TYi-137

TYi-137


TYi-137重騎兵戦車

TYi-137重騎兵戦車は第二次大戦期におけるウマムスタンの戦車である。第二次大戦におけるウマムスタンを代表する戦車である。


開発

1937年、ウマムスタン陸軍は重騎兵戦車(中戦車)の開発を開始した。当時のウマムスタン軍騎兵科には快速のTKab-135が配備されており、これはウマムスタン軍を満足させる物であったが、同時に騎兵科はアルビオンの最新鋭歩兵戦車よりも快速かつ、敵弾を防ぎながら大口径主砲で敵陣地を制圧可能、その上で軽量な重騎兵戦車を求めていた。1937年5月には関係組織に要求性能が通達され、開発が始まった。


この厳しい要求に対しイルドゥルム設計局はウマムスタンが用いることのできる最新の技術を全て用いることで応えた。車体にはTKab-135の対抗バとして設計していた騎兵戦車の車体を大型化させたものを用いた。


当時のウマムスタンに戦車用大馬力エンジンを開発する能力がなかったため、やや出力の小さいエンジンを2個搭載することで解決した。また装甲厚を確保するため、元々他国の戦車に比べ厚い装甲に加え傾斜装甲を導入した。これらの工夫に加え徹底した小型化が行われ、最終的に重量は23tと後の他国の中戦車に比べ非常に軽くなった。主砲には25口径75mm砲が採用され、貫徹力こそ後の中戦車に比べ劣るものの十分な火力を有していた。


しかしこれらの工夫により生産コストは大幅に悪化した。小型エンジン2個の搭載によるエンジン生産効率の悪化、および垂直壁面よりも工数の多い傾斜装甲を採用したことで生産コストは悪化した。また、当時のウマムスタンにとっては前代未聞の厚さとなる装甲の生産も大きな問題であった。その結果、生産コストは当初陸軍が要求した額の倍以上となった。また、徹底した小型により居住性も悪化した。


1938年初頭に陸軍による試験が行われた。この試験の際他企業、組織が設計した戦車がトラブルなどにより次々と脱落するという幸運もあり、イルドゥルム設計局の戦車が注目された。そのコストは陸軍内部で物議を醸したものの、他に試験を突破した戦車が存在しないこと、その優秀な性能により少数生産が決定した。


運用

1939年2月よりウマムスタン陸軍への引き渡しが始まり、北部軍管区の第14騎兵師団を中心に配備された。そのコストにより大規模な生産は当初行われず、エウ戦争開戦までの生産数は250両程度にとどまった。


エウ戦争開戦後、武器供与法の成立に伴い連合国への供与が決定されると同時に生産ラインの大幅な増設が行われた。以後終戦まで基本型だけで3万両が生産されることになる。


TYi-137は1941年9月に東部戦線で初陣を飾った。当時のエイシン軍は装備の劣ったウマエト軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏に登場したT-34にショックを受けていた。そこに加えT-34 1940型、1941型に比べ大幅に装甲が厚く、火力においても十分な性能を有するTYi-137が登場したことはエイシン軍に大きな衝撃を与えた。1941年はTYi-137はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができ、同時にカザフ地方の草原、泥濘で戦うことを元々想定していたこともあり、この点でも泥濘や雪に苦労していたエイシン軍に対し有利に戦うことができた。


また、北アフリカ戦線のアルビオン軍に対してもTYi-137は大規模に供与が行われた。当時のアルビオン軍戦車が装備していた2ポンド砲や6ポンド砲は当初、砲弾が徹甲弾しか準備されておらず、榴弾が配備されていないという深刻な問題を抱えていた。強力な榴弾を発射でき、かつ対戦車戦闘でも有効な75 mm 砲を装備したTYi-137重騎兵戦車は大変よろこばれた。さらに、50mm 60口径砲搭載のIII号戦車が主力のエイシンアフリカ軍団にはTYi-137は難敵であり、エイシン軍戦車は一方的に撃破された。特にTYi-137が猛威を振るったのが75mmの榴弾による88mm砲への攻撃であり、今までのアルビオン軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがエイシン軍の大きな痛手となり、のちに配備されるM4シャーマンと共にアルビオン軍の勝利に多大な貢献を果たした。TYi-137の出現は東部戦線と同じくエイシン軍に大きな衝撃を与えた。


当時のエイシン軍の標準的な対戦車砲ではTYi-137の装甲に有効打を与えることができず、TYi-137の撃破にかなり苦労した。当時配備が進んでいた5 cm PaK 385 cm KwK 39 L/60などの対戦車砲、戦車砲はTYi-137の撃破には不十分であり、新型対戦車砲の開発、配備を行う動機になった。こうして敵味方から高い評価を得たTYi-137であったものの居住性の悪さという問題は残り続け、兵士たちからの評判は決して高いものではなかった。


T-34を始めとする連合各国の新型戦車の投入、および予想されるエイシン、ダート軍の新型戦車に対抗するため、TYi-137はその後も改良が続けられた。1941年中には40口径75mm砲が搭載されたモデル、TYi-137-40の生産が開始され、1943年6月には60口径75mm砲を搭載したTYi-137-60の生産が開始した。TYi-137-60が搭載していた60口径75mm砲は当時の連合軍が保有していた戦車の中では最高クラスの装甲貫徹力を誇り、度々駆逐戦車として運用されるほどであった。主砲火力の向上と共に装甲も強化され、TYi-137は連合軍で最も防御力の高い中戦車として活躍した。エイシン軍が投入したパンター、ティーガー戦車に対して走攻守の全ての面で性能的には劣っていたものの、数量、信頼性の面で上回ることで有利に立ち回ることができた。そのため東部戦線ではT-34、西部戦線ではM4シャーマンと共に連合軍の主力装甲戦力として終戦まで長く使われることになった。特に西部戦線ではエイシン軍から最優先撃破目標に指定されるほどエイシン軍から警戒された。


太平洋戦線でもTYi-137は投入された。ビルマ戦線やフィリピン戦線においてはアルビオン軍、オーストラリア軍により主に運用され、対戦車火力が不十分なアキツ軍には撃破が困難であった。アキツ軍の対戦車砲はTYi-137に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、アキツ軍の戦車、対戦車砲が一方的に撃破されることが多かった。アキツ軍の戦車兵はそのようなTYi-137をM4と共に「動く要塞」と称して恐れた。その後アキツ軍のTYi-137対策は、M4と同じく待ち伏せによる速射砲と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも一式機動四十七粍速射砲や九四式三十七粍速射砲がTYi-137の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。その後ウマエトの満州侵攻においても主力の一角をなし、TYi-137部隊はアキツ軍を数と質共に圧倒した。


戦後

TYi-137は第二次大戦後、世界各国に輸出された。第二次大戦を戦った各国にとってTYi-137は部品供給をウマムスタンに頼らなければならない戦車であり運用がやややりづらい戦車であった。戦後の軍縮と共に自陣営の国に売却されることが多く、ガリアなど一部の例外を除いてウマエト、アルビオン、ダートなどの大国は自陣営の国への売却を特に積極的に行った。


そのため、第二次大戦直後のいくつかの戦争においてもTYi-137が使用された。例えば、第一次バーラト・パークスターナ戦争では両軍ともにTYi-137を投入した。その他にもTYi-137は、中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使用されている。


戦後のTYi-137が投入された戦争として特に有名なのが和寧戦争である。和寧戦争において北和寧軍はT-34と共にTYi-137を主力の装甲戦力として投入した。南和寧、国連軍も同様にM4シャーマン、M26パーシング、M46パットンと共にTYi-137を投入し、TYi-137同士の戦車戦がしばしば発生した。特にダートは和寧進駐、南和寧軍創設時にM4シャーマン戦車の供与を拒否したものの、余剰が生じていたTYi-137の供与は受諾したため、戦争初期の南和寧軍で活躍する機会が多かった。和寧戦争開戦時、北和寧はT-34を150両、TYi-137を200両投入し、南和寧軍もまたTYi-137を150両投入した。和寧戦争初期の高浪浦の戦いでは北和寧軍がT-34、TYi-137を40両ずつ投入し、南和寧軍もまたTYi-137を30両投入し和寧戦争最初の戦車戦が勃発した。初戦で北和寧軍は南和寧軍のTYi-137の攻撃によりT-34を8両、TYi-137を4両失い、南和寧軍も9両のTYi-137を失った。南和寧軍は遅滞戦闘を行いつつ撤退したがその中で全てのTYi-137を失い、和寧戦争最初の戦車戦は北和寧軍の勝利に終わった。


その後TYi-137は国連軍の本格投入まで南和寧軍の唯一まともな装甲戦力として活躍し、後に投入されるM4A3E8のようにしばしば北和寧軍のT-34-85やSU-76を一方的に撃破した。最終的に停戦まで南和寧軍およびガリア軍、アルビオン軍の一部(王立戦車第7連隊など)や、しばしばダート軍でも使用され続けた。その一方で北和寧軍、中山人民志願軍も国連軍戦車に対し性能的に不利になりつつあったT-34-85に代わりTYi-137を中心に反撃を行い、M4A3E8やM46、センチュリオン、国連軍および南和寧軍のTYi-137を撃破することもあった。


こうした海外での華々しい活躍とは裏腹に、ウマムスタン本国軍で活躍することは少なかった。第二次大戦中にウマムスタンが派遣した義勇軍においてはそれなりの活躍をしたものの、1944年からは後継戦車たるTYi-145の生産が始まっていた。ウマムスタン陸軍はTYi-137の戦闘力を高く評価しつつも、途方もなく巨大化したダート、ウマエトの戦車軍団に人的資源で劣るウマムスタンが対抗するにはもっと戦闘力の高い戦車が必要だと考えていた。また、その居住性の悪さはウマムスタン軍兵士の間でも評判が悪く、TYi-145シリーズの生産が軌道に乗り大量配備が進んだ1950年までにほぼ姿を消すこととなった。


しかしながら、第二次大戦や冷戦期の各地の紛争で使用され、戦果をあげたことでウマムスタンの技術力、軍事力を世界に示した戦車として現代でもウマムスタン国内での人気は高い。ウマムスタン国立軍事博物館に展示されているTYi-137シリーズのコーナーは今でも人気を博している。


補足

重騎兵戦車:ウマムスタンは騎兵が強い&イルドゥルム案軽戦車(ガリア軍の思想を考えると騎兵戦車として扱われてそう)の車体を流用しているところからの妄想

個人的に響きがかっこいいと思う(小並感)


コスト:とりあえず考えられる高コスト要因をぶち込んだ。その結果1937年開発開始なのに傾斜装甲+元々分厚い装甲とかいう「何と戦うつもりなんだお前」という設計に。一応配備開始を1939年にした


居住性:小さい(軽い)+結構な装甲厚+傾斜装甲なのでまあうん…


北部軍管区の第14騎兵師団:現在のアクトべにいる第14機甲師団の前身という妄想


各戦線での活躍:まあこれだけ性能が高かったらね


TYi-137-60:強い(確信) シャーマンファイアフライと同レベルの火力(47スレ23よりウマムスタン製60口径75mm砲は17ポンド砲と同等、M1 76mm以上の貫通力を持ってる)に初期型から強化されてるであろう装甲を考えれば記事にあるようにエイシン軍から最優先撃破目標にされても不思議じゃない


アキツ戦線:オーバーキルでしかないだろこんな戦車


和寧戦争初期:史実だとダートが南和寧にM4の供与を渋ったけど、使い道のないTYi-137は一応認めたという設定。ちなみに史実だと南和寧は戦争開始当初戦車を“一両も“持っていない。そのため本来は高浪浦の戦いで戦車戦なんて起こっていないがこの世界だと大規模な戦車戦に発展している

(というかワンチャンTKab-135の戦争中期型、末期型やTYi-144、TIq-143あたりが北と南和寧軍に供与されてるかもしれない。両軍がウマムスタン機甲部隊のような見た目になってた可能性も?)


和寧戦争中期〜:火力、装甲共に国連軍戦車に対抗できる戦車といえばTYi-137-60になるだろう。多分北和寧のプロパガンダでは撃破したM4A3E8の脇を通過する北和寧軍のTYi-137-60の画像とかが使われてる


総評:コスト面ではM4シャーマンやT-34に負けるものの純粋な戦闘力では両者を凌ぐ(居住性には目を瞑る) これに加え重戦車やTYi-145シリーズの開発者となったイルドゥルム技師は偉人を超えた偉人としか言いようがない


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