Fall into the “BLACK”(3)
翌朝。
「家出猫を引き取りに来たのねん」
「にゃあ〜ん、オジさまぁ💕 ──あにゃ!?」
その太ましい姿を見た瞬間、真正面から抱きつきにかかったソラミを華麗にかわし、カバトンは彼女の首根っこを摘み上げた。
「ほら、帰るのねん」
「オジさまのお部屋へ?」
「てめーんところに決まってるのねん! ……ましろ、世話かけてすまんかったのねん」
軽く頭を下げるカバトンにぶら下げられたまま、ソラミも、ましろに向かってたおやかに手を振った。
「お姉さま、また遊びに来ますわね〜」
この子さては反省してないね。と、ましろは乾いた笑みを浮かべながら手を振り返した。
「あはは……ソラミちゃん、カバトンさん、またねー」
ソラミがカバトンに連れられて帰って行った後、ましろは再び絵本の制作に取り掛かった。
だが……
「あー! やっぱり駄目だぁ……」
筆が進まない。
描くべきアイデアが浮かばないわけではない。ストーリーの構成も、キャラクターの配置も、絵の構図も、担当編集である東堂と細かく打ち合わせた上で臨んでいるのだ。
正義のヒーローガール。明るく素直でみんなの憧れ。子供たちに愛と道徳を示す模範的な物語。
やるべきことは全て分かっている。なのに、筆が進まない……
……違う。進めたくないのだ。
進めるたびに、自分が、嘘や誤魔化しを重ねている気持ちになって、嫌になってしまうから。
「………………ッ!!」
制作作業に取り掛かってから半日。ましろは筆を机に叩きつけて、目の前の紙を掴んで引き破いた。
八割ほど描き上がっていたその絵が裂かれ、ましろの手の中でくしゃくしゃに丸められ、アトリエの片隅に置いたクズカゴ目掛け投げつけられた。
丸められた紙の塊が、クズカゴとは全然違う明後日の方向に飛んで、壁に当たって床に転がった。
「…………はぁ」
自分の運動音痴ぶりにため息を吐きながら、ましろは席から立って紙を拾い上げ、クズカゴに入れ直した。
「散歩しよ……」
薄手のシャツにスキニージーンズという部屋着の上から大きめのコートを羽織っただけのラフな格好。ロングの髪も背中で一つ結びしたままで、化粧するのだって億劫だから伊達メガネとマスクで顔を隠して外に出た。
冬の北風があんまりにも冷たくて、慌てて部屋に戻ってピンクのマフラーを巻いた。
改めて家を出て、あてもなく歩き回った。
足を動かしていると、頭の中には色んな想いや、感情や、考えや、アイデアなんかが、泡みたいに浮かんでは消えていく。
創作のネタが浮かぶこともあれば、逆に何にも考えずに呆けることもある。
悩んで悩んで悩み続けているうちに道に迷ったこともあれば、そこで見つけた新しい景色に悩みを忘れたこともある。
そうやって歩いて、歩いて、でも最後に行き着くのはいつも同じ場所。
ソラシド市にある自然豊かなとある公園。そこの一角にある変哲もないベンチが、ましろにとっての馴染みの場所だった。
ベンチは二人掛けで、ましろは隣にスペースを空けるようにして腰掛け、背もたれに背中を預けた。
公園の落葉樹はとっくに葉を落とし切って、裸枝が冷たい風に揺れていた。道端には枯葉がボロボロになって土に帰る時を待っていた。
ましろはその枯葉に“彼”の背中を幻視した。枯葉が舞う季節になると“彼”はよくここに居た。
ベンチに二人並んで、一緒に枯葉を眺めた。
──なんだよ、また悩んでるのか。
──あなただってそうでしょ。
昔、若い頃はお互いに悩みを聞き合ったり、励ましあったりもしたけれど、歳を重ねるうちに愚痴ばっかり溢し合うようになり、そのうち、お互いに話すこともなくなって、ぼんやり枯葉を眺めるだけの時間が増えて行った。
──ほら、飲みなよ。おごるから。
──ありがとう。
たまに缶コーヒーを奢ってもらった時もあった。でも自分だって、同じくらい相手に缶コーヒーを奢った。
──もう冬だな……
──うん、冬だね……
他愛のない、中身もない、そんな会話をしながら二人で同じコーヒーを飲んで、同じ温もりを共有していた。
──帰る。
──うん……またね。
──うん、また……
そんな曖昧な再会の約束が、ほんのちょっとだけ嬉しくて、それでまた、ちょっとだけ頑張ろうって気になれた……
……そんなちょっとだけの励ましと慰めが欲しくて、ましろは今日もこのベンチで彼を待っていた。
いつ来るなんて具体的な約束なんてしたことはないから、来なかったり、すれ違いだったりしたこともよくあった。今日はどうやら、そんな日だったらしい。
「………帰ろ」
三十分ほど待ち続けたが、待ち人来らず。
腰を上げかけたましろだったが、ふと、公園の道の先から見覚えのある二人が歩いて来るのが見えた。
長身の青年と、それに寄り添うように歩く女性。二人とも手には買い物袋を下げている。
傍目には若い男女のカップルにしか見えないけれど、ましろはその二人の関係がそうでないことを知っていた。
あれは、花寺のどかと、その息子の雅海だ。
ましろが伊達メガネとマスクをしていたせいか、のどかはまだこちらには気づいて無さそうだった。彼女は隣を歩く息子に目を向けて楽しそうに会話をしながら歩いていた。
雅海も母に柔らかい笑みを浮かべながらそれに応じているようだったが、その彼の目が、不意にましろへと向けられた。
「虹ヶ丘さん」
「ましろちゃん?」
雅海の視線を追ってのどかがこちらを向き、目があった。
のどかは一瞬、怪訝な顔をしたものの、ましろが伊達メガネとマスクを外すと「ふわぁ」と声を上げた、
「本当にましろちゃんだ。久しぶり」
「お久しぶりです、のどかさん」
「もしかして風邪ひいたの?」
「いいえ、お化粧サボっただけです」
ましろは苦笑いを浮かべながらマスクを付け直した。知り合いとはいえ若い男性の前で素っぴんを晒し続ける勇気はなかった。
「のどかさんは買い物の帰りですか?」
「うん、公園の近くに新しいスーパーができたんだ、開店大特価セールって聞いたから足を伸ばして来ちゃった」
スーパーの駐車場は満杯だったので、公園を挟んで反対側のコインパーキングに自家用車を停めたのだという。
「ましろちゃんはお散歩?」
「まあ、はい。この辺りをよく歩き回ってます」
「そうなんだ。最近どう?」
「まあまあです」
悩みはあるけれど、のどか相手に溢すようなものではない。それにいい加減家に戻って絵本制作に取り掛からなくちゃ。そんな気持ちで、ましろは適当に会話を切り上げようとした。
のどかもその気配を察してくれたのか、「そう」と頷いて、そのまま「じゃあね」と言いかけた。
「母さん」
別れを切り出そうとしたのどかを、雅海が遮った。
「雅海?」
振り向いたのどかの耳元に雅海が顔を寄せ、何かを囁いた。
「ふわぁ…そうなんだ?」
「うん、だからさ」
少しだけ顔を離して、母と息子が見つめ合いながら曖昧な会話を交わした。
まるでキスでもするかのようなその距離の近さに、ましろは思わず息を呑んでしまった。雅海は確か十九歳。でも年齢よりも大人びているし、それに彼の父親の若い頃にとてもよく似ている。
その母であるのどかは、ましろよりも歳上にも関わらず二十代でも通じるくらい若々しくて可憐さがあった。そして何より、二人の姿はあまりにも絵になった。
二人の様子に気を取られていたのは一瞬のこと。二人はすぐに離れた。
「じゃあ俺、先に車で待っているから」
雅海はのどかの分の買い物袋を受け取ると、ましろに小さく一礼し、一人だけ先に歩き去って行った。
のどかはそんな息子の背中を見送った後、ましろに向き直った。
「ましろちゃん、お隣、失礼するね」
「えっと……はい、どうぞ?」
並んで腰掛けたのどかに、ましろは、
「どうかしたんですか?」
と訊いたら、のどかは小さく笑った。
「ましろちゃんが辛そうだったから」
「え?」
急に心を見透かされて言葉を失った。
そんなましろに、のどかは言った。
「息子がね、そう言ったの」
「……雅海くんが、ですか?」
「あの子、そんなところは妙に鋭いんだ」
どうして自分の心が見透かされてしまったのか、その理由はさっぱりわからないけれど……
「良かったら、ましろちゃんのお話を聞かせて欲しいな?」
隣で微笑んでくれたのどかの存在が、それだけで暖かく感じて、ましろは肩の力を抜いた。
伊達メガネとマスクを外して素顔を冷たい空気にさらしながら、ましろはぽつりと呟いた。
「絵本が描けないんです」
描かなくちゃいけないのに、描きたくない。
自分が絵本に込めようとしている気持ちや、伝えようとしている想いを、当の自分自身が信じていない。
なのに締め切りに追われるままに、表面だけ取り繕って、そんな絵本ばかり描けば描くほど、後ろめたい気持ちが大きくなる。
「そんな絵本ばっかり十何冊も重ねちゃって……売り上げだってどんどん落ちてるんです。編集さんも頑張って色んなアイデアとか出してくれるんですけど……」
のどかは静かに話を聴いていた。たまに軽く相槌を打ったり、些細な質問をしたりして、その度に、ましろは不思議と言葉を溢していた。
ぽろりぽろりと、心の中に溜まっていたものが、言葉になってこぼれ出していく。
「私、ソラミちゃんにずっと嘘をついてるんです」
気づけば、そんなことまで話していた。
「ソラミちゃんに、ソラちゃんの人生を教えたかった。お母さんは立派なヒーローガールだって知って欲しかった。……そして、お父さんのことも」
「………」
ソラミの父が品田拓海であることは、のどかも知っている。もちろん、ゆいも知っている。
でも、娘たちはそれを知らなかった。
何故なら、彼女たちの父親である拓海が、ソラに関する記憶を封じられてしまったから。
ソラと共に暮らし愛し合った記憶だけでなく、彼女の存在さえ認識できなくなり、そして娘が居ることさえ知らないまま、品田拓海は死んだ。
「ソラミちゃんは拓海さんの顔も知らない。知ろうとさえしないんだよ……」
ソラが大切に持っていた拓海との思い出の品々の中には、二人で撮った写真もあった。彼女が所有していたミラーパッドに二人の思い出の景色が詰まっていた。
だけどそのミラーパッドは、ソラミが物心つく前に壊れてしまった。中にしまわれていた思い出の記憶も破損し、復元することはできなかった。
以来、ソラは残された拓海の思い出の品に強く執着するようになった。だけどそれが、ソラミの反発を招いた。
父から捨てられたと思い込んだ娘は、成長するにつれ、父の影に固執し続ける母の姿を疎ましく感じていた。
「ソラミちゃんが、拓海さんに捨てられたと思い込んじゃったのは、私たちのせい……」
「……そうだね」
のどかは頷いた。ましろが言う「私たち」には、のどか自身も含まれていた。真実を知っていながら、それを娘たちに伝えることを躊躇い続けてきた、そのツケが今だった。
だけど今さら、自分たちに何ができるのだろうか。
真実を伝えたところで、答えの出ない苦しみに娘たちを巻き込むだけじゃないのか。そんな躊躇いを、ましろとソラはソラミに対して、そしてのどかとゆいは、ゆみに対して抱いていた。
「そういえば……ねえ、のどかさん。雅海くんは知ってるんですよね。ソラミちゃんが妹だって」
その質問に、のどかは頷いた。
「別に教えたわけじゃないんだけどね。いつの間にか気付いてたみたい」
「ソラミちゃんと親しい訳でもないのに、不思議な子ですね」
ましろともあまり交流はない。今日のようにたまにのどかと連れ添って歩いている様子を見かけるくらいだ。
なのに、ましろを一目見ただけでその心を見透かした。
いったい彼はどんな青年なのだろう。ましろは好奇心に惹かれて、ついこんな質問をしてしまった。
「雅海くんは、お父さんのこと──拓海さんのことをどう思っているんですか?」
「………」
その質問にのどかが黙り込んだのを見て、ましろは猛烈な後悔に襲われた。
「ご、ごめんなさい、のどかさん!」
慌てて頭を下げて謝罪したが、のどかは微笑みながら、大丈夫だよ、と言った。
「謝らなくてもいいよ。……私も、ちょっと考えちゃったの。あの子が本当はどう思ってるのか、聞いたことなかったな、って」
「のどかさん……」
「あの子、似てるでしょ?」
不意に呟いたのどかの言葉に、ましろは一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに雅海の容姿のことだと気がついた。
「拓海さんに、ですか。……そうですね、そっくりです。ソラちゃんもそう言ってました」
「あの子見てるとね、思わず重ねちゃうんだ。拓海くんのこと……。性格とかは全然違うのにね」
「そうなんですか?」
「素直じゃないし、意地悪だし、ズルい子だよ、雅海は」
そこまで言うのかと驚いたが、そう語るのどかの口調には優しさと愛しさが込められていた。
でも……
「人の気持ちをすぐに察して先回りしちゃう子だから、あんまり心の中を見せてくれない……そういう子なの」
……彼女の瞳には、寂しさが浮いていた。
のどかは言った。
「あの子、たまにわざと拓海くんっぽく振る舞おうとしてる……そんな風に思うことがあるんだ」
「え? でも、雅海くんだって拓海さんと一緒に過ごしたことないんじゃ……」
「うん。でも、私が拓海くんのことを思い出したりすると、雅海はそれを察しちゃうの。拓海くんにしてもらったこと……して欲しいって思ったこと……そういうのを、あの子はしてくれる……」
のどかは、こんなことを言うのはおかしいと思うけど、と呟いた。
「……雅海は、私を母親としてじゃなく、一人の女として守ろうとしているんじゃないかって、たまに思う」
「え、えと…それって……」
ましろは返す言葉に窮したが、同時に、彼がのどかに寄り添うように歩いていたこと。そして、のどかに囁いた時の距離感の近さを思い出した。
「雅海くんは……拓海さんの代わりになろうとしている?」
ましろの問いに、のどかは目を伏せるように頷いた。
「私が、彼に拓海くんを重ね続けたせいだよ……」
のどかは目を上げ、遠くを見つめた。景色の果てに、過去を見つめていた。
「私も雅海も、拓海くんに囚われ続けてる。ううん、きっと私たちだけじゃない。ゆいちゃんも……」
そして、ましろを見つめた。
「あなたたちも、だね?」
「……」
ましろは頷いていた。
のどかは目を伏せながら小さく笑った。それは哀しみを堪えるような切ない微笑みだった。
「……ごめんね、こんな話をしちゃって」
「そんなことない、そんなことありませんから!」
ましろは思わず強く首を横に振って否定した。
「のどかさん、話してくれて、むしろありがとうございます」
「ふぇ?」
「私、少しわかった気がします。いつまでも目を背けちゃダメだって。……やっぱり、描かなくちゃだよ」
ましろはベンチから立ち上がり、不思議そうな顔で見上げるのどかに告げた。
「私、ソラミちゃんに伝えます」
「でも、それは──」
「わかってます。真実を押し付けていたずらに傷つけるような真似はしません。でも、拓海さんとソラちゃんが想いあっていたこと。拓海さんがソラミちゃんを愛していたこと。それだけは、あの子にどうしても伝えたいんです」
「どうやって伝えるの?」
「絵本を描きます。ソラミちゃんに読んでもらうために描く、世界でたった一冊だけの絵本です。……事実を書くわけじゃないから、あの子には意味がわからないかもしれない。もう幼児じゃないんだから、軽く読み飛ばされて、それで終わりかもしれない。私が伝えたい想いの何分の一だって、ちっとも伝わらないかもしれない………でも!」
描かなきゃ、私たちはこれ以上一歩だって先に進めないから。
「これが自分勝手な真似だってわかってます。でも、やりたいんです」
頭を下げたましろに、のどかは頷いた。
「私に止める権利なんてないよ。ましろちゃんがやるべきと思ったなら、そうすべきだと思う」
「ごめんなさい。そして、ありがとうございます」
ましろは下げた頭を上げて、小走りで帰路についた。
のどかは、遠ざかるましろの背中を見つめながら、
(きっと、大丈夫……だよね……)
自分にそう言い聞かせて、胸をよぎる微かな不安を押し殺した。
〜〜〜
描くんだ。
描かなくちゃいけないんだ。
そんな決意でましろは【白の王子と青の騎士】の原案を描いたスケッチブックを机に広げた。
大切な姫に関する記憶を無くし、故郷を離れて彷徨う白の王子は、青の騎士と出逢い、恋に落ちた。
しかし青の騎士は、白の王子の幸せを心から願い、姫への記憶を取り戻そうと奮闘する。それと引き換えに、自分への記憶が失われることを知りながら……
そんな二人の恋の結末を描こうとましろはペンをとったのだが──
「全然、描けない……!」
思うように筆が進まず、苦悩に悶えてしまう。
ストーリーはもうできている。絵の構図だって決まっている。だけど、ラフ画に線を引き、色を乗せていくにつれ、何かが足りないという感覚が強くなって行った。
白の王子にかけられた記憶封じの魔法を解くシーン。青の騎士が、彼から自分に関する記憶が消えることを覚悟でその魔法を解こうとする、そんな自己犠牲を象徴するシーンだけど、そこに何かが足りない気がした。
ましろは何度もストーリーを読み返した。青の騎士の覚悟はこれまでのページで充分描いたつもりだった。でも……白の王子の気持ちは、どうなのだろうか。
(いくら魔法が解かれたからって、白の王子がこんなにも簡単に青の騎士を忘れていいはずがないよ……)
白の王子が青の騎士と育んだ愛は、そんな軽いものであったはずがない。ましろはそう確信していた。だけど、その愛の重さが、今のストーリーや絵では表現しきれていない。
今のままでは、白の王子は単に運命に翻弄され、流されるだけの操り人形だ。受動的過ぎて、青の騎士が自己犠牲を捧げるほどの魅力がない。
(拓海さん……あなたはそんな人じゃないよね……)
大切な親友が全てを投げ捨ててまで愛した男が、そんな軽薄な人間であるはずがない。でも、どうすればそれをこの絵本に込めることができるのだろう?
悩むましろの脳裏に、不意に、書斎に佇んでいたソラの姿が思い浮かんだ。
(白紙のノート……)
そう、あの時ソラは、ひどく思い詰めた顔で手にしたノートに目を落としていた。
あのノートはなんだったのだろうか。何も書かれていないノートに、ソラはどうしてあんな顔をしていたのか。
「もしかして……?」
自分がめくったページだけがたまたま白紙で、それ以外のページに何か書いてあったのではないか。そもそもあの几帳面だった祖母が、白紙のノートなんてものを本棚にわざわざ置いていたなんてことも今さら思えば不自然な話だった。
「確かめなくちゃ……」
ましろは声に出してそう言い、そして唾を飲み込んだ。
ずっと目を背けていた過去と向き合うと決めて、絵本に取り組むことにしたのだ。だったら、もうひとつの過去……祖母ヨヨにだって向き合うべきだろう。
ましろは戸棚の奥にしまい込んでいた鍵を握りしめ、書斎へと向かった。
いったい何年振りだろうか。足を踏み入れた書斎は、古本独特の香りに満ちていた。それは少しカビ臭くて、でもバニラやコーヒー、または切ったばかりの芝生のにおいも入っているような不思議な香りだった。
締め切ったカーテンを開けて冬の日差しを入れると、床から舞い上がった埃が白く煌めいた。
大量の本が並ぶ書斎だが、目的のノートはすぐに見つかった。きちんと製本された装丁の本ばかりが並ぶ棚に、そのノートだけが、ひどく浮いて見えた。
今さらながら、祖母がノートをこんなところにしまうとは思えなかった。普通、こういうのは執筆用の机などに置くものだ。ましろは書斎の奥にある、ヨヨがいつも使っていた古めかしい立派な書斎机に目を向けた。
そこに晩年の祖母の背中を幻視する。いつも穏やかで、静かで気品ある雰囲気を纏っていた祖母だったが、最期の数ヶ月はまるで人が変わったように、この書斎に籠って一心不乱に何かの研究をしていた。
たまに垣間見るその背中は、鬼気迫る気配があり、命を削るような無茶をしているとわかっていても、誰もそれを止めることができなかった……
……そういえば、祖母が斃れた時に机の上に残っていた書きかけの資料やノートはどこへ行ったのだろう。
書斎の遺品を整理したのは父と母だが、あの両親が祖母のものを勝手に捨てるとは考えられない。
だとしたら……ましろは自分が手にしたノートに目を落とした。
「パパとママが、これを本棚に直した…?」
そう考える方が自然だろう、と想いながらましろはページを開いた。
「ッ!?」
めくった途端、大量の文字と図が目に飛び込んできた。
初めから終わりまで、どのページにもびっしりと文書と精密な図で埋め尽くされている。白紙のページなど一枚も無かった。
「どういうこと?」
全てヨヨの筆跡だ。おそらく斃れる直前まで書いていたノートの一冊に間違いないだろう。でも、十六年前にソラが本棚に戻したノートは、確かに白紙だったはずだ。
自分の記憶違い? それとも、これとはまた別のノートたったのだろうか。ましろは本棚を一通り探し回ったが、しかしノートはこれ一冊だけだった。
「ソラちゃんは、何を……?」
自分の記憶を掘り返すと、もう一つ忘れていた過去を思い出した。
あれは、そう、ゆいが復活して拓海とともにこちらへ戻ってきた後のことだ。同じ頃、ソラが事情を説明するために訪ねてきたことがあった。その時も、ソラはヨヨを偲びたいと言って書斎へ立ち入っていた。
「まさか……ソラちゃんがすり替えてたってことなの……?」
拓海とともにスカイランドへ旅立つ前に、このノートを白紙のものとすり替えて持ち出し、そして全てが終わった後に、それを返しに来た。そう考えれば辻褄が合う。
でもなぜソラはこのノートを持ち出したのか。その答えは、読めばわかるはずだ。ましろはヨヨの書斎机に着き、ノートを改めて広げた。
そこに書いてあったもの、それは──
──スカイジュエルと、忘れ草の香りによる奇跡の再現方法。
真実の愛を交わし合った者のみが成し遂げることが出来る、禁忌の法術だった。
これだ、とましろは確信した。
拓海がソラのことを完全に忘れてしまった理由。それは、拓海とソラが真実の愛で結ばれていたからこそ成し遂げてしまった、強力無比な奇跡によるものだった。
その確信は、ましろの中で絵本のイメージとなって結実した。
今度こそ描ける。ましろはノートを手に、アトリエへと急いで立ち戻ったのだった。