EPISODE OF ALBA POLAR-後編-

EPISODE OF ALBA POLAR-後編-


 ざざん、と波が寄せては返す。

 見慣れた黄色い船体。その先で、燃えるような陽が蜃気楼のようにゆらめく。

 周囲を囲む木々も、海水に濡れた岩肌も、はるかな水底に沈む気泡も。なにもかもが紅金色の霧に包まれ、絵画のように光っている。

『海の雪』という名に相応しい、現実から切り離された景色の島。その中でローだけが、生々しい現実に取り残されている。

 呆然としたまま二、三歩歩き、海を眺めてから、その場に座り込む。

 かつて島が存在した渦潮を前に、何かを口にしようとした。輝きを失くした瞳が水面のように揺らぎ、天を仰ぐ。

「……はは」

 緋と黄金が溶け合った空に、紫色がまだらに差し込んでいる。宝石を溶かしたように鮮やかな空だった。

 その影でつがいのカモメが天高く舞う。

 糸を編むように戯れ合い、踊り、やがて幽かに差し込む朝日とともに霞んでいく。

 ローの手が届かないどこかへと。

 どこまでも自由に。

 そこまで思考が回って、脳をすり潰すような痛苦がローを襲う。熱く焼けた鉄杭で突き回されるような感覚に悶え狂い、目を固く閉ざす。

 黒々とした闇の中に、さまざまな景色が万華鏡のように巡りながら迫ってくる。

 その中に少女の姿を認めた瞬間、ローの思考は強烈な光に灼かれた。

 音にならない叫びが喉から迸る。

 星屑のような景色が視界を駆け巡った。

 初めて少女と出逢った日のこと。時代の節目となった地獄から彼女を救い出した日のこと。本懐を遂げた場所で、向日葵のような横顔を眺めたこと。誰よりも自由が似合うひと。

 削り取られていた記憶。

 命を賭けるに足る、愛おしい輝き。

 そこに雪のように積もり重なっていくのは、幼い自分を背負って歩き、箱の中に隠し、笑顔と共に去っていく男。

 恩人の後ろ姿。──コラさん。

 その背に呼びかけようと喉を震わせ、反動で意識を取り戻した。

 視界に広がる一面の砂浜。

 立ち込める冬の気配。

 隠しようのない血の臭いが、ローの手のひらから漂ってきた。

 赤いペンキを塗りたくったような血の痕は、元々その色だったと言われても納得してしまいそうなほどに手を汚している。

 つややかに照り返す表面は、この血が流れてからさほど時間が経過していないことを示している。

 ローはふらつく脚で立ち上がった。前に進もうとして、波に足を掬われ無様に転ぶ。それでも、這うようにして進み続ける。

 衰弱した身体が半分ほど海水に浸かったところで、前進する肩に重しがかかった。

「ダメです、キャプテン。死ぬ気ですか」

 震える声がローを諌める。燃えるような温度に引き戻され、ローは闇に沈んだ目で腕の主を見上げた。

 彼を引き留めたのはクルーの一人、ペンギンであった。吐き出した息の白さが彼の面差しを曖昧にする。

 久しぶりに見た幼馴染みの目は赤く腫れていた。その双眸は、声の震えよりもよほど切実に悲鳴をあげている。平時のローであればその有り様に驚き、話を聞こうとしただろう。

 だが。

「答えろペンギン」ローは構わずに言った。声からは感情が削げ落ちている。

「麦わら屋は……どこにいる?」

「……ローさん、あんた」

「なあ」強張った平坦な声で、ローは言葉を重ねた。伏せ気味に下を向いており、その表情は窺い知れない。

「おれと一緒に居たはずなんだ。……どこにいるのか、教えてくれ……」

「……それは」ペンギンは口籠もった。

 波の音が高く響く。

 困惑と抵抗がにじむ、どこか奇妙な沈黙。その場の誰も口を開かず、じっとどこか別の場所に目をやっている。腹を空かせた猛獣を前にしたような緊張感が雪の気配と混ざり、浜辺に広がった。ローの足先に海水がぶつかってかすかな音を立てる。

 突然ローは立ち上がり、何かを確かめるように砂浜を踏みしめ、海を眺めた。空と海の境界で力なく揺らめく太陽が、後ろめたそうに姿を見せる。

 水面にはカモメの影ひとつない。

「答えろ!」突然ローは叫んだ。崩壊寸前のガラス玉のような、悲鳴じみた鋭い響きで。

「知っていることをなにもかも、全部話せ!……船長命令だ!」

 ペンギンは泣き出しそうな顔で数秒黙した。激しい葛藤が瞳に閃く。濡れた後の赤みと混ざり合い、痛々しく瞳孔が収縮した。そのまま酸欠になったように口を動かし、引き結ぶ。

 だがやがて喉を絞らせて言った。

「死にました」奇妙に抑揚を欠いた声だ。そこには、可能な限り全てを平静に伝えようとする努力が滲んでいる。

 一方で押さえつけた感情が発露したかのように、全身がぶるぶると震えてもいた。

 呼吸を整えるだけの間の後、言葉は続く。

「もういないんです、ローさん。あんたが誰よりも分かってるはずだ」

 ローは答えない。

「……麦わらは、恨んじゃいないと思いますよ」

 ローは答えない。

「ロロノアからの伝言です。……気にするな、と」

「……そうか」

 ローは吐き捨てるように呟いた。

 現実から遠いところで奏でたような音が喉を滑り落ち、わずかに沈黙する。

 風が吹いた。

 ローの周囲が音を立てて軋む。

 次の瞬間、静寂を裂くようにひび割れた咆哮が轟いた。めちゃくちゃに発動した異能が砂を割り、木々を薙ぎ倒していく。風景が歪み、夥しい数の瓦礫が空を覆う。大太刀の一撃が稲光のように空を割り、海に突き刺さった。

 魂を凍えさせるような慟哭がローの喉から噴き出した。後から後から流れる嘆きの雫が、ローの頬で凍え、筋の形で結晶になる。

 それは、青色が空を染め上げるまで続き、やがて収まった。過ぎ去った嵐の名残がきしきしと風に吹かれている。

 体力を使い果たしたローは膝をつく。肌が凍りつき、睫毛に白い霜が立っている。

 かたく目を瞑り、何度も荒い息を吐いた。

 まばゆい太陽の光を浴びて、空高く咲く夏の花。自由そのもののような彼女が、当たり前のようにローを愛してくれること。それは永遠に続いていく日常だと、何処かで思い込んでいたのだ。なぜ。どうして。

 永遠なんて何処にもないことは、十六年前に思い知らされていたはずなのに。

 なんでそんな愚かなことを、愚直に信じていられたのだろうか。

 現実から目を背けるかのごとく耳を塞ぎ、頭を抱えて痙攣する。眉間に皺が寄り、苦しげな様相を表す。最期に感じたぬくもりが未だ残っていることさえ苦しかった。激情が魂を焦がす。

 ローの脳が雪原のように漂白された。

 その奥に、あり得ない光景が揺らめく。

 潮風に撫でられた黒髪が舞う。小さな身体。しなやかな両腕。首にかけられた真新しい麦わら帽子。真っ白な光に包まれた幻影が、かつてとある国で見た花のように笑う。

 ローは目を見開いた。

 冷えた汗が顎をつたって流れ落ちる。

「むぎわら、や…」

 こすれた糸のような吐息がくちびるを震わせた。震える手で蜃気楼に伸ばす。

 指先が届いた瞬間、幻は消え、ぼろぼろのローだけが取り残された。頬に雪が触れる。

 項垂れるローの視界に、陽炎の爪先が映り込む。目を向けると、暗褐色の影が落ちていた。頭上から声が降りそそいだ。

「もう泣かないで」

 記憶に焼きついた、甘く澄んだ声。

 そこには濁りひとつない。ローはふらふらと吊りあげられるようにして顔を向けた。笑みの形に整った、彼女の青白い口元だけがやけに眼裏に映り込む。血の気が引いたくちびる。

 そこまで視認し、衝動的に目を抉り出しそうになった。頬肉を噛んで激情をねじ伏せ、喘ぐように詰問する。

「答えろ、麦わら屋」

「……どうしたの?」

 幻覚の女は微笑み、麦わら帽子のつばを握りしめた。面差しが影に隠れる。

「なんで来た」

 思いがけず詰問じみた声音になったが、佇む女の気配は微動だにしない。

「あれ以上、……大事な人を、亡くしたくなかったから」

 透き通り、どこまでも凪いだ声。

 そうだろうな。ローは自嘲の笑みを浮かべる。あの屈辱の日から少しして、新聞を通してすべてを知った。今ならその瞬間の衝撃ごと、何もかも鮮明に思い出せる。

 投げかけた言葉の刃。叩きつけた激情を受け止め、沈黙していた小さな背中。

 あの時、麦わら屋は何を思っていたのだろうか。ひどいことを言っただろう、おれは。いったい何を思って、助けにきてくれたんだろう。

 ローは首を振り、次の問いを風に乗せた。

「おれを、……恨んでるか」

「なんで?何も悪くないじゃん」

 こちらもさらりと言い返され、ローは口端だけで笑みを深める。

 いかにも彼女が言いそうなセリフだった。予想通り過ぎて吐き気がする。お前なら、きっとそう言っただろう。

 分かりきった返答だ。わざわざ幻覚まで作って“言わせる”なんてどうかしている。どうせ、この女はローの頭の中にいるだけの都合のいい幻なのに。

 だが、心の箍が外れて止められない。

 分かってる。こいつに聞いたってどうしようもないことくらい。これはせん妄状態の自分が見ている甘い夢。膨大な量の情報を急に再生した脳が反応しているだけ。

 分かって、いるのだ。

 影に問いかけたって、本当の意味でローの問いかけに答えをくれるわけではないことは。

「それなら……教えてくれ」

 それでも、ローは口を開いた。耐えがたい衝動に突き動かされるように。

「なあ、どうすればよかった?いったい…どこで間違えたんだ」

 縋るように問う。

 彼女は──ルフィは、慈しみに満ちた眼差しでローを見下ろしていた。

「私が恋なんかしちゃったことだよ」

 雪解け水のような声が、どこまでも真摯に響く。嘘のつけない彼女らしい、誠実さに満ちた声音だった。

 霞のような手のひらがローの頭を撫でる。ルフィは静かに言葉を紡ぐ。

「大怪我させて、死なせかけて。全部私が恋なんかしたせいだった。そのせいでたくさん迷惑をかけちゃった。……ごめんね」

 それきり幻は泡のように消える。

 いっそのこと、自虐的である方がよっぽど健全だった。さっぱりと言い切る姿は悲壮感など微塵もなくて、だからこそ痛ましい。

 ローの唇がわなわなと震えた。

 彼自身にも名状しがたい感情が心臓を吹き荒ぶ中、ただひとつだけわかることがある。

 ──当たり前の権利さえ持つことが許されないなんて、そんなことは。

 ふいにローが口を開いた。

「正直、……それほど覚えてるわけじゃねェんだ」

 自由が似合う女だった。向き合う相手の心の弱い部分をそっと包んで、丸ごと救ってしまうような女だった。

 そうした為人と眩しい笑顔は今も思い出せるのに、在り方を深く想起しようとするとダメだった。雪霧の彼方に隠れ、思い浮かべたこと全てが曖昧にほどけてしまう。

 何しろ、三年も前の話だ。

 あんな別れ方をして、それきり。次にローがルフィを認識した時は、彼女は死神に手を引かれる直前で、まともな会話もできなかった。

 年月は平等に記憶を風化させる。

 だからだろう。一番に甦るのは、あれほど愛した日々ではなくて。たった今起きた、永訣の瞬間ばかりなのだ。

「生きていて欲しかった」

 力なく立ち上がり、ハートの旗印に集った仲間たちを見渡す。その目は深海よりも昏く、ひたすらに枯れ果てていた。

 痩せこけた指を握っては開き、口元だけに笑みを浮かべ、独りごちる。

「そう願うことさえ過ぎたものだというのなら、おれたちはどうすればよかったんだ……?」

 ローは甲板に踏み出した。一歩ずつ、もう戻れない道を進むようにして。そのまま船べりに手をつき、ずるずるとしゃがみこむ。

 懐に入れた者のためなら、いくらでも強くなれる。どれだけでも手を伸ばす。それを傘に着ることもなく、自然体のまま。

 そうやって何もかも救って、本人はけろりとしている。たくさんの人間に愛されて、呪われて、それでも在り方を変えることはせずに。

 そういう女だから、ローは大切にしていた。全てを賭けて守ろうと思った。

 そのことを、今ようやく思い出した。

「好きだ」呻くような告解がこぼれる。

「好きだ。好きだったんだ、本当に。今でもずっと愛してる。……愛して、いるんだ……」

 あの瞬間、ローに触れた彼女の手のぬくもりを、向けられた言葉のひとつひとつを追いかける。誰よりも愛に振り回された女が、最期まで自分に捧げてくれたものを。

 ローは髪を掻きむしり、はらはらと涙をこぼした。足下の雪が濡れて固まる。

「すまねえ、麦わら屋」ローは食いしばった歯の奥で、囁くように言った。

「許せ、……どうか許してくれ。助けにきてくれたのに、何も覚えていなくてごめん。約束に縛りつけたくせに、何も出来なくてごめん。何もかも手遅れになってから……いまさら絶望して、ごめん」

 ゆっくりと目を閉じ、震える声で懺悔したローは静止した。

 ずっと。ずっと。長いこと、そうしていた。あふれる涙を拭うこともせずに──記憶の虚で笑うだけになった、もうどこにもいない相手のことを想って。


 雪が降り続けていた。

 夕暮れの残照に、純白の影が落ちる。

 ローはぼんやりと手のひらを眺めた。抱き上げた時についたであろう彼女の血。

 砂塵と混じり合ったそれは、色の濃い部分はほの温く、端の方にいくにつれ冷え固まっている。確かにルフィの心臓を動かしていたはずのひとかけら。

 この血が流されれば消えるように、未だ遺るわずかな彼女の痕跡も、じきにわだつみの彼方に消えるだろう。

 ……そんなこと、おれがさせねェ。

 暗褐色の指先を舐ると、鉄錆びた味が口腔に絡みつく。ざらついた舌触りごとすべてを嚥下し、ローは泣き出しそうな微笑みを浮かべた。

「よく分かった。……おれが守ればいい話だった。いつまでも、永遠に、あいつが死ぬその時まで。……死んだ後も、ずっと」

 言葉を紡ぐほど、ローの瞳が粘度を帯びる。煮詰めた蜂蜜のような執着が、どろどろと表出していく。

 ただ生きていて欲しかった。

 おれではない誰か、もっと強くて、彼女の自由を尊重できて、傷つく身体を癒せるような、そんな誰かと。彼女が笑っていられる相手と幸せになって欲しかった。

 だっておれは船長だ。

 実際、殺し合いを仕掛けたこともある。

 どうやったってお前を一番にしてやれないおれなんかより、お前を一番にできる男と、誰よりも幸せになってくれるなら、おれはそれでよかったのに。

 そんな未来はあり得なかった。

 世界中が彼女を蔑ろにして、追いやって、追放して、果てには存在すら否定した。

 あの子を大事に思った他人は、おれだけだった。彼女の身内以外、おれしか。

 なら、いい。もういい。

 麦わら屋を守りたいと、生きていて欲しいと思うのはおれだけだと分かったから。身に染みて理解したから。

 今度こそ、二度と離れない。離さない。

「その為なら『今のおれ』の命くらい、くれてやるさ」

 自分自身の過去に干渉し、捻じ曲げる。生まれてきたことすら否定された彼女の存在を、歴史に縫いつける楔に作り替える。

 きっと、お前はそんなこと望まないだろうけど。この想いも、身勝手なものだろうけれど。

 安心しろ。

 全部終わったら、さびしい想いは二度としなくてすむようになってるから。

 お前が明日も自由にこの海を生きて、笑っていてくれるように。そういう未来に作り変えよう。こんな悲劇は起きなかった。

 好きな子のために永遠を生きる。決して彼女の自由を侵害しないし、枷にもならない。

「なんだ、最高のハッピーエンドじゃねェか」

 ほどけた雪のような声が、空気の隙間を流れるようにして広がっていく。涙で凍りついたローのまつ毛に、薄紅色の結晶が触れて溶ける。

 白く冷えた息を吐き、天を仰ぐ。

 煙のように舞い上がった息は、瀕死のカモメと共に天を泳ぐ。ふたつは絡みあい、やがて静謐とした滅びに変化した。

 薄汚れた鳥が海に落ちる。

 ローは帽子を深く被り、祈るように言った。

「絶対死なせない。今度こそ、一生守るから」

 静かに目を伏せ、死が刻まれた手を広げる。骨ばった指が空を慰撫するように撫で、ゆるりと握る動きに揺らめく。

「“L・ROOM”」

 ごうん、と音を立てて薄青のドームが展開される。自分がどこか遠い場所へ飛んでいくような浮遊感を覚えながら、ローは嬌艶とした笑みを浮かべた。世界の輪郭が滲み、外側と内側の境界がどろどろに混ざっていく。

 広がり続ける青膜は土地の端を呑み、海の上を滑り始めた。まるで、地図の上に垂らした水滴の痕が広がるかのように。

 一歩踏み出し、ゆっくりと片膝をついた。右腕から血を滴らせて、世界を手にかける一文を誦じる。

「“ポイント・ネモ”」

 空間が歪む。

 異次元の壁を、深青の光が侵食する。



 陽光の降りそそぐ、島の北端。

 風と活気が躍る大通りの影で、古びた麦わら帽子をかけたルフィがローを見上げている。

「もしかして……トラ男?」

 彼女は黙する彼を気にすることなく「そんな服着てたっけ」とにこにこ笑う。

 記憶の虚に眠る女とそっくり同じ、夏に咲く花のように。

 ふと、去来する何かがあった。

 星の光にも似たそれは、彼女が紡いだ音の響きと共鳴する。幼さを孕んだ何かをローに差し出して跳ね回るルフィを、あの時自分はどうしようもなく慈しんでいた。今は亡き妹に対するように。

 琥珀の双眸がゆらゆらと動く。しかし彼の魂に吹き荒ぶ嵐の影に隠れ、すぐに消えた。曇り空に覆われたローの脳裏には、これからのことだけが浮かんでいる。

 しばらくルフィを見下ろし、くつくつと喉を鳴らした。ぱさ、と姿を覆っていたフードが外れる。

 蜂蜜色の瞳を毒々しくしならせ、ローは喉を震わせた。


「……やっぱりお前は分かるのか、“ルフィ”」

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