EX2
90エピローグ・sideハートの海賊団
(side IF)◇◇
指先で弄んでいた林檎を一口齧る。少し白みがかった果皮をした林檎はこの地域特有の品種だ。しゃくり、とした小気味いい音と共に果汁が口の中に広がった。程よい甘酸っぱさと、鼻孔に抜ける爽やかな香りにはどこか懐かしい物を感じる。
『おうソラ先生!持ってってくれよ!』
大通りを歩いていると果物屋の店主から投げ渡されたそれ。『いいのが入ったからよ、良かったら食べてくれ!』と快活に笑う店主に拒否するのも憚れ、素直に礼を告げた。すると店主はますます笑みを深め。
『良いって事よ!──あんた達には命を救われたんだ、返しきれねえ恩がある!』
その言葉を思い返しながら住宅街の間の細い道を歩く。いつの間にかすっかりこの町に馴染んでしまったな、と思う。トラファルガー先生の病院の、ソラ先生。そんな風に呼ばれる事にも慣れてしまった。
──数日前に、中等症までの珀鉛病患者の外科処置が完了した。先に対応した重症者の術後経過も大半は問題ない。内服薬による術後処置は引き続き必要だろうが、もうしばらくすれば退院できる者も多いだろう。
だから。
歩きついた先の建物を見上げると、その尖塔の頂華に掲げられるのは象徴としての車輪十字。遠い記憶にある、幼い頃には家族や友人たちと共に足繫く通った場所。
そしてあの日、例外なく燃え落ちたはずの教会を見上げた。
◇◆◇
記憶にあるものと変わらず美しい白壁をなぞり、重厚な木材でできた門扉に触れる。扉が閉ざされていない事は知っていた。この場所は訪れる者を何人も拒みはしないのだから。
人気のない教会へ忍び込むように入り込んだ。規則的に並んだ木製の長椅子は記憶にあるよりも小さく感じた。
長椅子の隅にどさりと座り込み、傾き始めた太陽に照らされるステンドグラスを見上げる。活気に満ちた街中の喧騒と裏腹にここは静かだ。
瞳を閉じるとあの時の声が蘇るようだった。
『ロー!!来ねェのか!?一緒に行こう!!』
『ラミだって後で助けて貰えるよ!!』
『ウチ、父様も母様も死んじゃったー!!でもおれに生きろっつってたがら゛おれ゛絶対生ぎる゛んだよ!!!』
あの時の記憶は瞼の裏に焼き付いたように十六年が経った今も薄れはしない。この場所で共に机を並べたみんなは全員あの日に物言わぬ骸になった。
「──あら、どなたかしら。今日は礼拝の日ではありませんよ?」
どのくらい時間が経ったのか、柔らかな声音に目を開ける。声のした方へ顔を向ければ、礼拝堂の入り口に修道服姿の女性が立っていた。記憶にある姿よりも幾分年を重ねて、目尻に薄く笑い皺を刻んだ顔。しかし優し気な雰囲気と背筋をまっすぐに伸ばした立ち姿は変わらない。
彼女は記憶にある白斑の浮かんだ姿を思い起こさせるように右頬を白い貼付剤で覆っていた。恐らく、珀鉛病による色素欠損の保護だろう。
記憶に浸ったままぼんやりとその白を眺めていると、言葉を発さない己に彼女は瞳を瞬かせる。
「ロー君?ううん、違うわね。貴方が、ソラ先生?」
「ああ」
己の名を呼ぶ懐かしい響きに、短く首肯した。
◇◆◇
「お会いできて嬉しいわ。ロー君と一緒にフレバンスを救ってくださったお医者様。一度直接お礼を言いたかったんです」
シスターから「もしお時間があるならお茶でもご一緒にいかが?」と誘われ。特に拒否する理由もなく、彼女の手で用意された温かな紅茶とクッキーを共に囲んでいる。
カップに注がれた濃い色の液体を眺めていると自分の紅茶に角砂糖をひとつ溶かした彼女から礼を告げられた。
「貴方たちのおかげで子供たちも、この国も救われました。もちろん私も。本当にありがとうございます」
「別に、おれはやりたいようにやっただけだ。わざわざ感謝されるような事じゃねえよ。礼が言いたいならあいつに言ってくれ」
聞き飽きた謝辞の言葉。しかし、斜に構えた己の態度にも彼女は柔和な笑顔を崩さない。
「ふふ、それでも感謝させてほしいんです。子供たちも言ってました、”ロー先生にそっくりな医者のお兄ちゃんが痛いの治してくれた”って」
「…………そうか」
その言葉を聞いて、少しばかり瞳を伏せる。先日退院したばかりの幼い子供たちを思い出した。ちょうど己が教会に世話になっていたのもあのくらいの年の頃だったか。
──過去の己の様に、もしくは遠い記憶にある妹や友人たちの様に肌を白く染めた子供たち。遠からず命を奪うそれに痛い痛いと苦しむ彼らからオペオペの実の能力で珀鉛を除去すれば、その顔は安らいだように見えた。退院する頃にはすっかり元気を取り戻し、病院の中庭で騒がしく走り回っている姿を見たのを覚えている。
休憩中に中庭のベンチに座って走り回る彼らを眺めていると『いっしょにあそぼー!』と引っ張りまわされてしまったのは想定外だったが。
「──ふふっ」
「シスター?」
病院での子供たちの様子を問われ、問題のない範囲で話していると唐突にシスターが笑い出した。堪え切れないとでもいうようにくすくすと笑みをこぼす様子に疑問符を浮かべると、彼女は「ごめんなさいね」と言いながら目元に滲んだ涙を拭う。
「なんだか貴方を見ているとロー君の小さい頃を思い出すような気がして。少し懐かしい気持ちになってしまったわ。──貴方たち、本当にそっくりね」
「……おれとあいつは似てねえよ。少なくともおれはあいつみたいな底抜けのお人好しじゃねえ」
「あら、そうかしら?」
朗らかな表情を崩さないシスターに思わず渋面を寄せると更に笑われた。少しして笑いを収めた彼女は自分の唇の両端に指を当てて見せた。
「あまり眉間に皺を寄せていると癖になりますよ。はい、笑顔笑顔」
『あまり眉間に皺を寄せてはいけませんよロー君。はい、笑顔です笑顔』
その言葉に、昔も同じように眉間の皺を咎められた事を思い出した。記憶を振り払うように視線を逸らす。
「小さい子供じゃねえんだからやめてくれシスター」
「あらやだ私ったら、つい。……ふふっ」
それでもなお、穏やかに笑うシスターに思わずため息をついてしまった。けれど。
あの時に見た最期を思えば今こうして穏やかに過ごしている姿を見られるのは奇跡のような物だろう。勿論、己の記憶にあるシスターと目の前の彼女が異なる人間である事は理解しているが。
「──なあシスター、神様ってのは人間に慈悲深い救いの手を本当にさしのべてくれるのか?」
『ね?ロー君、この世に絶望などないのです……。この様に慈悲深い救いの手は必ずさしのべられます』
そんな事をつい問いかけてしまったのは、きっとあの頃の記憶に引きずられたせいだろう。
己の言葉にシスターは片頬に手を添えて少し考え込む素振りを見せた。
「そうですね……神様は人間を見守っていらっしゃいますが、その御手をもって直接救いの手をさしのべてくださる事はありません」
瞳を伏せたシスターは自身の片手で胸元に触れた。薄い肌の下で脈打つのは、心臓。
「神様がなされるとされている事は3つです。ひとつめは魂を生み出す事、ふたつめはその魂を見守る事、そして星の大気をうごかす事だと言われています。魂を生み出し、その終わりまで見守り続けてくださる神様の吐息は風となり、星の海を渡り空を流れてここまで届くのです」
言葉を聞きながら、遠い昔に教会の礼拝でシスターが語っていた事を思い出す。天から命を見守ってくださる神様。見守るだけで病気を治してくれもしない神にいったい何の意味があるのか、そう疑問を感じた事を覚えている。
「神様がその御手で命を直接お救いくださる事はありません。神様の御手はあまねく生命を救うにはあまりに大きすぎるからです。けれど、どんな人間であろうと、どんな人生であろうと、必ず神様が天から見守ってくださっているという事実が私たちに自分の足で立ち上がる力となるのです」
彼女はまるで与えられた力がそこにあるとでも言うように胸の上を押さえる。首に掛けられた車輪十字。見守るだけの神の象徴を、特に感慨もなく眺めた。
「そして立ち上がろうとした者の背を神様はその息吹で押してくださいます。神様は決して信じる者を、立ち上がろうとした者を最後までお見捨てになりません。──私は、貴方たちの存在に神様の御意思を感じるのです」
彼女は穏やかに笑った。
「原因不明の病という危機にトラファルガー先生を筆頭に多くの人が立ち上がってくださいました。そのひとりであるロー君は危険を押して海軍本部へ向かい、本部の支援と治療法をフレバンスにもたらしてくれた。そしてロー君と同じく、貴方も珀鉛病の治療の為にこの町に来てくれた。フレバンスにさしのべられた慈悲深い救いの手というのは、まさしく貴方たちの事を言うのでしょう」
そっと手を握られる。温かく柔らかな手はやはり記憶にあるよりも小さく、月日の流れを感じた。
「フレバンスを救ってくださって本当にありがとうございます。貴方たちの存在がこの世に絶望などないのだと、希望は必ずあるのだと私たちに示してくださりました。──私たちを見守るように、フレバンスを救ってくださった貴方のこともきっと神様は見守ってくださっているはずです。微力ながら私も貴方の道行きが幸多いものになる事を祈っています」
慈しみに満ちた笑顔で神様を、救いの手を、希望を、諦めない者は救われると信じているのだと語るシスターの顔を見る。
彼女の言葉を借りるなら、あいつが俺の目の前に現れたのも、おれがここにいるのも神に背を押された結果、神の意志だと言うのだろうか。
己の中に浮かんだその思考を鼻で笑う。見守る事しかできない神様に指図される謂れはない。あいつの行動はあいつ自身の判断で、おれがここに来たのはおれ自身の意志によるもの。それだけが事実だ。
ただ。あの日、血と涙にまみれて失意のうちに倒れ伏した彼女たちが神様を信じているのだとまっすぐ言える現在がある事にだけは、神とやらの存在に感謝してもいいかもしれない。
「──なんて、少し偉そうな事を言ってしまいましたね」
「いや、興味深い話だった」
語り終えたシスターは少し照れたように笑う。短く、感謝を告げた。
「お役に立てたのならば何よりです。ところで、そういえば今日は何の御用でいらしたんですか?」
「……少し、町を見て回りたくてな」
ある意味今更な問いに素直に答えれば彼女は大仰に頷いた。
「そうだったんですね!フレバンスには美しい場所がたくさんあります。きっと貴方にとって思い出になる出会いもあるでしょう」
シスターの言葉にここに来る前の出来事を思い返す。懐かしさを感じる林檎の味と。
──『あんた達には命を救われたんだ、返しきれねえ恩がある!』
確かに、悪くはない時間ではあったか。
「……まあな」
「ふふっ、そうでしょう。……ぜひフレバンスの良い所をたくさん知って、この町の事を好きになってほしいです。ソラ先生のようなお医者様にこれからもこの町に居ていただけるのはとても心強いですから」
「これから、も?」
思いがけない発言に目を見開く。彼女は「あら?」と不思議そうに首を傾げた。
「この国に住まわるのではないのですか?」
──それは考えた事のない選択肢だった。この町に、フレバンスに残る、か。
手元のカップに視線を落とす。すっかりぬるくなった液面に、白斑でまだらに染まった子供の顔が映ったような気がした。
元の世界では失われてしまった白い町。己の故郷。しかし、この世界のフレバンスは珀鉛病にも戦火にも呑まれる事はなく、存続している。本当に夢のような話だ。
この場所に流れる時間は、正直、あまりに穏やかで。
「それも、悪くはないかもしれねえな」
気づけば、そう口にしていた。
閑話:白熊のミンク(side Real)◇◆◇
「ベポ、そろそろ交代の時間だぞ。……ベポ?」
「…………」
キャプテンがもうひとりのトラファルガー・ローの後を追いかけて行ってから、ハートの海賊団の船員は全員でずっとその帰りを待っている。それはおれも同じ。
ヴォルフの発明品を使って別の世界に行ってしまったキャプテンは一見すると普通に寝ているだけに見えた。ただ昏々と何日もひたすら眠り続けているというだけで、傍目から見れば何も変わらない。枕元に置かれた小箱から流れているらしい”歌”も、おれの耳には聴こえない。
身じろぎもせず眠り続けるキャプテンには船員が交代で付き添っている。今はおれの当番で、キャプテンの寝ているベッドの隣に座り込んでずっと寝顔を眺めていた。最初は魘されているように顔をしかめる時もあったけど、最近はすっかりその寝顔は穏やかだ。まるで、幸せな夢の中にいるようにも見える。
正直な所を言うと、キャプテンにあっちへ行ってほしくはなかった。
『悪いな。──行ってくる』
ついて行きたいと言ったけど、キャプテンは言葉だけ残してあっさりあっちに行ってしまった。放浪癖のあるキャプテンの帰りを待つのは慣れてるし、キャプテンの事を信じてないわけじゃない。だけど、あっちの世界にはキャプテンの家族がいて、キャプテンの故郷がまだある。……生まれ故郷に帰れない寂しさは人一倍わかっているつもりだ。おれはゾウに帰れたけど、キャプテンは。
付き添いの交代に来たペンギンに言葉を返せずにいると、傍に寄ってきた彼にぽん、っと頭に手を置かれる。そのままがしがしと頭を撫でられた。あまりの手荒さに振りほどこうと思ったが、ついされるがままになる。
「……ねえペンギン。キャプテン帰ってくるかな?」
「キャプテンはおれらに船を頼んだって言ったんだ。おれらが一番キャプテンの事を信じなくてどうする。待っててやろうぜ」
ぼさぼさになった頭の毛を整えながらペンギンに問いかけると、昔馴染みらしい言葉が返ってきた。
「うん。……キャプテン早く帰ってこないかなあ。もうポーラータング号の整備も終わったのに」
「そうだな」
しばらくふたりでキャプテンの寝顔を眺めていると、がちゃりと扉の開く音。そちらを向けばシャチが部屋の中を覗き込んでいた。
「ベポ、いい加減飯の時間だぞ。ペンギンもさっさと交代しろよ」
至って普段通りのシャチの口調にペンギンと顔を見合わせてから少し笑った。キャプテンの事よろしくと言ってからすっくと立ちあがる。
「わーシャチ、今日のごはん何?」
(キャプテン早く帰ってきてね。おれたちちゃんと待ってるから)
(side IF)◇◆◇
ばたばたと騒がしい足音が教会の前で一瞬止まり、慌ただしいノックの後に扉が開かれる。ひとりでお茶の時間の続きを楽しんでいたシスターは入ってきた相手の顔にぱちくりと瞳を瞬かせる。
「そんなに急いでどうしたの?ロー君」
子供の頃はともかく、大きくなったローがこんなに汗だくになって走り回っている姿は初めて見たかもしれない。シスターはそう思い、珍しい物を見る目を向けた。肩で呼吸しているローはどうにか呼吸を整えると口を開く。
「シスター!ここにロ、ソラさん来てませんか?あの人”帰る”って置き手紙一つ残して出て行ってしまって……」
「ああ、彼なら──」
シスターの言葉を聞いたローは「ありがとうございました!」と告げてまた慌ただしく出て行った。その後ろ姿をシスターは片手を振って見送る。
思い出すのは、先程まで向かいの席に座っていた青年との会話。
『この国に住まわるのではないのですか?』
『それも、悪くはないかもしれねえな。──だが、おれの帰りを待ってる奴らがいるんでね』
『あら、ご家族かお友達?』
『仲間だ。……中にはもう十年来の付き合いになる奴らもいる』
『それは、早く帰らないといけませんね』
フレバンスを珀鉛病から救った立役者のひとりである旅医者の青年。ローと瓜二つの容貌だと聞いて、最初はトラファルガー家に縁ある人物だと思った。実際に二人の顔を比べても表情の差こそあれ、顔立ちは非常にそっくりなのだ。一卵性の双子だと言われた方が納得する程度には。そのくらい、幼少期からよく知る医者の青年とよく似た風貌の彼はどうにも知らない相手とは思えなかった。
けれど、そうではないと聞き。そして結局、彼がどこから来たのかは誰も知らず、彼自身も語りはしなかった。
……正直こんな事を言っては失礼かもしれないが、教会を訪れた彼の顔を見た時、何故か帰る場所を失った小さな子供のように見えてしまった。なぜそう思ったのかはわからないけれど、気づけば”この町に留まらないのか”と口にしていた。きっと彼の事はこの町の全員が歓迎するだろう。本心からそう思って。
けれど。先程、仲間が待っているから自分は帰るのだと彼が言った時には、無性に安心してしまった。彼にもちゃんと帰るべき場所が、帰りを待つ人がいるのだと、心の底から安堵を覚えた。
──そして、そんな事を考えているうちに、いつの間にか小さな子供の影は見えなくなっていた。
教会には様々な人が訪れる。ここは誰も拒みはしないし、その事情を詮索もしない。ただ訪れる者全てを受け入れる場所だ。
ソラ先生と呼ばれる旅医者の青年を思う。彼の手には医者としてはあまり似つかわしくない刺青が刻まれていた。襟元から覗く肌を見る限りきっと衣服の下にも刻まれているのであろうそれ。また、彼からは時折荒事に慣れた人間の気配を感じた。彼が携えていた長物も武器の類だろう。布越しにも関わらず、身の丈程の長さのあるそれからは異様な雰囲気がした。
彼の人生にこれまで何があったのかはわからない。きっと彼が生きてきた年月の分、良きにつけ悪しきにつけ積み重ねてきたものがあるのだろう。ただ、過去に何があろうと、彼の両手がこの国で多くの命を救った事だけは紛れもない事実だ。
首元に下げた十字架に触れて、瞳を閉じる。どうか若き彼らの道行きに幸多からん事を。
◇◆◇
教会の脇にはひと際背の高い石造りの塔があった。植物が絡む外壁は年月の経過を感じさせるが、枯れた蔦が丁寧に取り除かれており人の手で大切に管理されている事がわかる。
その石塔を見上げる青年は肩に担ぐようにして身の丈程の長物を携えていた。その青年は”関係者以外立ち入り禁止”と書かれた貼り紙を気に留めるなく、その古びた扉に手をかける。そして扉の向こう、暗く閉ざされた空間に軽い足取りで踏み込んだ。
一瞬の青い光とついでからん、と何かが落ちる音。それきり、青年の姿は見えなくなってしまった。
(side 市の外科医)◇◆◇
教会の隣にある背の高い石造りの建物は鐘塔だ。鐘塔の最上階に吊るされた大きな鐘は機械仕掛けに管理されており、毎日決まった時間に鳴り響く。鐘の音はある種フレバンスの日常の象徴とも言える音だ。尤もここ数ヶ月は弔いの鐘を聞く事も多かったが。最近ではやっと平穏が戻りつつある事を示すように、定刻の鐘の音が白い町に響き渡っている。
鐘塔の古びた扉には“関係者以外立ち入り禁止”の文字。その文言にやや気まずいものを感じながら扉に手を掛けた。昔勝手にこの中へ入り込んでシスターに散々に怒られた事は嫌というほど覚えている。
──子供の頃に、年配の患者から鐘塔の一番上から見るフレバンスの町が綺麗なのだと聞いて、まだ幼かった妹を連れて一緒に忍び込んだ。あの日見た景色の美しさも、帰りに疲れたと言う妹を背負って降りたせいでくたくたになってしまった経験も色々な意味で忘れられない。
『彼なら、鐘塔に登りたいと言うので許可を出しましたよ。──そういえばロー君も昔あそこにラミちゃんと忍び込んだ事がありましたね』
『シスター、昔の話は勘弁してください。教えていただいてありがとうございます。おれも入っても構いませんか?』
『ふふ。階段が急ですから転ばない様に気をつけてくださいね。昔妹を背負ったまま転げて両膝擦りむいた誰かさんもいましたし。妹には怪我させまいと庇ったのはさすがお兄ちゃんだと思いますけど』
『とにかく、ありがとうございました!』
シスターに礼を告げて早足に教会を出た。
教会の鐘塔に足を踏み入れるのは子供の頃以来だ。螺旋階段をひたすら登り、最上階に辿り着く頃にはすっかり息が上がってしまっていた。肩で息をしながら最近はつくづく自分の体力の無さを痛感する。オペオペの実の能力についてもそうだが、彼に比べれば自分は連続使用可能な時間が短かった。経験年数と練度の差と言ってしまえばそれまでだが、現状に甘んじている訳にはいかない。珀鉛病の件が落ち着いたら、体力づくりについて真剣に考えた方がいいだろう。
やっと落ち着いてきた身体に深呼吸をひとつして最上階に足を踏み入れた。塔を吹き抜ける風が頬を撫でるのを感じる。
そして、記憶にある通りの大鐘と視界いっぱいに広がった景色に目を見開いた。
──その場所は、思わず呼吸を忘れてしまうほど鮮烈な“赤”に染まっていた。
鐘塔の最上階は鐘の音が響くように四方が解放され、4本の列柱のみで鐘塔の屋根が支えられている。鐘塔よりも背の高い建物はそれほど多くはなく、この場所からはフレバンスの町が一望できた。
鐘塔を登っている間に日が傾いたのか、空は茜色に変わっていた。白い町の呼称で知られるフレバンスはその名の通り白い建物が多い。そして、その白は空からの光で時間毎に姿を変える。白い町が朝焼けに淡く染まる様は厳かで、昼日中に天中からの陽光を受けて鮮やかに映える白は町の活気を表すようで眩しくすらあった。
そして日暮れの時間には、西日を受けて白い町が一面燃えるような赤に染まる。沈みゆく太陽に少し紫を帯び始めた境界線に、空の赤と町の赤。異なる赤に染まったその光景はある種の異界の様にすら見えるほど幻想的に美しく、見る者の心を奪ってやまない。
──ふと、(ああそうだ、子供の頃にこの鐘塔へこっそり忍び込んだあの時もこの景色を見たかったんだ)と思い出した。
探し人の姿は吊るされた鐘の向こう側にあった。入り口に背を向けている彼は町の景色を眺めているのか、鐘塔の屋根を支える細柱にもたれかかるようにして立っている。塔の端ぎりぎりに置かれた足にひやりとしたものを感じた。一歩間違えば転落死も免れない高さだというのに恐ろしくはないのだろうか。
「ローさん、あのっ」
名を呼んで、何と話しかけたものかと言い淀む。顔だけこちらを振り向いた彼は「息が上がってるぞ」とそんな自分を鼻で笑った。
「能力を使えば良いだろうが」
「あなたみたい真似はまだできませんって。……鐘塔は関係者以外立ち入り禁止ですよ」
「シスターから許可は貰った」
彼の言葉に思わず言い返してしまった。けれど事実として、自分はまだまだ彼には及ばない。
そう……きっと、彼がいなければ眼下に広がる町はこんな風に穏やかではなかっただろうと思う。海軍本部に行かなければ、オペオペの実が手に入らなければ、奇妙な縁で”オペオペの実の能力者である異世界のもうひとりの自分”と出会わなければ、そして彼が来てくれなければ。何かが欠けていればもっと多くの人の命が失われていただろう。脳裏に浮かぶのはあちらの世界で見たフレバンスの記録。珀鉛病によって国が滅びるまでの悪夢のようなそれだ。あれはこちらの世界のフレバンスが辿ったかもしれない結末だと今ならはっきりと理解できる。
きっと自分ひとりでは到底この奇跡のような平穏に手は届かなかった。
だから彼には本当に感謝してもし足りない。珀鉛病の件がひと段落したら改めてお礼がしたいと考えていたのに、その矢先にこれだ。
今日は彼が休みの日だった。当初はほぼ病院に缶詰め状態だったが、最近は休暇が取れる程度に現場は落ち着きをみせてきていた。珀鉛病以外の診療も順次再開されており、急ぎの案件がある日以外は彼と自分も交代で休暇を取る事にしている。
だが。外出してくると言付けのあった日以外は休日でも一度病棟へ顔を出す彼が、今日は昼過ぎになっても現れず。それを不思議に思い、仕事が落ち着いた頃合いを見て彼の仮住まいとなっている職員寮の一室へと様子を見に行けば鍵の開いたままのがらんどうの部屋に迎えられた。
元々彼の部屋に私物はさほど多くなかったが、その少ない私物も綺麗に片付けられて元々備え付けの書き物机の上には紙が1枚。”世話になった。あっちへ戻る。”とだけ素っ気なく記されたそれに思わず頭を抱えた。慌てて病院を出て町の人に聞き込みをしながら彼の足取りを追えば最終的に教会に辿り着いたという顛末だ。
夕焼けを浴び、周囲の景色と同じく赤に染まるその姿を見つめる。
「……元の世界に帰るんですか?」
「ああ」
「でも何もこんな急じゃなくても」
「こっちでのおれの仕事は終わった。後はお前がいれば十分だろう」
それだけ言って彼はまた町の方へと向き直った。太陽が山の稜線へ沈みゆくにつれて、空は少しずつ色を変えつつあった。燃えるような夕焼け空から黄昏時の色へ。
「──昔より背の高い建物が増えたな」
「?そうですね」
彼の唐突な発言に首を捻る。言われてみれば確かに子供の頃よりは大きな建物が増えたかもしれない。
「ああ」自分の言葉に彼は薄く笑った。そして、彼が懐から何かを取り出すのが見えた。手に収まる程度の大きさの、四角い小箱。どこか既視感を覚えるそれに目を見開く。
「じゃあな。──せいぜい上手くやれよ、トラファルガー・ロー」
「ローさ、」
咄嗟に駆け寄ろうとしたその時、教会の大鐘が鳴り響く。近距離で浴びる、町全体に響き渡る音量のそれは音ではなく一種の衝撃波の様にすら感じた。
鐘の音はその音を反響させながら遠い空まで運ばれていく。ただ、その鐘の音に生じた一瞬の空白に気づいたのはきっと自分だけだろう。
彼の口元が”凪”と動くのが見えた瞬間に周囲の音が止まった。一拍のちに戻ってきた轟音に思わず耳を塞ぐ。そして鐘が鳴り止み目を開けた時には、彼の姿は夕闇に溶ける様に掻き消えていた。
それを認識してから、顔を押さえてその場にしゃがみ込む。
「ああもう……感謝くらいまともに言わせてくれよ!」
日暮れを告げる鐘の音がフレバンスに夜の帳を連れてくる。空は濃い紫に染まり、星々が輝き始めていた。
(side 死の外科医)◇◆◇
前夜。旅医者を自称する青年は仮住まいとしていた病院の院長の部屋を訪れていた。既に夜遅い時間であるにも関わらず院長である男はにこやかに青年を迎えたが、その背後の机には山積みの書類と分厚い書籍の山。深夜まで慌ただしく仕事に追われているその様子に青年は少しだけ懐かしいものを感じた。
『トラファルガー先生、長い間世話になった。急で悪いが明日この国を発とうと思う』
『!そう、ですか。いえ、こちらこそあなたにはなんと感謝していいか……。あなたのおかげで非常に助けられました。この病院を代表して礼を言います。本当にありがとうございます。ぜひまたこの国へいらしてください。いつでも歓迎します』
未来の約束に応える事はできない代わりに、いつかのように差し出された手を握り返す。そこで院長は唐突に何かを思い出したというように大仰な反応をした。
『そうだ、あなたへの報酬をお渡ししなければ』
『報酬なんざ不要だ。……どうしてもって言うなら町の教会にでも寄付してくれ』
そんなもの貰ってもどうせ持ち帰れねえからな、と胸の中で付け足す。なおも引き止めの言葉を連ねる、懐かしい面影のある医者に見送りも不要だと言い含めて別れを告げた。
翌日。借り受けていた職員寮の部屋は少ない荷物を片づければ、初めて訪れた時と変わらない様相になった。どうせ騒ぐであろう人間宛てに置き手紙を残して部屋を出る。
不要な詮索を受けないように布袋に包んだ鬼哭を片手に歩いていると「おや先生お出かけですか?」と庭掃除をする管理人から声を掛けられた。「そんなもんだ」と返して、病院の社員寮を後にした。
そして一日、幼少期の記憶を辿るようにフレバンスの町を歩いた。建物は記憶にあるよりも小さく、昔遊んだ広場は狭く感じた。しかし、やはりどことなく懐かしく慕わしい感情を覚えながら、最後に教会の鐘塔へと行く事にした。
(昔ここへ忍び込んだ時にはシスターから大目玉をくらったんだったか)
鐘塔の最上階から町を見下ろしながらそんな事を思い出す。子供の頃、ここから見える町の景色が好きだった。眼下に広がる白い町の美しさは記憶にある物と変わらない。しかし、己の知らない十数年の間に町には鐘塔よりも背の高い建物が増えていた。
──夕焼け色に染まる美しい町。記憶にある炎とは全く異なる赤を瞳に焼き付けるように眺める。
しばらくして。ばたばたと騒がしい気配と共に予想通りやってきた男を鼻で笑う。
全く、己とこいつが似ているのは顔だけだろう。どう考えても頭のてっぺんから足の先まで別の人間だ。おれはこいつほど泥臭い真似はしない。
案の定騒ぐ男を放置して夕闇に染まりゆく町を見つめる。昨日、己の働きに対する報酬がどうだと言われたが、己にとっては限りなく現実に近しい夢でしかないこの世界からどうせ何も持ち帰れはしない。不要な物だ。だが強いて言うならば。
(この景色が、おれにとっての報酬だろう)
日暮れが近づく町。きっと家々では夕食の時間を迎える頃だろう。そして今夜も穏やかな時間が流れていく。ああ、本当になんて悪夢/美しい夢だ。
外套のポケットから小箱を取り出す。それに気づいたあいつが何か言いかけたが、それを待つ事なく”R・ROOM”を展開する。ちょうどその瞬間に、教会の鐘が鳴り響いた。夜の訪れを告げる鐘が町中に響き渡る。
あいつの顔を見て、少しだけ笑う。教会の鐘の音は天からの祝福であり、魔を打ち払うものだ。海賊の己には似合いの別れ方だろう。
「じゃあな。──せいぜい上手くやれよ、トラファルガー・ロー」
鐘の音を聞き終える事無く、おれの意識は闇に溶けた。
◇◆◇
普段の眠りから覚める様に意識が浮上する。ざわつく気配に瞳を開ければ、船員の中でも特に付き合いの長い三人がぎゃいぎゃいと騒いでいる姿が見えた。
「お前ら何してんだ」
身を起こしながらそう声を掛けるとじゃれ合っていた三人がぴたり、と動きを止める。ぎぎぎ、と音がしそうな様子でこちらを向くと三者三様に目を見開いた。そして。
「キャプテーン!!!」
橙色のツナギを着た年若い白熊がこちらを押し潰す勢いで抱きついてきたのを何とか受け止めた。熱烈な頬ずりを受けながら、他二名に視線を向ける。
「おかえりなさい、船長」
「全く待ちくたびれたぜ」
そう言って笑う昔馴染み達に、思わず表情が緩んだ。
「──ああ、ただいま」
◇◆◇
「ポーラータング号の整備は?」
「ばっちりです船長!」
出港準備の号令に慌ただしく駆け回る船員達を他所にポーラータング号の甲板に立つ男が一人。この船の船長であるその男が外套のポケットを漁り取り出したのは金属製の小箱。なおこの小箱を開発した張本人である老爺はポーラータング号の整備が終わってすぐに島を発ったらしい。発明品で眠る男が目覚めるのを待たずに。『ローなら何の心配もいらんわい。時間がくれば勝手に起きる』引き止める船員にその言葉を残してさっさと去ったと聞き、あの爺さんらしさに笑ってしまった。
太陽に翳すようにして件の小箱を眺める。役目を果たした箱からはもう何の”歌”も流れていない。流れているのかもしれないが、もう己の耳には聴こえないのであればそれは存在しないも同じだ。
少しの間瞑目し、小箱を空高く放り投げる。甲板に乾いた音が響いた。
逆手で構えた鬼哭を鞘に戻す。宙で両断された小箱は二つに分かれたまま重力に従ってあっさりと海へ沈んでいく。それを見送る事無く、興味を失ったようにローは踵を返した。
だが。船室に戻りかけた所で背後から頭上に衝撃。慣れた重みに動じる事無く、ローは背後から己に抱きつく相手に問いかけた。
「なんだベポ」
「キャプテン、あれ壊しても良かったの?」
あれとは先程の小箱の事か。その言葉に「もう不要な物だからな」と返せば不満げな気配。何が言いたいと問えば。
「だって、あっちにはキャプテンの家族がいるんでしょ。故郷も無事だって言うし……あっちに行けなくなってもいいの?」
「はぁ?」
思わず出たローの素の反応に打たれ弱い白熊は「すいません…」と反射的に返す。しかし尚も胸の内に含む事があるのか、もの言いたげな雰囲気を漂わせるベポにさっさと話せと促せば。
「…………あのね、おれ少しだけキャプテン帰って来ないんじゃないかって思ってた」
消え入りそうな小さな声にローは呆れたように嘆息する。そんな事を考えていたのかこいつは。
「おれじゃなくてあいつの家族で、あいつの故郷だ。それを間違えんな」
「でも」
「第一、おれの帰る場所はここだ。馬鹿言ってんじゃねえよ」
「!うん、うん!そうだよね!!」
機嫌を直したのか抱きつく腕の力を強めてすり寄ってくる白熊の頭をローはいささか手荒くはたく。「痛い!」と騒ぐ白熊を見る表情は不機嫌そうに取り繕いつつも口元はわずかに笑みを形作っていた。
◇◆◇
出港準備が整った船内で計器の最終調整が行われている最中、ポーラータング号の航海士である白熊は何気ない風を装って同じく機器チェック中の船長に話しかけた。
「ねえキャプテン。おれいつかフレバンスに行ってみたい」
「…………あそこにはもう何もねえぞ」
ベポからの思いがけない発言にローは瞳を丸くした。ベポはきらきらとした顔で言葉を続ける。
「うん。でもキャプテンの故郷なんでしょ。1回行ってみたいんだ」
「……”いつか”は、それもいいかもしれねえな」
ローは帽子のつばを下げながらそう答えた。
この旅路を終えた後なら、それもまたいいかもしれない。白い町を故郷とする青年は純粋にそう思った。
「準備はいいな。──出航だ!野郎ども!」
「「「アイアイ船長/キャプテン!!」」」
ハートの海賊団船長の掛け声に20人の船員が応える。天気は晴れ。空には雲一つなく、波は穏やかで絶好の船出日和。彼らの旅路を祝福するような好天だ。尤も潜水艇にとって海上の気象など些末時かもしれないが。
黄色いツバメは今日も軽やかに海底を行く。まるで本物の燕が大空を駆けるように。
そして、物語はウィナー島へと続く。
end.