけに響いた。


「だってお前、立ち止まってたじゃねェか」


 目を見開く。


 そうだ。

 立ち止まっていた。やるべきことは決まっているのにその先を考えて足を止めた。

 猛烈な羞恥が身体中を駆け巡る。


 それでもなお、足は止まったまま。

 何かを拒むように前に進めない。


 分からないのだ。急に分からなくなってしまったのではなく、ずっと悩んでいた。

 どうしていいのか。本当に恩人の思いを伝えられるのか。どうすれば、嵐と化した彼を止めることができるのか。

 何より分からないのは自分自身。

 ドフラミンゴ自身が彼をどうしたいのか。十三年、いやトラファルガー・ローと会ったあの頃からの記憶と感情が絡まり合って、もう何も分からない。


「ミンゴ。お前、動けねェんだろ」


 顔を上げた。

 麦わらのルフィ。

 己より年若く、体躯も小さく技も未熟。大言壮語もいいところの身の程知らず。そのくせ進む速さは誰にも負けず、行く先々で世間を騒がす不思議な青年。

 思い出すのはシャボンディで見た拳。ドフラミンゴが臍を噛んで、否、ただ足踏みをして立ち止まっていたあの日、彼の拳は確かに世界を動かした。

 守りたかった兄の命を取りこぼした後悔を刻み、それでも力強く握りしめられた手。胸に大きな傷を残したまま、自由に突き進み続ける小さな嵐。


 この男ならば。


 視線が合う。

 ルフィが口の端を引き上げた。


 風切音を立て振るわれた左足がドフラミンゴの脛を撃つ。覇気を纏い黒く染まった足は互いにびくともせず、衝撃だけが突き抜け王宮を揺らした。

 衝突は雷鳴に似て激しく、二人の存在を高らかに示す。

 それは生まれながらにして備わり、磨かれることによって発現する、言うなれば王の資質。

 ドフラミンゴとルフィ、互いに未だ何者にもなれない覇者の卵。それでも、二者がぶつかり合うだけで世界は揺れた。

 威風が抜け晴れた視界の中、麦わらが身体を反転させる。上体を狙い放たれるのは鞭のような蹴り。受け止めた前腕がぎしりと撓んだ。

 鈍い痛みを感じながら、ドフラミンゴは唇を噛み締める。


 麦わらの言う通りだ。

 動けない。

 この十三年、何度も夢をみた。迫り来る民衆を前に動けない夢。炎の中で縛られ動けない夢。宝箱の中で動けない夢。

 動かなくなった弟の夢。

 己が手で動けなくした父の夢。

 ゆっくりと動きを止める恩人の夢。

 目の前で動かなくなる男の夢。

 恩人の想いも伝えられずにただ男を殺す己の姿を、幾度も、嫌になるほど繰り返し夢に見てきた。

 真実を知る前ですら目覚めの気分は最悪で、真実を知ってからは恐怖を伴うほど。

 それはまるで己が眼で見てきたかのように鮮明で、匂いや感触を現実に引き摺るほどの悪夢だった。


「何考えてんだ」


 言葉と共に再び繰り出された蹴りを受け止めれば、間髪入れずに次の攻撃がくる。

 狙われたのは胴。注意どころか意識も散漫なドフラミンゴはこれを止めきれない。

 衝撃につま先が泳ぐ。

 それでも足裏はまだ地を離れない。まるで自ら縫い留めたように地を踏み締めたままだ。自縄自縛もいいところである。

 怒りや不安、焦燥、羞恥。ぐるぐると巡る感情全てを吐き出すように猛る。


「何も考えたくねェんだよ……考えても、考えても全然分からねェ!」

「何がだ?」

「何もかもだ!」


 叫んで殴り返したドフラミンゴに問いを返し、ルフィは身体を捻った。

 放たれるのは撓る回転蹴り。引き伸ばされ極限に増したゴムの猛威。腹を撃ち抜かれ、身体がくの字に折れ曲がる。

 空気と共に血を吐き出したドフラミンゴを見上げ、青年は追撃の拳を振るった。頬を強か殴りつけられ、頭を揺らしながらも何とか踏ん張る。

 衝撃を流す方がいいと思考の片隅で理解していながら、何故か真正面から受けてしまった。

 歯を食いしばり向き直る。

 ずれたサングラスを通し見えるのは、何も考えていないような麦わらの顔。


「ミンゴ、お前馬鹿だなァ!」

「あァ⁉︎」

「自分で考えて分かんねェなら訊けばいいじゃねェか!」


 言葉と共に真下から放たれる蹴り。

 踵が顎を撃ち抜いた。

 思わず仰け反ったドフラミンゴは無意識に見聞色を発揮してしまい、跳躍したルフィの軌道、さらにその先を読む。


 そして、天井の向こう。

 謁見室の王座、二人の戦いを眺める気配に気付いてしまった。


「何を訊けってんだよ‼︎」


 どうしたら手を引いてくれるのか。どうすれば話を聞いてくれるのか。何があれば止まってくれるのか。そんな益体もないことを尋ねたところで、馬鹿正直に答えてくれるような男ではない。


 振り抜いた拳を逆に掴まれ、支点にされる。背中を蹴り付けられ、前に傾ぐ身体。糸で体勢を引き戻せば、再び飛び上がって激しい回転をみせる麦わらが目に入った。

 錐にも似た蹴りが胴を掠めて地を穿つ。

 落下地点を狙って入れた糸の波濤。それをも足蹴に距離を取られ、ドフラミンゴは青年を睨みつけた。


「何を訊けって、言うんだよ」


 土煙の向こう、ルフィは口を曲げる。


「知らね」

「はァ⁉︎ てめェが訊けって言ったんだろうが!」

「だってよ、お前が訊きてェことなんか知らねェし。大体何悩んでんだ、ミンゴ」


 腰に手を当てて尋ねる麦わらに苛立ちが募り、拳を振りかぶる。渾身の殴打は交差した両腕に受け止められ、隙間から覗く瞳の真摯さに息を呑んだ。

 殺しきれないインパクトは青年を弾き飛ばし、たたらを踏んだ彼が顔を上げる。

 反撃を予期して構えるが、彼はその場に立ったまま口を引き結んでいた。

 質問は既にしたのだからさっさと答えろとでもいうように、直向きな視線がドフラミンゴを射る。

 煮詰まって凝り固まったどす黒い懐疑。喉を通すには強固なそれを何とか絞り出すそうと俯いた。

 溢れる思考の根底は問いではない。

 これは弱音だ。

 そう正確に理解してしまい、ドフラミンゴは眉間に皺を寄せる。


「……分からねェんだよ。あいつが何考えて世界転覆なんざ願ってるのか。それをどうやって止めればいいのか」


 鍵を探す合間、麦わらに聞かれて恩人の話をした。


 心を救ってくれた人がいたこと。

 その恩人が兄の暴走を止めようとしていたこと。

 彼女が道半ばでこの世を去ったこと。

 遺された自分は彼女の遺志を継ぐ必要があること。


 青年はそれを聞いてただ頷いていた。

 今もまた、彼はただ話を聞いている。


 口を挟まれないからこそ、曖昧模糊として形にならない思念が溢れた。


「いっそ殺しちまえば止めることだけは出来ると思ってた。だが、あいつは自分が死んでも計画が進むように仕掛けてやがる。何なら、この戦いで死のうとしてるかも知れねェ」


 自分で言って血の気が引く。

 馬鹿馬鹿しい。悪夢は所詮ただの夢だ。あの男がむざむざ死ぬわけはない。

 大丈夫だ。そもそもあの男は殺しても死なない本物の強者だ。何より、恩人の信じた自分を信じなければ。

 そう、何度も自分に言い聞かせてきた。

 それでも己を信じきれないのだ。

 

 項垂れたドフラミンゴを見つめ、ルフィが腕を組む。


「ミンゴ。お前のしたいことって何だ」

「言ったろうが。コラさんの代わりにあいつを止めたい。コラさんの言葉をあいつに届けたい。それだけだ」

「そっか。わかった、手伝うよ」

「は?」

「約束だからな。ミンゴが困った時は絶対に助けてやる」


 掌に拳を打ちつけ、ルフィが笑う。


「動けねェなら動けるように背中を押す。分からねェなら一緒に考える。心が決まらねェなら決まるまで付き合う。友達ってそういうもんだろ」


 とん、とん、と。

 その場で飛び跳ねて身体を解し、再び構えた彼は軽い音を立てて跳躍した。


 高く、遠く。

 眩しく。


 ルフィが叫ぶ。


「まずは、そこを動かしてやる!」


 天井に届くほど高く伸ばされた両腕。

 後ろに引き絞られた掌がきりきりと音を立てる。


「“ゴムゴムの”────」


 見るからに大技。武装色に染まった両腕は勿論、表情も完全にやる気そのもの。


 いや。

 背中を押すって、物理か?


 それまでの湿った思考が崩れ、極めて単純なツッコミが心を占める。


「────“鷲バズーカ”‼︎」

「馬鹿かてめェ!」


 思わず後ろに飛び退いた瞬間、見えてしまった。

 してやったというような。

 やたらに憎たらしい顔が。


 瞬間的に頭に血が上り、糸を絡めて蹴りを放つ。反動で宙に浮いたままのルフィは両腕を交差させて衝撃を凌ぎ、天井を蹴り付け地に降り立った。

 糸が掠ったのだろう、頬には血。

 しかし、浮かぶ笑みは未だ変わらず不敵なままだ。


「動いたな?」


 怒りに頬を引き攣らせたドフラミンゴは、震える手でサングラスの角度を正す。

 手伝うなどと言って、この青年がしている行動は動揺を誘っているだけだ。

 いや、本当は分かっている。

 麦わらの言動に動揺しているわけではない。元よりドフラミンゴの精神が安定していないのだ。


 トレーボルの語る未来。

 トラファルガー・ローの死。

 それはきっと、嘘などではない。


 ぎりりと奥歯を噛み締めたドフラミンゴは辺りに糸を張り巡らせ、指をしならせる。絡め取られた煉瓦や硝子、調度品の数々が宙に浮かんだ。


「フッフッフ、お返しだ」


 一気に腕を引けば、巨塊となったそれらがルフィを襲う。四方八方を埋め尽くすほどの質量。目を剥いた青年が拳の乱打で全てを粉砕し、辺りは粉塵に霞んだ。

 土煙の向こう、麦わらが大口を開け非難の声を上げた。


「ミンゴ、この野郎! 何すんだ!」

「そりゃあこっちのセリフだ、このクソガキ!」


 みっともないとは思いつつ、あまりの苛立ちに唾を飛ばして怒鳴り散らす。


「人が頭捻って悩んでる時に邪魔をしやがって! 馬鹿なら馬鹿なりに黙ってろ!」

「考えても答えがでねェんならそれこそ無駄だろ? 人のこと馬鹿馬鹿言いやがって、そっちこそ馬鹿じゃねェか!」

「うるせェ! ならお前、どうすればいいか分かるんだろうな⁉︎  あの男を殺さずに止めて話を聞かす方法が!」

「最初から言ってるだろ! 何でそんなことすんのかトラ男に訊いて! お前の大切な奴の言葉をそのまま伝えて! それでもダメなら殴り飛ばす! それだけだ‼︎」


 鼻息も荒く言い切るルフィの顔。具体的な作戦など皆無に等しいと物語るその表情を見て、ドフラミンゴは唖然とした。

 麦わらは決して、出来もしない夢想を語っているわけではない。

 本気で出来る。

 否、やろうと決めているのだ。


「殺る気でかからねェとこっちが死ぬぞ」

「分かってる。でも、ミンゴ。お前、トラ男に死んでほしくねェんだろ?」


 反論しようとして開いた口は、しかし、言葉を紡げない。


 気付いていた。

 ベビー5から真実を聞かされた時、心底安堵した自分に。


 ああ、いいんだ、と。

 そう思った。


 憎まなくていい。憧れたままでいい。苦しまなくていい。許していい。

 あの男を。

 もう一人の恩人を。

 トラファルガー・ローを殺さなくていい。


 彼が死ねば世界の秩序が崩れるから。彼をバケモノにしてはならないから。“コラさん”がそれを望まないから。“コラさん”の望んだドフラミンゴでいたいから。

 数々の理由をつけて、自身の耳目を塞ぎ続けていた。


 本当はただ、ドフラミンゴ自身がトラファルガーの死を拒んでいたのだ。


 呻きを上げ、ドフラミンゴは呟く。


「おれは、おれ自身が信じられねェんだ。箍が外れりゃあいつの心臓をぶち抜くんじゃねェかと気が気でならねェ」

「こえーこと言うなあ。んー、仕方ねェ。そうなったらおれがお前を止めてやる。その代わり、トラ男がおれのパンチで潰れそうな時はお前が止めろよ」

「ガキが偉そうに……」


 ドフラミンゴは掌で顔を覆い、ため息を吐いた。

 その『ガキ』に諭されて、何なら導かれている己は何なのだ。

 ふつふつと。否、もはやこんこんと湧き出ずる恥の念から顔を上げられない。


 そもそもだ。


 “コラさん”を信じると心に決めておいて、よりにもよってトレーボルの言葉で揺らぐとは何事か。

 ドンキホーテ・ドフラミンゴは揺らがない。揺らぐわけにはいかないのだ。


 そうと決めたらやり通す。それは恩人から受け継いだ世界の歩み方。


『悪いことをしても後悔と反省をして自分を正せる』

『自分が変われば自分を取り巻く世界も変わっていくのを、あの子は知っている』


 そう言ってくれた彼女の言葉を真実にするために、自身を、世界を、あの男を変えてみせるのだ。

 そして、彼女の想いを伝える。そのために十三年歩み続けてきたではないか。

 何もなさないまま、ここで足を止めていいわけがない。


 噛み締めた歯の隙間から、苦し紛れに言葉を振り絞る。


「一つ。一つだけ訂正させろ」

「何だよ」

「友達じゃねェ。同盟だ」

「一緒じゃねェか」

「違う。全然違う」

「違わねェ。友達は友達だ」

「あァ?」


 ドフラミンゴの額に青筋が浮く。ルフィの片眉が跳ね上がった。


 二者の視線がぶつかり合う。


 一点突破と拳を引き絞るルフィ。

 対するドフラミンゴは糸を張り巡らせ、攻防一体の構え。


「“ゴムゴムの”────」

「────“蜘蛛の巣がき”」


 凄まじい音を立てて激突する二人。


 闘争の余波は空気を震わせ、王宮のみならず高台全体を大きく揺らした。

 準備運動の域を超えた技の数々が繰り広げられる。

 互いに一歩も引かない若者達の、世にも無駄な殴り合い。

 じりりと前進しながら計画のけの字も残さず吹き飛ばし合い、二人の戦いは続く。




 王宮の廊下、謁見室に続く扉の前。

 黒衣の男が重厚な扉を開けて現れる。

 静謐さを纏う視線の先には、二人の青年が倒れ伏していた。


「何やってんだ、お前ら」


 呆れるでもなく怒るでもない無味乾燥の問いに、呻き声を返すドフラミンゴと笑う麦わら。前者の顔面には殴打の痕が見受けられ、後者の身体は糸で雁字搦めに拘束されている。


「仲間われか」

「仲間でも、ねェ……」


 無理に身体を起こして反論するドフラミンゴだが声に力が入っていなかった。打ち所が悪い様子はないため、単なる疲労がそうさせているのだろう。

 ともかく、この為体で向かってこられては加減を誤る。そう考え、表情すら変えずに左手を振るった男の前で二人の姿がかき消えた。

 送り先は旧王城跡。怪我人が集められたそこではマンシェリー姫と軍医が協力してことにあたっている。もう二人ばかり患者が増えても対処は可能だろう。


 男は謁見室へと引き返し、玉座ではなく窓辺に腰掛けた。


 予想を外れ、ドレスローザは防衛に成功している。四皇の手の者が去ったとは言え、新世界の猛者を相手取りこの成果は理解し難い。

 そう思いはしつつ、男の眼はどこか柔らかな光を抱いて瞬く。


 もういいよな。


 師に向って囁いた言葉を繰り返し、彼は窓枠に寄り掛かった。

 聞こえるのは歓声と風の音。遠くの海の音。爆発と剣戟の音の隙間を縫い、十年慣れ親しんだ響きが鼓膜を震わせる。


 ふと、強い視線を感じた。

 発生源は王城跡。この距離で互いを認識できる相手は一人しかいない。


「姫様」


 知らず呟く口元を袖で覆い、黒衣の男は目を伏せる。もはや何を隠す必要もないのだが、身に染みついた癖がそうさせた。


 絢爛の春、花薫り風光る丘。

 眩い夏、歌馴染み影踊る夜長。

 秋の実り、宴に見上げる星月夜。

 冬籠り、空の器に満ちる胸。

 巡る季節を共にして、幾度も心を覗かれた。心を開き侵入を許したのは自身であり、それもまた嘘を上塗りするための杜撰な工作の一環だ。

 結局のところ、人は見たいものしか見ることは出来ず、それは能力を使ったところで変わらない。

 彼女はトラファルガー・ローという悪人の善性を信じたかったのだろう。たとえそれがどれほど微かな光であっても、信じることが出来るのが善人なのだ。


 ただ、十年。それは、全てを偽りで埋め尽くすには膨大で濃密な時間だった。


 十年、この国と共に歩んだ。

 塗り重ねた仮面の隙間。そこから見る人々の営みは目も眩むほどに鮮やかで、無遠慮に触れてくる掌はあたたかかった。

 祖国とは似ても似つかない、太陽の国。


 自身が去った後、訪れるはずの混沌。

 太陽にも翳りは生まれ、再び苦難が訪れるだろう。

 だが、もしかすれば。

 この国であれば、きっと。


 実に身勝手で無責任な夢想を胸に抱き、男は窓辺を離れる。


 今、彼が待つのは嵐。

 現状を打ち砕く青々しき奔流。


 壊れた玉座にて男は待つ。

 待ち焦がれた時を前に、その唇は微かな笑みを浮かべていた。


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