Imitation Kaleidoscope

Imitation Kaleidoscope

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「すまないが、私はもう君の期待には応えられない」

アグネスタキオンはここではないどこか遠くを見据えながら言葉を紡いだ。どこまでも底が知れない瞳。彼女と対峙しているのは紛れもなく自分だと言うのに、感情の読めない双眸に映るのは本当に己なのだろうか。二人以外誰もいない廊下にも関わらず、ジャングルポケットは確信が持てないでいた。

「この事は君とトレーナー君しか知らないのだから、他言は無用で頼むよ」

「お前は……それでいいのかよ」

故障を起因とした引退。学園のウマ娘にとって身を引き裂かん程の苦痛を伴う、重い決断。だが、そのような苦悩など最初から持ち合わせていないとでもいうように、肩を竦めたタキオンは唇に弧を描いた。

「……まあ、確かに。私自身を使ったレースの実証実験は出来なくなった。とは言え、ウマ娘に秘められた力を探る手段が無くなった訳じゃあない。出来ないなら出来ないなりに、別のアプローチをするまでさ。では失礼するよ、ポッケ君。ターフを去ると決めた以上、私にはすべき事が文字通り山とあるのだからね」

実験に協力するというのなら大歓迎さ。いつでも来てくれたまえ。含み笑いをしながら仰々しい手振りで背を向けた栗色の尻尾を睨め付けたジャングルポケットであるが、そんな鋭い視線を歯牙にもかけず去って行くタキオンを立ち止まらせる啖呵を切る事も、ましてやふざけるなと掴みかかる事も出来ないまま、ただただ立ち竦むしかない自身の不甲斐なさに拳を握る。激情に身を任せれば、どれほど楽だっただろう。しかし、やけに冷えた頭はタキオンがレースから身を引いた事実を冷静に噛み締めていた。夏の気配が近づきつつある梅雨晴れの空に、雨の匂いを伴った暗鬱な雲が垂れ込めていく。湿気を帯びた灰色の薄暗がりが、ジャングルポケットの胸中にも広がっていった。走れば、息が詰まってしまいそうな気分が少しは晴れるだろうか。聴覚が優れたウマ娘の耳に一つ、また一つ雨粒が地面を叩く音が聞こえ始める。いっその事雨にでも打たれてしまえば、煮え切らないままの想いにケリをつけられるだろうか。らしくない考えをぐるぐると巡らせた所で、明確な答えなど出る訳もなかった。一度、深く息を吸う。こうなったら、頭が空っぽになるまで走るしかないと腹を括り、雨が降りしきる外へ傘も持たずに踏み出そうとした矢先。

「——世代の頂点を掴んだ君がそんな自棄を起こすなんて、関心しないね」

憂鬱な空気の中でも晴れやかで朗々とした声がかかる。視線を向けると、一つ学年が下でありながら空前絶後の偉業を成し遂げた覇王が、そこにいた。

「……てめぇには、関係ねーだろ」

常日頃大袈裟で騒々しい彼女らしからぬ、控えめな声を怪訝に思いながら眉根を寄せる。口ぶりからしてタキオンとの会話は全て聞かれているようで、不快感を顕わに顔をしかめるとオペラオーは小さく肩を竦めた。

「いやなに、ボクはたまたま通りがかっただけさ。立ち聞きするつもりなどなかったと断言するとも」

だから声をかけたのさと続けて近づいたオペラオーが、珍しく表情を曇らせる。派手派手しい装飾が施された耳が僅かに折れた。

「偶然とは言え、本当にすまない。タキオンさんの事も、覇王の名にかけて口を閉ざすと誓うよ」

あのオペラオーが飾り立てる言葉一つ寄越さず沈痛な面持ちで謝罪するのだから、今の自分はさぞ酷い顔をしているに違いない。己が越えるべき壁の一つだと考えていた相手に、同情を向けられている。憐れみが込められた視線。フリースタイルレースに明け暮れていた時分であれば憤慨し、語気荒く突っぱねていただろう。

「だがこれ以上、ボクの築いた絶対王朝へ立ち向かわんとする勇者の刃が鈍ってしまうのは避けたかった。何故なら果敢に挑まれてなおゴール板を征し凱歌を美しく響かせる事こそ、覇王たるボクの役目なのだからね」

不敵な笑みを浮かべて語る、傲岸不遜ともとれる物言い。だがそれはオペラオーのみが、オペラオーだからこそ口に出来る絶対王者の口上だった。自信に溢れた少女は告げる。自分と戦えと、挑戦者の牙をこの喉元に突き立てられるものならしてみせろと。いつだったか聞いた、トップロードの言葉を思い出す。

『オペラオーちゃんは誰よりも沢山の事を考えていて、どんな時でも自分の勝利を絶対に信じてるんです。そこに疑いや迷いなんて一つもなくて……本当に、凄く凄い人なんです』

ルームメイトが固い信頼を向けながら語った通りの、真っ直ぐで意思の強さが垣間見える王の輝き。レースのその先を見据える、周りと明らかに視点が違う言動の数々が、秘めたる力を解明せんとするタキオンを彷彿とさせる。
そう、似ている。決してはまる筈のないパズルのピースが、バチリといびつな音をたてて埋まった気がした。
ジャングルポケットの心臓が、名前も知らない情動に突き動かされドクリと高鳴る。突如脳裏に、去りゆくタキオンが過った。
確固たる信念を持ってどんどんと離れていく背中。青々としたターフを踏み込む感触と、瑞々しくもむせ返る程に香る緑の匂い。はためく白衣。それは数分前のタキオンではなく、あの日中山を鮮やかに駆け抜けていった、求めてやまない皐月賞ウマ娘の姿。
不意に視界がぼやける。じわじわと虹彩に滲む水膜が目の前に多重の像を作り上げた。己が信ずる道のみを見つめ、ただ前進し続ける姿勢。まるで万華鏡のように煌めく"皐月賞ウマ娘"に、自然と喉が鳴る。求めていたものが、そこにあった。

「タキ、オン……?」

オレンジの髪に向けて思わず呟いた名に、紫の瞳が驚きで瞬く。尊大な態度とは裏腹に小柄で細い両肩を掴んだジャングルポケットは、せめて目尻から零れる雫だけは見せまいと顔を伏せ、想い人の名を呼び続けた。掌に伝わる温かで柔らかな感触だけを頼りに、何度も何度もその名を口にする。

「なあタキオン……! タキオン……俺、俺は……!」


お前が好きだ。


その告白を聞き届けた夕日色の耳を飾るイヤカフが、忙しなくキラリと煌めいた。

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