Orpheus

Orpheus


11月、下旬。

東京レース場、私、アドマイヤベガに宛がわれた出走ウマ娘控室には、時計の針の音と、出走準備を進める音だけが響いている。

あの日――トレーナーさんの、懺悔を聞いて以来。トレーナーさんとはロクに会話を交わしてはいない。

元々会話が多かったわけではないけれど、それからすらも逃げるように、トレーニングに必要な最低限の会話を重ねるだけの、静かな日々が淡々と続いて。

トレーニングの成果は、着実に数字として出ていて、だから、走りの方では、心配はないのだけど。


星の意匠を施した、蒼の勝負服の各所をチェックして、シューズの蹄鉄を確認したり、ほどけている紐が、ほつれている箇所が無いか確認して。

もう三度も繰り返した手順を、再び繰り返そうとして、考える。

何を話せばいいのか分からない。

どう会話を切り出せばいいのか分からない。

元々、会話が得意ではない。

家族以外との付き合いが得意ではない。

そもそも、私に何ができるのかすら分からない。

あの子を言い訳にして、色んなものを蔑ろにしてきた私には、どうすればこの人の心を軽くしてあげられるのか、わからない。

トップロードさんとは違って、トレーナーさんは走らないから。

走る事で、理解り合えないから。


元々、勝手についてくると言い出して、本当に勝手に付いてきたから、きっと消えるときも勝手に消えてしまうのだろう。

だけど、あの子とは違って、同じ空の下に居れば、望めば何時でも会いに行ける。

笑って再び会えるまでは、時間がかかるかもしれないが、それは永遠の断絶ではない。

だから、だったら、このままでも、きっと。


「どうかした、アヤベさん」


気づけば、トレーナーさんを見ていた。

流石に凝視されれば、誰だって疑問を抱くだろう。

いつものように、かすかに笑みを浮かべて、私の様子を聞いてくる。

だけど、その内心が本当に表情通りなのかは、もう、私には分からない。

だから、いつも通り、分からないのを、誤魔化すように。


「…なんでもない」

「…そっか」


再び、沈黙。

壁掛け時計は、刻々と出走時間が迫ってきていることを教えてくれて。

このまま、別れの時が訪れるのを待つばかりと思っていたら、控室のドアがノックされた。


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「アヤベさん、陣中見舞いに来ました!」


トップロードさんが、にこやかにドアを開けて、挨拶をする。

ジャパンカップへの出走枠を確保できず、失意の所為か学校をさぼっていた彼女に、半日付き合って、星を見て。

このジャパンカップで、彼女の励みになれるような走りを見せると言ったからか。

持ち前の明るさで、私を応援しに来てくれた。

けれど、決壊寸前の雰囲気は、すぐに伝わってしまったみたいで。

トレーナーさんと、私の様子を交互に見る。


「本当に、私の勘違いだったら、申し訳ないんですけど。でも、どうしても、聞かなきゃいけない気がして」

「アヤベさん、何か――言わないといけない事、あるんじゃ、ないですか?」


ある意味、核心を突いた質問。

だが、私は、何を言うべきなんだろうか。


このままだと、この人は、このレースの後に、間もなく私の前から消えてしまう。

だけど、それは、私のウマ娘としての経歴にはきっと何の問題にもならない。

専属トレーナー契約も、ウマ娘にとって一番大事と言われる最初の三年間で一区切りとして解消してしまう子も多いという。

だからこそ、この人は。きっと、長い間、私も味わったことのある、けど全く違う質の、あの罪悪感に耐えて。

それを、ついこの前まで、決して私に見せることすらなく。

ここまで私についてきてくれたんだろう。

私の為に。


「トプロさん、応援、ありがとう。そろそろ出走時間だから、ね?」

「すみません、アヤベさんのトレーナーさん、でも――」

「まって」


限界なのだろう、逃げるように、怯える様に、退室を促すトレーナーさんを、手で制して。

その顔を、真正面から見つめる。

最初は、いったい何の冗談かと思っていた、私と同じ顔。

あの子が生きていたら、こんな感じだったのかと思った自分を、あの子への裏切りに感じて嫌悪感を覚えたあの日から。

私が絶対にしないような、怒ったり、泣いたり、笑ったり、困ったり、そういった豊かな表情をずっと見てきた。

いつも通りに思えたその瞳は、気づけば不安に揺れていて。

その指先が、震えているのに気づいてしまって。


だから、せめて。

私は、この人に、何かをしてあげたいと、そう思った。

思ったなら、伝えた方が良い。そう、教えてくれたのは、トレーナーさんだから。


「――見ていて、トレーナーさん」

「アヤベ、さん?」


怪訝な顔で、何かを恐れているような声音のトレーナーさんの目を、じっと見つめながら。

一年前ならば、絶対に、外さなかっただろう彼女の視線が、すこしだけ横に逸れて、でも、すぐに苦しそうにこちらの目を見返してきて。


「あなたの姉ではない、私が。私の妹ではない、あなたに。

今日の勝利を捧げるところ、見ていて」

「…アヤベさん」

「見ていて」

「…ぅ、ん、…わかった、見てる。絶対、見てる」

「うん、それでいい。…行ってくるわね」


言うべきことは、言えたと思う。

堪えきれず、泣きだしそうになってしまったトレーナーさんを、驚きながらトップロードさんが支えて。

おろおろしながらこちらを見る彼女にお願い、と一言残してから、控室を出ていく。

結局、私が一番うまくできることは、走る事しか無い。

だったら、きっと、これでいい。

私のように走る事の出来ないトレーナーさんでも、私の走りを通じて、きっと想いが通じるから。

私には、そう祈ることしか出来ない。


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――20XX年、秋、ジャパンカップ

東京、2400m、左、晴、良バ場。

挑むは、星の名を持つダービーウマ娘。

立ちはだかるは、本年度無敗の覇王。

星の輝きが、沈まぬ太陽に挑む。


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三番人気は今年の二冠ウマ娘、5枠9番エアシャカール。惜しくも逃したダービーと同じこの場所で、再びその末脚を見せてくれるでしょうか。

二番人気は7枠13番、メイショウドトウ。テイエムオペラオーには惜敗続きですが、覇王の凱旋を今度こそ止められるのか。

一番人気は当然この子だ、4枠8番、テイエムオペラオー。ここまで年間不敗の絶対王政に、あらたな偉業の一ページを書き加えるのか。


ゲートインが完了して、各ウマ娘、整いました。みんなやる気十分です!


さあジャパンカップ――――今ゲートが開いて各ウマ娘一斉にスタートしました!


見事なスタートを切りました、ほぼ一直線のスタート!4番オーワローンスター内から好スタートを切りました、一番人気8番テイエムオペラオーも好スタートを切った!3番トヨナカキンボシ、7番フォレストヴァイン、っとここで外側から隊列を崩して一気に16番キンイロリョテイが前に出る!キンイロリョテイ先頭に立ちました!それを追って12番、コールトラボルタが2番手、トヨナカキンボシそれからメイショウドトウ、オーワローンスター、テイエムオペラオー、11番のレディベルベット、内からミネルヴァ、そしてエスプレッソホーク15番が外に続いていく! これは意外な展開、なんと第一コーナー、キンイロリョテイ先頭、キンイロリョテイ先頭で集団を引き連れて、左手にカーブを切りながら、その後に1バ身くらい、コールトラボルタ2番手、トヨナカキンボシ3番手、13番メイショウドトウが上がってまいりました。それからオーワローンスター、続いて内から1番ミネルヴァ、そして中団にちょうど7番手テイエムオペラオー、バ群の真ん中、エスプレッソホークがその外に位置を合わせていきます。中団から後方にかけまして、内を通っていくのは6番アガパンサス、続いてレディベルベット、10番ファンシーブライト、インコースからサーペントアウラムは2番が追走!固まってきました、あとにはフォレストヴァイン、内を回ってアドマイヤベガ14番、エアシャカール9番で、続きますのは最後方、最後方から行きますのが5番のレーヴダンドレ、冷静に前を狙っているぞ。少しゆったりとしたペースでしょうか、残り1400mを今通過しまして、63秒くらいのペース、63秒でレースが進みます。先頭から見ていきましょう、向こう正面中ほど、キンイロリョテイ依然として先頭、コールトラボルタ2番手、3番手メイショウドトウ、続いてトヨナカキンボシ、5番手にオーワローンスター、あとは固まってミネルヴァが中団内目を進んでいきます。おっとこれを交わしてテイエムオペラオー、徐々に進出開始か?!後はエスプレッソホーク固まってアガパンサス、ファンシーブライトはここにいる、レディベルベット、そのインコースからサーペントアウラムの態勢、各ウマ娘第三コーナーを回っていく!ここでエアシャカール動いた!アドマイヤベガ、そして後方から3枠のレーヴダンドレも合わせる!エアシャカール三コーナーで一気に上がっていきました!先頭はこの辺りで、先頭に立っているのは引き続きキンイロリョテイ、800の標識を通過、これを追って単独2番手コールトラボルタ、三コーナーから四コーナーに移り、、メイショウドトウそしてそして外側エスプレッソホークが動いています、現役最強テイエムオペラオーはまだ中団、まだ動かない!トヨナカキンボシ、オーワローンスターそして外を回ってエアシャカール上がってきた、アドマイヤべガは大外回ってまだ中団後方、テイエムオペラオーはバ群の中、バ群の中だ!先頭まで5バ身!第四コーナーから直線、バ群が横に広がって先頭キンイロリョテイ!キンイロリョテイ!2番手コールトラボルタがキンイロリョテイを追う!さあメイショウドトウが飛んできた、テイエムオペラオーはまだ真ん中――


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東京レース場、左回り、2400m、1800メートル地点までもう少し。

ペースは許容範囲内。レース展開はキンイロリョテイが逃げた以外は想定範囲内。

カーブで傾いたことで視界にとらえやすくなった、後ろの一人と左後方内側の二人をちらりと見やる。

それ以外に後ろには誰もおらず、このレースは16頭立て。

つまり超えていくべき12人のウマ娘がまだ前にいる。

第一、第二コーナーは控えたお陰で内を回れて、第三で位置を上げるために外に回り、第四、最終コーナーで大外に。

東京レース場での最終コーナーでの距離ロス、想定おおよそ3.6メートル。バ身にして1.5。

ジャパンカップは第10レース、内側のバ場は今日、何十人も走り抜けた後で、たとえ良判定でも理想的ではない程度には荒れている。

あの人との座学での話では、最新の造成技術のお陰で、昔ほどバ場に関して大外の利は無いというが、それはつまり、逆に言えば「今でも少しはある」という事だ。

少しでも良いバ場の方が、私のような追込戦法の切れ味勝負では大事な要素。コーナーロスとの取引は――臨機応変に。

先頭のキンイロリョテイまでおおよそ8バ身、私から左前、マークがきつい中団のテイエムオペラオーまではおおよそ4。その前のドトウまでは6。

海外の有力ウマ娘も、今は関係ない。このターフの上には、オペラオーとドトウ以外に、私に勝てる相手なんて存在しない。

呼吸と足を合わせるために、一瞬だけ意識して息を吸う。

視界の中に、観客席が大きく映る。

濁流のような歓声が、耳をうつ。


「――」


距離ロス込みで、射程内。

いける。


「……フッ!」


息を強く吐いて――スパート。

踏み出した左足裏、あの人が母と相談して用意してくれた特別製の蹄鉄が強く芝を噛み、後ろへと押し出せば足裏で土の塊が弾き飛ばされるのがわかった。

最終コーナーの出口、遠心力に任せて大外へ。

右手に観客席、上には青い空、左には抜き去るべき敵、そして私の前には、遮るもののない最終直線。

事前情報で目立つ斜行癖のある相手はキンイロリョテイとエアシャカール。

黒いジャケットに黄色のシャツの勝負服と、黒地に金縁のドレスの勝負服のはどちらも離れていて、どちらも左に寄りたがるタイプなので考慮から外す。

走る。

疾る。

視界の左前方、バ群がばらけて、オペラオーの前が開いて――覇王がついに進撃を開始する。

金細工飾りの桃色のマントをたなびかせて、一気に加速、包囲網から抜け出していく。

その間にも、私は一人交わして前へ前へ。

ゴール前の高低差2メートルの坂が、先頭集団の速度を削ってくれる。

左側で抜き去られていく相手に意識を割く必要はない。今私に必要なのは、刹那でも早くゴールに飛び込むことだけだ。

先頭で競り合う三人、オペラオー、ドトウ、ファンシーブライトとの距離がどんどん縮んでいく。

東京の直線は長い。追い込みに有利と言われるコース。

だけど。

これは。


「……ッ、」


前方に風よけの居る、後方で走っているときはあまり感じない、粘度を増した空気の中で認識する。距離が詰まる速度が、想定よりも、ほんのすこしだけ、遅い。

前走、秋の天皇賞。今回よりも短い2000mで見せつけられた、単純計算400m分の余力のあるその速度よりも、ほんの少しだけ速い。

坂などまったく気にしていないかのように、いや、影響が無いわけではないが、それでも、差が、思ったようには縮まらない。

三人で競り合っているからか、意地の叩きつけあいか。

大外を回りすぎたか。仕掛けるのが遅すぎたか。

必死に足を動かす。追いつくために全力で頭を働かせる。

呼吸の速度を上げて、合わせていた足の回転を上げて、心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉に酸素を回せ回せ回せ!

ストライドを広げて、一歩の効率を上げて、腕を振り、最適な足の運び方を探して!

それでも――直感した。


これは、クビ差、とどかない。

ずっと、この、追込という走法で、先頭を追いかけてきたから、わかってしまう。

たった十数センチの敗北。

もう1歩ぶん、踏み出せれば、届くのに。

この断絶は、私には、埋めることは。


嫌だ。

そんなの、嫌だ。

いやだいやだ。

いやだ!負けたくない!

今日は、今日だけは、絶対に、負けたくない!

トップロードさんと約束した。必ず、勝って、勇気が持てるような走りをするんだって。

あの人に約束した。この勝利をあなたに捧げるんだって。

あの人と走る、最後のレースになるかもしれないのに。

負けたくない。

負けられないんだ。

このレースだけは、絶対に、絶対に、絶対の、絶対に!


指先で靴底を、蹄鉄で芝をつかみ、腕を振る反動で足を動かし、姿勢を下げて耳を絞り空気抵抗を減らし、

必死に酸素を取り込んで、血流を回転させて、余計な情報を切り捨てて。

吹き出る汗が目に入るのをぬぐう時間も惜しい、そんな無駄な事はしていられない。

がむしゃらに腕を振り乱し、息を浅くして、足が折れそうなくらい痛い、胸が張り裂けそうなくらい痛い、頭が割れそうなくらい痛い――でも、そんなのどうだっていい!

全霊をもって、今この一瞬の為に、明日なんていらないから、足を動かして、だけど、だけど、だけど!

足りない。足を前に出し続ける力が、心を前に進ませる力が。

分かってしまう。届かない。負けてしまう。

また、オペラオーに、負けてしまう。

空が陰る。光が見えなくなる。後ろから迫る迷いに飲み込まれそうになる。

でも、それでも、まだ、まだ――


「――アヤベさん!」

「――――」


――走行中の風と、歓声の濁流にかき消されて、聞こえないはずの、トップロードさんの声が聞こえた。

瞬間、時が止まる感覚。

雑多な人の塊が、霞んだ視界でもはやモザイクのようにしか見えない中で、目立つ装いでもないのに、トップロードさんと並んで立つあの人は、すぐに、はっきりと私の目に入ってきて。

私とそっくりな、きっと、あの子ともそっくりな顔と、瞳と、目が合って。

この前まで一度も見せたことも無い、不安そうな瞳で。

それでも、きちんと、あの人が、目をそらさずに、私が走っているその姿を見てくれているのだと、確信出来て。


――焦りと、不安と、迷いに飲み込まれかけていた心を、安堵が満たす。


あなたが教えてくれた、私にとって効率のいい走り方。

あなたが考えてくれた、私の体に合わせた練習メニュー。

あなたが見せてくれた、ライバル達と走る意味。

あなたが示してくれた、あの子の誇りになるという道。

私が、私自身の事を見る事すらできなかった頃から。

私が、私を見ることだけで精いっぱいな今も。

ただの一度も、私の想いを、願いを否定することはなく。

朝も、昼も、夜も。

春も、夏も、秋も、冬も。

雨も、風も、雲も、あなたが自身の闇の中で迷っている間でさえ。

この三年間、あなたが、ずっと、見守ってくれていたから。

私はここまでこれたのだ。


たとえ、あなたが私に、ずっと誰かの残影を見ていたとしても。

あなたが私を、その誰かの代わりとしてしか見ていなかったとしても。

それをあなた自身が許せず、あなた自身を壊してしまいそうならば。

その罪悪感は間違いだと証明するために。

私は、その誰かではないのだと証明するために。

私を満たすあなたの想いは、決して、残影だけに向けられたものだけではなかったのだと証明するために。

あなたが見守って、育ててくれた私の輝きは、決して、そんなことでは塗りつぶされないのだと証明するために。

あなたが信じて見守り続けた輝きは、あなたの闇を晴らす星だと証明するために。

あの子が、私に、そうしてくれたように。


勝ちたい。

私は、勝ちたい。

空の上のあの子に誇るために。

トップロードさんの、友人の自信を取り戻すために。

そして、誰よりも、私自身の為に。ほかの誰でもない、私の意志で。

勝ちたい。

あなたと、勝ちたい。

これまでも、これからも、ずっと、ずっと、ずっと。

だから。

だから!

だから――!


だから、見ていて。


「ッッあああああああああああ!!!!」


我慢できずに、肺の中に残るわずかな空気が、酸素が、走るエネルギーを無駄に消費するだけの、呼吸を乱すだけの、レースでは何の意味もない、デメリットしかない、だけど、この胸に満ちる、駆け抜けた日々の思い出が、あの子への祈りが、あの人の笑顔が、叫びとなって口からあふれ出し、時を、足を前に進める力となる。

すぐに歯を食いしばって、腕を振って、体が覚えている、もう何百時間も練習した、何千回も繰り返した、あの人と一緒に見つけた、私が一番速く走れる、フォームのままに、足をけり上げて、踏み込み、大地を蹴り抜き、体を飛ばす。

絡みつく空気の壁を引き裂いて。

たった十数センチの、距離の断崖など打ち貫いて。

私と勝利とを隔てる、ありとあらゆるものを踏み砕いて。

疲労も、痛みも、限界すらも踏破して。

私が信じるこの脚は、あの子が遺してくれたこの脚は、今日まであの人と一緒に鍛えてきたこの脚は、なにがあろうとも、絶対に、絶対に壊れたりなんかしないから!

前へ。

駆ける。

翔る。

今この一瞬の為に、今日、この日の勝利の為に。

他の誰でもない、『私自身』が願い、焦がれる明日の為に。

その先に待つ日々の為に。

その果てに待つ、あの子の為に。


もう痛みなんて感じない。

観客の歓声も、アナウンサーの声も、聞こえない。

一歩踏みしめるたびに、蹴りだすたびに、前に進むたびに、もうどこにも残ってないと思っていた、力が湧いてきて。

ただ、あの人の、トップロードさんの、だれかの、「がんばれ」という声援が、たった四音なのに、万感の、否、無限の想いを宿した、それだけが私の背中を、足を、心を押して。

目の前の勝利へ。ゴールへ。光へ。たどり着くまで、止まらない。


残り100m、捕捉した

残り50m、並びかけた

残り25m、交わした――抜き返された

残り10m、抜き返した

残り5m、並ばれた

残り1m――


私は、無限に引き延ばされた一瞬の連なりの中で、最後の一歩を踏み出した。


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『これはすごい大接戦だ!!もつれるように四人並んでゴール!!』


唐突に世界に色が、音が戻ってくる。


並びかけて走っていた相手の気配が薄くなったことで、レースが終わったのだと、ようやく気が付いた。

スピーカーから響く、興奮したアナウンサーの声。

五月蠅いくらい鼓動を響かせる、私の心臓の音。

まるで溺れているような、自分の呼吸の音。

後ろから続いてくる、ライバルたちの足音。


脚を緩めて、減速していく。

体中が酸素を求めるのを、過呼吸にならないように、意識して深く呼吸して、ゆっくりと、停止。

走行中に受ける風とは比べ物にならない、優しい秋の涼しげな風が、超過運動に痛む全身の筋肉の熱を、心地よく冷ましていく。

振り向けば、オペラオーも、ドトウも、ファンシーブライトも、いや、誰もが動かずに着順掲示板を見つめていた。

大接戦。その表現は何よりも正しい。私は、勝ったのか。それとも、負けたのか。わからない。あの瞬間は、気にしている余裕も無かった。

掲示板の空白が、下から速やかに埋められていく。


「あぅ」


ドトウの小さなつぶやきが聞こえる。


5着、1番――ミネルヴァ。着差、1と3/4

4着、10番――ファンシーブライト。着差、ハナ

3着、13番――メイショウドトウ。着差、クビ


そして、2着と、1着が、空白。

着差表示には、写真の文字。

荒い息を抑えながら、汗に濡れて、顔に張り付く髪を剝がしながら、じっと、その時を待つ。

電子機器で記録するようになってから、写真判定にかかる時間は、そう長くはない。

15秒ほどだろうか、点灯していたランプが、す、と消えて。


2着、8番、着差、ハナ。


それは――つまり。一瞬遅れて、だが理解するよりも早く。


1着、14番。タイム、2:26:1。


確定の赤ランプが点灯する。


刹那、音の壁、という表現しかできない圧力が、背後の観客席から、私に叩きつけられて、全身の肌が粟だった。


『っ勝ったのは14番、アドマイヤベガ!!再びこの東京2400を制して覇王の凱旋を阻んだのはダービーウマ娘の意地!!煌めく栄光の一等星アドマイヤベガだ!!!』


勝った。

歓声に負けないほど、スピーカー越しに大声で告げられた私の勝利。

頭がうまく働かない。

事実と、認識がうまく結びついてくれない。

膝から力が抜けて、思わずへたり込んで呆然としてしまう。

さく、と芝が私を受け止める音。

ああ、だめだ、こんな情けない姿を見せるつもりじゃないのに。

お願いだから、私の体、もうちょっとだけでいいから、頑張って。


「――おめでとう、アヤベさん」

「う、ううううぅ…負けちゃいましたぁ…」


嫌味なくらい自信に満ちた声と、金属細工のこすれる音が、小さな拍手の音と、すこし気の抜けた、でも確かに悔しさをにじませた声を侍らせて近づいてきて。

顔を向ければ、白と金と桃色の勝負服をぐっしょりと汗で濡らしたオペラオーが、額から流れ落ちる汗もぬぐわずに、私に手を差し出していた。

その後ろには、心配そうにこちらを見やる、青と白の勝負服の、ドトウ。

差し出された手に、右手を伸ばして、ようやく、自分がずっと拳を握り締めていたことに気付く。

彼女の手を握り返すために、開こうとするが、なかなか、指が動かない。

たかだか手のひらを広げるという、それだけの行為を、どうやっていたのか思い出すのすら、難しくて、ただ拳を震わせていたら。

微笑みのまま、その手を取った、オペラオーが。汗のにじんだその手で、私の指をほぐしながら、私の手を握り返して、立たせてくれた。


「ほら、立ち上がって、みんなに勝者の姿を見せてあげたまえ――『世紀末怒涛一等星』の姿を」

「え、なに、それ」


唐突にねじ込まれる謎の概念。

頭がうまく回らないのもあって、余計に意味が分からない。

困惑している私の手をそのまま上に掲げさせられ、観客席に無理やり手を振らされて。

喜びに満ちた声で、オペラオーが、そのよく通る声で宣言する。


「さあ、みんな、万雷の喝采を彼女に!この覇王を打倒した、オルフェウスの星、『世紀末怒涛一等星』に祝福を!」

「は、え、やめ、やめなさい…!」


だが、遅い。覇王の号令に応える様に、熱狂した観客席からは、盛大な拍手とともに。

すごかったぞアドマイヤベガ!

よくやったオルフェウスの星!

よっ、世紀末怒涛一等星!

そんな声が聞こえてくる。

顔が熱くなる。ちょっと待って欲しい。オルフェウスの星も相当に気恥ずかしいが、世紀末怒涛一等星だけは定着させるわけにはいかない…!


「おめでとうございますぅ、アヤ…世紀末怒涛一等星さ…」

「ドトウ、やめて、本当に…!」

「ひぃ!ごご、ごめんなさいぃ!」

「そんなに嫌かい?世紀末覇王である僕と、怒涛であるドトウと、それを打ち倒した一等星のキミ…偉業を物凄くわかりやすく体現した称号じゃないか?」

「…2度とそう呼ばないで」


睨みつけるけれど、いつものようにポーズをとってかわすオペラオーを見て、なんだか、ものすごく、気が抜ける。

緊張が一気にほどけてしまって――ああ、でも、こんな雰囲気は、気分は、嫌いでは、ない。

深いため息を、一つついて。

でも、忘れないうちに、伝えておきたい言葉があった。


「――でも、ありがとう。起こしてくれて」

「どういたしまして!」


負けても美しいボク!と踊り始めるオペラオーに、それだけ伝えて。

にこにこしているドトウにもお礼を言って。

あらためて、観客席に向き直って手を振る。そのたびに歓声が返ってくる。

その歓声の中に、やる気に満ちた表情でこちらに手を振るトップロードさんの姿を見つけて。

その隣で、涙のにじんだ目で、私に微笑みかける、あの人の姿を見つけて。

ようやく、私が勝ったのだ、と実感できて。

きちんと目を合わせながら、手を振る。


ああ、今でも、よくわからない人だけれど。

それでも、私を見ていてくれたことだけはわかるから。

きっと、ずっと私を見てくれていたあの人なら、私の走りで伝えたい事のうち、すこしでも伝わったと思うから。

たくさん、話したいことがある。

たくさん、聞きたいことがある。

きっと、上手くは話せないから、少しずつになるけれど。

あの人は、これからも、私に勝手についてきて。

私のことを見ていてくれるだろうから。

もしそうでなくても、今度は、私が、私の為に勝手に付いていくから。

ゆっくりでも、いいよね。



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ごめんねアグネスフライト

恨むなら展開に死ぬほど都合がいい君の通過順位と、どう弄れば良いのか分からない名前、そしてアヤベさんの固有がすごく速度になる条件を恨め

ごめんねダイワテキサス掲示板から外して

でもダイワローンスターまで居ると知ってお前のボス、テキサス好きすぎじゃない?って滅茶苦茶名前弄りに困った恨みだ

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