The Perfect Storm
※色々な概念をお借りした怪盗ifミンゴDR本編序章風(?)SSです。
そもそも最初から何かがおかしかった。
どこかぼんやりとした視界の中、誰かが必死に呼びかけている。
少し離れた場所で言い争う複数の声と悲鳴が聞こえ、やたらと通る凪いだ声が何事かを呟くと同時に衝撃音が響いた。
なんだ? 何が起きている?
動かない身体に反し、徐々に回復し始める意識。ゆっくりと血が巡るように、ここに至るまでの記憶が蘇る。
同盟結実後、ドレスローザに向かったドフラミンゴと麦わらの一味は、海路の途中でトラファルガー・ローに連絡を取った。なお、正確には連絡相手は本人ではなく、部下のベビー5。彼女は頼まれると断れない癖があり、とどのつまり、紆余曲折あれども連絡そのものには成功したわけだ。
伝えたのは二点。
『グリーンビットでシーザーを引き渡す』
『引き渡しの代わり、期日までに今の地位を全て捨てろ』
無視されるかと思いきや返事があった。ただし、『来るのは構わないがシーザーは必要ない。今更どうなるとも思えないが、お前らにとっても海に捨てた方が身の為だ』という忠告じみたもの。
意図を問おうとしたその直後、『粛清だ! 若様を裏切った奴は処刑しなきゃ! 蹴り殺してやる!』と大層物騒な叫びと共に通信が一時途絶。律儀にも掛け直してきた男は何事もなかったかのように『引き取りに行く』と告げた。
急な方針転換に警戒を強めるドフラミンゴに対し、トラファルガー・ローは『麦わらには良い物を用意した。遅れるなよ』などと宣った。
完全に舐められている。
怒り心頭でドレスローザについてみれば、自立して動くおもちゃが闊歩する不可思議な風景の中、人々の営みは幸福に満ち、一片の影も見られない。
道行く老婆から『海賊の方? 闘技会に参加されるなら急いだ方が良いですよ』などと心配される始末だ。
当然というか、ほぼ予想通り、トラファルガー・ローは地位を捨てることなく、ドレスローザで待っていた。ヴェルゴの件が公となっても、国内での地位と信頼を揺らがすには至らなかったようだ。
ドレスローザ国民曰く、救国の大英雄。
英雄といえど、流石に銅像は建っていない。建てようとして当の本人に止められたというのが真相のようだ。助かった。銅像などあろうものなら衝動的に破壊しているところだ。
英雄の銅像といえば、不思議な話も出ていた。闘技場に謎の『英雄』像があるらしい。二十年前まで活躍していた闘技場の伝説的英雄を模した像だが、おかしなことに当の英雄について知る者は誰一人としていないのだという。
闘技場には麦わらが向かっている。
麦わらは話を聞かず、我先にと船員数名と侍を引き連れ飛び出して行った。
トラファルガー・ローが麦わらに用意したらしい『良い物』。シスターによれば、グリーンビットで見つかったその珍妙な果実はドレスローザ国王の手を経てトラファルガー・ローへと渡り、今回の闘技会の優勝賞品となっているという。
麦わらは今頃、闘技場で暴れているのだろうか。
頭が痛い。
いや待て。
本当に頭が痛い。
心労から来るストレス性の痛みではなく、外傷による鋭い痛みが襲ってくる。頭だけではなく、骨身が軋むような。
おかしい。
まず、己は何故──────
「気がついた! もう大丈夫だ!」
目を開けてまず視界に入ったのは、麦わらの一味の船医、チョッパーだった。
声をかけようとしたその時、大波と共に船が傾き、強烈な揺れに襲われる。
「おっとこれは危ない。失礼しますよ」
ブルックに肩を押さえ込まれ固定されてはじめて、己が倒れていたことに気付く。
背中に当たるのは芝生。つまり、ここはサウザンド・サニー号だ。
いつ船に戻ったのか、全く記憶にない。
サンジとナミが舵を取り、鎖で柱に固定されたシーザーが何か喚いている。
「あのまっくろくろすけ! どうせなら最後まで対処していきなさいよね!」
「巻き込まれる! 風来バースト行くぞ、掴まれ!」
サンジが叫ぶと同時に激しい射出音。身体が宙に浮き、今度はチョッパーとブルック二人がかりで押さえ込まれた。
なんだ? どうなっている?
「まだ身体を起こしちゃ駄目だぞ。頭を打ってるんだ、ちょっと安静に……」
船医の指示を無視して起き上がれば強烈な眩暈に襲われた。吐き気を堪え、よろめきながらも何とか立ち上がる。
外を確認するために身を乗り出すと腕を掴まれ引き止められた。誰かと思えばサンジだ。彼は渋い顔で煙草の端を噛み、手に力を込める。注意を引こうとしただけではなく、ふらつくドフラミンゴを支える意味もあったらしい。
こういう咄嗟の行動に善性が表れるものだ。今後の参考にしようと、逸れる思考の中、記憶の端に留める。
ドフラミンゴを見上げ、困惑も顕にサンジが言った。
「おい、ドフラミンゴ。お前、まさか敵と通じてるってことはねェよな?」
「は?」
「状況からして違うってのは分かっちゃいるが、いくらなんでもおかしくねェか」
海面を遥か眼下に空を駆けるサウザンド・サニー号。
目の前の光景とサンジの言葉に呆気に取られる。動揺するドフラミンゴを他所にサンジが続けた。
「おれ達がドレスローザに着くとほぼ同時にビッグ・マム海賊団が現れた。偶然とは思えねェ」
「ああ。そんなこと言ってたな」
「確かにおれ達はあいつらにケンカを売ったが、モンドールもスムージーも何か別のもんを追ってやがった。とやかく言いたかねェが、お前の出自も気にかかる。お前、何か知ってるんじゃねェのか」
まだ頭に靄がかかっている。
モンドールにスムージー、ビッグ・マム海賊団。ドレスローザ襲撃。
そこまで考えた時点で、全く聞き覚えのない情報が混じっていることに気付き、愕然とした。
「いや待て。てめェ、今、ケンカを売ったとか言ったか? ビッグ・マムに⁉︎」
「前にな。ルフィのやつ、言ってねェのかよ。そりゃすまねェ。だが、これは本格的に巻き込まれただけか……?」
ドフラミンゴの足取りがはっきりしだしたのに気付いたのだろう。腕を離し、サンジが思案し始める。
空を飛ぶ振動に鈍く痛む頭を抱え、ドフラミンゴもまた記憶を辿りだした。
時は遡り、数時間前。
ドレスローザに到着したドフラミンゴ達は、船番組とシーザー引渡組、さらにルフィ率いる調査・戦力組に別れ、それぞれの目的のために移動を開始した。
ルフィに関してはメラメラの実の話が浮上した時点で捕捉すらも諦めていた。案の定、一も二もなく闘技場にすっ飛んでいったと言うのだから、ここ数日での印象に間違いはない。嫌な確信を得てしまったドフラミンゴである。
調査組には他にサンジとフランキー、錦えもんにゾロがいる。後者はともかく前者は手堅く動いてくれると踏んでいた。
実際途中まではうまくいっていたのだ。
強いて言えば、カフェの店員やシスターに話しかける度にウソップの目が胡乱気になった程度のものである。
雲行きが怪しくなり始めたのは、シーザー引渡組であるドフラミンゴ・ロビン・ウソップがグリーンビットに到着したあたりからだ。
島に突き刺さる形で停泊している海軍の船舶。その周辺に人影はなく、海兵らは既に交戦状態へと入っていた。
不可思議な原生林を駆け回る何者か。それを追う海賊と、彼らと交戦する海兵。
想定外の状況だ。
そして、さらに事態は加速する。
情報収集に出たロビンとウソップの連絡を待つ間に、調査組のサンジから緊急連絡が入った。
どういう流れか、サンジは市街地で追われていたこの国の王女を助け、行動を共にしているらしい。
ドレスローザの王女といえば、確か状況把握に長けたタイプの能力者だ。彼女の能力で海賊団の目的や動きが分かったのだろうか。思案する間にもサンジの声が焦りを帯びていく。
曰く、市街にビッグ・マム海賊が現れた。シャーロット・モンドールとその部下が町を破壊して回っている。彼らは古い地下道から侵入し一旦グリーンビットへ渡った後、ドレスローザへ戻り小人族の姫を探して暴れているらしい。
また、ビッグ・マム海賊団の勢力はモンドールだけではない。コロシアム方面に三将星が一人シャーロット・スムージーが出現、闘技会は混沌と化した。
『────トラファルガーの配下が離──待て! ドフラミンゴ、お前もビッグ・マムの標的になったぞ! 生捕りにしろって、元天竜────プリンセス、今何て⁉︎』
電伝虫から流れる爆発音と、それにかき消され途切れがちなサンジの声。驚愕に跳ねた語尾を最後に沈黙した電伝虫を見下ろし、ドフラミンゴは歯噛みする。
間の悪いことに、この連絡を受けた時点でドフラミンゴの視界の端には黒衣の男の姿が入っていた。
さらには、海軍大将の姿も。
情報収集に出ていたロビンが地面から上体のみ現し、今は地下におりドフラミンゴのサポートは出来ないと告げた。危険はないようだがトラブルが起きているらしい。
「……想定外が過ぎるだろうが」
額に青筋を浮かべ、ドフラミンゴは前方を睨みつけた。
白砂の上で佇む黒衣の男。
そして、原生林から姿を現す海軍大将。
二人は互いの存在に気を払うことなく、その場に留まっている。
ドフラミンゴは異様に怯えるシーザーの襟首を掴み、引き摺るようにして歩を進めた。
「よォ、待ったか?」
呼びかけに応えはない。
夏日の厳しい日差しの下にあっていっそ清々しいほどに着込んだ男は、過去と一切変わらぬその顔を上げ、小さく呟く。
「ドンキホーテ・ドフラミンゴ。お前、あの時の子どもか」
「────そうだ。二年前は気付いてもらえねェでガッカリしたよ」
トラファルガー・ローに名を呼ばれた瞬間、胸に吹き荒れた大嵐を何と呼ぶのか。感情の揺れをサングラスの位置を正すことで抑え、ドフラミンゴは笑ってみせた。
それでも心音は打ち寄せる波の音より遥かに騒がしく、心底忌々しく思う。
「『蹴り殺す』だったか? まァ、足抜けした上にてめェを脅してんだ。裏切り者にゃ違いねェ。処刑の日程はいつだ? スーツを新調するから教えてくれよ」
「何を言っている」
「てめェの配下が叫んでただろうが。おれを処刑するとかなんとか」
「ああ、それはお前の話じゃねェ。蹴り殺されるのはそこの科学者だ」
トラファルガー・ローの淡々とした処刑宣言にシーザーが震え上がった。もはや言葉もない様子だ。
喧しく騒いでいた男の変貌にドフラミンゴは嫌な予感を覚える。
「待て。こいつは如何にもな屑だが、お前には従順に働いてたんじゃねェのかよ」
「その男の雇主はおれじゃねェ。カイドウだ」
無味乾燥の面持ちで告げられたのは衝撃の事実。
トラファルガー・ローは平然と人を謀る悪党ではあるが、意味もなく嘘を吐くタイプでもない。また、シーザーが大きく飛び上がったことでその言葉の信憑性は格段に跳ね上がった。
真実だとどこかで理解しつつ、未練がましく呟く。
「だが、お前の配下が……それにお前の技の痕跡だって」
「ダチの頼みだからおれも一度は見に行った。部下に様子を見に行かせたこともある。帳簿の流れは見たか? 見てねェだろ。そうでもなけりゃそんな勘違いはしねェだろうからな」
言われてみれば、帳簿は見ていない。いや、正確には閲覧制限がかかっており覗くことができなかった。
パンクハザードで覚えた、何か壮絶な勘違いをしているような感覚。当初から己の首にやんわりと手をかけてきていたその感覚がどんどん現実味を増していく。
「そいつはうちの者を利用した挙句、カイドウとビッグ・マムを騙して研究三昧に興じていた。おれが処断しようがカイドウも文句はねェだろう。裏切られたってわけじゃねェが、こっちは迷惑被ってんだ」
トラファルガー・ローの言葉を受け、無言でシーザーを見つめる。疑惑の科学者は馬鹿にするようでいて取り縋るような珍妙な表情で叫んだ。
「何度も言ったよな? てめェの取引は成立しねェってよ!」
確かにシーザーは繰り返し訴えていた。
曰く、ジョーカーにとって自分は何の価値もない人間だ。
取引は絶対に成立しない。むしろ不快にさせるだけ。
大体てめェ誰を敵に回したか分かってんのか!
これらは全て、トラファルガー・ローの周囲に山程いる狂信者特有の賛美だと思っていた。まさか、単なる事実を述べていただけとは。
青ざめたドフラミンゴは、脳内で情報を結合する。
つまりシーザーの言葉の意味はこうだ。
ジョーカーにとって自分は『部下どころか知り合いですらない』何の価値もない人間だ。
『研究に関与していないジョーカーに自分の身柄を引き渡す』取引は『そもそも取引として』絶対に成立しない。むしろ『ジョーカーを利用した自分を連れてツラを出すなど』不快にさせるだけ。
大体てめェ誰を敵に回したか分かってんのか、『カイドウとビッグ・マムの四皇二人だぞ』!
「嘘だろ……」
呆然と呟くドフラミンゴから視線を外し、黒衣の男は遠く海境を眺めている。こちらに全く関心をもっていない様子で、何故か時折手を動かしては顔を顰めていた。
森で交戦する海兵らの声が響く。
サンジの言によれば、ドレスローザに現れたのはビッグ・マム海賊団。さらに、ドフラミンゴ自身も標的になったとも言っていた。
「おれがあいつらを呼び寄せたのか」
ドフラミンゴが奥歯を噛み締めていると沈黙を保っていたもう一人の人物が動く。
藤色の着流しと純白のコートを纏った壮年の男。海賊大将“藤虎”、その名をイッショウ。世界徴兵で任に就いた、盲目にして千里を聞く折り紙つきの武芸者だ。
閉じた瞼の下、何を視るのか。正義を背に男は問うた。
「お話は終わりですかい、お二方」
「元よりこちらは呼び出された側だ。おれから話すことは何もない」
「へえ、左様で……しかし、ちょいと都合が良すぎりゃしませんかね」
白杖がわりの仕込み刀で地を叩き、武芸者は言う。
「あっしら海軍もまた、呼び出されたようなもの。話を聞いてりゃ、あんた、怪盗の旦那が思い違いしているのにも気付いてらした。旦那らを追って四皇の手の者が現れるのも視えてたんじゃあござんせんか?」
「何が言いたい」
「さて。手前の縄張りに争いを呼ぶなんざ理解できやしませんもんで、あっしには何とも……ただ、死の旦那、あんたァ相当な策士と聞いている」
「おれが策士? てめェらが無策ってだけの話だろう」
「へへ、違いねェ。サカズキさんにも重々言っておかねェと」
喰えない会話を繰り広げ牽制し合う二人だが、ドフラミンゴからみれば己が引き寄せた厄災の尻拭いをさせている形だ。
「……す」
か細い声でただ一音を放ったドフラミンゴへ二人が顔を向けた。
二人の意識が集中する中、声を詰まらせながらも続く言葉を絞り出す。
「すまねェ。巻き込んだ」
沈黙が痛い。
だが、今回の件は明確に己が悪いのだ。勘違いから難癖をつけ、縄張りを荒らした上に別の厄ネタまで持ち込んでいる。
何れ話をつけると長年意気込んではいたが、相手に何の瑕疵もない中ただ殴り込むのはドンキホーテ・ドフラミンゴのあり様として正しくない。
俯くドフラミンゴの耳に小さな吐息が届いた。それは、勘違いでなければ笑声に似た響き。
「どいつもこいつも妄想が過ぎる」
顔を上げる。
ほんの僅かだが、しかし、確かに純粋な微笑を浮かべたトラファルガー・ローが、片手を持ち上げ水平線の向こうを指した。
「お前が呼び込んだ四皇の手はまだこの地に及んでいない」
「……は?」
「今、この国で暴れているのは別口の部隊だ。奴らの目的は希少な種族の確保と、グリーンビットで獲れる極上の果実。ああ、悪魔の実もついでに狙っているか」
「え、いや。だがおれも標的になったと」
「言っただろう。目的は希少な種族の確保だ。てめェの出自も忘れたのか?」
黒足の報告を思い出す。そういえば、知る由もない己の出自について言及していた。あれは、ビッグ・マム側から出た情報と言うことか。
何故ビッグ・マムに出自が知られているのかは分からない。だが、今重要なのはそこではないだろう。
「お前のシマ、完全に侵攻受けてんじゃねェか!」
「そうだが?」
「こ、こんなとこで油売ってる場合か! それを早く言え! このままじゃ、おれを追ってる奴らも合流しちまう!」
「余所者のお前が考えることでもねェだろう。だがまあ、お前が海兵を引き寄せてくれたおかげで楽が出来た。巻き込んで悪ィな、“藤虎”」
「元より、市民の皆さんを守るのがあっしらの仕事で」
「ああ、そうだったな。忘れていた」
事もなげに告げる黒衣の男は、先程からひっきりなしに手先を動かしている。気のせいでなければそれは能力発動の動作。つまり、この男は今この瞬間も防衛に尽力しているのだ。
しかも、効果域の青い膜が視認できない。つまり、目視不可能な程の超広範囲で能力を行使していることになる。
わなわなと震えるドフラミンゴを横目に、救国の大英雄はその役目を果たし続けていた。
「おれは、何をすればいい……」
「何も。強いて言うなら、そこの屑を連れて船を出せばいいんじゃねェか」
「おっと、それは困りやす。怪盗の旦那、あっしはあんたに用があるんでさ」
イッショウが仕込み杖を構える。
重力を操る能力者。能力を他所にしたとして武芸の腕だけでも脅威を齎す程の実力者だ。
「今朝方報じられた『同盟』、ありゃあ一体どういうことで?」
「それは今、この状況で答えなきゃならねェことか?」
「答えたくねェってんなら、それでもかまやしませんが」
言うが否や神速一閃、納刀したイッショウ。斬撃を警戒して身構えたドフラミンゴは何事も起きないことに戸惑い、空を見上げ思わず叫び声を上げる。
「隕石だァ⁉︎ 冗談じゃねェぞ!」
遥か空へ伸びた能力域、引き寄せられるは埒外の影。風を切って炎を纏い、空より堕ちるそれは人の手に余る災害だ。
しかし、ここに立つは何れも怪物。
大太刀を抜いたトラファルガー・ローが一瞥もせずに隕石を両断。ドフラミンゴが放った網の目状の糸によって切り崩されたそれを、呼び込んだイッショウ自ら反重力によって弾き返す。
地響きと激しい揺れが島を襲い、ドフラミンゴに襟首を掴まれているせいで逃げる事すら出来ないシーザーが絶叫した。
土煙と揺れがおさまり現れるのは、三人の足場を残して崩壊した浜辺。
「デタラメな。今度の元帥は仔猫の躾も出来ねェのか」
「おれが言うのも何だがドレスローザが加盟国だってのを忘れてんじゃねェだろうな、“藤虎”よォ!」
「ほんの腕試しで……何、七武海の旦那方にとっちゃあこの程度、どうとでもなりやしょう」
叫び続けるシーザーを押さえつけ、イッショウを睨む。
質問に答えなければ実力行使。明確な脅しだ。トラファルガー・ローへの牽制も込めての行動であろうが、壮大に過ぎる。
顔に走る傷を歪ませ、海軍大将が問う。
「さあ、怪盗の旦那。次は答えていただけますかい」
かちりと刃を見せるイッショウに、ドフラミンゴは唇を噛んだ。
七武海の称号など惜しくはない。元よりトラファルガー・ローの動向を追うために得た地位だ。
ただ、ここで地位の剥奪を受ければ、イッショウはドフラミンゴの捕縛に入る。四皇に加え、力の全貌見えぬ海軍大将が追手とくれば苦戦は必至。勘違いの連鎖によるものとはいえ、目標を目の前にして大きく遠ざかる羽目になろう。
それも、麦わらの一味を巻き込む形で。
だが、誤魔化すにしても、果たして一時凌ぎの嘘が通る相手なのか。
迷いながらも口を開こうとした瞬間、事は起こった。
黒衣の男が大太刀を投擲したのだ。
妖刀が向かう先は盲目の剣士。鞘で妖刀を弾くと同時にイッショウが地を蹴って退避する。刹那、直前まで彼のいた足場が抉り取られたように削れ崩壊した。
前触れのない暴挙に唖然とする。
「お前、何して────」
「敵から目を逸らすんじゃねェよ」
やけに近いところで響く凪いだ声。ドフラミンゴの背に凍るような悪寒が走った。
視界一杯に広がるのは死の文字。
「な、はァ⁉︎」
言葉にならない叫びを上げ、全力で身体を捻った。間髪入れず振り抜かれた拳が顔を掠り、サングラスが傾く。
咄嗟に糸を放ち腕を絡めとるが、既に体勢が崩れた状態では踏ん張りが効かない。純粋な膂力で糸を引き千切った男が身体を回転させ背後に回り込む。
「まず体幹がなってねェ」
視界の端に捉えたのは裏拳の予備動作。咄嗟に上体へ腕を引き上げ防御体勢に移行するが、男は流れるように体軸を変化させガラ空きの胴へと蹴りを放った。
痛みというよりは衝撃。受け身をとる間もなく吹き飛ばされ、浜辺を転がる。
「動作は最後まで視ろ。気を抜くな」
地に背中をつけたまま、繰り出される追撃を糸で防御。しかし、逆に糸絡め取られ、無理に上体を引き上げられた姿勢から肩を踏み抜かれた。咄嗟に武装色を纏うも、殺しきれないインパクトがドフラミンゴごと浜辺を陥没させる。
「受け切れねェ衝撃は喰らうな、流せ」
土煙の中、混乱のあまり抵抗できず地に伏したドフラミンゴ。見下ろす金の瞳には何の感情も浮かんでいない。
再び振り降ろされた黒のヒールを転がりながら回避する。
勢いのまま跳ね起き、失策を悟る。
視野から消えるほどの低い位置。ドフラミンゴの目前真下に男はいた。
視認するより早く斜め下から掌底が放たれる。上体を逸らして回避するも脛を強か蹴り付けられ、体勢が崩れた。
前へよろけたところにタイを捕まれ、強制的に下げられた顎へ迫る黒の爪先。
次の瞬間、ドフラミンゴの身体は宙を舞っていた。
サングラスが吹き飛び、色味がかっていた世界が正常な色彩を取り戻す。遠くに見えるのは後方転回から流麗に地へ降りる黒衣の残像。
破損したサングラスをその手で弄び、男は目を伏せた。
声もなく唇が動く。
『まだ早かったか』
顎に鈍い痛み。身体の自由が効かない。
黒く染まっていく視界の中、トラファルガー・ローが囁いた。
「シャンブルズ」
やっぱ強ェな。
そう思ったところで、意識は途絶えた。
空を飛ぶサニー号。
情報の錯綜する回想を終え、ドフラミンゴは呆然と呟いた。
「負けたのか?」
「状況を考えりゃそうだろうな」
サンジが煙草を燻らせながら答える。
彼の説明によれば、サニー号はトラファルガー配下のジョーラによる襲撃を受けたものの、ブルックの機転により難を脱したらしい。
しかし、安堵も束の間、その直後、ジョーラと入れ替わるようにしてトラファルガー・ローが現れた。その手が掴んでいたのは暴れるシーザーと完全に意識を失ったドフラミンゴ。
救難信号を受けたサンジが到達し一戦交えるも、軍艦と隕石が降ってきて何故かトラファルガー・ローがこれに応戦。シーザーを連れて早々に海域を離れるように言い捨て、隕石の軌道を捻じ曲げて豪快な高波を残し軍艦ごと姿を消したという。
遠ざかるドレスローザを見つめ、ドフラミンゴは膝をついた。
届かない。何をやってもどんどん先を行かれる。ただでさえ、遠い道のりが己のミスでさらに遠くなる。
諦めるつもりは毛頭ない。
それでも、これは。
「ドフラミンゴ。ところでお前、配下の裏切りの件、あいつに伝えたか?」
「は?」
「電伝虫で言ったろ。麗しの姫君によれば、ビッグ・マム海賊団と内通してる奴がいる。うちの船を襲ったのも離反組だ」
「…………」
「意図は分からねェがあいつはおれ達を逃がそうとした。普段はどうあれ今は国を守ってるようだし、それくらいは伝えてもいいんじゃねェのか」
爆発音で途切れた通信を思い返す。何故こうも肝心な部分だけ抜け落ちるのか。
ベビー5に電伝虫を繋ぐも応答がない。当たり前だ。彼女は幹部なのだから防衛に出ているのだろう。
まだややふらつく頭を押さえ、力の入らない膝を殴って立ち上がる。
「おい、お前ら。お前らはシーザーを連れて『ゾウ』へ行け。おれはドレスローザに戻る」
「船長をおいて進路を変えるわけにはいかないわ。それにあんた、ボロボロじゃない! 私達と一緒に待つんじゃ駄目なの?」
「悪ィが説明してる暇はねェんだ。お前らがどうするかは勝手だがおれは行く」
制止しようとするナミの声を背に、ドフラミンゴは跳躍した。
雲に糸をかけ、轟々と耳を打つ風音に顔を顰める。サングラスがないせいか風圧で視界が歪んだ。
懐に違和感。
探ればそこには愛用のサングラスがあった。変装するにあたってサニー号に置いてきたはずのものだ。
こんなことをするのはあの男を除いて他にいない。
完全に舐められている。
歯牙にもかけられず、稽古とばかりに叩きのめされ、ビッグ・マム海賊団の第二陣を引き離すためとは言え丁寧に送迎までされ、挙句の果てに塩を送られた。
己の不甲斐なさに憤死しそうだ。
計画は大破綻。そもそも成立すらしていなかった。
だが、それでも。
それでもここまで来た。
反乱がなんだ、四皇が何だというのだ。
己が標的になっているのであれば精々掻き回してあの国から引き剥がしてやればいい。大体、こちらは十三年かけてやっとの思いでここまできたのだ。
横入りなど許してなるものか。
己の道を塞ぐものがあれば全て薙ぎ倒してでも前進する、それがドンキホーテ・ドフラミンゴだ。
随分とドレスローザから離れてしまったが、まだ島は見えている。まだ届く。
まだ、何も成せていない。
「くそ、遠いな……!」
距離だけでなく、強さも、高みも、何もかもが遠い。
それでも、進むしかないのだ。
悪態をつきながらも空を駆ける。
風を切る。速度が上がる。身体がぶれそうになる度に体幹を意識して保ち、意地でも目は開いたまま。糸を引く衝撃を肩甲骨で受け流し、さらに速度を上げた。
己に停滞はない。ただ、前進あるのみ。
島の上空に到達し、一際強い気配を放つ黒い影を見つける。
豆粒のように小さく見えたその影はふと空を仰ぎ、微かに笑った。
つられるように口の端を上げ、その影目掛けて一直線に飛び降りる。
「そこで待ってろ、トラファルガー!」
雷鳴のような声が空を裂いた。