Hurt/Heart
えぐめ/性描写は無いけど強姦の示唆描写がある/正史ローの性的嗜好を「異性愛者」と捏造/一部ノベルロー設定
Hurt
――お前、トラちゃんをしっかり見とけよ。
サンジの忠告が今さら脳裏に蘇る。ローはぎりぎりと歯噛みした。
「何の、つもりだ」
ローは息を荒げ、自分の上にいる女を睨んだ。
「やだ。私って、そんなおぼこじゃなかったはずなんだけど」
女はくすくす笑い、しかし今の体勢を変えないまま、ローの裸の胸元を左手で臍から上に撫で上げた。
夜の深海をゆくポーラータング号。船長室のベッドの上で、あお向けに寝そべるローの腹に跨ってうっそりと微笑む女。
性別を違えて生まれた、異世界のトラファルガー・ローだった。
「二人きりで話したいことがある」に応じたらこれだ。彼女の着衣ーー今日は白いチューブトップにスキニージーンズという選択だったーーにもローの着衣にも乱れは無いが、家たるポーラータングの中、ローにとっては最近気に入りのスタイルをしていたことが災いしている。つまりローは、下半身こそスキニーを履いているものの、上半身はコートを羽織っただけだった。
「やめろ」
「やだ」
男の裸の胸を、女の指は気負い無くなぞり上げていく。
無論、ローが万全ならこんな勝手を許すはずがない。ローの腕には、彼女が来てからしばしば漂着してきた悪趣味な品々のひとつ、海楼石付きのベルト型の首輪がぎっちりとはまっていた。
彼女を連れて船長室に来た時、ローは椅子を勧めた。しかし彼女は「こっちの方がいい」と首を振り、ベッドに腰掛けたのだった。
クルーでも、船長のベッドに許可無く座る胆力を持つ者はさすがにいない。
けれど、ローは彼女のそれを咎めない。彼女という自分だから、全てを許している。
……患者への同情もあったかもしれない。そして、それが仇になった。
彼女はローにも隣を勧め、ローがそれに従うと「ちょっと背中貸して」と更なる要求を押し付けてきた。泣きたいのか、と疑いも無くローが背中を向けると、彼女は後ろからローの片腕を取りーー片腕とは思えぬ素早さで海楼石付きの首輪のベルトを巻き付け、脱力したローを押し倒し、その上に乗り上げて……うっとりと、とろけるように笑ったのだった。
「何の、つもりだ」
舌まで脱力していて、ろくにろれつも回らない。再三ローは問いかける。
「寝るつもりに決まってるでしょ? 相手してよ、キャプテンさん」
鈴を転がすような声だった。自分の眉がますます寄ったのが分かった。だが止められなかった。
彼女が性交を求めていることはとっくに理解している。先ほどからついついとローの肌を這い回る指先は蠱惑的で、どんな童貞でも勘違いのしようの無い色香を放っている。
ローが聞きたいのは、当然、理由だ。
「じゃあ、言い方を変える。『何故』だ」
彼女が目をみはった。しかし、たった一度の瞬きで何かしらが切り替わり、
「男日照りで盛っただけ。ほら、ここのクルーはみんな優しいから、みんなとじゃきっとぎくしゃくしちゃうでしょ? だからちょっと、溜まってて」
潔癖なローがいかにも激怒しそうなセリフを吐いた。
おれの顔で発情期の動物みたいなことを言うなーーとは思わない。そもそも、ローと彼女は同じ顔をしていない。
彼女には顎ひげも喉仏も無い。唇の血色は自分よりはるかに赤くて明るくて、顎の骨のラインはうっすら丸みを帯びている。人の美醜を大して解さないローをして「きっと『うつくしい』というものだろう」と思わしめるほど。
断言できないのは、今の彼女があんまりにも危ういからだ。
赤い唇とまろい顎は、痩けた頬と瞳の陰りとの強烈な対比となって、えもいわれぬ退廃的な色を醸し出している。
体つきの性差は言うに及ばず、顔のつくりもまとう空気も何もかも、ローとは決定的に異なっている。
だが、ローは彼女に欲情できない。欲情しない。
自分を抱くという酔狂な趣味は無いから……だけが理由ではない。それもあるが、何よりローには、医者としての責務があるからだ。
店で男を買え、とも言わない。
今のトラファルガー・ローという女は、人と交わってはいけない。
ローは固く信じている。間違っていないだろうという確信もある。
「……黒足屋も、こうやって誘ったのか」
とにかく気を逸らさせなければならなかった。二人きりの問答ではきっと袋小路の堂々巡りだ。だからローは第三者の名前を出すことにした。
彼女の体がぎくりとこわばったのが、密着されているローにはよく分かった。
しかし、彼女はすぐ、世捨て人みたいに肩をすくめた。
「なあんだ、もう知ってるのか……。うん。そうだよ。黒足屋さんは私が誘った。あ、ここまで強引なことはしてないから安心してね」
うちじゃないよ、サニー号の甲板で誘ったの。夜景がロマンチックだからいけるかなと思ったけど、断られちゃった……。
彼女がつややかな唇を尖らせる。デートの誘いを断られたティーンみたいなしぐさ。
ーーお前、トラちゃんをしっかり見とけよ。
ーー何故、って。……そりゃあ、あれだよ、ほら……。おれはお前のクルーじゃねェけど……レディーがあんなに傷付いてるのは、駄目だ。
出くわした麦わら達との宴会の翌朝だったと思う。あの時のローは何と返しただろうか。確か、「医者が患者を放り出す訳がねェだろうが」というようなことを言った気がする。サンジが誰かに呼ばれて、会話はそれっきりだった。
ローの知るサンジは強い。そして優しい。残酷なほど。具体的なことは何一つ言わなかったので、だからこそローはこの窮状に陥ったとも言えるが。
だが、サンジを責める気にはならない。彼は言葉を濁していたが、本当は、もっと直截で痛々しい言い方で一晩の愛を乞われたに違いない。あれが彼の精一杯だったのだ。
そして、彼ほどでなくとも、まともな男なら今の彼女を抱こうとは思うまい。
「…………」
サンジの痛みを、何より眼前の「患者」を思い、ローは唇を引き結んだ。
沈黙を続ければ、根負けしたのは彼女の方だった。口の端がわずかにゆがみ、ローの胸元からようやく指が離れていく。
「よそ様に、うちの事情を持ち込むんじゃねえ」
「やっぱり、私なんかじゃ勃たないかなあ」
全く話が噛み合わない。おれはここまで自罰的だっただろうか。現実逃避のように考える。
大して残念でもなさそうな……その実、他者からの否定を望んでいるのがありありと透けて見える口調。
「でも大丈夫だよ」
一転、彼女がぱっと微笑んだ。
「私だって医者だったんだから。ちゃんとできるようになる薬を入れてあげるからね」
彼女は己のスキニーのポケットを、まるでビスケットを増やそうとするかのような無邪気さでぽんぽんと叩いた。
「………………」
何も大丈夫ではない。何が入っているのかなど想像もしたくない。ろくな物ではないだろう。
ローはひたすら彼女を睨み続けた。最終手段なのか医者としての良心が咎めたのか、彼女は動きを止めた。ポケットの中身に触れようとはしない。
ほんの少しの沈黙があった。数十秒の間ののち、彼女は柳眉を寄せ、まるで子供をたしなめるように苦笑した。
「海楼石で弛緩してないと挿入できない役立たずは嫌い? 男ばっかりの船員を集めたハーレム気取りの淫乱は趣味じゃない? 中で出してもらわないと感じれない売女は触りたくもない?」
ーーぶつり。
確実に血管が何本か切れて、ローの顔が見る間に凶相になった。
「……落ち着け」
発した命令は自分にも向いている。
憤怒が滲んだ声になった自覚はあった。ロー自身とて、「自分」をここまでけなされて黙っていられる性格ではない。
患者相手に怒りを抱くなという平時の自制と理性が、ほんの数ミリ押し負けた。
それだけ。
たったそれだけで、娼婦の顔で無垢に笑っていた女は、一瞬だけ目を見開いた次の瞬間、鬼の形相になった。
「私はずっと冷静だッ!!!」
左だけの手がローの肩を掴む。コート越しとは思えぬ鋭さで爪が食い込んだ。
彼女が数度、肩で息をする。それだけで彼女は、表面上だけは落ち着きを取り戻したようだった。
「……冷静だよ。私はずっと」
わかってる、と彼女の唇が懺悔した。
「ドフラミンゴに犯されたのだって分かってる。麦わら屋さんも、その仲間も、ドレスローザの人達も、ゾウのミンク達も、……私の、大事なクルーも、みんな、全員、私のせいで死んだんだ。だからドフラミンゴは、私を罰してくれてるだけ……」
彼女の自責を否定したかった。誰よりローが否定してやりたかった。だが今の彼女の言葉を否定することは、そのまま彼女自身を否定することになる。
だからローが沈黙を続けるしかない間にも、彼女は当然止まらない。
ローの肩からするりと手が離れる。持ち上がった手のひらは彼女自身の口を押さえた。「あは」と声を立てて笑った彼女の爪が、彼女の頬をひっかいた。
「あんただって見たでしょう? 私が何されたか分かってるんでしょう? 医者なんだから。私、私の体、もうこんなに汚くなっちゃった。もうあいつに触られなかったとこなんて一ミリも無い」
片頬に見る間に赤い爪痕が広がった。からから、空虚な笑い声。
ローは手を伸ばしてやれない。腕を持ち上げるだけの力は海楼石に奪われていた。
「私、あいつの前で漏らしたことだってあるんだよ」
ローは何度も見た。彼女への拷問を、ではない。彼女がクルーへ伸ばした手を下ろした光景を。何度も、何度も。
あれで聡いところのあるクルー達である。入浴の介助も怪我の手当ても、全て声に出してから最小面積で触れている。
彼女は決して、自分からクルーに触れようとしない。
無言のローに焦れたのか、女のローの細指がぐしゃぐしゃとこめかみをかき回した。「ああ」と漏れた吐息は苦悶の叫びそのもの。
「…………」
そして、激昂したことを恥じたのか、彼女は唐突に、かくりとうなだれた。乙女を前にした花のように。椿の首が落ちるように。
下にいるローからも表情は見えない。彼女は、今度は手指で口元から額にかけてを覆ってしまったので。
その指の隙間から、鏡合わせの金の瞳がぎらりと光る。
「あんなの何でもなかったって思わせてよ。私は淫乱で悪い子だからあんなにされても狂えなかったんだって言わせてよ。あいつにされたこと、全部、これからいっぱい寝る中のたった一時期、たった一部だけだったんだって言わせてよ!!!」
彼女が乱雑にチューブトップを脱ぎ捨てた。袖と襟の無い服は、隻腕でも腹からまくり上げるだけであっけなく布きれになった。下着のカップ越しにも鮮やかに、ふる、と乳房が揺れて、はっとするほどくびれた腰が余計に目立つ。
それでもローは性的興奮を感じなかった。腹を挟んでいる太もももスキニー越しに押し付けられる性器も、何もローを興奮させなかった。
ありとあらゆる生傷と治療の痕が目に痛くなくても、きっとローはそうだった。
転んだ子供が泣かないような痛々しさにだけ、ローは動揺した。
「……!!」
ぐ、と反射で力のこもった指先だけしか動かない。
下着姿でも劣情が煽れないと踏んだのかーーついに、彼女の顔から全ての表情が削げ落ちた。
「ドフラミンゴは何もしていない」
まったいらな声だった。哀願でも悲鳴でも祈りでも願いでもない。
白い街の炎の匂いが、きっとこの女の声になる。
「私は汚くなんかない。穢されてなんかない」
光の消えたうつろな瞳。この声も目もローは嫌というほど知っている。
壊れかけ、閉じつつある人間のものだ。
「私は抱かれるのが大好き。性行為なんて何でもない、私は何もされていない私はレイプなんかされてない」
ほとんど過呼吸じみた吐露をローが遮ろうとした、刹那。
「だから私は、あんたを犯せる」
通り雨が上がるように、全てが前触れなく止んだ。
「……そうかい」
おそらく、今日初めてのまともなやりとり。彼女の最後通牒と、ローの投げやりな態度。
肩をすくめたローの返事を肯定と捉えたのか、開花のように彼女の顔が喜色に染まる。そして、日上がった大地に走ったひびのように、壊れた笑みが満面に浮かんだ。慈母じみた、しかしどこまでも淫蕩な微笑み。わらった彼女が、ローの喉仏を、きっとあらん限りの嫉妬を込めてなぞるために上体を、伸ばし。
その瞬間、ローは気だるい右腕を、今できる渾身の力で振るった。
コートの袖に仕込んだメスが手のひらに移る。刃先の保護カバーを親指で弾き飛ばし、返す刀で逆手に持って、腕に巻きつけられた首輪の革を断ち切った。
海楼石がほんの数ミリ、ローの体から離れた。
青いオペ室が広がる。ブランクのある彼女が目を見開いて能力の行使に移るより、当然ローの方が早かった。
ローの領域、台の上。
ローが指を動かした。
「〜〜ッ!!!」
はく、はく。彼女は池の鯉のように無機質に何度か唇を動かして、それから。
恨みがましく濡れた瞳をローに残し、その瞼を下ろして倒れた。
Heart
「キャプテン!? ROOMなんてどうしたの!?」
「何でもねえから戻れ!」
ポーラータング内、オペ室にまで広げたROOMは当然クルーにも知覚された。何人かが船長室の扉を慌ただしく叩いている。
「……ちょっと女のおれとトラブっただけだ。また何度か使うと思うが問題無い。……後で説明するから」
ぐ、と息を飲む気配がいくつかあった。
「……絶対ですよ。絶対、ちゃんと説明してくださいね」
「……待ってますから」
ペンギンとシャチの声がそう言って、彼らは二人より多い足音を伴って遠ざかっていった。
彼らの足音が消えたのを聞き遂げて、ローはようやく息をつく。
ローは今、自分のベッドに腰掛けている。
その背後では、女のローがくったりと横たわっていた。
海楼石が離れたあの瞬間、ローは、気化させた麻酔薬を彼女の肺の空気の一部と入れ替えたのだった。
「…………」
彼女は、先ほどの剣幕が嘘みたいに、すう、すうと穏やかに寝息を立てている。呼吸抑制も見られない。
彼女の健康に異常が無いことをためつすがめつくまなく探して、ようやくローは、重く長いため息をついた。
息を吐ききっていくらか思考がクリアになると、彼女の上半身が下着だけになってしまっていることを今さら思い出した。腰を浮かせ、ついでに彼女の体を少し持ち上げた。体の下にあった掛け布団を上げ、彼女の肩まで被せてまた座り直す。
「ん……」
起きるかと思ったが、小さく声を上げただけだった。極限まで張り詰めていたものがぷっつり切れたという印象。
ローは彼女の横に転がされていた鬼哭を持ち直し、改めてため息をついた。
吐露なら応じてやるつもりだった。しかし、自傷は見過ごせない。だから止めた。
トラファルガー・ローは医者なので。
……彼女がそう思えなくなるまでの日々を、想像する。
「…………、…………」
盛大な舌打ちはすんでのところで押し留めた。かりそめとはいえ、彼女の眠りを妨げたくはない。
改めて、一人の人間として彼女を見る。
まつ毛が長くて唇が薄い。産毛はあるが、自分の顎ひげには遠く及ばず、桃を見ているようだった。
クルーの反応を差し引いても、きっとうつくしい女だろうとは思う。ローにとっては「女の自分だと思うとぞっとしない」という、ただそれだけで。
女。
……声が、否が応でも蘇る。
海楼石で弛緩していないと挿入できない役立たず。
男ばかりの船員を集めたハーレム気取りの淫乱。
中で出してもらわないと感じれない売女。
ローはその言葉を既に知っていた。何故ならそれは、向こうで彼女が言われた言葉だったからだ。
あちらのドフラミンゴが彼女を抱きながら言い放った戯れ。
ローは知っていた。双生児にまつわる都市伝説のように、彼女の記憶の一部を夢という形で共有していたから。
――コラソンもこうやって誘ったのか。
――おれァ、あんな棒っきれみたいだったガキのお前に興味は無かったが……コラソンは違ったんだな。
ローが一番堪えたのはこのセリフだった。
コラソンと彼の愛情ごと罵られてにわかに戻った反抗の気力は、芽生えたそばから殴られて刈り取られ、その後、執拗に丁寧に嬲られて消えていった。いつものように揺さぶられて、ただ、いつもと違い、涙腺が壊れたように涙が出た。
異性愛者かつ男を自認するローにとって、暴かれる感触も総毛立つものだった。しかしローには、その嘲りこそが一番堪えたのだ。
代わりに、女の部分への嘲弄はさして響かなかった。
そして、向こうのローは女だ。
ローは飛び起きた後に内臓を裏返すみたいに吐き、貴重な真水を海ほど使って偏執的に体を洗っていたところを「おい、シャワー使いす、ぎ……キャプテン何してんすか!? 真っ赤じゃないですか!!」と羽交い締めで止められた程度で済んだ。
強姦という行為もそれだけで受け止めることができた。追体験とはいえ、所詮は他人の記憶だったから。
女のローは?
全てをまともに現実で受け続けて、その上体を暴かれて。どれだけの屈辱で、どれほどの恐怖だっただろう。
ーー何より、最初に彼女を保護した時の香水の臭いを、未だにローは忘れていない。
さかのぼること数ヶ月前。彼女は、潜航中のポーラータングにどこからともなく忽然と現れた。
状況的にまぎれもない「密航者」ではあったが、それ以前に、彼女の傷は重すぎた。尋問すらままならなかった。
島からも遠い外海にいたのだ。裁判官の資格も私刑の趣味も無いローは、だからまずは持てる技術を行使することにした。すなわち、彼女を癒す選択。
オペの助手にはイッカクを選んだ。イッカクも他のクルーももちろん反対しなかった。
しかし、ローは後々までこの時の選択について悩むことになる。彼女は確かに重傷ではあった。が、一分一秒を惜しむより、時間がかかっても自分一人で全てを終えるべきだったのでは、と。
オペ室のベッドに彼女を横たえ、その服を開いたローとイッカクの鼻っ柱を、まず、むせ返るような香水の臭いがへし折った。
「……!?」
「う……!?」
着衣の時から「少し重いな」程度には臭っていたが、その比ではなかった。もちろんマスクはしていたが、これほどの臭いの前にはほぼ無意味だった。思わず手で鼻を覆いそうになるという、医師としてあるまじき失態を犯すところだった。イッカクも同じで、不自然に手を動かしていた。
そして診察した彼女の体。
……結論から言えば、ローは全ての処置を滞りなく終えた。
医者として。
他人のプライベートパーツはいくらでも見てきた。専門外だが、必要ならどんな分娩だって乳房のオペだってやりとげる自信がある。患者に欲情なんて死んでもしない。
だが。
おぞましいとは、思った。思ってしまった。
異世界のローは、筆舌に尽くしがたい陵辱をその身に負っていた。
彼女というローは、体の外側も内側も、ただ一人の痕跡でいっぱいだった。
知らない刺青。知らないピアス。切り裂かれた刺青。ケロイド。ボディステッチ。スカリフィケーション。
右腕の切断痕。青いあざ。黄色いあざ。五指の形のあざ。擦過傷。切創。注射痕。靴痕。爪痕。噛み痕。噛みちぎられた痕。意匠ある熱傷。鬱血痕。糸の痕。吉川線。断裂ぎりぎりのアキレス腱。いびつに剥がれた爪の痕。舌の歯型だけ、二人分。
スキャン。
新旧様々な多発骨折とその痕跡。心臓の糸。名前の刺繍。卵巣で笑うジョリーロジャー。そこに破裂寸前まで詰め込まれた白い糸。
血液検査。
もうたくさんだった。イッカクは途中で下がらせたが、その彼女が後で密かに泣いていたことも知っている。
卑しい犬。卑屈な猫。籠の鳥。かわいい妹。あちらのドフラミンゴは、ローという女をその全てとして扱った。
『諦めておれに愛されろ』
濡れない体は薬で勝手に熱を上げられた。そのうち、薬が無くても「愛」された。
百歩譲って、愛玩ではあったのだと思う。未来永劫、決して相容れないだけの。
『ロー、愛してるぜ』
反吐が出るほどおぞましいだけの。
彼女は妊娠していなかった。少なくともローが診た時は。
「奇跡」などとは呼びたくない。そんな安易でお綺麗な耳心地のいい悲劇の美談には、絶対にしたくなかった。
彼女は十中八九ーーいや九分九厘、高ストレス下で排卵が抑制されていただけだ。たとえ妊娠したとしても、それを維持できるだけの体力も心も彼女には無かっただろう。
「…………」
結果がどうあれ、彼女が無理やり暴かれたことには変わりない。過去は不変だ。だからといって、顧みないことはできない。だって彼女は、生きているのだから。
生きているから失っていく。生きているから変わっていく。
立ち上がれなくてもいい。前を見れるようになればいい。
彼女という患者へ、彼女というローへそう祈る当のローには、罪悪感が一つある。彼女に、遠き日の自分の家族を見出していることだ。
耳の形は父に、まなじりは母に似ている。はにかめばきっと、そこにはラミがいるだろう。
女性性を通さずに彼女を見ることは、ローにはどうしてもできなかった。
「…………はぁ」
ローは首を横に振った。顔ばかり見ているから追憶が止まらないのだ。ローは彼女の寝顔から目を逸らした。
そうすると、目に入ったのは細い首だ。
「……」
過剰に白いことを除いても、あまりにも細い首だった。当然喉仏の隆起も無く、ローという男であれば、片手で命を絶てるほど。
鬼哭の鞘を握る手に、無意識に力がこもる。
ローは息を潜め、すらりと刀身を抜いた。
延命の技術とは、つまりは致命の技術でもあった。半分振り返る。彼女が寝ている。利き手に持った刀を、す、と振り上げて。
二年前にルフィに行ったように、抜き身の鬼哭を枕の横に突き立てた。
「…………」
寝顔の眉間にわずかにしわが寄って、しかしすぐに緩んでほどけた。ローに殺意が存在するはずがないのだから、それでいいと思っている。
彼岸との縁だけ切れればいい。
両手で鬼哭を押し込み、ぐらつきの無いことを確認して、ローはようやく手を離した。目的のために指先を動かす。
「……“シャンブルズ”」
数回に分けて能力を使い、彼女の肺に酸素を吹き込んだ。これで麻酔も完全に抜けるだろう。起きたら、言いたいことが山ほどある。
「……おれは」
言ったって聞き入れられないと知っている。だけど、言わずにはいられない。
「お前が生きてて、よかったと思ってるよ」
今の彼女はきっと否定する。仲間を全員喪ったのだから、否の返事そのものは否定しない。ただ、今でなくともいい、せめていつかの未来で、彼女が自分の命を誇れるようになればいいと思う。
きっと芽吹きは遠くない。だって、自分は、お前は「ロー」だから。人間の生きようとする力を、きっと誰より信じてる。
白い街で死に損ない、雪の日に命を渡されたローの、それは生涯続く祈りだった。
瞼にかかった前髪をそっと避けてやった。地肌はほのかに湿っていて、シャワーから上がって間もないのだと知れる。彼女がシャワーを浴びた目的を思えば頭が痛いが、過ぎたことだからいいだろう。
お前はひどく傷ついている。
お前はもう損なわれない。お前は汚れてなどいない。
お前の体と心を、他の誰でもないお前がまた尊べる日が来ることを、みんなが心から願ってる。
それでもまだ信じられず、お前がまた馬鹿な真似をすると言うのなら。
柔らかい黒髪に指は通さないまま、ただ撫でた。
「……今度も止めるさ。何度でも」
何度でもローは否定する。あちらのドフラミンゴの全てを。
何度でもローは止める。彼女の自傷を。
ローは肯定し続ける。性別を違えた異世界のローが、生きてこの世界に来た意味を。
「…………ん」
寝息が少し、穏やかになる。
彼女からもう香水は臭わない。
同じ石鹸とシャンプーの匂い。
ハートの海賊団の匂い。
ポーラータングの航行音と波に抱かれて、ローは彼女を見守っている。
彼女がそっと目を開け、そして閉じ、やがて呼吸が寝息に変わるのを、ただ静かに眺めていた。
終
2022/12/10追記
同じ小説を2022-10-23 00:10:33付けで「ぷらいべったー」に投稿しています。非公開です。
スレッドの動画化を受け、無断転載を防ぐための措置です。
上記以外のものは無断転載となります。
スレ内でこの追記についての話題を出すことは、お控えいただきますようお願いいたします。