『Reason for confusion』
1
彼女にとってキングヘイローのトレーナーは、自らを受け入れてくれた度量の深い男であり曾孫を気にかけてくれる大切な存在である。何処とも知れぬこの怪しげな魂をその身に受け入れ、ウマ娘になってもなおキングのために尽力する男。その結果性別を投げ捨てさせる羽目になってしまったこと、(彼女として勝手に考えていることではあるが)いずれキングに伴なうであろう未来を多大に阻害してしまったことを彼女は非常に悔いている。
故に彼女はヘイトレにこれ以上の影響を与えることを良しとせず、彼が自らの意思で彼女を呼び覚ますまで魂を微睡の中に沈めているのである。
何時終わるかもわからぬ夢の中で嘗ての大地を踏みしめる彼女は、柔らかな日差しと風と共に目覚め、砂塵と乾風と共に駆け、日の沈むころにまた眼を閉じる。
嘗ての友も、信を置いたたった一人も、思い出の中の一欠けらが夢の中で現れ、そして消える。
何時までも変わることのない彼ら。何時までも緩やかに続く時間。微睡が目覚めるとき、彼女が観たい景色がそこに広がっているのだろうか。果たして、キングヘイローは目標を達成できるのだろうか。それを楽しみに、彼女は夢を見続けていた。
はずだった。
とある日に彼女が目を覚ました時、懐かしい景色はどこにもなく、そこは府中トレセンのトレーナー寮……ヘイトレの部屋であった。
「な……な……何なのだこれはぁーッ!」
頭を抱えながらせわしく辺りを見回し、状況を判断しようとしている彼女ではあるがどうにも見当がつかない。
事実として、沈んでいたはずの自らの意識が表出していること、その代わりに本来の体の意識であるヘイトレの意識がぐっすり寝こけていることだけは確信を持てたのだが、これ以上何をすればいいのかは何一つとして見つからなかった。
「お、落ち着け……こう言ったとき貴殿ならどうしていたかな、ヘイトレ。……そうだ、確かこの板を使っていたはずだな」
基本的には意識を眠らせている状態とは言え、外からの知覚全てをシャットアウトしているわけではない。時折微睡の中からヘイトレの行動を見ていたり、そのヘイトレの眼を通してどのようなウマ娘が周りにいるのかなどを知ることはできていた。
故に、この金属の板さえ何とか使えれば……と、彼女は確信を持っていたのだ。
2
数刻ほど四苦八苦して、とりあえず押せそうなものを片端から押す、いまいち読みにくい日本語をそうなのだろうといった具合に読み解いて端末を操作する。
「日本語、難しい……!」
全部英語で書いてくれぬものかと嘆き続けながら、朝日を窓から受ける。
「むぅ、もうこんな時間か。そもそも今日は仕事に出る日なのか、それとも休みの日なのか?」
窓の外を見ても、今のところ子供や大人もほとんど通らない時間帯。これでは判別がつかぬとそちらからの情報収集を諦め、端末の操作に戻る。
「えっと確か……誰だ……? ヘイトレが世話になっている人というものは……むぅ、意外と候補が多いぞ」
覚束ない操作で端末の画面をいじり続け、たどり着いたのが連絡先の一覧。これまでヘイトレが交流してきた人物の名前がずらりと並んでいるのだが、これが意外に多い。そもそもキングヘイロー自身が様々なウマ娘と交流を続ける事の多い人の縁に恵まれたウマ娘でもある上、少し前にウマ娘となってからはヘイトレ自身が積極的に他人と関わるようになっていったため、彼の連絡先は以前よりも多くなっていた。
「それ故に私が苦労することになるのだが......! ええい、ままよ!」
ぽちりと発信のボタンを押す。ぶるぶると端末が震え、彼女の藁をも縋るような救助要請の電波が大空へと放たれていった。
『もしもし、黒カフェですけど……ヘイトレさん、どうしました?』
そしてそれは、適切な者の元へと辿り着いた。
「あー、おはようございます、だろうか。貴殿が黒カフェ殿か、折り入って頼みたいことがあるのだが何処で会えるだろうか」
『うん? うううん? えっちょっと待ってくださいヘイトレさんですよね?』
「そうであって、そうではないのだ! 詳しくは会ってから説明したい!」
捲し立てるように話す謎の存在に対して、黒カフェは圧されつつも何が起きたかをやんわりと察して指示を出した。
『わ、わかりました。とりあえず……トレセンの位置はわかりますよね? 校門で一旦待っています』
「……必ず辿り着こう。感謝する」
ぷつりと通話が切れる。ふうと息を吐いて、彼女はまたベッドへと倒れた。
「……地図をこの板から引き出さねば……」
彼女の戦いはまだ始まったばかりだ。
3
黒カフェは困惑していた。声質は知り合いと同じだが喋り方、一人称、そしてイントネーションの違いが如実に表れている何者かが、知り合いの電話番号から流れ出してきたのだからだ。しかし黒カフェは知っている。この手の異常現象は何故かトレセンに頻発していたことがあるからだ。
「いや、頻発するほうがおかしいからな」
「独り言なんて呟いてどうしタノ」
「うわぁ!? 何だいたのか……」
驚いて飛びのいた黒カフェの目線の先には、居るも居ないも曖昧なる霊界の存在、その名を聞けばどの幽霊も恐れる(と自称している)オトモダチ。今日も今日とてふわふわと漂っていたところ、神妙な顔をしていた黒カフェを見つけこっそりと背中のほうに回っていたのである。
「いたとはなんだ失礼だナァ」
「ハァ……驚いて損した。ともかく、お前は変にちょっかい出すなよ? 中身がなんなのかわからないソウルだからな、下手に刺激すると不味いかもしれない」
「僕だって誰彼構わず悪戯するわけじゃあなイヨ! ちょっかい出したら面白そうなやつダケ」
「だから余計困るんだよ……まあいいや、一応霊感ある方だからあんまり刺激すんなよ」
「へー、見えるってことは実は“こちら側”に足でも踏み入れちゃったことあるのカナ?」
周囲をくるくると回りながらキヒヒと笑いを漏らす透明なる隣人にため息をつきつつも、黒カフェは何かほかにやるべきことはないかと模索する。
「んー、とりあえず内包する魂に関することだろうし……ウオトレさんも呼んでおこうか……?」
「なンダー? 僕だけじゃ不満だっテノ? ほらほら、僕なら誰だって何がいるか見通せるんダゾ?」
「だってお前……最近逃げるじゃん、ヘイトレさんから」
「……エッ」
カチリ、とオトモダチの動きが止まった。訝しんだ黒カフェは、首をかしげながらも続ける。
「あれ、言ってなかったっけ。今日来るのはヘイトレさん……の中の人……いや人か? まあ、人だぞ」
それを聞いた途端、放たれた矢のようにオトモダチは彼方へと駆け去っていった。
「僕急用を思い出したナアー!」
「お、おい!? ……なんて自由な奴なんだ、まったく。……幽霊の用事ってなんだよ、盆か何か……?」
あっという間に姿を消したオトモダチを顧みることなく、黒カフェはウオトレの連絡先へとメッセージを送ることにした。
4
以前もこうだった。何故かヘイトレがやってきたり、話しかけてきたりしようとした瞬間にオトモダチは気が付けばどこかへと消えていたり、視認できるか怪しいレベルで遠い所からじっとりとこちらを見ていたり、かと思えばちらりとヘイトレがその方向を観ようとしたしぐさを見るだけでも瞬時に物陰へと飛び込んでいたりと、明らかに挙動がおかしかった。
霊がここまで特定の存在を忌避するには何かしらの理由があることが多いが、それがもしかすれば、オトモダチに内包された存在の足がかりになったりするのだろうか? そう考えながらも、黒カフェはまた後にすればよいとウオトレと連絡を交わす。
『ほほー。それでギムレットの力を借りたいと』
「ええ、休日の朝ですし、そちらの予定が付かなければ無理にとは言えませんが」
『良いぜ、ほかならぬ黒カフェの頼みだ。どうせ俺たち以外に解決が難しそうな面倒事だろうしな!』
「ありがとうございます、ウオトレさん」
別世界に名を遺したといわれる存在から力を受け継いだ、とも言われるのがウマ娘。そんなウマ娘たちに宿る魂は千差万別それぞれで、トレーナー達人間が変じたウマ娘にはこちらでは聞き覚えのない魂の名を持つ存在も多々いる。
それらを見るだけで殆ど判別してしまえるウオトレの中にいるギムレットと呼ばれるウマ娘……彼(?)もまた、タニノギムレットと同じ名を受け継ぐ存在であり、黒カフェたちがよく関わるタニノギムレットとは大きく性格も口ぶりも、果ては歴史さえも違うのだから、別の世界が存在するということは彼らにとってもはや常識になりつつある。
『……まあ、だからといって俺が全ての存在を知っているなんて大言壮語は吐けないわけだがな』
「知らない名前、ですか」
『なに、この世界は一つだとしても別世界が一つとは限らんだろう? そういうことだ』
ウオトレの発言を引き継ぐようにギムレットが呟く。たとえ同じ名を持っていたとしても、別の道を歩んでくることもある。ならば、名前だけ知ってもどうしようもないというのは本人の談でもある。
果たして、ヘイトレの中に存在しているのは、如何様な歴史を歩んできたものであろうか。黒カフェはその名が判明することを少しばかり楽しみにしつつも、解決の糸口を見つけられるかどうかを悩むのであった。
ややこしいことがなければ良いんですけどね、と独り言をつぶやきつつも黒カフェは通話を終えた。
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果たして謎の存在はちゃんと迷うことなく学園へと辿り着くことが出来るのか……そんな黒カフェとウオトレの心配もよそに、ヘイトレの姿をした何者かは案外あっさりと学園の校門へと辿り着いた。彼女はこちらを見定めると、合点がいったように手を叩いてこう話し始めた。
「……ふむ、貴殿たちの顔は私の記憶にも少し残っているぞ。そちらの、黄金眼で華奢な方が黒カフェ殿、そしてそちらの空色の眼で溌溂とした力に溢れているのがウオトレ殿だな」
「……自己紹介、したことありましたっけ?」
「いんや、俺はなかったが?」
首をかしげる黒カフェとウオトレに対して、しまったなと気が付いたように彼女は説明を続けた。
「あぁ、その点に関しては説明をしなければならぬな。私は平時ではこのヘイトレ殿の体の奥底で眠り続けていて、時折微睡みの中から外を覗いていた。その時に少しだけ記憶に残っていたのだ」
「成程……」
「それにしても、案外驚かないようだな? 普通このような形で人の体を乗っ取るものなど恐れ戦かれても致し方ないと思っていたのだが」
訝しむ彼女を見て、ウオトレと黒カフェは苦笑いを浮かべて顔を見合わせる。例が複数あったためだ。
「どれの事を話しましょうか」
「まあ一番大騒動になったダストレのアレが良いんじゃないか?」
「……そんなにこの学園には騒動が付き物なのか?」
「ウマ娘化ということ自体が相当な騒動ですけどね」
「慣れちまったよなあ……俺たちもまあまあ後に変化したイメージだったのに、後からどんどん増えたもんだからだいぶ初期の組になったし」
「……皆苦労しているのだな」
本来在り得ぬ存在そのものの変化、魂の改変。自らこの特殊な状況に陥ったトレセンの状況を利用した彼女としても、耳の痛い話であった。本来であれば、この男はあの時もっと身体に大きなダメージを受けたか、ともすれば復帰も望めぬほどであったかもしれない。それを自分のエゴにより、無理矢理に再起させたようなもの。結果的に助けたとはいえ、その未来を大きく書き換えたことに変わりはなし。
恨まれても、仕方がない。
「……大丈夫ですか?」
「ん? ああいや、“私”に問題はないよ」
心配そうに見つめてくる金の瞳は彼女の背負う罪には気が付かなかったようだが、一筋縄ではいかない何かを感じ取っていたのだろうか。
6
休みの日のトレセンには自主練のためにやってくるウマ娘のほかに、休日でしかできない自分の仕事をこなすためにやってくるトレーナー達、そして教師たちがちらほらといる。そのため、込み入った話をしようとすれば、個室であるトレーナー室が適任である。マンハッタンカフェとそのトレーナー達が利用するその部屋は、不思議と周りの部屋よりも気温が低いようで、部屋に入ったウオトレと彼女は多少の身震いをしつつも本題に入るべく、席へと着いた。
「……では、そちらのウオトレ殿が?」
「はい、正確にはウオトレさんの中にいるタニノギムレットさんがですけれど、貴女の正体を多少なりとも把握できるのでは、と思って今回の件に同行してもらいました」
対面する二人と一人。しかしそのだれもが二つ以上の魂を持つ。あり得ざることがあり得るのが今のトレセンであり、その中にある謎を紐解くことこそが、今回の異常事態を解決する糸口となり得る。
「あぁ、俺はまあ一介のトレーナーだから大したことはできねえけど……今俺の中にいる相棒なら、お前の助けになれると思うぜ」
そう言うと、ウオトレはスッと目を閉じた。瞼の奥の光が変わり、周囲の空気が少しだけ研ぎ澄まされるように鋭くなる。彼が目を開けたとき、そこには空色の瞳はなく、あるのは金色を宿した瞳を持つ歴戦の勇。彼こそが、タニノギムレットその人。
「……成程、こいつは大物が来たわけか。おっと失礼、俺はギムレット。宜しく」
スッと差し出した手を、彼女は握り返す。二人の力強い握手には、ただそれだけで互いの戦いの歴史が交差したように光を放っていた……黒カフェの目には、そういう風に見えた。
「ふむ、我々は少々似ているのかもしれんな……宜しく、ギムレット。名は私から明かすわけにはいかぬ、貴殿の眼で以て、明かしてほしい」
「そういえば電話越しにもそう言っていたように思いますけど、どうしてなんでしょうか?」
黒カフェがそう疑問を呈すると、代わりにという風にギムレットが答えた。
「名前には意味が伴う。俺が“ギムレット”として在ることが出来るのも名を持ち続けたことができたからであり、仮にボウズがそれを否定していたのであれば、俺はこうやって表に出ることもできなかったかもしれん」
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「だがそれは俺の場合だ、そちらの御仁はまた別の理によって成り立っている。恐らくは俺よりも世に与えた影響がデカいやつだからこそ、自ら名を明かすことに誓約が掛かっているのだろう」
そう推察するギムレットに、うむ、と彼女は答える。
「おおよその推察としては正しい。私が望んだわけではないが、私は歴史に影響を与え過ぎた。こちらに同じ存在がいたかどうかは別で、私から存在を明かせばこの者……ヘイトレ殿に何が起きるか保証しかねるのだ。それは、私の望むことではない」
ドミノを倒す方向が問題なのだ、と彼女は伝えた。もしも外側からの来訪者である彼女から影響を与えれば、こちらの世界に大小差はあれど影響を及ぼしかねない。そしてその影響を最も大きく受けるのは、その依り代となったヘイトレであると。
「成程……だからこそ、こちらから正体を暴く事でその影響を抑えるというわけですか。ちょっと言葉の表現が強い気はしますが」
「うむ、それで相違ない。所詮私は貴殿らからすれば怪しい存在であることに違いはない……そして、ギムレット殿。もう私の正体について、見当はついているのではないだろうか?」
推察を口にした後、ギムレットは静かにその瞳の先を謎の存在へと向け続けていた。そして、その沈黙は静かに破られた。
「“ヘイルトゥリーズン”……そうだな、海向こうで9つの闘いにて勝ち、7つ星の栄誉を戴いたもの。そうだろう?」
「……貴殿の力はまさしく真なるものだ。之ほど鮮やかに解明されることもそうあるまい」
ヘイルトゥリーズンと呼ばれた彼女は、静かに敬いのハンドサインを送った。
「ヘイル……トゥリーズン……?」
「まあカフェのが知らないことも仕方ないだろう、なにせアメリカのレース史を紐解かなければその名はこちらでは観ることが出来んからな。だが、俺とヘイルトゥリーズンが元居た場所では違う。それこそ、ヘイルトゥリーズンが“世界を変えた”といっても過言ではないほどの影響をこちらに与えているからな」
「よせ、少々恥ずかしい。あちらの記憶は最早曖昧なものだ……まあ、大家族の祖父、曾祖父のようなものとでも思ってくれれば別に違いはないだろう」
少し顔を赤らめながらも、ヘイルはそのことについて悪印象を持っている様子はないようだ。
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「もっともその大家族は今尚この国に連綿と続く、競争の歴史の根幹とも言えなくはないがな」
「正直な話、その歴史を作ったのは私ではなく孫のアイツなのだがなぁ。私の功績というわけではない」
「まあそれもそうだな。だがアイツ以外の血もこの国の偉大なる祖となったわけだ、そしてそれの大元をたどればお前さんに辿り着く。大方ヘイローのに宿った理由も、曾孫の事を気にかけてやってきた事だろう? その曾孫こそアイツとは違った血を引くものだしな」
「……そこまで知っているとは驚いたな、その眼は全てを見通す眼なのか?」
「なぁに。一介の老兵は、人の話を聞くことも上手ってなだけの事さ」
その後の話も二人の世界にどっぷりと浸かったかのように、初めてあったとは思えぬほど打ち解け話し込むギムレットとヘイル。やれ、初勝利の時の足回りの話はどうだの、一番魂の燃えたレースはどれだったの、引退した後の生活はどうだっただの……他愛ない話まで続き始めたところで、黒カフェは慌てて二人の話を遮った。
「あ、あの久しぶりに同郷の方……同郷でいいのかな? まあそういう方に出会ったので盛り上がるのもわかるのですが、今回の件の解決の話を進めても宜しいでしょうか……?」
「……あぁ、それもそうだった。不思議なことに良く舌が回った」
「そう会えるものではないからな、同じ星に生まれたものというのは」
「同感だ」
「……まあそれくらいなら。兎も角、ヘイルトゥリーズンさん、ですよね。詳しい経歴とかは後でギムレットさんに聞きますが、とりあえず目下問題としては……」
うむ、とうなずくヘイル。
「私が再び眠りにつくための手段の発見だ」
今現在、ヘイルトゥリーズンが表層に出てきているのはヘイルの意識がハッキリと起きてしまっているからであり、逆にヘイトレの意識が深いところに転げ落ちてしまったかのように、ぐっすりと眠りについているから。再び魂が眠りにつくためには何が必要なのだろうか。
「例えば……寝るときに何か使うモノとか?」
「となると、アロマセラピーのようなものでしょうか?」
「アロマ……?」
「あっ、ちょっと想像できてないなこりゃ。まあ寝るときに焚いてリラックスさせる香りを起こすもんだよ」
ウオトレがスマホを操作しアロマキャンドル等の画像を見せると、ふむふむとヘイルは理解したようだ。
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「ああ、そういうものか。確かに使えるかもしれないな」
「問題は、どんな香りが良いか何ですけどね」
「何でも良いんじゃねえのか?」
「今回はただ眠るだけではいけませんからね。もっと、魂深くに沈み込むような眠りが必要だと思うんです」
黒カフェは霊的なアプローチが必要であると想定した。故にその霊、今回であればヘイルトゥリーズンに何か関わりのある香りがあればその効果は大きくなるだろう、と。しかし昔の記憶があいまいな状態のヘイルから聞き出すのは困難であり、またヘイルを知るものも今この場にはいない。
どうしたものかと悩み続ける3人の耳に、ふとノックの音が3回。
「おはようございます、トレーナーさん……」
「カフェ? どうしたんですか、今日は休む予定だったのでは?」
ガラガラと開いたドアの向こうから現れたのはマンハッタンカフェ。手には何やら買い物したものを下げているようで、白いビニール袋の中には箱のようなものがうっすらと透けていた。
「私もそのつもりだったのですが……『お友達』が現われて、ポルターガイストのように周囲をガチャガチャとやっていたようで、読み取ってみると私にこれを買ってもらいたがっていたみたいでして……」
ビニール袋から取り出したのはアロマオイルのようだが、黒カフェは少しだけ変わった文字に目が留まった。
「チョコレートのアロマですか。ちょっと珍しいですね」
「はい。たまたま店の方が仕入れたものに紛れていたものらしく、そこまで値は張っていませんでしたが……これを見てください」
「……うわぁお」
黒カフェたちに見せられたのは、ガタガタな文字列の上に『トレーナーシツニモッテイケ』等という文言がこれまた大きさも角度もまばらに配置された、心霊現象まっしぐらなレシート。これが印刷された時の店員の顔は、さぞ海よりも青くなっただろうと想像に難くない。
「誰が必要なのか、どうしてこれを持って行かなければならないのか……その疑問は、今氷解しました。ヘイトレさんの中にいるどなたかのために、『お友達』が導いてくれたのでしょう」
そう伝えたカフェの言葉を聞き、ヘイルは軽く目を拭った。
「……あぁ、そうか。そうだな、お前はそういうところもあったな」
そう呟き、カフェからアロマオイルを受け取ると軽く頭を撫でてこう言った。
「“彼”……いや、“彼女”とこれからも仲良くな」
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頭を撫でられたカフェは不思議そうな顔をしながらも、その手に頭を軽く預けた。
「……不思議ですね。初めてあったはずなのに、私はあなたを少しだけ知っているように思える」
「繋がりというものは時に時空をも超えるということなのだろうな。……すまない、突然の無礼、申し訳ない」
手を頭から離すと、こほんとひとつ咳払いをして立ち上がる。
「さて、そろそろまた深き眠りの底へと旅立たねばならぬな」
保健室を借り、許可をもらった上でアロマを炊く。アロマから漂う甘い香りが、ふわふわと部屋の中を満たしていく。ベッドに横たわるヘイルはその香りを楽しみながら、ゆっくりと目を閉じていた。
「昔、私が住んでいた牧場はケンタッキー州にあってな……そこでは、バーボンとチョコレートが有名だった。あぁ、近いうちにとは言わん、そこのカフェ殿が大人になってからでも良いだろうな。もしも機会があれば、そこに行くと良い……きっと楽しめるだろう」
チョコレートは思い出の味。甘くも苦くも勝負のひとつ、苦い思い出があるからこそ、ひときわ輝くのが甘いもの。彼女が走り始める前、走り続けた間、そして走り終えた後。思い出の一つ一つに、チョコレートがあった。
「……また、いつの日か会おう。その時は、正しき目覚めと共に──」
ヘイルトゥリーズンは意識を手放し、身体の奥底へと沈んでいった。
「……おやすみなさい、ヘイルトゥリーズンさん」
マンハッタンカフェは、その数奇な出会いに優し気な笑みを浮かべ、魂の細糸でつながっているであろう彼女へと穏やかな言葉を紡いだ。
暫く寝息がすうすうと部屋に流れ、少しばかりの時が経ったころ。
「……うぅん。はっ!?」
「あっ起きた」
「おはようヘイトレ、この指は何本に見える?」
「……4本だね」
「よし、正常だな」
「無事、戻ってこれたようですね」
ヘイトレが、ようやく起きた。気が付けば天井は家ではなく学園の保健室で、誰もいないはずの周囲には黒カフェとウオトレ、それにマンハッタンカフェと静かながらも賑やかな空気。
「……これは、助けられたという事だよね? それならありがとう、何があったかは全然わからないけど……」
未だに夢現な状態のヘイトレはぼんやりと辺りを見回す。そうして見つけたのは、チョコレートアロマの空箱。
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「ふむふむ、となると……もしかして、出てた?」
「あー、出てた。ヘイル……おっとっと、今名前呼んで良いのか?」
自らの意識のないうちに移動していたこと、おそらく魂にかかわる事象のためにウオトレがここにいるということ、そしてチョコレートのアロマ。それらの状況証拠によってヘイトレは、ヘイルトゥリーズンが表出していた可能性に思い至った。
「うん、彼女から伝えるのが問題であって、周囲が見抜いたり気が付く分には大丈夫だって」
甘い残り香を楽しみ、少しだけ夢の奥へと思いを馳せた。
「寝ている間、ヘイトレさんはどのような状態だったのですか?」
「なんて言えばいいかな……牧場にいる方と交流してた、って感じかなあ」
ヘイトレがいた場所は、ヘイルが何時も夢の中で過ごしていた場所。そこにいた何者か達は、ヘイトレの事に気が付くと質問を大量に投げかけたり、併走を頼んだり、穏やかな時間を過ごしていたようだ。
「夢だったんだけど、これは彼女が過ごしてきた時間そのものだったんだって感じたんだ。彼女が受けた風、触れ続けてきた大地、そして人、ライバル、家族。……居心地は良かったけど、僕の居場所じゃない。僕の居場所は、ここだから」
噛み締めるようにそう呟くヘイトレ。無事戻ってきたことでウオトレと黒カフェはほっと胸を撫で下ろした。
「しかしまあ、お前の中にあんなすっげえのが入ってたなんて知らなかったよ」
「表立って言うものでもないからね……」
「じゃあもしかして、ダート走れたりするんじゃねえか?」
「うーん、行ける……かも? ちゃんと試したことはなかったし」
ギムレットと直接知識を共有しているウオトレはその知識のままにぐいぐいとヘイトレと話を進めるが、今しがた来たばかりのカフェや結局詳しい説明を聞きそびれている黒カフェには何のことだかさっぱりであり、ちょっとちょっとと言葉を挟んだ。
「盛り上がるのは良いんですけど……結局、説明聞き損ねてるんですよね」
「私は先ほど来たばかりですから……折角なので、“彼女”のことを教えていただけますか?」
ああそうだったな、とウオトレは謝る。そうしてコホンと一つ咳ばらいをすると、こう始めた。
「これは、歴史に名を遺した者の話だ。勝つだけでなく、その血を繋いでいった者の話。その名前は……」
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彼は夢を見る。
かつて共に走ったもの。かつて競い合ったもの。かつての風、かつての大地、そしてかつての日の光。
「久々の外は楽しかった?」
「それどころではなかったよ、約束を違えかねなかったし、何より彼に迷惑をかけてしまった」
「あらあら、昔はあんなにやんちゃ坊主だったのにね」
彼は腕白だったし、言うことを聞かないことだってよくあった。それでも走ることが好きで、そんな彼を支えてくれた周囲。やがて彼が血を繋ぎ、そして今に広がる歴史の一つとなる。
「よせよせ、私だって変わるものだ。何なら元より見た目まで変わってるからな」
互いに、今までの事を思い出しあって笑いあう。
「ね、ウマ娘になってどうだった?」
「……まあ、楽しかったのは間違いないな」
だけどそんな歴史とはまた少し外れた、たった一人の“彼女”としての物語。一区切り終えても、まだ夢の中で生きている。
「私たち、やっぱり走るのが好きだからね」
「あぁ、こればっかりは何度生まれ変わっても変わらんだろうな」
さて、と立ち上がる。
「また、走ろう」
「えぇ、走りましょう」
夢の中で、また誰も知らない走りの歴史が紡がれる。
彼こそ、そして彼女こそ、ヘイルトゥリーズン。