If:予兆と始まり
傀儡呪詛師ふと、見かけただけだった。
呪術に精通し、何事も起こることなく日々を過ごしていた。呪詛師に堕ちることもなければ、呪術師として新たに大成するわけでは無い。けれど、一級呪術師として日々を過ごすには丁度良かった。
ただ、彼女と会えなくなった。理由は単純、高専卒業を機に彼女は呪術師の道を進むことなく一般社会へと戻ったからだ。理由は等級違いの任務による後遺症その他、恐怖が大きかったんだと思う。辞めると告げた彼女の手や指先、目は震えていた。そんな彼女にできたのは、そっかと相槌を打って頑張れと一言言うだけ。後から夏樹にどやされた。何で彼女に何も言わなかったのか、と。
言えない、言える訳がないよ。だって俺は守れる存在ではない。それにいくら彼女が術式や俺自身に理解を深めていたとしても同じ想いでいるわけではない。直球に言ってしまえば、自信がなかった。そして、彼女は誰のものにもなることがない、と確信していたからだった。
『そんな根拠ねーけどぉ?』
そう告げた夏樹の声が蘇る。確かに根拠なんてないよ、でも俺が1番安心したいんだ。分かっているんだ。
...分かっている、はずだ。
そう思っていたのに。
「...は」
街中で彼女に似た容貌を見つけ、思わず目に留まる。そのまま目で追っていると、彼女が会ったのは白髪の男。手を振り、薄く微笑んで相手も笑い返している。そのまま、手を...手を?
「...!」
思わず目を背けた。何をしているのか、何を見ているのかが全く分からなかった。何が起こっているかを脳が理解を拒否する。頭の片隅に入れていた“可能性”が起こってしまった事実に、俺は全力で目を背け、彼女から逃げるように走り出した。
観衆が俺を見る。どうでも良い。そんな人達のことを考えたって意味がない。そう、意味なんて全くない。今呪術師を続けている意味だって、彼女を免罪符にしてやっているだけ。自分のためではない、彼女がもう此方に来ないように、少しでも視界に呪霊が映ることがないようにと続けていた。だって、誰のものにもならないならこんなことしたっていいだろう。誰のものにもならなかったら、呪霊のことを知ってるのは俺らだけ。
でも、彼女の心に誰かが棲みついた。
「ゔぅ、...ぉえ...」
公園の手洗い場へと駆け込むと、真っ先に便器に向かって吐いた。胃の中から出てくる昼餉と胃液。混じって香るのは涙と吐瀉物。腹の底から湧き上がる吐き気が抑えられず、ずっと吐き続ける。ずっと、ずっと。
なんであんな男といるの。
なんであんな奴に笑うの。
なんであの男と一緒なの。
付き合ったの、心を上げたの、君は誰かのものになったの、ねぇ、教えてよ。
どうして眞尋と一緒にいるの。
どうして眞尋を見ているの。
離れてよ、話すなよ、見るなよ、消えて、消えて、消えろよ。
止まらない疑問と嘆き、悲しみ。そして湧き上がる憎しみと怒り、恨みの負の感情。鳴り止まない鼓動がうざったくて、今この瞬間命を絶ちたくなる。でもそれじゃあもう眞尋に会えない。でも会いたくない。会えない、会えないんだ。
携帯に残る彼女の連絡先が、今の君と俺を繋ぐたった1つ。消してしまえば、二度と会うことはなくなるだろう。もういっそ、消してなかったことにしてしまえば、この縁を切ってしまえば...
「でも、嫌だ...いや、...」
情けなくて泣いている。蹲って、這って、彼女のために流す涙が零れ落ちる。やがて誰かに向けた負は自分に向かい、甘い考えをしていた自分が愚かだったことに気付かされる。
どうして伝えなかったんだ。
どうして言わなかったんだ。
とうして引き止めなかったんだ。
もっと言うべき言葉があったのに、一緒にいる方法だってあったかもしれないのに、なぜ、なぜ、なぜなんだ。
伝える手段はない。今更何も言えない。どうしようもない。救いがない。
息をしたくない。君が誰かのものになってしまうならば、こんな世界消えれば良いのに。消えて消えて、全部塵になってしまえばいいよ。
あぁでも、それじゃあ君の健やかな姿が見れないじゃない。君が笑う姿が見れないじゃない。
「...っ、ぅ、...」
1人静かに涙を流す。全身の水分がなくなるくらいに流して、流して。そんな時、携帯の通知音が鳴る。
「...?」
見たくない、そう思っても自然と体は希望を求める。今ここで彼女から連絡が来たならば。もし、その糸に縋れるならば。もう、俺は。
「...眞尋、から...」
何だってしてやる。
君の隣にいるために。君の笑顔を見るために。君の幸いになるために。君のものになって、俺だけの眞尋にするために。
君が、俺だけに笑ってくれるなら。
もう、魂だって悪魔に売ってやる。