Polaris è ancora lontana
96どうして。どうして俺を置いていく。
もっと俺と走ってくれよタキオン。
俺にはお前が必要なんだ。
「好きだ、タキオン。好きなんだ……っ」
絞り出すような声で繰り返される、皐月賞ウマ娘への思慕と渇望。タキオンと呼ばれジャングルポケットに縋られるという状況に最初こそ驚きで見開いていた菫色の瞳が、次第と興味深げに細められていく。オペラオーの肩を力強く掴んでいた手は既に緩まり、添えられるだけとなっている。振り払おうと思えば今すぐにでも出来るが、オペラオーは敢えて相手の好きにさせていた。明るい色をした柔らかな髪に、よく手入れされた指先が触れる。
「——ボクを通して、存分に浸るといい」
あやすように梳き、頭を撫でながらオペラオーは幽かに呟いた。その声は窓を叩く程に強い雨音に掻き消され、ジャングルポケットの耳に届いたかどうかも疑わしい。だが、それでいい。縋りつく少女を見つめる視線は、いつの間にか慈愛に満ちたものに変わっていた。
抜き身のナイフにも似た溢れんばかりの闘争心。敗北を喫しようとも何度でも立ち上がる不撓不屈の精神。ジャングルポケットが駆け抜けたレースを思い返す度、彼女を構成する荒削りで野生の塊である剥き出しの執着心に、全くもってらしくない高揚感がオペラオーの中で沸々と湧き上がる。
ああ、ボクは君のような人をずっと待ち望んでいたのかも知れない。
先日行われた宝塚記念で遂にドトウが成った今、求めてしまうのは憧憬では満たされないヒリついた渇きであった。不意に、どれだけ脚を動かしても届かなかった、僅かでありながらも絶対的な着順だった優駿を思い出す。大外から一気に加速し、鮮やかに抜き去っていった輝ける星。二人の背中に追いすがる事しか、否それすらも出来なかった長い長い東京の直線。改めて思い返せば、あの敗戦が自分の中で一番と言える心残りかもしれない。オペラオーの胸中に苦いものが走る。
そして菊の冠を最後に、星は一度もオペラオーの傍で瞬く事はなかった。
その後代わりに学園生活で何度も目にしたのは、トップロードへ向けられる淡い情愛の眼差し。勿論、トップロードは大切で大事な戦友だ。彼女がいたからこそ、オペラオーのクラシックはかけがえのないものになったと胸を張って言い切れる。しかし、陽だまりのような笑顔を見せるトップロードを見つめる穏やかな横顔に、寂しさを感じた事がないと言えば嘘だと断ずるしか他ない。
お互い、光を超えて駆け抜けた者に焦がれたのならば。
「なるほど、ボクらは似たもの同士という訳か」
自嘲するように溜息を吐く。それに端を発し、撫でている指を勢いよく顔を上げる事で振り払ったジャングルポケットは、やや乱暴に自身の目元を拭った。次いで現れる、涙に濡れながらも力強い虹彩がオペラオーを射貫く。瞳の中で輝く一等星がゆらゆらと瞬く様は、この上なく美しい。眩い程に光輝く星が、オペラオーだけを映している。その事実に、疚しさに塗れた悦びが堂々とした覇王の背筋をゾクリと撫で上げていく。噛み合ってはいけない歯車が回り始め、理性や良心といった感情をすり潰していくおぞましい音を聞いた気がした。
「勝負しろタキオン。俺が、お前を喰らいつくしてやる」
「……いいね。ならボクは、君の全てを受け入れ、取り込み、更なる覇道を往くとしよう」
昨年がどれ程の偉業と称えられようとも、過去のもの。既に連勝記録は途絶えて久しく、ドトウの先着を認めてしまった今のオペラオーに残されているのは、飽くなき勝利への渇望だけである。かの皇帝すらなし得なかった八度目の頂へと王手をかけたオペラオーに盛者必衰の理を刻むのは彼女か、それとも。いずれにせよ我が王朝が落陽を迎えるには、まだ早い。
君がボクに幻の粒子を重ね見るというのなら、君は次代の北極星となってボクの傍で輝くべきだ。
「ねぇ? "アヤベさん"」
ここに居るはずのない名を呼んだ瞬間、カッと目を見開いたジャングルポケットがオペラオーの胸倉を力強く掴み上げた。密林に潜む飢えた獣のように唸り、獰猛な笑みを見せては雄々しい光を放つ双眸の奥に、清らかな星が瞬く。
「はっ! 望むところだぜタキオン」
「ふふ……楽しみにしているよ、アヤベさん」
鼻先が触れ合う寸前の距離で告げられる宣戦。止む気配のない雨音に紛れて交わされた秘やかな吐息が頬にかかる。琥珀色の瞳に映り込んだ自身を見つけ、オペラオーはレース前の昂ぶりとは別種のときめきを覚えた。
その瞳に映る姿が別の誰かだとしても、リヴァルもアマントも全て演じてみせよう。だからもっと、もっと煌めく星を見せて欲しい。
制服を掴み上げていた乱暴な腕が、グイと引き寄せられる。元々間近に迫っていた二人の唇がその反動で微かに重なった。まばたきよりも短い時間。感触も熱も伝わらない事故だったと評する前に、柔らかさと温かさが一体となった交わりが訪れオペラオーの感覚を研ぎ澄ませていく。どちらともなく離しては再び押しつける度、自らを苛む渇きが満たされていく歓喜に酔い痴れる。
漸く手にした願いが、例えどれだけいびつで後ろ指を指されるものであっても、今この瞬間だけは確かにボク達の救いたり得ているのだと、オペラオーは瞼を閉じて本能に身を委ねた。