Perchance to Dream

Perchance to Dream


※ifDR本編風SSの続きです。ついにオリジナル技に手を出してしまいました。





 考える。

 どうすればいいか。何をすれば追いつけるか。走るだけでは遠ざかるその背を掴むための方法をひたすらに考え続けてきた。

 そして、今、男は命を張る。




 麦わらに持ちかけた作戦。

 それは単純な一手だ。


 屋上の縁に背中を預けて作戦内容を聞いていたルフィは、胸の前に回した麦わら帽子に手を添え、眉間に皺を寄せた。


「んー……うーん」

「どうした。何か疑問点でもあったか」

「分からねェとかそういうのはねェんだ。でも、何か」


 胡座をかいたまま頭を捻り悩む麦わらを覗き込む。


「引っかかることがあるなら言え」

「ミンゴ、お前、これでいいのか?」

「何がだ」

「今、あいつを止めるだけなら、お前の言う地下の『鍵』? それを壊せばいいんだろう。でも、本当にこれでいいのか?」

「何が言いたい」

「上手く言えねェけど、何かよ……」


 単純明快な言動が多い青年にしては珍しく、やたらに渋る。苛立ちにサングラスの奥の目を眇めていると、視線を上げた青年と目が合った。

 真っ直ぐで、力強い瞳。


「ミンゴ。お前、後悔しねェか」

「……何を、今更」


 トラファルガー・ローにとっての世界の転覆及び破壊は、彼の本懐だ。己がそうであったように彼もまた、幼い頃から目的のために邁進してきた。

 トラファルガーは目的を達する、その目前で計画の要を破壊されることになる。己であれば激怒するが、彼の場合、怒りという感情を保持できているかも怪しい。即座に撤退し計画の練り直しに入る可能性もあれば、今後を懸念しドフラミンゴらを潰しにかかる線もあるだろう。

 だが、何にせよ歩みは止まる。止めることができる。たとえそれが一時のものであっても。

 その時が最後の機会になるだろう。

 恩人の声を、祈りを、最期の願いを、トラファルガーに届けるのだ。

 ドフラミンゴは本懐を果たす。


 たとえ、これから先。

 一生の間、もう一人の恩人に憎まれ続けてでも。


「後悔なんかするわけがねェ」


 ルフィは暫くの間、ドフラミンゴを見つめていた。そして、眉根に皺を寄せたまま、長い息を吐く。


「分かった」


 麦わら帽子を被り表情を隠した青年は、ただ短く頷いた。低く通る声音から彼もまた、覚悟を決めたことが分かる。


「おれはとにかくトラ男と戦えばいいんだな? 時間も稼ぐ。ついでにあいつが何をしたいのか、また聞いてもいいか?」

「好きにしろ。ただ、戦う時は出来る限り教会から引き離せ」

「トラ男が地下にいるお前を止められないようにだな」

「そうだ。お前らが戦ってる間におれが『鍵』を壊す。場所は分かってるんだ。その一帯ごと破壊してやりゃいい」


 “超過鞭糸”を放った際、目的の場所に直撃する技でもなかったというのに、トラファルガーは防御に入った。つまり、『鍵』そのものには防御機構が備わっておらず、周辺の崩壊に巻き込まれた時点で問題が生じる強度と考えられる。

 装置、或いは資料、はたまた兵器。未だに『鍵』が何なのか分からずじまいだが、間違いなく生物ではない。生体反応がないのだ。

 奪取も考えたが、一瞬で奪い返される可能性が高い。ならば、破壊するしかないだろう。


 ドフラミンゴは指先から糸を紡ぎ、“影騎糸”で分体を二体作成した。


「ミンゴが三人! え、分裂? 四人、五人……まだ増えんのか?」


 分体の内、一体はルフィのカバーに入れる。残る一体が分体自身を対象に能力を行使した。


 技の名は“衛星糸”。

 ドフラミンゴ本人ではなく、“影騎糸”で生み出した分体のみが使える技だ。

 分体が自身を分解し分裂、さらに小さな分体を作成する。一体一体の機能は制限されるが、全ての分体は意志と情報を共有し、リアルタイムでの連携が可能。主に武力戦闘ではなく情報戦用の技である。

 分体が小さくなるごとに若干見た目年齢が下がる。幼い自分の姿を見るのが恥ずかしい点は玉に瑕だが、変装に匹敵する効果もあり人目も欺けるため重宝していた。

 たまにクルーにおだてられて無意味に分体を分裂させていたお陰か、練度は上々である。

 最終的に数十に分かれた分体は大きさや年齢もまちまち。一部は一見するとトンタッタ族の亜種、小人の子どものように見えるほど小さい。

 最も小さくなった一体を摘み上げ、ルフィが驚きの声を上げた。


「すんげェ! ミニミンゴだ!」

『クソガキ、摘むな。丁重に扱え』

「うわ、喋った!」


 さらに驚いた様子の麦わらは小さなドフラミンゴを掌に乗せる。まじまじと眺められるのが不愉快なのか、小さな分体は口をへの字にして青年を睨んでいた。


「こいつらは見たもの、聞いたもの、触れたものの情報を共有する。一体に話しかければ全分体に伝わる仕組みだ。伝言にはなるが、こいつらを通して会話もできる」

「ええ……ミンゴ、電伝虫だったのか」

「フッフッフ。失礼にも程がある」


 ドフラミンゴ本人だけでなく全分体の額に青筋が浮かぶ。ルフィが笑いながら謝罪すると分体の半数が地団駄を踏んだ。

 見た目年齢が下がる分、仕草も子ども時代を踏襲してしまうようでこの辺りも面倒な仕様である。

 各分体の自我や精神年齢の低限は凡そ十代前半。恐らく恩人との旅以前には下がらないよう無意識ながら調整していると自己分析していた。

 とはいえ、分体は現在のドフラミンゴ本人と同じ記憶を持っている。感情面が見た目に引っ張られているだけで、彼らは皆一様に本懐を共有しており、無茶も無謀も選ばない。そもそも、機能制限がかかるため、潜入や情報共有以外の何が出来るわけでもないのだが。


「お前らが戦う以上、トラファルガーはこの国の防衛まで気を割けねェ。避難区域も随時考え直す方が無難だろうしな。そこはこいつらを使っておれがカバーする」


 屋上の縁から様子を窺う。

 トラファルガーは教会の庭、その端に佇んでいた。何をするでもなく、聖堂から少し離れたその場所で俯いている。

 ドレスローザに降り注ぐ陽の光の下にあってなお、夜を引き連れたような暗い影。彼の下へ走り込んでくる者がいた。

 自身も満身創痍ながら形振り構わず駆け寄ったのはセニョール・ピンク。男はトラファルガーの肩を掴み、何事かを訥々と訴えている。


「麦わら。行けるか」

「おう」


 短く頷き、ルフィが立ち上がった。

 まだしゃがみ込んでいるドフラミンゴを見下ろし、青年は言う。


「なァ、ミンゴ」

「何だ」

「お前、後悔しねェって言ったけど、事情が変わったらすぐ言えよ」

「くどい。やけに食い下がるじゃねぇか。何だ。何か気になってるなら先に言え」

「もう言った。お前がやりすぎそうな時はおれが止める。おれがトラ男を潰しそうになったらお前が止める。約束だからな」

「……あァ、分かってる」

「分かってんならいいんだ。行ってくる」


 足を撓ませた麦わらが屋上を飛び出し、彗星の如く空を駆けた。“影騎糸”で生み出した分体も彼を追って空を飛び、同時に“衛星糸”の分体達も動き出す。

 遠ざかる各々の姿を見送り、ドフラミンゴもまた立ち上がった。微かな抵抗。視線を巡らせれば、“衛星糸”で組み上げた分体の一人が服を掴んでいる。

 口をへの字にした彼はドフラミンゴのズボンを掴み、物言いたげに本体を見上げていた。

 外見年齢は分体の最下限。恩人と旅をしていた頃の己そのものだった。何となくしゃがみ込み視線を合わせると、彼は小さな、しかし真っ直ぐな声で尋ねる。


『どうしてだえ? こんなことしてあいつが死んだらどうするんだえ。あいつを壊すのは嫌だ。間違ったら駄目なんだえ』


 息を飲んだ。

 よく見れば、彼の顔つきは他の分体より幾分か幼い。そう、ファミリーに入った頃に近かった。土壇場で制御が緩んでいるのか、これまでにない変化だ。

 口をへの字にしたままの分体の頭に手をやり、軽く叩く。自分の幼い頃の姿にこうするのは何か不思議な気もするが、他にどうしていいものかも分からず、ドフラミンゴは意識して口の端を引き上げた。


「分かってる。おれはあいつを止めに来た。壊すわけがねェ」

『本当か?』

「当たり前だ。何でおれがそんなことしなきゃならねェ。おれはあいつを止めて、コラさんの伝えたかった想いを伝える。決めたじゃねェか」

『そうか。なら、いい。信じるえ』


 手を離し走り去る小さな背を見送り、ドフラミンゴは再び立ち上がる。掴まれていたズボンの裾は少し皺になっていた。


 麦わらも教会の庭に到達したようだ。己も役割を果たさねばならない。

 屋上から飛び降り、教会地下への道を探り始める。




 鉄人の肩を借り王宮へと進んでいたセニョール・ピンクは、繰り広げられる激しい戦闘音と覇気の衝突に焦燥を覚えた。

 悪い予感がする。

 予感などというものは全く粋ではない。だが、どうにも侮れないものでもあった。

 突如、王宮上空に出現した強大な黒い拳。放たれる強烈な一撃を受け、黒い影が砲弾の如く打ち出される。さらに影は風を切り裂く糸の鞭に撃ち落とされ、セニョールらが通り過ぎた教会へと墜落した。

 鉄人の腕を無我夢中で振り払い、来た道を我武者羅に走って引き返す。

 辿り着いた先には影、主が佇んでいた。


「若! 何をやってんだ!」

「……セニョール? 何故、お前がこんなところに。離れると約束したじゃねェか」


 呟いた主の両肩を掴む。ひどい熱だ。右腕は折れており、力が入っていない。顔の右半分は血に塗れて目が閉じていた。

 慌ててハンカチを取り出し、主の右腕を固定する。さらにスーツの袖で顔を拭えば呆れたようなため息が返ってきた。


「お前、本当に馬鹿だな」

「馬鹿でいい。いいんだ」


 茫洋と霞む金の瞳に見上げられ、何故か声が震える。気付けばまた年甲斐もなく涙が流れていた。温い涙が傷に沁みて響く。


「どうした。何を泣いてる」


 損傷の少ない左手を上げてセニョールの涙を拭う主の表情は普段と変わらず凪いでいた。しかし、触れる指からは微かな気遣いが伝わってくる。


「大の男が、いや、お前が泣くなんて何があったんだ。もしかして、家族に何かあったのか」

「……若」

「馬鹿野郎、早くここを出ろ。おれなんてどうでもいいから家族を大事にしろって言ったじゃねェか」

「若、聞いてくれ」

「時間がない。船が一隻余ってる、使ってくれていい。ROOMを出るまでは援護できるが、そこからは自分でなんとかしろ」

「若、聞け‼︎」


 突然の大音声に驚いたのだろう。主はびくりと肩を震わせた。

 見当違いの推測を広げていた彼は、教え子だった頃と変わらず不思議な生き物を見るような目でセニョールを見上げてくる。それでも口を挟む気はないのか、彼は静かに言葉の続きをまっていた。

 そう、素直ではあるのだ。捻くれていて、何だかんだと文句を言っては注文をつけてくるが、最終的に筋が通っていれば大抵のことは聞き入れてくれた。

 それは恐らく、彼が遠い昔からずっと、もう何も考えたくなくなっていたから。決めたことを続ける他なくなってしまっていたからなのだろう。

 だが、そうはさせない。死なせるわけにはいかないのだ。

 一つ息を吐き、セニョールは告げる。


「若、おれァお前に嘘を吐いていた。随分と長い間、トレーボルとおれの二人でお前を騙し続けてきたんだ」

「トレーボルと?」


 首を傾げたローは暫くしてセニョールの言葉の意味に気付き、顔を青褪めさせた。


「お前ら、まさか、あの時」

「そうだ。おれ達はお前のルーツを知っている」


 金の瞳が揺れる。

 滅多なことでは表さない激しい動揺。今では真の意味で彼を脅かすものなど殆どないというのに、裏切られ見捨てられ脅かされ、挙句の果てに彼自らの手で押し殺した幼い記憶が堰を切って溢れ出す。

 不安と恐怖、そして怒り。噴出する心の全てを再び押し殺し、瞼の裏に隠すように彼は目を伏せた。


「お前らは嘘が上手いな」

「安心しろ。誰も、他のファミリーも知らない。おれだって詳しくは調べてねェ。トレーボルは……あいつは調べただろうが、他に漏らしちゃいねェ」

「別にいい。もう、どうでも」

「そんなわけがあるか。無念だったろう。苦しかったよな。そんなものを抱えて生きるのは」

「…………」

「お前のような男が馬鹿げた計画に縋るしかなくなるほどだ。確かにこの世界は汚い。それはおれにだって分かる。だがな」

「セニョール、おれは」

「聞け。おれは反対だ。世界なんかどうでもいい。おれはおれの家族が健やかでいてくれればそれでいいんだ」


 惨いことを言っている。セニョールはそう気付いていた。


 滅多に直に関心を示さないわりにはファミリーの面々へさりげなく気を配っていたロー。元よりあったその傾向は、トラファルガー・ラミを手にかけて以来、次第に強くなっている。

 失った物は二度と取り戻せないと、ローは確かに理解していた。

 何もかも取り返しがつかず、誰の思いも報われず、無念は晴れず、全ての死は打ち捨てられたまま忘れられる。

 彼の家族もまた、皆死に絶えた。そして、ただ、歴史の影に埋もれていく。

 家族を救われたセニョールの言葉はローにとってはひどく鋭い刃だ。それでも彼は傷付かないだろう。血が流れても、傷が膿んでも、それに気付く心が閉ざされたままでは、傷も傷とは感じられないのだから。

 ローは徐にかぶりを振り、セニョールを見上げた。


「悪ィが、お前が反対しようと止める気はない。てめェの家族のことはてめェで守れ。何度も言ったよな。時が来たらお前は消えろと、忠告したはずだ」

「そうだ。だから、守りにきた」


 眉を顰めたローの肩を抱き力を込める。


「若、お前だっておれの家族だ」


 一瞬、ローが身体を強張らせるのが分かった。

 この言葉は呪いだ。自らも気付けない内に自身以外の何かを失うことへ淡い恐怖を覚えるようになったローにとって、守るべきものが増えることは負担でしかない。

 分かっていた。

 それでも、伝えなければ。


「心の隠し方ばかり教えて悪かった。おれァ嘘吐きで見栄っ張りだから、誰かに相談して助けを求めるってのは滅法苦手なんだ。だが、それじゃあ駄目だよな」

「離せ、セニョール」

「離さない。お前には教えなきゃならねェことがまだ山とある。仕事は最後までやり通すのが男ってもんだろう」


 抵抗を諦めたのか、ローは身体から力を抜いた。服越しですら分かるほどに高い体温は幼い頃の我が子の感触と似ている。随分と大きな子どもだなどと思い、己の感傷を誤魔化した。


「嘘吐いたこと、怒ってるか」

「……分からねェ」

「怒っていいぞ。お前は怒っていい。故郷のこと、世界のこと、コラソンのこと、おれ達の嘘、全部怒っていいんだ」

「そんなこと言われてもな。別に、本当にもう、どうでもいい」


 肩にかかったセニョールの手を払い、ローは木に背を預けた。


「どうにもならねェことを考えるのは無駄だ。おれには時間がねェ。早く、道筋を固定したい。退いてろ」


 響いていない。言葉が届いていない。既に計画の微修正へと意識を傾け始めているのだろう。ローは無表情のまま刀を抜く。


「邪魔するならお前も斬る」


 だが、気付いていないのだろうか。

 僅かに揺れる、切先に。


 ローは唐突に能力場を解く。青の被膜が消えた空は抜けるような青さを保ったまま、静かに二人を見下ろしていた。


 セニョールは両腕を広げ、ローを睨みつける。


 生きて。何があっても生きて。

 どんなことがあってもついて行く。

 置いて行かれたとしても追いかける。


 そう決めてそばにいた。


 これは賭けだ。極めて分の悪い賭けだ。

 だが、分かっている。

 命を張るならば、ここしかない。

 刀を受けたとして、倒れなければそれでいい。縋りついてでも、足に噛みついてでも、彼を止められるのであれば十分だ。


 男ならば、命を賭して宝を守らねば。


 僅かに、ほんの僅かに顔を歪めたローが刀を振るう。強烈な殺気が吹き荒れ、魂ごと弾き飛ばされるかと錯覚した。


 同時に嵐の気配。


「何やってんだ!」


 飛び込んできた青い嵐がセニョールを蹴り倒す。背に食らった衝撃で前に倒れ込むその頭上を刀身が走り抜けた。


「トラ男、やめろ‼︎  こいつはお前の仲間だろうが‼︎」


 怒りも露わに叫ぶ青年の下、地に伏せた姿勢から、主の姿を仰ぎ見る。

 彼は中途半端に刀を振るった体勢のまま、小さく息を吐いた。

 吐息に滲むのは隠しきれない安堵。

 ロー自身も理解してしまったのだろう。よろけた彼は凭れた木に背中を押し付け、何かを拒むように頭を振った。

 苦しげな教え子の姿を見上げ、セニョールは声を振り絞る。


「若、やりたくねェことはやらなくていい。方法も、これからのこともおれ達が一緒に考える。だから全部話して、心をぶちまけて、おれ達と生きてくれ」


 麦わらの下を這いずり出て、主へと近付く。その足首を掴めば、彼は再び能力場を形成した。

 掴んだはずの感触は一瞬で消え、手の内に現れたのは背の高い野草。教会の庭に生えるごくありふれた花だった。

 数歩先、崩れるように膝をつき姿を現したローは、麦わらとセニョール、そして二人の背後に立つドフラミンゴを見上げる。

 既に表情は消えていた。しかし、刺青ばかりが目立つ手が彼自身の口元を覆う。

 関係のないものへ視線を誘導するその方法は自分の教えた心の伏せ方の一つだ。

 もはや、隠したい心の輪郭すら朧気だというのに。

 セニョールはきつく唇を噛んだ。


 なおも手を伸ばしたセニョールの目前で空が陰る。風を巻くプロペラ音に紛れ、何かを射出するような鋭い音が響いた。

 遅れて衝撃。爆ぜた土塊に顔を打たれ、思わず目を閉じたセニョールの襟を掴み、麦わらが後退する。


 土煙の中、現れたのは着流しを纏う黒き巌の身体。


「セニョール。何をしている」


 地を這うほどに低い声。

 ヴェルゴはローをその背に庇い、手にした黒い竹竿を振るった。

 ドフラミンゴが張り巡らせた糸の網を引きちぎったそれは、前に飛び出た麦わらによって完全に止められる。それでもなお動揺を見せないまま、男は竹竿を引く。


「すまない。遅くなった」


 目前に敵がいるにも関わらず、ヴェルゴは麦わら達へと背を向け膝をついた。ローの怪我を一瞥した彼は口を引き結ぶ。

 背を向けていても分かるほどの怒りが男の身体を歪めて見せた。


「あいつ、パンクハザードの」


 麦わらが緊張の滲む声で呟く。

 一方、彼の地でヴェルゴと接敵し彼を下したと報告のあったはずのドフラミンゴの反応は妙に薄い。

 セニョールは麦わらに襟首を掴まれたまま訝しむ。それはローやヴェルゴも同じようだった。

 数秒の沈黙の後、ローが何かに気付いたように教会へと視線を向ける。その顔からはさらに血の気が引いていた。

 ローは青褪めた顔のままヴェルゴの腕を掴み、身体を寄せた彼へと何事か耳打ちを始める。

 密談の内容は聞こえない。しかし、ヴェルゴの険しい表情から、良くない出来事が起きていることだけは理解できた。


「ロー、それはできない。いくらお前の頼み事でも承服しかねる。おれが守るべきはお前であって……」


 渋るヴェルゴを見つめ、ローが黙り込んだ。ヴェルゴの腕を握る手は相当にきつく力が込められており、着流しの袖には皺が寄ってしまっている。


「ヴェルゴ、頼む」


 声を絞り出して囁くローを見下ろし、ヴェルゴがぎりりと歯を鳴らした。

 額や腕で隆起する血管は怒りや憤りを如実に語り、漏れ出る覇気はあたりの空気を歪ませるほど。

 全身で不服を表明しながらも、ヴェルゴが立ち上がる。


「すぐに片付ける」


 もはや怒りを隠す気もないほどにくぐもった声で応え、男は何の予備動作もなく竹竿を地へと叩きつけた。

 轟音と共に足元が抉れ、ヴェルゴは自らが作り出した空洞へ身を踊らせる。

 一瞬で姿を消す偉丈夫の姿に呆気に取られていた麦わらが、どこか困ったように眉根を寄せた。


「あっち、大丈夫か」

「上手くやる。心配すんな」

「ならいいけどよ。それにしてもこっちのミンゴは静かだな。気味悪ィ」

「うるせェ、クソガキ」


 並び立つドフラミンゴの悪態に舌を突き出しながら、麦わらはセニョールの襟首から手を離した。そして、自然な様子で一歩を踏み出す。

 向かう先は当然ローだ。


「なァ、トラ男。もしかして、お前、腹減らねェのか?」

「今か? 流石にこんな時には腹なんか減らねェな。いきなり何の話だ」

「いや、すげェ顔色悪ィからよ。肉食えば治るのになと思っただけだ」


 無造作に進み出た麦わらに対し、ローは座り込んだまま鈍く反応を示す。ぼんやりとした様子から混乱が窺えた。


「肉を食っても怪我は治らねェ」

「おれは治る! けどよ、それ以前にめし食わなきゃ死ぬだろ。食いたいとか寝たいとか、そういう欲ってのは大事なんだ。サンジもジンベエも言ってた」

「……悪いが、麦わら。お前が何を言いたいのか、おれにはさっぱり分からない」

「おれはただ、知りてェんだ。トラ男が何をしたいのか」


 青年がローのそばでしゃがみ込む。


「ミンゴは言ってた。お前が世界を壊そうとしてるって。本当か?」

「その通りだ。だから、お前らも止めに来たんだろ」

「お前、本当に人の話聞かねェな。何度も違うって言ってんだろ! まず、おれはお前に礼を言いに来たんだ。そしたらお前がわけわかんねェことするから止めようとしてるだけだぞ」


 心底呆れたように言い放つ麦わらから視線を逸らし、ローはセニョールを見た。そして、つい数分前に斬りつけておいて頼ろうとする自身の言動があまりに無責任だとでも思ったのか、再び視線を彷徨わせる。

 そんなローの左腕を軽く叩いて意識を引き戻し、麦わらは質問を繰り返した。


「お前、何がしてェんだ」

「────? 知ってるんだろ」

「『世界を壊す』ってやつか」

「馬鹿げてると思うよな」

「いや、思わねェ。お前、必死だもん」


 麦わらは静かに答える。

 その声には一片の偽りも含まれておらず、ただ直向きさだけが感じられた。


「だけどよ、今、おれが知りてェのはお前のしたいことだ」

「だから……」

「お前が言ってんのはやらなきゃなんねェことだろ。もう一度聞くぞ。トラ男、お前一体、何がしてェんだ」

「したいこと?」


 ローが呟いた。

 拭いきれなかった血は戦化粧の如く未だ頬を汚している。だが、勇ましさは欠片もない。

 ローは言葉そのものを飲み込めないかのように、小さな声で繰り返した。


「したい、こと……?」

「────そっか。わからねェんだな」


 男が顔を上げる。

 それは、小さな子どもが初めて海を見たような、急に転んでしまったような、新鮮な驚きに満ちた顔で。


 世界を壊さんとする悪神にあるまじき、平凡な人間の顔だった。


 唐突に立ち上がった麦わらはローの左腕を引く。ふらつきながら立ち上がる彼に対し、青年は真っ向から声を上げた。


「やりたいことならやればいい。だけど、お前はやりたくもねェことを全力でやって、関係ない奴を巻き込んで、色んな奴を泣かせて、仲間まで困らせてる」

「別に、いいだろ。何でも」

「よくねェ! 迷惑だ!」


 単純明快な批判だ。

 だが、ローにこれほど直球でものを言う人間はいない。だからこそ、ローは純粋に驚き、ペースを乱されている。


「……麦わら。お前はおれに礼を言いに来たと言うが、その必要はない」


 不快なのか、単に主導権を取り戻したいのか、ローが無理矢理話を変えた。

 力技の話題転換だったが、ローの表情は相変わらず無に等しく内心を窺い知ることは叶わない。

 麦わらが頭をひねる様をじっと見つめ、彼は言う。


「お前を助けたのは善意からでもなければ、医者の義務感からでもねェ。先にそういう約束があっただけだ」

「約束? 誰と、何の約束したんだ」

「秘密だ。あいつのおかげで泥水が少しばかり旨くなった。もう飲むこともねェだろうが」

「泥水を飲む? 何言ってんだ」

「お前は知らなくていい話だ。ともかく、お前からの礼はいらねェ」

「うるせェ! そういうのはおれが決めるんだ! お前は止めるし、礼も言う!」


 大音声からの仁王立ち。腕を組んで胸を張る青年に対し、ローが言葉を失った。再びセニョールを捉えた金の瞳には明確な困惑が浮かんでいる。

 この後に及んで湧き出てくる助けてやりたいという思いと共に、妙な予感がセニョールの胸へと押し寄せた。

 それは長年感じていた不安と焦燥を押し流す、謎の安堵。


 麦わら帽子揺れる小さな背。

 その背は夜明けの光に似て眩い。


「おれだってミンゴと約束をしたんだ。だから、トラ男、お前をぶっ飛ばす!」


 堂々宣う麦わらを見つめ、ローは得心が入ったように頷く。


「何だ。戦いてェなら最初からそう言え」

「え⁉︎  そんなこと言ってねェだろ!」

「でも、戦うんだよな?」

「お前、本当に話聞かねェなあ!」


 青年は天を降り仰いだ。対するローは何が悪いのか分からない様子で首を傾げる。

 振り向いた麦わらが駆け戻ってきた。青年はセニョールの肩を叩き、一つ頷く。

 意味は分からない。だが、その真剣な眼からは主への害意など読み取れなかった。


 拳を天高く振り上げ、麦わらが叫ぶ。


「よし、トラ男! スーツのおっさん、移動させろ!」

「おれに命令するな」


 冷えた声で答えた主はセニョールを一瞥した。冷徹に左腕を閃かせる、その間際。


 俯いたローが微かに笑う。


 思わず手を伸ばしたセニョールの前、一瞬で切り替わった景色。そこは港で、未だ溢れる海賊達と駆け回るデリンジャーの姿が見えた。そばにはマッハ・バイスの姿もあり、賞金稼ぎ共を押し潰している。


 セニョールは手繰り寄せる先を失った腕を下ろし、口を引き結んだ。震える息を鼻から吐き出し、喉を溢れそうになる激情を飲み込む。

 目を閉じれば、鮮明に浮かぶ主の顔。


 ばかなやつ。


 ローは最後にそう言った。

 声もなく唇の動きだけ。伝えるつもりもないような、他愛もなく幼い言葉。


 そうだ。馬鹿で結構。


 大きく息を吸い、セニョールは叫ぶ。


「デリンジャー! マッハ・バイス!」


 名を呼ばれた二人が振り返った。

 赤ん坊の頃からファミリーで育ち、つい最近まで泣きべそをかいていたデリンジャー。彼は今、立派に己の役目を果たし一人前の男の顔をしている。

 マッハ・バイスもまた、ローが連れてきた頃の荒んだ様子などどこにもなく、己の在り方を誇るように立ち上がった。


「若を助ける! ついてこい!」


 デリンジャーの目が見開かれ、間髪入れずに地を蹴り一足飛びに駆け寄ってくる。一歩出遅れたマッハ・バイスの背を押し、ドレスローザの民が奮起の声を上げた。


「若様のためなら何でも出来るよ! セニョール、ぼくは何をすればいい?」

「これまでと変わらねェ。生きて、走って、追いかける!」

「まーた理屈もなんもないんだイーン」

「理屈も何も相手は若だ。先に回るくらいでなけりゃ振り切られて終いよ」


 啖呵を切り駆け出すが傷の影響か速度が出ない。追いついたマッハ・バイスに担ぎ上げられ、セニョールは高台を指で示す。


「まずはファミリーを集める。一人残らず連れて行かなきゃなんねェ!」

「どこにだイーン?」

「地下も地下、地下道最下層だ。大幹部共がこそこそやってただろう。全く、ピーカのやつ、石になれるからって油断してやがる。おれァ潜水も得意だってのに」

「ああ、あれ、何があるんだイーン?」

「うそ、ぼく何も知らないんだけど!」

「まァ……お前は坊やだからな」

「大人ってサイテー!」


 叫ぶデリンジャーが速度を上げる。マッハ・バイスもまた自身の体重を操作し加速した。


 風を切る三人の上空、突如小さな影が舞い降りる。

 指先から流れる糸、サングラスに金髪、凶悪な風体の笑顔。見覚えのある能力と容姿だが、どうにも縮尺がおかしい。まるで十やそこらの子どもである。


「ええ⁉︎  ドフィ兄? 小さくない⁉︎」

『うるせェ、チビ。おれを連れて行け。今のドレスローザにはおれが一番詳しい』

「うっざ! かわいいけどうざい! これどうするの⁉︎」

『連れて行けって言ってんだえ!』


 足も止めずに小さなドフラミンゴを抱き上げ、デリンジャーが盛大に顔を顰めた。特に脅威は感じない。マッハ・バイスに摘み上げられデリンジャーから引き剥がされたミニドフラミンゴが文句を言う。


『丁重に扱え、クソシッポ!』

「おめェは本当に昔からうざイーン」

「全くだ。何の企みがあってこんな」


 呟くセニョールの服の裾を掴み、ドフラミンゴが教会へと視線をやった。口をへの字にする様はどこか見覚えがある。


『おれは慎重派だ。信じてるけど、それはそれとして保険は必要だえ』

「慎重派はそんなあからさまに訛らねェんだよなァ」

『うるさいえ。禁煙しろ、ダテタバコ』

「煙草は伊達じゃねェし、禁煙の話はやめてくれ」


 ぼやけば膝を強か殴られた。乱暴だが体格が子どもなので然程問題はない。


『高台もいいがコロシアムにも寄れ。地下にシュガーとモネがいる。政府の奴らがうろついてるからおれのナビ通りに動けよ』

「ふーん? 本当に詳しいじゃん」

『だからそう言ってるえ、クソチビ』

「チビじゃないし!」


 強情かつ薄情な主に切り捨てられた船員三名。さらに敵方であるはずの一名未満。

 奇妙な一行は己が目的のためにドレスローザを駆け抜ける。


 トラファルガー・ローが絡め、広げた因果の糸。収束し、千切れかけるその糸を繋ぐべく、新たな縁が今、繋がった。







(蛇足)

 読めるかな、読めるかもな、読めるといいなという気持ちでつけましたが、一応。

 技名の読みは『サテライト』です。

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