Goodbye son,well done 2
◆F8BRsks1BBI5そして翌週の日曜日、連れられて赴く先は。
「……阪神レース場、か」
脳裏に去来するものは、今年の春、雨の降る中の2000m。
そして、繋靭帯炎を患ったまま病室で眺めた2200m。
「こんなところに連れてきて、一体なんの目的があるのさ」
「今日が何の日か、忘れてしまったの?」
「自分のことで手一杯なんだよ」
それどころか何もかもを怖がってメディアの類も一切合切遮断していたのだから、今日が何の日でここで何があるかと言われても何も知らない。
ただそれでも、視界に収まった文字を読み上げることだけはできた。
「マイルCS……?」
「……その様子だと、誰が出るのかも覚えてないのでしょうね」
いいや、知っている。きっとここに来るであろう相手くらい理解している。
知っているが、それでも目を逸らし続けてきただけのこと。なにせまだ一か月も経っていないのだから、忘れられるはずもない。
ただ、そこに視線を向けてしまえばあとは決壊を待つばかりになってしまうだろうから、ずっと忘れたふりをし続けて、精神の平穏を保っていた。
変装用のキャップを目深にかぶり、吐き捨てるように呟く。
「グラン姉さんが出るんでしょ」
「ええ、それも今回がラストラン、という形で」
「……そっちは初耳だ」
「つい先日発表されたばかりですもの。内々に話を聞く機会もなければ知らなくても仕方ありません」
「……だったら何さ。僕には関係──」
「──ない、とは言わせません」
咎める声に棘はなく、諫める瞳にはあの日の優しさがそのまま残っていた。
「切っても切り離せないものは受け入れるしか道はないの。そうとなればもうわたくしにできることは、あなたが受け入れられるように手を尽くすだけ」
「それでどうしてこんなところに──」
「いずれ。そう遠くないうちにわかります」
両者ともに、その先の言葉を持たなかった。
百聞は一見に如かず、ただ言葉を尽くすよりも深く理解できるものがあるというのなら、それを見届けるほかに手段はないのだろう。
無観客の規制が解かれ、少しづつと言えども戻りつつある歓声に耳を塞ぐ。
重なる罵声は幻聴だろうか、それとも真実なのだろうか。それを判ずる手段すら今の彼には持ち合わせがない。
来賓用のスペースの片隅で蹲る背中を、優しい右手が静かに撫でた。
「大丈夫、大丈夫。あなたがここにいることを知る者は、あそこに1人もいませんもの。ね?」
「そんなことはわかってるよ、わかってるけど、それでも」
もしも、が脳裏に在り続ける限り、恐怖は薄れない。
それでも立ち上がって見るべきものを見つめ続ける精神性は強靭な一面と脆弱から来る諦念の一面が混ざり合ったものであり、熱湯と氷水が混ざり合うことなく向き合うかのような歪さを持っていた。
結論から先に述べるなら。
どうせ僕が見ていようがいまいが勝つだろうな、という彼の予想はその通りに的中した。そこに身内の贔屓目と冷静な思考がそれぞれどの程度の割合を占めていたかはともかくとして、勝利の喜びが胸中にないのはどれほどに血のつながりがあれど所詮は他人事故か、心中のなにか大切なものが擦り切れてしまったからか──
茫洋と取り留めなく流れていく意識を、不安げな声が呼び戻した。
「……コンちゃん?」
「……ごめん、ぼーっとしてた。何か用?」
「ええ、ほら、あそこ」
指し示された先には、ぴょこぴょこと跳ねる姿が一つ。言うに及ばず彼ら姉弟と同じ血を引く少女、グランアレグリアである。
「会いに行くのはセレモニーの後にするつもりだったのだけれど、気づかれてしまったみたいね」
「……そういえば、今回からセレモニーが再開されるんだっけ」
完全に規制が解かれたわけではないとはいえ少しづつ戻ってきた観客に手を振ったり、かと思えばこちらに向かってなにか叫んでいたり、ころころと表情を変えくるくると動き回る姿はいかにも忙しない。
「少し静かになったころを見計らって会いに行きましょうか」
それで結局何がしたいんだ、とは言わない。
だが、何かを見つけられたような気もしない。
関係者以外立ち入り禁止の扉を素知らぬ顔で押し開ける姿に、少なくとも後援者が同じな姉はまだしも血縁以外無関係な自分は関係者ということでいいのだろうか、と思いつつ通り抜ける。
「堂々としていれば問題はありません。そもそも無関係ではない以上、気にすることでもないのだから」
「……そういうものかなぁ」
そういうもの、と押し切られてしまえば反論するだけの理由もない。
同行するだけの理由にも持ち合わせがないまま、海流に押し流されるプランクトンのように先導する背について行けば、お目当ての人物が待っていた。
「あっ! おねーちゃん! コンちゃん!」
そのまま駆け寄ってくる姿に失礼ながらどこか大型犬じみたものを感じていると、いつのまにか後ろをついて来たはずの貴婦人は彼の後ろに回り込んでいて。
「まっ、待って──」
「かちましたよーっ!」
両腕を前に突き出した状態で飛び込んでくる。要するにハグをしようとしているのだろう。しかし興奮しているのかあんまりにも勢いがつき過ぎていて。
これはすなわち挟み撃ちの構図になりますぞ、と囁く声を聞いた気がした。
──ありがとう、見知らぬ軍師殿。
──でもその献策はもうちょっと早めだったらよかったなあ。
後に、彼はこう語る。「もし生まれ変わったとしてもラグビー選手にだけはなりたくない。タックルは僕には受けきれない」と。
「すごく 背骨が いたい」
「あはは……ごめんなさい! でもすごくうれしかったからがまんできなくて」
「とても いたい」
年齢以上に幼く見える人物だし、天真爛漫を絵にかいたような人柄だが、それにしたっていくらなんでも喜びのあまりタックルをブチかますのは流石にハイになりすぎではないだろうか。
そしてそれを予見して弟を身代わりに使うのはどうなのだろうか。
まさかこれが狙いじゃないだろうね、とじっとりとした目で下手人を睨んでも涼しい顔が崩されないのでそのうちに抗議は諦めることとして、月並みだが賛辞を述べれば。
「らいしゅうはコンちゃんのばんですからね!」
舌足らずに爆弾が投下された。
「……それは」
彼の逡巡も知ってか知らずか、その二週間先にある香港国際競走にも触れて、引退レースのリレーの二番手という事実を突きつけてくるグランアレグリア。裏表のないひとだし、そこに悪気がないのは分かっているが、いくらなんでも。
──それは、重い。
独白は音を結ばず、脳の内側に静かに漏れた。
それでもおくびにも出さずにそうだね、頑張るよ、と答えれば、お前には無理だと嗤う耳慣れた声が聞こえた。
その声の正体は知っている。ずっとそれに付き合い続けた以上、今となってはもはや親友と呼んでもいいかもしれない。膨れ上がった自己不信は表層と内面の亀裂を拡げ、気づけば行動と大きく乖離した本心は独り歩きしそうなほどに成り果てていた。
「でも、いやならいやっていわないとだめですよ」
そして、うまく作り上げていたはずの外面は、またしても簡単に引き剝がされた。
「……嫌だなんて」
「おもってますよね?」
「わかったような口を利いて──」
「わかりますよ。おねーちゃんですから」
ああ、駄目だ。
こんなくだらない言い合いがしたかったわけじゃないのに。こんなどうでもいいことに煩わされていい相手ではないのに。
刺々しい振る舞いで突き放そうとしても、するりと潜り込まれて逃げられない。
「……なんだって僕の吐く嘘はあっさり見破られるんだろうね」
二人分の返答が重なる。
家族だから、ずっと見てきたから。だからそこらの人々は騙せても、身内だけは騙せない。
「だいたいわかりやすすぎるんですよ。むちゃしてるなーってみえみえなんですけど」
「鬼気迫っているというべきでしょうね。ただでさえ張り詰めているけれど、そこからさらにもうすこし表情がこわばっているときはだいたい嘘を吐いているときですもの」
「そっかぁ……」
観念しよう。もう嘘を吐いたって意味がない。強がっても装っても、その虚飾は一切なんの役にも立たないのだから。
そうして思考を切り替えれば、少しだけ気楽になれるような気がした。
「勝てなかったら、どうしようか。僕なんかには、その期待は重たすぎるよ」
その答えは、今度は別々だった。
「いまからしんぱいしたってどうしようもないですよ。だからまけたくないとおもうんです。よわきになってもいいことなんてなーんにもないんだから、つよきにいかないと」
「有馬記念に出て勝ってしまえばよろしいのではなくて?」
前者はまだ理解できる。淡々と事実を述べる様はシビアな勝負事の世界を色濃く映している。
だが、後者は。
「残念だけど脚も心も限界だし、そんな冗談言われたって無理だよ」
「冗談のつもりはないのだけれど……」
ああ、でも。
笑い話を笑えなくなったら致命傷だけれど、笑えているならまだ重傷だ。
まだ立っている。まだ生きている。まだ結果は確定していない。まだ完全には折れ切っていない。
そう思えるとなんだか愉快で、少しづつ湧き出るように二人分の笑い声が響き、それから憮然としていた一番上の姉まで結局静かに微笑み。
この一瞬だけは、救われるように思えた。
「それと、コンちゃん。おせっきょうですよ」
「……このままいい雰囲気で終わるところじゃない?」
「だめです。ぼくなんか、なんてこんどいったらふちゅーのマイルでこてんぱんにしますよ」
そのマイルって1600? それとも2000? というのはいくら気になっても流石に聞けなかった。
「グランにはもうおとーさんもおかーさんもいないし、ブルトガングもいなくなったけど、まだだいじなものがいっぱいのこってます」
舌足らずな声の割にはなかなか威厳のある立ち姿で、マイルの女王は不肖の弟を叱った。
「いまあえないひとにも、いつかあえるから。それならまだここにいるひとたちをだいじにする。そのなかにはちゃんとコンちゃんだってはいってます」
「……そっか」
「だから、じぶんをだいじにしなかったら、きずつくのはじぶんだけじゃない。それだけは、おぼえておいてほしいんですけど」
「……そう、だねえ。うん、なかなか無遠慮なことを言ったのは承知してます、もうやりません」
ならよろしい! と大きく笑って、それからもう一度、約束を破ったら阪神のマイルに呼び出すと釘を刺されてから家路についた。
そして、その日の夜。
久しぶりに電源をつけたスマートフォンに大量に溜まっていた通知の処理を終え、あとは眠ろうかという頃合いでまたも端末がヴーッ、ヴーッと唸りながら主人を呼んだ。
「はい、もしもし?」
『……漸く出たか。久しいものだ』
英語で語り掛けるその声は、彼のよく知る老雄の声だった。
「ハハ……ごめん、最近はずっと電源を切ったままで」
『構わんさ。その様子では、随分と楽になったのではないかね?』
「うん、まだまだ不安も多いし嫌なことばっかりだけど。それでもあと一週間くらいなら頑張れる」
『そうか……では一つ、この老骨が最後のアドバイスとしよう』
電話口の声は思慮深さと年季の重さを感じさせる声で、かつてのように静かに諭した。
『君はかつてこう言った。“レースの世界は9回の落胆と1回の喜びで出来ている”と』
「他人の受け売りだけどね」
『知っているとも。しかし君の後見人の受け売りであったとしても、君自身も納得を持ってそれを語ったことには違いないだろう?』
ではここで、一つの疑問が生じる。
老人は調子を変えず、淡々とそれを述べた。
『なぜ君は、それを知ってなおターフに立ったのか、だ』
「それは……」
『毀誉褒貶は目立つ者の常だ。娯楽の槍玉に挙げられる我らは例外なく荒波に晒される。──とはいえ、こんなものを娯楽と呼ぶには醜悪が過ぎるが』
その言葉には深い怒りと失望が装填されていた。
『トマス・アクィナスが聞けば怒り狂うだろう。もっとも、700年以上昔に墓石の下に行った人物が今更何かを知り述べることが可能かは知らんがね』
「……いったい、なんの話を?」
『これは遊びでも何でもない穢れたものだというだけさ。しかしそれだけ穢れたものだからこそ、君の御父君もあれこれと言われ続けた。それを知らない君ではあるまい』
だから、その穢れを乗り越えてなお決意を抱かせた何かが、君の根底に眠っているはずなのだよ。
『その脚が脆いと知っていても戦うことを決めた理由は? 無理だと思っても三冠に挑んだのは何故かね? 今年の故障も、年内の復帰すらどうかという見立てを覆して君を復帰させた原動力はどこにある?』
辞めようと思えばいつでも辞められたはずだ。そもそも挑まない選択肢だって最初からあったはずだ。
それでも立ち向かった理由を、老いた声は優しく問うた。
『“Why done it”だ。君の出発点に、それは眠っているはずだろう。君自身の裡に答えを求めなさい』
厳かな雰囲気が少し崩れる。代わりに浮き出たのは苦笑だった。
『さて、今日はここまでとしよう。うるさい自惚れ屋が代われ代われとしつこいのでね』
耳をすませば電話口の向こうから、「ご老公! ルーベンスのご老公! そろそろ俺に代わってもいい頃合いではないか? 俺にも話したいことがいくらかあるのだが!」という声が漏れ聞こえてきて。それから強引に切られたらしく、ブツリと音を立てて通話は終わった。
「──僕の原点、か」
思い返すのは遠い昔、球節の炎症で一人別メニュー調整を強いられていたころ。
気分転換にと後見人の一家の代表の弟であり、彼の後見人の名義を引き継いだ男に連れ出されたあの日。
『この桜にはね、面白い話があるのさ』
秋も深まり、すっかり枯れ落ちた桜並木の一本を見つめて、男はそう話を切り出した。
『ずっと昔、かの皇帝の三冠の年だった。この施設が出来たばかりの時、兄貴はここを日本一美しい場所にすると言って桜の樹を植えたんだ。そうしたら当時懇意にしていたトレーナーに、“桜の花はすぐに散るからいけない。そんなものを植えている施設なんてどこにもない”と止められたんだ』
愉快そうに微笑みながら、それからどうなったと思う? と男は訊いた。
この桜並木が答えなんじゃないですか? と少年は答えた。
『そうだね。兄貴はそれでも自分を曲げなかった。もともと意地っ張りの跳ね返り気質で、子供のころから負けず嫌いだから』
それから男は一つの図柄を差し出した。
空色の地に赤色の十字襷のそれは、酷く見慣れたこの一族の旗印。
『このデザインもパリのデザイナーに頼んだものなんだけれどね、これも“バッテン印は縁起が悪い”なんて取りやめるように言われたのさ。──怒り狂っていたよ。“この国はどこまで古臭いことをやってるんだ”って』
それからどうなったかは言うまでもないが、今では赤バッテンと言えば元祖の彼らの手元を離れて、別の集団のトレードマークになるまでに至った。
それが何を指し示すものなのか、男は語らなかった。
けれど少年はそこに、幼いながらに革命家の気概を見た。
『コントレイル。きみの名前の由来は、もう聞いたね?』
ああ、そうか。
そこが、原点だったのか。
空を飛ぶモノが遺した衝撃の残滓でも、置き去りにされていくものでもなく。
届かぬソラに焦がれるためでも、見知らぬ人々に詰られるためでもなく。
それは、見た人の願いを叶えるという吉兆だったのだ。
一週間という時間は気が付けばあっさりと過ぎ去っていき。
控室に入る直前のところで、あの夜からまたある程度の静かさを保っていた携帯電話が彼を呼びつけた。
『やあ! 調子はどうだね?』
その大声は先週の電話越しのやり取りの、マイクから離れたところからでもはっきりと聞こえた声であり、まして直接の通話となれば少し大きすぎた。
「……元気なつもりだったけど、元気すぎる声が聞こえて来ちゃってちょっと自信が失せてきたところ」
『それはいかんな! では手短に、率直な意気込みを聞こうと思ったのだが、どうだろうか!」
「流石に姉さんに“引退を撤回して有馬記念で雪辱を果たしなさい”なんて言われるのは嫌だから、やれるところまでやってやろうと思ってる」
『冗談が言えるなら健全だな!」
二割くらいは冗談じゃないんだけどなあ、と苦笑する。
「まあ、これで終わりだからさ。最後くらいはお望み通り……まあ、どれだけの人が望んでるかは知らないけど、カッコいいところを見せてやろうか。なんて」
『いいじゃないか! 気に入った! 遠く離れたところからではあるが応援しているとも! ではな、またいずれ会おう!』
翼はまだボロボロで、燃える炎を灯す燃料は借り物と忘れ物で、もう推力なんてどれだけ得られるかは不明だけれど。
墜落はやめた。せめて滑空の方がまだマシだ。
後ろ向きな姿勢は捨てきれないが、それでも幾許か前を向いて、彼は最後の時を待った。