Save Me
Name?……くん、……ッ……ん……!
肩を揺さぶられる感覚に、ブルックは意識を取り戻す。
「……ック君! ブルック君! 大丈夫かね!?」
ブルックが目を覚ませば、目の前には、心配そうにブルックの顔をのぞき込む、体格の良い男の姿がった。
「……ああ、ゴードンさん。すみませんね、こんな所で眠ってしまって──」
そう言いながら、ブルックは自分がどこにいるのかを、周囲を見て確認する。
どうやらあの後、ウタはブルックを移動させることはなかったようで、彼は食堂で眠ったままだったようだ。
ウタウタの実の力を持ってすれば、その力で眠らせた者の体を自在に操ることができるのだ。彼女がブルックを眠らせる前に言った『出ていけ』という台詞から、追い出されてしまったのではないかと危惧していたのだが……。
(どうやら杞憂だったようですね)
ブルックはゴードンに「大丈夫です」と言って立ち上がった。
立ち上がってから、テーブルに置かれたティーカップを見遣り、冷めた紅茶を飲み干した。
ウタの注いだジュースは、手の付けられた痕跡がない。
ゴードンはそんなブルックの様子を見てから、重々しく口を開いた。
「…………ブルック君、君はウタと喧嘩でもしたのかね……?」
不安と心配の混じった、優しく低い声で、ゴードンが尋ねる。
ブルックは、小さく首を傾げた。
「……少しだけ口論みたいにはなりましたが……」
どうかしたんですか、とブルックは質問を返した。
そうだ、とゴードンが頷く。いつもかけているサングラスの奥の瞳が、弱々しく揺れた。
「さっきウタとすれ違ったんだが……その、今までにないような表情をしていてね。とても怒っているような……それでいて、昔のあの子のような、とても悲しい目をしていてね」
ゴードン自身にその原因に心当たりがないならば、ブルックが何か知っているのではないか。
ゴードンはそう判断をして、ブルックを探していたようだった。
ブルックは、事のあらましをゴードンへ伝えた。
ウタが海岸で音貝を拾ったこと。
それに音楽が入っているのではと、ブルックとウタで聞いたこと。
その音声には、エレジア崩壊の記録が残されていたこと。
「そんな、まさかそんなことが──」
ゴードンが頭を抱えて絶句する。
ブルックはゴードンの肩に優しく手を置いて言った。
「人には人の事情があります。こちらから聞くのは、性分でないのですが……、よろしければ、教えていただけませんか? この国が滅びた時に、本当は何があったのかを」
しばらくの沈黙。
目を閉じたゴードンは、やがて目を開くと、力なく語り出した。
「……あの日は、本当に素晴らしい夜だったんだ……」
ゴードンは語る。
赤髪海賊団の連れてきた、十歳にも満たない少女の歌声に、国中が魅了されたこと。
彼女たちが帰る前日に、最後にと国中に聞こえるようにして、彼女にたくさんの音楽を歌ってもらったこと。
そして、そこに紛れ込んだ楽譜のこと。
「その楽曲の名は、“Tot Musica”。ウタウタの力を持つ者が歌えば、封印された魔王を解き放ってしまうという、そんな危険な代物だった」
この国に封印されていた楽譜が、何故かウタの手元に紛れていたこと。
それを、偶発的にウタが歌ってしまったこと。
「……あの事件について、彼女の父である“|赤髪《シャンクス》”が罪を被ることによって、真実は隠された。幸いなことに、彼女もあの時何が起こったのか、覚えていなかった。だから、私は……その嘘を吐き続けることにしたんだ」
「それは、何のために?」
「…………彼女の心を、守るためだ」
絞り出すように出されたゴードンの声は、湿っぽく揺れていた。
「あの子は、誰よりも優しいから……、きっと、背負う必要のない罪まで背負ってしまう。──本当に悪いのは、本当に罪深いのは私だというのに!」
ゴードンのサングラスの奥から、ボロボロと大粒の涙が流れ出し、頬を伝って床に染みを作る。
「あの日、国の皆に声が届くように計らったのも、あの楽譜の危険性を知っていながら、封印されているからと放逐していたのも、全て私の責任だ! あの子は悪くない。罰を……、罪の意識に苛まれるのは、私だけで良かったのに──」
「…………あなたが、悪いんじゃありませんよ」
ブルックは掠れた声で呟いて、ゴードンの肩を叩いた。
気遣い痛み入る、とゴードンは鼻をすする。
気遣いではない、とブルックは言おうとして、しかしそれを口には出さなかった。今必要なのは、気休めではないだろうから。
「ともあれ、ウタさんがその真実を知ってしまった以上、彼女が心配です。ウタさんがどこに行ったかはわかりますか?」
「おそらく、自室だと思う」
「わかりました」
ブルックは頷いて、食堂を出ると足早にウタの部屋へと向かう。
(……この島と、彼女たちの抱えるものは、想像以上でしたね)
ブルックとて、この島の現状に思うところがなかったわけではない。
あれだけ音楽の都として栄えた島に暮らすのは、どこか陰のある、血の繋がらない人間が二人きり。
痛々しい廃墟は、かつて“何か”があったことを雄弁に物語っていた。
救世主と呼ばれる程の歌声を持つ者が、その声を本気で受け止めて苦悩するほど、外界から隔絶されてしまっている環境。
島国だからといって、明らかにおかしな環境だ。
“何か”あるなんてこと、ここへ飛ばされた次の日には感づいていたことだ。
そして、ブルックもかつて風の噂で聞いた事のある“エレジアの悪魔”の話。
(……私は、無意識にその闇に触れるのを、避けていたのかもしれませんね)
一度は、ウタに外へ出るきっかけだけ与えて、シャボンディ諸島へ向かおうとした。
ブルックの元々の価値観もあるが、彼らが話さないのであれば、と自ら深く踏み込むようなことはしなかった。
音楽を通じて、彼らが外へ出られるようになれば、その“何か”も払拭されるのではないかと。
この時の止まってしまったかのような、寂しい島から外へと出れば、自ずとその悩みや何かは徐々に小さくなっていくのではないかと。
しかし、それは甘い目算だった。
彼らが抱えていた闇も然り。
ブルックが彼らに情が移ってしまったことも然り。
きちんと目を向けていれば違ったのだろうか、とブルックは思う。もう節穴になってしまったこの眼窩でも、きちんとそちらへと向けていれば、もっと早くに彼らの歪な関係に気が付けたのだろうか。そして、それをほぐすための行動が取れていただろうか。
「……考えるだけ、無駄ですね」
たらればの話をしたところで、キリがない。
ブルックは後悔を反省に切り替え、そして辿り着いたウタの部屋のドアをノックする。
「ウタさん?」
返事はない。
だが、よく聞くと、微かにすすり泣くような声が聞こえてくる。
ブルックは恐る恐るドアノブに手をかけてみた。
ガチャリ、といいう固い感触が、ブルックの骨の手に伝わった。
開かない。
鍵がかかっているようで、びくともしなかった。
ブルックが幽体離脱を行えば、このドアだってすり抜けることはできるだろうが、しかしそれをして彼女が話を聞いてくれるとは思えない。
ブルックは小さく息を吐いてから、もう一度ドアをノックする。
「ウタさん、落ち着いてからでいいですからまた、ホットミルクでも飲んで、少しお話しましょうよ」
返事はない。
雨音に混じって、小さく泣くような音が聞こえるだけである。
「首を長くして待っていますから」
普段であれば入れるであろうスカルジョークも入れずに、優しい声でドアの向こうへと語りかける。
しかし、やはり返事はなかった。
──────
悪党を蹴っ飛ばせって?
そもそも、悪党って誰?
海賊?
シャンクス?
ブルック?
ゴードン?
そんなの、決まってる。
十一年前には、既に決まってる。
わたしだ。
エレジアを滅ぼした張本人。
それがよくもまあぬけぬけと、都合よく記憶を失っていたものだ。
裏切られたと赤髪海賊団のみんなを恨み、世間一般を脅かす海賊を恨み、この世を憂いて歌を歌っていた。
バカバカしい。
面の皮が厚いにも程がある。
裏切り?
裏切ったのはわたしだろ?
友好的だった国を潰して、海軍から追われる理由を作ったのは、わたしじゃないか。置いて行かれるだけの理由がある。
世間を脅かす海賊?
いったいどれだけの海賊が、栄えた一国を一夜にして滅ぼし、その人民のほぼすべての命を奪うというのか。
半年ほど前、アラバスタの王女に言った『嫌いなのは悪い人』という台詞。
滑稽だ。
一番悪いのは、わたしじゃないか。
“救世主”?
“歌姫”?
それは気持ちよかっただろう。自分の罪とも向き合わず、ちやほやされてその気になって、必要とされて認められているんだなんて思っていたら、それは幸せだったろう。
わたしは歌が上手かったから、歌でみんなの心を少しでも楽にして、生きる希望にしてくれればと思って歌っていたんだ。
その歌が、血に濡れたものだなんて、誰が思うだろう。
血に濡れた歌を聞きたいなんて、誰が思うだろう。
幼い日の約束?
新時代?
果たして、これほどまでの罪を重ねた女に、そんな夢を、希望を描く資格があるのだろうか。
この国に生きていた人たちだって、きっとそれぞれの夢があった。希望を抱いていた。夢を描く前の、小さな子供だっていたはずだ。
それを根絶やしにした悪人が、何を成せるって? 何かを成したところで、人がついて来るとでも?
罰を受けるべきなのは、わたしだろうが。
「………………」
寒いわけではないのに、ガタガタと、体の震えが止まらない。
流れる涙だって、どう止めたらいいのかがわからない。
悲しくはない。
悲しくなんかない。
悲しくなんて、ないんだから。
ただ、自分の犯した罪を知って、その重さに心が追いついていないだけ。
心が追いつかないから、体が反応しているだけだ。
昔のわたしだったら、逃げたいと思っただろう。
この世界から逃げて、心だけ、夢の世界で誰も傷つけず、そして誰にも傷つけられないように独りぼっちで。
でも、目を閉じてウタウタの力で作った夢の世界へ行ったとしても、何も変わりはしない。
この力を使って、精神だけそこへと逃がしても、何の意味もない。
罪からは逃げられない。
現実のわたしも、夢のわたしも、どちらも同じわたしなのだから。
抱える罪が変わるわけでもない。肉体が死ねば、その分の罪を精神が担わなければならないだろう。
そして、一年前のわたしとは違って、今のわたしは知っている。
知ってしまっている。
正確に言えば、思い出したという方が正しいのかもしれない。
生きているってことは、人と関わることなんだと。
ライブで各地を回って、ブルックやゴードンと一緒に現地の人と触れ合って、その顔を直接見て、声を聞いて、ようやく思い出したこと。
夢の世界が豊かになるのは、人と関わったり、新しいことを知ったりするから。
だから、夢の世界に逃げ込んでしまったら、その世界はもう色褪せていく以外の路はない。
そんな夢の世界に独りぼっちでいることは、きっと何よりもつらい。
罰としては、ふさわしい?
だけど、それは……。それだけは……。
「……………………消えたい」
自分の声だとは思えないほどの嗄れ声で、小さく呟く。
死にたいわけじゃない。
だけど、逃げ道なんてありはしない。
だから、消えたい。
この世から、この世に存在した証すらも残さずに。
ゴードンにもブルックにも、わたしを応援している人の心にも残らずに、消えてしまいたい。
罪も、わたしの意識も、何もかも。
消えてなくなってしまえばいいのに。
「…………この期に及んで、我儘なんだぁ……」
自分の弱さも情けなくて、わたしはどうしようもなくなって、布団に顔を埋めてベッドに横たわった。
それでも涙が止まるわけではない。
すると──。
コンコン
ドアをノックする音に、わたしはビクリと体を固める。
「ウタさん?」
わたしをそう呼ぶのは、ブルックだ。
ごめんねブルック、さっきは頭の中がいっぱいになっちゃって、あんな態度を取って。
声が出ない。
言葉が出ない。
ただ、わたしの喉は小さくヒクリと鳴るだけだ。
「ウタさん、落ち着いてからでいいですから、また、ホットミルクでも飲んで、少しお話しましょうよ」
やめてよ。
そんな優しい言葉をかけないでよ。
わたしには、そんな資格なんてない。ブルックみたいないい人に、優しくされるような人間じゃない。
心がぐちゃぐちゃになって、溢れる涙が止まらない。
「首を長くして待っていますから」
やめてよ。
その優しさが、とても痛いよ。
ごうごうと振りつける風に、雨音が一層強くなるのが聞こえる。
わたしの涙は、まだずっと枯れそうになかった。