Te-1F

Te-1F


Te-1F

Te-1Fはウマムスタン空軍が1938年に採用した戦闘機。エウ戦争開戦後は他の連合国でも使用された。ウマムスタン初の国産戦闘機であり、後のウマムスタンの軍用機の基礎となった。


開発

1930年代前半からウマムスタン海軍航空隊(後のウマムスタン空軍)は国産航空機の研究を進めていた。第三次カーブリスターン戦争でウマムスタン軍はアルビオンの航空戦力に対抗できず大きな損害を出した。それ以降ウマムスタンは航空機運用の主導権を握った海軍を中心として航空戦力の整備を精力的に進めていたが、国産戦闘機に関しては未だ研究段階に留まっていた。これは第一次世界大戦中に航空機研究を進めていなかったことによる技術の遅れ、自国産航空機への信頼の無さ、およびガリア製兵器への信頼が背景にあった。この状況に危機感を持った海軍航空隊上層部はついに本格的な国産軍用機の開発配備を決定し、実績のあるガリア製航空機を本命として同時に導入しつつ国産機の製造、配備を行い国産機のノウハウを蓄積することを意図したものであった。


1936年初めに関係組織に対し試作案の設計が依頼され、ウマムスタンの設計局、航空機メーカーは初の軍用機の大口発注に喜び、全ての組織が即座に参加を決定した。その中でティニス設計局は1938年4月には試作機を完成させ、海軍に納入した。その後他組織との比較検討によりティニス設計局以外のものは戦闘機としての使用に耐えない、あるいはエンジンなど最も重要な装備が未完成であるなどの理由により却下され、ティニス案がTe-1Fとして採用されることが決定した。


Te-1Fの設計は、当時のウマムスタン空軍が一撃離脱を好んでいたにも関わらず格闘戦を意識して設計されていた。当時のウマムスタンではカラ設計局およびラズワルド設計局が中心となって新型大出力エンジンの開発が進められていたものの、ティニス設計局はその計画に加わることができず、保守的な設計のすぐに使用可能なエンジンしか使用することができなかった。ティニス設計局は当初一撃離脱型の戦闘機の設計も考えたものの、MS.405との比較、およびそこから予想される欧州列強の戦闘機の進化を考えた結果、一撃離脱型の戦闘機で欧米列強の戦闘機に対抗することは困難であると結論を出した。その結果、機体の軽量化および設計上の工夫により、格闘戦性能において欧米列強の戦闘機に対抗することをコンセプトに設計が開始された。


Te-1Fにはティニス設計局が可能な範囲で高級な材料が使用され、軽量化が図られた。また、コストが高くなり過ぎない範囲で部品の軽量化も行われ、格闘戦性能が追求された。この機体の設計で培われた技術が後にウマムスタンの主力戦闘機の一つ、Cak-120Fに生かされることになる。また、ティニス設計局は性能確保のためウマムスタン海軍が(絶対条件とはしていなかったものの)要望していた長大な航続距離を諦め、最低限の要求とされていた900 kmを目標とした。これらの割り切りがTe-1Fをウマムスタン初の国産戦闘機の地位に押し上げることとなった。


武装には20mm機関砲1門、7.5mm機銃2門とD500と同程度のものが採用された。エンジンには国産の液冷エンジンT-8が搭載され、最高速度は高度6000メートルで485 km/hが記録された。この時搭載されたエンジンは後に登場する新型エンジンに比べ出力は低いものの信頼性が高く、整備員達およびパイロットにありがたがられた。


運用

Te-1Fは1939年1月よりウマムスタン海軍への引き渡しが開始された。当時のウマムスタン海軍は基本的にガリア製戦闘機をはじめとする外国製航空機が多数を占めており、当初パイロット達からはこの機体に割り当てられることは「罰ゲーム」とさえ言われたという。しかし、Te-1Fは非常に信頼性が高く、故障がほとんど発生しなかった。また操縦性が非常に優秀で新米パイロットにとっても扱いやすく、この頃に海軍航空隊に入隊した者の中にはこの機体に好んで乗る者もいたという。


同時に欧州ではエイシンの軍事行動により緊張が高まっており、ガリア製のD520、MB.152、MS.406は調達不可能であることがほぼ確定的になっていた。そのため海軍航空隊はTe-1Fを当面の主力戦闘機にすることを決め、より一層の増産を行うことになった。1939~1941年の間におよそ1500機が製造され、第二次大戦初期のウマムスタン空軍の主力戦闘機となった。


初陣を飾ったのは1941年8月の東部戦線であった。ウマエト軍に供与されたTe-1F部隊はエイシン軍の爆撃機部隊の迎撃に出撃し、その低空格闘性能及び上昇性能の高さを生かし一定の戦果を上げることに成功した。しかし当時のエイシン軍の主力戦闘機となっていたBf-109Fとの性能差は歴然であり、多数が撃墜された。エンジン換装型の投入も検討されたが、ウマムスタン空軍は新鋭戦闘機Kar-20Fへのエンジン供給を優先させることにしTe-1Fはその殆どが旧式のエンジンのまま戦うことになった。


結局1942年になるとKar-20F及びCak-120F、Yu-231A/Fの生産が本格化し、Te-1Fは徐々に後方任務や高等練習機に使用されるようになった。そして1942年中には前線からほぼ姿を消し、主力戦闘機としての役割を終えた。


補足

設計思想:完全に適当&こじつけ。「生産性がやや悪いので機体設計にはこだわってそう」+「速度遅め」からの連想ゲーム


T-8エンジン:適当 түрі(turi)-8(ウズベク語でタイプ8)を意味する


生産機数:これも適当。第二次大戦とそれ以前の日中戦争の勃発によりウマムスタンは臨戦体制に入っていたと思われるので戦間期よりは製造されてそうというぐらい


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