Linden viburnum

Linden viburnum



ゆっくりと意識が浮上していく。

ぼんやりとした頭のまま上半身を起こして隣を見るとクロの姿は無くて、もう一度寝ようと横になって布団を手繰り寄せる。

「あれ。ショコラは⋯⋯」

自分の部屋じゃない事、ここには布団に潜り込んでくる愛犬も大事な弟もいない事に気づくと同時に一気に目が覚めた。

確か、クロの部屋にいて話していた筈だけど途中から記憶がないから眠ってしまったらしい。まだ日が出てない時間らしく薄暗い室内を見渡しても人影はない。

「帰らないと」

元の世界の事は忘れていないけれどなんだかこのまま居続けるのは本格的にまずい気がするとりあえず今日は宛がわれていた自分の部屋で寝よう。明日から調査を手伝えるか聞いてみないと。

クロが戻ってくる前に戻ろうとベッドからおりて廊下に出てみると外はまだ肌寒く、思わず身震いした。

何度も廊下を曲がり階段を降りていくのは非常に面倒だ。船の一番下の部屋は広いけど窓はないし持ち運ばれた家具はちょっと大きめで使いにくいけれど趣味は合うしベッドは大きくてゴロゴロできるからまあプラマイ0だろうか。一時的な物でしかないからなんでも良いけど。ああ、でもあれは欲しいな。あの鋏だけは本当に美しい。飾っているだけだと聞いたけどそんなの勿体ない。

あんな大きな鋏ならきっと布だけじゃなくてどんなモノでも斬れるだろう。

例えば人

「おい」

船底へ向かう階段の前までやっと着いたところで階上から声をかけられ振り返る。

「あ、おはよう」

「起きたのか」

クロはこうして時々音も立てずに現れては私をビックリさせようとしてくる。以前お腹が空いて食料品を漁ろうと思いたち部屋を出たら目の前に立っていた時は流石に声をあげてしまった。どうやらこの世界のクロはとても気配に敏感らしい。ついでにその夜は二人でミルフィーユを食べた。

格好からして外にいたらしいが今回も私の気配を辿ってきたのだろうか。

そんな事を考えながら階段を上がっておかえりを言うがクロは無言で見下ろしている。

「うん。あの、ごめんね? なんか寝ちゃったみたいで……」

「気にするな。行くぞ」

そう言ってさっさと歩き出した背中を追いかけるように着いていく。

「クロ、そっちはクロの部屋に戻っちゃう」

「知ってる」

当たり前のように答えられて困惑しているうちに部屋の前まで来て扉を開けるとそのまま中に入っていく。

もしかしたら用事ができたのかもと思ったけど、何も言わないし何なんだろうか。

「ねぇ、なにか……ッ!?」

質問しようとした瞬間、腕を引っ張られたかと思えば身体を持ち上げ抱き上げられる。いつもとは違う雰囲気にどうしたら良いかわからなくて固まっていると頬に手が添えられて撫でられる。

「どこに帰るつもりだ?」

「どこって」

部屋に、と言おうとしてさっきの一人言の事だと気づく。でも、あの時クロは部屋にいなかったと思うんだけど……。

「帰る手段なんて見つかってないだろう」

そりゃクロに任せてその間私は危険だからと船に残っていろと言われて待っているだけだったこの退屈だった三ヶ月全くそれらしい情報はなかった。

「でも、クロに会いたいから」

それはわかっているけど会いたいという気持ちは変わらない。クロは一人きりしかいないし時折もて余す暇で暇で仕方ない時間は焦れったい気持ちにさせるけれど別にあの世界を嫌いなわけじゃないのだ。

「戻る方法、見つかるかな」

「見つからなかったらお前はどうするつもりだ」

上から溢すように降った声に即答する。

「私諦め悪いから一人でも探すよ。それに⋯⋯これは兄としての勘だけど、もうクロに一生会えないなんて思えないんだよね」

まだ帰れないと決まったわけではない。原因が不明でもこんな簡単に異世界へパッと来れるならそれこそ何かの拍子にパッと戻れるかもしれない。

「もし私が急に元の世界に戻ったとしても、忘れて良いからね」

触れてくる掌に自分の手を重ねて言うとサイドテーブルのランプだけが灯る中、瞳だけが猫みたいに光っている気がした。

「もちろん、覚えていてくれた方が嬉しいけど」

そう言って笑うと何故か溜息をつかれた。

「おれはお前に甘いな」

「⋯⋯そんなこと無いと思うよ」

いつもお菓子は決まった量しかくれないし、船を降りる時は大人しくすると言っても信用してくれなくて監視されるし突然コートから出してくれない時があるし、こうしてたまに少し意地悪なことを言う。

「充分厳しいと思うよ。まあ、優しいのは知ってるけど」

別世界でもクロはクロで、私の知っているクロと何も変わらなかったから。

下ろして。と言うと素直に下ろされて、

「明日から私にも調査の手伝いさせてね」

期待を込めて聞いてみると、眉間のシワが深くなった。

「……」

黙り込んでしまった彼の腕を引っ張ってベッドに寝転ぶと大人しく隣で横になってくれる。

「おやすみクロ。さよならまでよろしくね」

背中に手を回しながら言うと返事の代わりに頭を撫でられた。


寂しがりのクロにもお兄ちゃんがいれば良いのに。







闇の中で静かな寝息と共に砂が動く小さな音が響いて頬や脇腹をなぞっていく。

かつてこの世界にいた男にあった傷はキャメルにはどこにも無い事は何度も確かめて知っている。

クロコダイルが昔と同じように握っても幼いキャメルの瞳が気配を感じて目を覚ます事もその手を握り返す事も、結局なかった。

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