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『当社は新型コロナウイルス等による事業の停滞、及び経営不振により人員を削減せざるを得ない状況にあることは既に社員の皆様へご説明させていただいた通りですが……』


今日の朝、いつも通り出社してきて業務に就こうとしたら課長に呼び出されて手渡された書類。


「あはっ、あははは、今日から俺、職なしだよ、あははは」


大学を卒業して、入って、ここで骨を埋めるつもりだった。自分なりに頑張って、会社に貢献してきたと思っていたのに。どうやら会社は俺を要らないと判断したらしい。

どうせ辞めさせられると分かったなら、もうこの会社のために働く気は起きない。解雇予告通知書を渡された後にすぐに辞表を書き上げて突き出して帰ってきた。


「俺なんか要らねぇんだってさ、あははっ、はっ!」


笑えてくる。俺が会社で過ごした6年はムダだったんだな。


「ははっ、はぁ………………頑張ったのに。1時間半も立ったまま電車に揺られてさぁ、朝弱いのに頑張って起きてさぁ!サボらず毎日出社してさぁ!その日の仕事終わらせて定時に上がれそうでも、皆残ってるから俺も残って他の人の作業も手伝ってさぁ。俺…頑張ったのに…っぐ…会社のためと思ったのに…っ…なんで…」


ひきつった笑いが引いたら、今度は涙が出てきた。話題の感動作とかって触れ込みの映画でも泣いたりしないのに、こんな時だけは泣くんだな。嫌になる。


「はぁ……あにまんでスレ立てでもするか」


はじめは通勤時間中の暇潰しだったのに、気がつくと結構のめり込んでいた掲示板。

匿名掲示板の住民だからろくな相手じゃないだろうが、それでも慰めて欲しくて。いつも使っているウマカテではなく二次元以外に立てる。


「『【悲報】リストラされた』…っと。凝ったタイトルにしてもしょうがないし」


そうしてレスが付くのを待ったが、一向に付かず。そのまま更新順の下へ下へと押し流されていき。


「あはは、あはっ、そうかよ、俺のことなんて誰も求めてねぇってか、あはははっ、クソが」


スマホをベッドに投げ捨てて昼飯でも食べようかと思ったところで、見慣れない物体を発見する。


「なんだよこれ…ショックで幻覚でも見え始めたのかな、ははっ」


それは赤色のスイッチボタンで、側面に文字が書かれている。


「『ウマ娘になれる代わりにあにまん民と強制的にエッチさせられるボタン』……?幻覚じゃなくて夢か。こんな変なのは、高熱で寝込んでる時の夢でしか見ないし」


そう、きっとこれは夢だ。リアルな夢。この変なボタンも。………リストラされたことだって。


「せっかくだから俺はこの赤のスイッチを選ぶぜ、なんてな」


そう言いながら押すと、瞬間、全身が炎で熱されたように熱くなる。床に倒れ込んで、視界が暗くなっていく。


「ぐっ、あっ………くっ、あつっ…」


引いてくる熱と共に意識が薄くなり、目蓋が重くなってくる。俺はそのまま目を閉じ、眠った。




次に目が覚めると、そこは知らない部屋だった。体にもなんだか違和感があって。


「あ、あの…お姉さん、大丈夫ですか?」


若い男の声がして、顔を上げるとあどけない顔立ちの少年が困ったような顔でこちらを見ていた。

その、社会の荒波に揉まれたことのないような純粋な目が無性に腹立った。汚して、壊したくなった。


「えっ、あの…お姉、さん…?」


「黙ってて」


私は彼を押し倒し、ウマ乗りになる。

………どうせ夢なら、好きなようにやるだけだ。




「はぁっ、はぁ………あっ……」


行為が終わって、今さら冷静になる。


夢なわけ、ないだろう。


本当はボタンを押した時の発熱で分かっていたはずだ。それでも、あんなボタンが突然現れたこと、そして………職を突然失ったことを認めたくないがために、夢だと思い込んで。

突然目の前に現れた少年に、腹が立ったと言うだけで衝動に任せてひどいことをして。


「あははっ………私、最低だ」


「あ、あの………」


怯えた目付きの彼を見て、罪悪感を覚える。こんなどす黒い闇に染まった心でも僅かながら良心と言うものがあったらしい。


「ごめん、ね……。私、変なボタン押してさ、男だったんだけど女になったみたいで」


「ボタン、ですか…?」


「なんだっけ、『ウマ娘になれる代わりにあにまん民と強制的にエッチさせられるボタン』とか言うのだったかしら?ああ、それでウマ娘になったのかな」


音の聞こえ方がいつもと少し違う気がするのは、耳の位置が変わったからか。背中や脚にふわふわしたものが時おり触れるのは尻尾だからか。なるほど、私はウマ娘になっていたらしい。


「それで、私リストラされたばっかりで…錯乱してて…君に……本当に、ごめんなさい」


謝って許してもらえるようなことじゃないのは分かっている。警察に突き出されてもおかしくないことをしたんだ。


「えっと……大変だった、んですよね。お姉さん、本当に悪い人には見えないし……」


そう言ってうつむく彼の顔を覗き込む。先程と違って別に腹立ったりはしない。半ば言い訳のように錯乱してて、と言ったけどやっぱり私は正気でなかったのかもしれない。


「ごめん、何か飲み物あるかしら……いや、水道水でいいわ。ちょっと気持ち落ち着けてくる、から」


「あっ、えっと……冷蔵庫のお茶、飲んでも大丈夫ですよ」


「……いいの、水で」


食器棚らしきところから特に装飾のないガラスコップを取って洗面所を探す。


「こっちかな」


洗面所に着いた私は蛇口をひねり、軽く手を洗ったあとコップに水を注ぐ。その間にふと鏡の方を見やると、茶髪ロングストレートで額辺りの髪には白い模様(流星?)があり、ウマの耳が生えた女性が映っていた。


「本当に、ウマ娘になってるんだ…」


服装は黒のリクルートスーツ姿だ。会社から戻ってきてスーツそのままでボタンを押したせいだろうか。


「……あはは、酷い顔。美人が台無しね」


黄緑色の瞳は光がなく濁っており、目の下には隈が浮かんでいて顔色も悪い。ここまで精神状態が顔に出るものなのか。


「んぐっ……ぷは………目が冴えた、かな」


水を飲んで体を冷やして、少しは冷静になっただろうか。


「戻るか」


コップはキッチンのシンクに置いて、部屋まで戻ってくる。


「えっと…そうね……聞きたいことあるなら、なんでも答えるわ」


「あ、はい、えっと…まずお姉さんはボタンを押してそうなったんですよね」


「うん、ウマ娘になれる代わりにあにまん民とエッチ……あれ、そういえば君ってあにまん民なのかしら」


「はい、ウマカテよく見てます」


こんな純粋そうな子でもあにまん見るんだ。教育に悪いしやめさせたほうがいい気もするけど。


「そう、なら…私がボタンを押してウマ娘になって、あにまん民である君のところに来て、それから……うぅん……」


先程の蛮行を思い出して死にたくなる。マジで最悪だよ私。


「えっと……お姉さん綺麗なので、正直その…怖かったけど、絶対嫌ってわけではなかったです」


「そう……結構ひどいことしたし怒っていいのよ?」


「いえ、お姉さんも急にリストラされて苦しかったのかなって思うと、怒れないです」


「君、ほんといい子ね」


本当に。なんかもう、こっちまで浄化されそうなくらい。


「あ、あの…!」


「どうしたの?」


「行く場所とか、ないんですよね?」


「そうなるわね…」


自分の身一つ以外には何も持っていない。スマホも財布もその他諸々もあっちに置いてきたままだ。


「じゃあ、場所が見つかるまで僕のところにいてください」


「いいの?」


「はい、困ってる人を見過ごせませんから」


「ごめんね………ありがとう。お言葉に甘えさせてもらってもいいかな?」


私はあんな酷いことをしたのにここまでしてくれるなんて、お人好しすぎて騙されないか不安に……私が側で見てあげなくちゃという気持ちになる。

もちろん、私はそんな世話を焼ける状態ではないのだけど。


「よろしくお願いします、お姉さん」


「うん、よろしくね」


そうして私は、名もなきウマ娘として人生を再スタートすることになった。






そうして同居し始めてから一月ほどが経った。

彼はどこまでもお人好しで、純粋で、優しくて。一緒にいるこちらまで心が洗われるような人で。こんな、どうしようもない私にさえ手を差し伸べてくれる、そんな暖かい人で。磨り減り傷ついた私の心が、彼といれば少しずつでも癒えていく、そんな気がして。


私は、彼のことが───好きになった。


「ねえ、ちょっといいかしら?」


「なんでしょう?」


サイドアップにした髪を左手でいじりながら、右手を彼の肩に置いて呼び掛ける。


「私がこんなこと言うの、すごく恥知らずだと思うし、断られる覚悟もしてるの」


───嘘。断られることは予想できても、覚悟はできてない。断られたら、死んじゃうかも。


「君、出会い頭にあんなことをした私にも優しくしてくれて、すごくいい子で、だから……好きになっちゃって」


「えっ、その…」


「だから、もし君が嫌じゃなければ……私と、付き合ってください」


「えっ、と………………」


言葉につまる彼を見て、不安がどんどん膨れ上がってくる。やっぱり嫌かな、なるべく心証良くしようと頑張ったけど最初がアレだしな、とマイナス思考に傾いていってると、彼が沈黙を破った。


「……ずっと昔から、僕は優しいだけって言われて、女の子から振り向かれてこなかったんです」


「…………………」


ウマ娘になる前、リストラされる1ヶ月くらい前に「お前は真面目なだけで熱意がない」と言われたことを思い出す。それしかないからそれだけを一所懸命頑張っているのに、それを否定されるのは辛い。彼が同じ立場かというとまた違うだろうけど、辛いことには変わりないだろう。


「でも、お姉さんは僕のことを良いって言ってくれるんですね」


「うん…私は、君の優しさに、純粋さに、救われたの」


「お姉さんは綺麗だし、僕は元男とか、そういうのは気にしないので……嫌じゃ、ないです」


「…………!じゃあ…」


「はい、僕で良ければ…お願いします」


「うん…私の方からも、よろしくね」


もうやってしまったことは、消せない。だけどやり直すことはできる。

私はこれから、彼との関係を二人で作り直していく決意をした。







彼と付き合い始めてから早1ヶ月。ダービーも終わり、もう季節は夏へと入り始めていた。


「お姉さん、あの…腕が…」


「恋人なんだし別にいいわよね?」


繁華街の方へ出掛けて、腕に抱きついて胸を押し当てる。男がどうされたら弱いのか知っているのは、元々は男だったことの利点だ。


「あっ、………君!その人は?」


せっかくのデートだったのに、ここで彼が同年代くらいの女の子に声をかけられる。もちろんウマ娘ではないけど、結構かわいい子で。


「ああ、大馬さん。えっと…交際してる人、かな」


「そうなんだ、それじゃまたゼミでね!来月の発表進めておいてね!」


「うん、順調だから安心していいよ……ってあれ、お姉さん……?顔怖いですよ…?」


「誰よあの女」


私には敬語なのに、あの子にはタメで。親しそうに話しちゃって。


「ただの同じゼミの人ですよ……大馬さんは誰にでもあんな感じで特別な関係とかじゃないので安心してください」


「仮にも恋人である私には敬語使うのにただのクラスメイトにはタメ口なのね」


「それはお姉さんが年上だからで……いやでも、やっぱりいつまでも敬語はおかしいですよね……」


しばらく考え込むように押し黙り、そして彼は決心したように口を開く。


「それじゃあ、デートの続きしようか、お姉さん。………これでいい、かな…?」


「……ほんと、君はどこまでも優しい子ね。頭が冷えてきたから言うんだけど、さっきのただのワガママだから聞かなくても良かったのに」


「いや、僕も恋人同士で敬語はおかしいって納得したから大丈夫だよ。それに…」


「?」


「好きな人の言うことは、できる限り聞いてあげたいから」


「……そうね、じゃあ君もしたいこと言ってほしいな。君には与えてもらってばかりだから」


「えっと、じゃあ……」


そうして彼が出した“したいこと”は、カップルストローでジュースを飲むことだった。

本当、純粋な子だ。私が側にいなくちゃ悪いやつに幾度と引っ掛かりそうだと思うくらいに。


(でもまあ、こういうのも悪くないかな)


カップルストローでオレンジジュースを飲みながら、私はささやかなしあわせを味わった。




栃栗毛ヤンデレさん


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