File.2『義務と願望。』

File.2『義務と願望。』


生きることを簡単だと思ったことはない。


火に消えた故郷。生きながら炎に呑まれた友人。崩れ去る家屋。獣たちの慟哭。家族を求める人々の声。絶えることのない煙の臭い。統率の崩れた群れ。自分がもたらした死をなんとも思わない目。不幸を喜ぶ汚い心。自己愛で満たされた胸の内。濁りきって腐り落ちた良心。存在しない罪悪感。そういったもの。

すえた臭い。ゴミをあさる鼠。それを喰らうカラス。放置された死体。骨を残して貪るキツネ。一切れのパンを奪い合う浮浪者。一日の糧には足りない食料を得るために身体を売る少女。少女を突き飛ばして食料を奪う少年。少年をナイフで刺して最終的に食料を得たぼろぼろの身なりの落ちぶれた男。そういったもの。

 

故郷から逃れたとき、少年は地獄を見たと思った。それはめったにないことだと思った。

地獄で暮らす今、その考えを改める。地獄はどこにでもあるのだと。生きている場所こそが現世の地獄である、という人間は少なくないことを知った。

それでも、それだけではないのだとも思っている。ここは地獄のように苦しいけれど、苦しいだけの場所だとも思わない。生きていくのに精いっぱいでも、血の繋がらない弟妹たちは愛おしい。優しさが食い物にされる場所でも、グループ内では思いやりがある。一人ではできないことも、人数がいれば可能になる。苦しい生活でも、多くの仲間が栄養失調で死んでいっても、野生動物がどれほど恐ろしくても、それでも、それだけではないと知っている。

攫われ、奪われ、騙され、こんな場所に身を落とした。言葉も通じない異国では珍しい色をしているが、どうにかこうにか生きている。死にたくないと叫んでいる。言葉を学んで、必死に駆けずり回って、なんとか生きる糧を手に入れている。

人の命にも行動にも、驚くほど価値はない。必要なのは結果だけ。それが常識な世界で生きていた。何度も弟妹たちを看取って、それを強く教え込まれた。けれど。無価値なものは無意味ではないから、逝ってしまった彼らのことを忘れることはない。忘れたくなどない。なかったことにはしたくない。

だって自分はまだ死んでいない。だって自分はまだ生きている。生きているのなら、生きなければならない。その義務が、自分にはある。


生きて。生きて。生きて。

「その先」がたとえ存在しなくとも。

自分は、まだ、生きていたい。

 


生きることを簡単だと思ったことはない。

父と母に愛された10年間も、両親と生き別れた5年間も、程度の差こそあれど、どちらも生きることは楽ではなかった。

日々の中には苦しみがあった。しかしてそれ以上の喜びがあった。それだけのこと。

たったそれだけのことなのだ。





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