Goodbye son,well done. 1
◆F8BRsks1BBI5聞きたくない声ばかりが、塞いだ耳をすり抜けてくる。
崩れかかった心はさらに踏み躙られ、雑音が罅を拡げ、そして何故、という絶望が入り混じった問いを発する。
どうしようもなく悪意に晒され、どうしようもなく摩耗して。
それで最後には、何が残る?
11月某日。
昼食時の食堂に立ち並ぶ透明なパーテーションの群れ、その隙間を潜り抜け、彼女は目当ての人物に声をかけた。
「ここ、空いてる?」
「──アイちゃん先輩! どーぞどーぞ」
破顔一笑で答えた彼女はデアリングタクト。つい先月ごろに温泉療養から帰ってきたばかりで、翌年4月を目処に復帰を目指す彼女の後輩だ。
復帰の目処が立っている程度には良化傾向であるとは言え、その右脚には未だ包帯が巻かれたまま。傍らに置かれて鈍い存在感を放つ松葉杖も相まって状態は万全とは言い難い。けれどそれをおくびにも出さない心の強さを彼女──アーモンドアイは眩く思う。
「お昼ごはん……って感じじゃないですよね、それなら手ぶらで来るわけないですし。なにかあたしにご用事ですか?」
「ええと、その……ひとつだけ聞きたいことがあって」
「いいですよー、あたしに答えられることならなんでも!」
「じゃあ遠慮なく。──コントレイルくんのことなんだけど、最近見かけない気がして」
ああー、やっぱり。少しだけ苦々しげな表情を浮かべるその姿に、アーモンドアイは小さく身構えた。
「あいつね、10月の終わりくらいから大山の方に篭りっぱなしなんです。あそこってただでさえ関係者以外立ち入り禁止なのに、その関係者ですら誰も彼も面会謝絶って事にしてるそうだから噂のひとつも流れてこなくて。色々聞いてまわったんですけどみーんな口をそろえて詳しいことは知らないって」
電話かけてもメッセ送っても無視なんですから薄情ですよねー、と返すその声音は、明るい字面とは対照的に困惑を滲ませている。
「もう空気も最悪ですよ。元々夏前から不穏だったのがあの秋天の後はもっと酷くて、それで今は生きてるのか死んでるのかもよくわからないんだからみんな心配してます」
ま、訃報が流れてこないんだから生きてはいるんでしょうけどね、と続けて。
「だからいっそのこと乗り込んでやろうと思ってるんです。腑抜けた顔してたらビンタしてやろうかって」
「それはまた……その足で遠出は厳しいんじゃないかしら?」
ですよねー、と天を仰ぐデアリングタクト。事実まだ癒えきらない右脚を引きずって遠路はるばる山間の施設まで赴くのは厳しいと本人も理解しているようで、やっぱり出るまで鬼電してやろうかな、と愚痴をこぼす。
「でもケータイの電源も切ったままみたいだからどうしたものかなー、なんて──あっ、そうだ」
そしてちょっとだけ悪い笑顔。悪い虫の知らせから、うっ、と先ほどより強く身構えた綺麗な瞳の女王に、気丈な少女はひとつ提案を投げかけた。
そして、その週末。
「ひゃー、寒い! しかも遠い!」
「結構時間かかるのね……」
2人の姿は、大山にあった。
「大丈夫ですか先輩、重くないですか?」
「ぜんぜん。むしろタクトちゃんこそ大丈夫? 寒くない?」
先日のやりとりで互いに確認した通り、松葉杖をついて歩くのはどうしようもなく遠すぎる。
だからこうしましょう、と切り出された提案は車椅子を借りてこようという話だった。
ほんっとーに申し訳ないんですけど、押してもらってもいいですか? と言われ、逡巡の末に頷いてからは早いもので、あれよあれよという間に小旅行の計画まで組み上がっていたのは内緒である。
関係者以外立ち入り禁止の時点で接点の薄い自分が立ち入っていいのかという迷いもあるし、面会謝絶の一点張りで押し通されてしまえばそれでおしまいだが、かわいい後輩が気になるというなら力を貸してあげたいのも半分、もちろん彼を個人的に気にかけているのも半分。
半々綯交ぜになっていて別人に宛てたものとはいえどちらも後輩を案ずる感情。それでこんなところまで来てしまうのだからなかなか入れ込んでいると言われても反論はできない。
(でもまあ、心配するなって言われる方が無理なモノよね)
二人が立たされた苦境は良く知っている。その一番最初のきっかけを作ったのが誰かと言うのももちろん理解している。
為人のできた二人のことだからきっと責められることはないだろうが、それでも案ずる気持ちを捨てられるほど図太く生きることはできないし、捨てようとも思わない。
何はともあれ押しかけた以上引き下がることもできない、という訳で意を決してインターホンを押してみれば。
「わ〜! すご〜い! トリプルティアラ二人組が来てる!」
「うおっすげえ! サイン貰ってもいいですか!?」
現地のスタッフに、案外拍子抜けなくらいの歓待を受けた。
「……知名度って便利ね」
「……完全に同意です」
にべもなく追い出されるくらいは想定していたのにまさかあっさりと応接室に通されて茶菓子まで出されてしまうとは想定しておらず、2人揃って顔を見合わせて硬直したのが十数分前。
あんまりにも何事もなく済んでしまったせいで先程までの緊迫した面持ちも抜け落ちて、気がつけば窓の外に見える花がどうとか雲の形がどうとか、そんなことに意識が向いてしまう始末である。
「去年の夏ぐらいにダブル無敗三冠なるか、ってことで対談企画だかなんだかで一回来たことあるんですけど、あの時だってここまで歓迎されてなかったですよ」
「あの年は大盛り上がりだったものねえ……」
「そーですねえ……それにしても、仮にも部外者を顔パスで通しちゃっていいの……?」
「ちょっと本人に聞いてみますね、なんて軽いノリでいいのかしら……?」
先ほどまでは多少なりとて張り詰めたものがあったはずが、用件を伝えるや即座に「一応面会謝絶なんですけど……とりあえず本人に聞いてみますね!」と飛び出していったスタッフが戻ってくるのを待つうちに緊迫も弛緩しきってしまった。
「去年来た時のほうが結構ピリついた雰囲気があったんですけど……なんかちょっと重苦しい感じだったのは、やっぱりこないだの秋天から色々あったせいなんですかね」
「この歓迎を見る限り、面会謝絶ってことになってるのはここの人たちにとっても本意じゃないのかもね」
「……あいつ、何やってるんだか」
遠くに駆けて行く人影の中に、見慣れた姿は存在しない。
おそらくはそう容易く人目にはつかないようなところでひとりきり、ずっとトレーニングに励んでいるのだろう。
推察に推察を重ねて述べるなら、おそらくそれは消極的な理由によって敷かれた隔絶であり。
きっと拒まれるだろうな、という予想は、案の定その通りであった。
そして、突然押し掛けたにも関わらず丁重に扱われ、申し訳ないほどに丁寧に、かつ残念そうに断りの言葉を告げられ帰路につこうとする途中、廊下の途中で二人の男性とすれ違う。
かたや得も言われぬ威圧感を放つ老年、かたや左目を眼帯で隠した筋骨隆々の偉丈夫。
掘りの深い顔立ちから察するにおそらく外国の血を色濃く引いており、服装や年齢、そして首から下げた部外者用の入館証から判断するに、ここのスタッフでもない。そんな二人が通っていく途中、こちらに気が付いた様子の偉丈夫が壮年の肩を叩き、二言三言英語でやり取りを交わしたのち、通り過ぎていき。
そして、結局二人が通ることもできなかったトレーニング施設の側の扉を抜けていった。
「……海外のメディアの方なのかしら」
「どうだか。でも何にも知らない人ではないと思いますよ」
──だってあの人たち、たしかにあたしたちの名前を話してましたから。
「……聞こえてたの?」
「名前だけ聞き取れました。あとはなんにも」
取りつくしまもなく拒まれてお冠の後輩が吐き捨てた言葉に生返事を返しながら、彼女は思う。
彼らの目的は、自分たちと同じ人物なのだろうか。
あの扉の先に行くことさえできれば、おそらくいるであろう尋ね人を探すこともきっとできるだろう。
来ていることを知ってなお遠ざけられた以上、踏み込むことを望まれていないとしても、それでも。
届かなかった励ましの言葉は、喉の奥でひそやかに解かれて消えた。
そして、その日の深夜。煌々と照らす照明によって、トラックコースには一人分の影が落ちていた。
息を切らし、ふらつきながら、絶望と闘志に均等に塗り分けられた瞳で縋るように虚を睨む。
平時の彼を知る人ならば、きっと異常と断じただろう。
けれどそれを止める人物もここにはいない。
理性がオーバーワークだと制止をかけれど、身体は恐怖と焦燥に衝き動かされてトレーニングを続ける。
(ああ、でも、これで壊れてしまってもいいかもしれない)
注目されることにも、望まれることにも、望まれた結果を出せないことにも疲れきった少年は、もはや消えてしまっても構わないという破滅願望を抱きかけていた。
(逃げてしまってもいいか。どこか遠く、僕以外の誰もが僕を知らないところまで)
孤独である故に完全に崩れることはなく、そして誰にも打ち明けられず心の奥底に澱み続ける。
そんな危うい均衡を保ちながら、乾いた喉を潤すために屋内に戻ろうとして。
本来あり得ないはずの、彼を呼び止める声があった。
「……どうして」
「ごめんなさい。保護者ということで無理に無理を重ねてでも通していただいたの」
「そうじゃない。そんな建前はどうでもいいんだよ。──最悪だ。一番会いたくないときに、一番会いたくないひとが来るなんて」
眼前の人物の名は、ジェンティルドンナ。
敬愛すべき姉であり、かつて憧れを抱いたひとりであり、そして今は、今だけは。
その分けた血こそが、頂いた肩書こそが、どうしようもなく憎らしかった。
「どうか帰ってもらっていいかな。姉さんまで嫌いになりたくない」
「いいえ。たとえ嫌われてでも、その無茶だけは許容できません」
「だったらッ! ……だったら今日はこれきりにする。だから今すぐにでも引き返して、それきり二度と来ないでほしい。それだけだよ、それだけなんだ。だから、どうか──」
──僕に、思い出させないでくれ。
「逃げ切れないんだ。どこにいても、なにをしても、会ったこともないような父親が付き纏ってきて、勝手に比較されて、期待外れだなんて言われて。もうやってられない」
「だから、こうして誰とも会わないようにし続けていると?」
「ああそうだよ! もう誰だって信用ならない。もう誰の言葉も聞きたくない。それを分かってどうして──」
「わかるからこそ、わたくしはここに立っているの」
「嘘を吐くなッ!」
絶叫が深夜の静寂を突き破った。
「わかるものか。理解できるはずがない。たとえ姉さんであっても、いいや、だからこそ知らないはずだ。失望されるのも、嘲られるのも、もう限界なんだよ……」
その面に浮かべる感情は、怒りから哀しみ、絶望から憤怒へと切り替わり続け、ひとところに留まる事すら知らず荒れている。
その狂態こそが、彼の精神の乱調を的確に表現していた。
「躰はまだ動くよ、でも心はもうダメだ。もう、ダメなんだよ……こうも苦しむなら、三冠なんかやるんじゃなかった。こうも辛いなら、生きていたいとも──」
彼の絶望が形を成して喉を食い破る前に、いっそう強い言葉がそれを遮る。
誰に対しても引くことなく毅然として振舞う姿は、まさしく貴婦人と呼ばれるに足るものだった。
「何度でも、何度でも繰り返しましょう。わたくしは、完全ではなくてもあなたに共感できます。3連敗も二度あって、京都記念6着も、宝塚記念9着もあった女ですもの」
「そんなはずが──」
「コンちゃん。あなたが苦しんでいる理由は確かに誰かから浴びせられた心ない言葉であり、誰かから預けられた無責任な願いでもあるけれど、ひとつまだ云っていないことがきっとあるはず」
やめろ。やめてくれ。それ以上無遠慮に踏み込んでくるな。
そう叫んでしまいたかった。あたたかな手を振り払って耳を塞いでいたかった。
誰よりも大切な家族なのに、何にも代えがたい幼い日の思い出があるのに。否、だからこそ言葉は深々と突き刺さり、それでも拒絶しきれない。
「他ならぬ己自身に失望して、苦しんでいる。そうでしょう?」
──だってあなたは、優しい子だもの。
零さぬように耐え続けた涙が、一筋落ちる。
「お父様が重圧になっているのも間違いではなくて、もちろん小さくない割合を占めているでしょうけど……それだけではなく、他ならぬあなた自身も届かない影を追って、あなた自身を苦しめている」
「それ、は……」
「届かないことに対して仕方ないと諦めてしまうことは簡単で、それでも届かせたいと思い続けたから。だから自らに対しても失望した。初めから望みを持たないならば、失望することもあり得ないのだから……違って?」
答える言葉の持ち合わせはない。
「無論、そうまで追い詰められたきっかけはあなたの裡にはなくて、言うなれば誰かによって作られてしまった負の循環なのでしょうけれど……どうか、自分を嫌いにならないで」
「そんなこと、いまさら言われても」
「そうね。ええ、それができるならこんな状況になっていないでしょう──だからこうして、ここに来たの」
視界が暗転し、甘い香りが鼻腔をくすぐる。抱きしめられた、と気づくまでに数瞬を要した。
「あなたがあなたを愛せなくなった分も、わたくしはあなたを愛しているから」
囁かれたそれは、どうしようもなく甘やかな言葉で。
きっとそれが毒であっても構わない。そう思わせるほどに、深い慈悲を湛えていた。
「なん、で?」
「家族を大切に思うことに、理由が必要?」
その無条件かつ見返りを求めない無償の肯定は、彼が長らく求め続けてなお得られなかったもので。
乾いた砂漠に水が染み入るように、拒むことなく受け入れられた。
「血縁は切り離せませんわ。生きている限りわたくしたちには生まれた要因というものが付いて回って、逃れることは叶いません」
でも、それでも。
「わたくしは、あなたがこの世に生まれてきたことを悪いことだと思いたくありません。だからどうか、自らの生を否定するような寂しいことは言わないで」
「……ごめん、無神経だった」
恩赦を示すにはどれほどの言葉よりも優しく、どれほどの行いよりも雄弁に。
そこには沈黙だけが横たわっていた。
「……落ち着いた?」
「うん、もう大丈夫」
それから、約束を二つ。
もう無理はしないこと、そして。
「来週の日曜日を、空けておくこと──?」
「ええ、その日だけで構いません。そこだけは絶対に予定を空けておいて」
「ジャパンカップのちょうど一週間前なのに?」
「もっと大切なことがあるの。それに、今のあなたを放っておくと限界まで追い込んでしまいそうだから」
「信用ないなぁ」
心の内が、密かに淀む。
誰でもない自分自身の声が、バレてるじゃないかと嘯いた。
それから、また一人きりに戻った後。
あれほどの傑物がお前を案ずるだけの価値が、果たして本当にお前にあるのか。
そう問う声が、胸の内に響き続けていた。
未だ、夜明けには遠い。