EPISODE OF ALBA POLAR-前編-
ヤンデレワンチャンローに挑戦した結果、とんでもない長さになったシロモノ。
イメージは劇場版というよりは連動エピソードポジションです。
※例によって世界政府の諸葛孔明ばりの政策()に信頼を置いているオタクの書いている文章です。
※本気で何でも許せる地雷のない人向け。
窓ひとつない部屋だった。
外界から遮断するかのように、八畳半の部屋は闇に覆われている。壁に吊るされた海楼石でできた鎖の先には幾つかの弾痕。
反対の壁には空の輸血パックが行儀良く並んでおり、そこからチューブが垂れ、微風に煽られていた。古びた壁には、暗褐色のしみが飛び散っている。
人の悪意が立ち込める空間。
床を跳ねる小さな水音が異様さに拍車をかけていた。部屋の中央が昼光色の照明で照らされる。
ローはそこに囚われていた。
両腕は鎖に縛られ、雁字搦めになっていた。吊るされた形をとる身体からは衣服のほとんどを剥ぎ取られ、傷ついた痩身がむきだしにされている。
銃痕と乾いた血がこびりついた上半身は病的に痩せており、腹部に成人男性の腕ほどもある太さの針が杭のように刺さっていた。絶えず流血し続けている傷口がぬらぬらと光る。
そして首を一周する、堅牢な能力封じの枷。海楼石製の黒環だ。獣の牙のごとき装飾が内側についており、首筋から体内に侵入している。
どこまでもローの自由を奪う徹底した拘束。受ける側の負担を考慮していない、無慈悲なやり口だった。
紫電が迸る。
突き刺さった針が帯電し、破裂音を立てた。ほの白い光を放つ電流が肉体を焼かんと牙を剥く。神経が剥がれるような痛み。じゅう、という耳障りな音と共に、周囲に肉が焦げる臭いが漂う。
ローは喉奥で苦鳴を噛み殺した。激痛に耐えるように固く閉ざされたまぶたの下には、くっきりと色濃い隈が浮かんでいる。
それは地獄の責苦だった。
生きたまま臓腑を焼かれるような痛み。神経をバラバラにされるような衝撃。常人であれば三日と経たずに発狂しても可笑しくない。呼吸をし続ける我が身を呪いたくなるような仕打ちである。
ローはその苦しみに、六ヶ月耐えていた。たった一人で。周囲のあらゆる存在が敵という空間の中。
今正気を保てていることすら、並大抵の胆力ではなし得ない偉業と言えるだろう。
ぽたぽたと鮮血が落ちる。
不規則な喘鳴と共に、ローは口を開く。そこからほとんどうわ言に近い囁きがこぼれる。喉を震わせながら力なく頭を振り、指先だけで手すりを引っ掻く。
その動きは、悪魔の実の能力を行使する際のものに似ていた。
その様子を、アクリル板越しに男が眺めている。人ひとりが苦しんでいる姿を観察しているとは思えない、路傍の石を眺めるかのごとき眼差し。
男はまばたきすらすることなく、ローの一挙手一投足を眺めていた。
その後ろでは、複数の男女が忙しなく動き回っている。幾つかの精密機器と薬液の臭いに囲まれた空間。壁一面に投影された観測結果が、リアルタイムで更新されていく。
ふと、男が口を開いた。
「アピリンを投与しろ」
その声にはおよそ温度と呼べるものがない。ローを注視する表情にも変化はなく、ただ淡々としていた。
「これ以上、負荷をかけるのは……」
薬液注入の采を採っていた白衣の青年が渋面を浮かべる。手元の資料に目を走らせ、幾ばくかの憐憫が入り混じった眼差しをローに差し向けた。
しかし男は動じない。視線を外すことなく言葉を続ける。
「フン。これくらいで死ぬようなら、本部の仕事はもう少し楽になるはずだよ」
再度の指示を受け、青年医師は躊躇うように頷く。そして、機械のような所作で薬液パックを差し替えた。
ローの頸動脈に刺されたごく細い管のうちひとつから、白濁とした液体が流れ落ちていく。薬液が体内に侵入した瞬間、世界を割るような絶叫が響き渡った。その瞳孔は限界まで引き絞られている。拘束具が不協和音を奏でた。
それでも男は表情に動きを見せない。ただひたすらに無温の視線で、ローの身に起きている全てを計測していた。
「経過は順調です。所長、そろそろ」
白衣を着た女が、手元のバインダーを見て言った。無機質な声音には一切のあたたかみがない。
所長と呼ばれた男の顔に、初めて色が差し込む。マイクを傾け、透明な壁の向こうで苦しむローを眺めてから、ゆったりと話し始める。
「さてと。ボクの声は聞こえているよね、トラファルガー・ローくん。そろそろお喋りしてくれたっていいんじゃないかと思うんだけど、どうだろう?」
男は絶えず変動する観測器の数値に目をやった。乱上下する心電図は、ローの健康状態を如実に現している。
「別に、難しいお願いはしてないと思うんだけどなぁ」
極めて無感動な調子で男は続けた。
「魔女をここに呼んで欲しいだけなんだって。それ以外に特別キミが何かをする必要はないんだ。ただあの娘をここに招くだけで、キミは晴れて自由の身。それだけじゃない!キミやキミのお仲間が政府から追われることだってなくなる。こんなにお手軽でハイリターンな取り引きはないと思うんだけどな」
しばしの沈黙。
ローはひどく緩慢な動きで監視カメラを睨み上げた。たったそれだけの動作が、全身の傷口に鮮血をにじませていく。顔を苦痛に歪ませながら、ゆっくりと喉仏を動かす。
「……死ね」
糸をこすり合わせたような声量だった。
しかしそこには、蠱毒を生き抜いた一匹が放つようなどす黒い怨嗟が込められている。
憎悪と怒りが渦巻く眼差し。炯々とした双眸が、カメラ越しに男たちを射抜く。気の弱いひとりが直視し、失神した。
現場は騒然とする。
それほどに苛烈な気配。半死半生の体とはとても思えない、強烈な憤怒の炎。
鬼気迫るローの様子に、男は真顔で口笛を吹いた。空虚な拍手を五度ほど繰り返し、再びマイクに口を寄せる。
「とんでもない胆力だなァ。同盟解除したとか決裂したとか、なんか色々聞いたんだけど、アレぜーんぶ誤報?やっぱり何事も自分の足で確かめないとダメってことだよね」
そこまで話してから、男はマイクから距離を取った。鼻歌混じりに手元のつまみをぐるりと回す。
青白い火花を撒き散らしながら、高圧電流がぼろぼろの痩躯を襲った。全身を灼く激しい痛みに抗うように、ローはひび割れた苦悶の悲鳴をあげる。拘束された腕が不随意に痙攣し、管を刺された首筋から血を流す。
世界を断絶させる透明な板が、びりびりと震えていた。その向こうで、白衣の男がローを見下ろしている──。
全身が沸騰しそうだ。
魂ごと焼き尽くすかのごとき電圧。人体が耐え得る痛覚の許容値を遥かに超えた痛みが、絶えず肉体を苛んでいる。今にも吹き飛びそうな自意識を意志の力でねじ伏せて、スピーカー越しに聞こえる言葉を脳髄に叩き込んだ。
精神を繋ぐために。
理性を保つために。
軽薄な声の主に対する途方もない怒り。込み上げる激情が崩れそうな人格を瀬戸際で堰き止める。
……誰が魔女だ。
あいつ自身が望んでそうしたことなんて一度もない。大体、そんなことできるような女だったら、おれはとっくにイカれてる。
自惚れでもなんでもなく、彼女はおれが好きだったから。
甘っちょろくてばかで、そしてどうしようもなく情の深い子供。誰かを支配したり、従えることは好まない女なのだ。
何も知らないお前が、構成する要素だけであいつを語るな……!
また電撃が走った。
全身が痙攣する。思考とは無関係に跳ねる手足。現実と幻想の境界が曖昧に溶け合う。重度の酸素不足。狭窄する視界が朦朧とし、ここではない場所を映し出した。
うっすらと口を開く。
つ、と血液混じりの唾液が唇のあわいから流れる。ごく浅い呼吸を三度。衰弱した肺が膨らみ損ね、そこから空気が隙間風のように漏れ出す。込み上げる血痰に咽ぶ。
透明な光の中に、意識が吸い込まれていく。
一陣の夏風。
古ぼけた麦わら帽子を首にかけた少女が、おれの顔を覗き込んでいた。希薄な気配。また何処かで闘ったのだろう、右頬に鋭利な切り傷がついている。
救って、救われて、手放せない何かに変わって。そうしてずっと大切にしていた相手。
三年間、片時も忘れられなかった顔。
手配書すら遠ざけたのに。今も、風に触れ合う髪のひと筋さえ思い出すことができるだなんて、我ながら救いようがない。
自嘲するおれを、彼女が見ている。
その面差しはひどく哀しげで。この娘が泣きそうだと、どうにも座りが悪くなるのだと改めて実感する。
ふいに、桜色の唇が無音の憂慮を紡ぐ。小さな手が頬に差し伸べられた。ゴム質の皮膚。傷ついた肉体を撫でる、滑らかで傷ひとつない指先。そこには闘う者らしい皮膚の硬さと、年頃の女らしいしなやかさが同居していて。
やっぱり大事だと、改めて思う。
彼女が明日も生きていてくれるなら、この痛みさえ愛おしい。
……あァ、なんだ。
結局、敗けたのはおれの方か。
ローはかすかに微笑した。走馬灯に濁る琥珀色の瞳に、慈愛の光がまたたく。
「にげ、ろ……」
甘やかな色が入り混じる、祈りに満ちた声。それは死にかけの生き物が放つ、断末魔の警告だった。
それきりぴくりとも動かなくなったローを眺め、男が不愉快そうに顔を歪める。そして薬液を操作する部下へ、冷酷な語気で命じた。
「アムネシアを使うから。呼んできて」
「……は?よろしいのですか?」
ぎょっとする青年に端的に返す。男の関心はもはや、ローがこぼす情報には向いていない。指示を出す傍ら、その思考は別のことに割かれつつあった。
「いいよ。これでも首を振らないのならもうダメ。これ以上は時間の無駄だ」
男は淡々と言葉を紡ぐ。階下に注がれる眼差しは、屠殺する家畜に向けるものよりも凍えている。
「愛に殉じるなんて、まったく泣かせてくれるじゃないか。さすがあの女を籠絡しただけはあるよ」
つまみから手を離し、立てていたペンを指で押した。軽い音を立てて床に落ちる。
それが合図かのように、自動ドアが開く。
扉の向こうには、霜が降りるような冷気を漂わせた少女が佇んでいた。割れたガラスのような足音。その瞳には敵意も悪意もない。どこかあどけなくすらあった。
氷像のような沈黙が漂う。身じろぎひとつせず、呼吸音すら伺えない。
冬国の朝でも、もう少し賑やかだろう。そう言えるほどの静寂だった。
物静かな声がスピーカーから落とされる。
「アムネシア、やっちゃって」
首肯する影。
アムネシアと呼ばれた少女はローの前まで歩き、ぼんやりと立ち尽くす。透明な瞳がローを捕捉した。
ローは未だぐったりとしたままだが、眼光は鋭い。業火が宿る目で眼前の女を睨み続けていた。
十秒後、彼女は白い息を吐くと、降り積もる雪のような声で凍える空気を震わせた。
「“リビリビ”……“ゆりかごの檻”」
空気がゆらぐ。
能力の波動が部屋に満ちる。脳神経と波動が共鳴し、ローの思考を底なし沼に突き落とす。
黄色い潜水艦。恩人の後ろ姿。幼馴染み。白い町と共に滅びた家族。ローの人格を支え続けたすべてが、泡となって消えていく。
覗きこんでくる少女の幻影が揺らいだ。その面影が遠ざかり、雪となって風に舞う。
かすかに息を吐き、ローは完全に意識を失った。その額に結晶のような紋様が刻まれる。
一連の現象を、男は冷たい眼差しで見届けていた。机上を指先で叩き、愉快そうに唇を吊り上げる。
「キミの身柄がこちらにある限り、“モデル・ニカ”は容易に処分できるんだよ、トラファルガー・ロー」
おもむろに男は立ち上がった。
そうして、にんまりと口角を吊り上げる。
「だから別にどっちでもいいんだけどね。その想い、せっかくだし尊重してあげるよ。ボクは正義の味方だからね」
静かな礼拝堂に陽射しが差し込む。
陽の光はごく浅い。厳麗な彫刻が施されたステンドグラス。その表面に付着した埃が陽光を攪拌し、外気で冷えた木製の床面に淡く光を散らしていた。
いつも通りの朝だ。
ローは肩をすくめ、扉の前で立ち止まる。
向かい合わせの男女の頭上に、それぞれ太陽と月が彫られている。真珠の女と黒瑪瑙の男。繋がれたふたりの腕。ちょうど手のひらの部分が引き手になっていて、飾り石の赤が林檎のように鎮座していた。
女が描かれた方の扉を引き開く。
きぃ、と古びた音が響いた。
数段高い位置に天井が設けられた空間が広がっていた。こじんまりとしたつくりだが、螺鈿細工のような繊細さはむしろ神秘的な雰囲気を助長している。
ローは足音を立てずに歩き、比較的新しい木製の椅子に腰掛け、深く息をつく。
それが合図だった。
空気が揺らぐ。
誰もいない部屋に、ひとつの気配が霧のように出現した。
「おはよう、ロー」
静謐とした礼拝堂に、玻璃細工のような声が響く。
ローはぼんやりと顔を持ち上げる。
古びた主祭壇。声の主はそこに肘をつき、にこにこと花笑んでいた。
柔らかな眼差し。さらさらとした黒髪。片手で掴めそうな首にかかる、日焼けした麦わら帽子。心許ない薄着から伸びる手足は、眩しいほどに華奢なつくりをしている。
月長と日長の石台に、翠玉で描かれた細やかな意匠。宝石製の天窓をすり抜けて、色づいた陽光が彼女の頭部を彩った。
「今日は、お前の夢の話をしようか」
麦わら帽子の少女が嬉しそうに囁く。それだけで、冬島特有の寒さが優しく温められた。
「……また突拍子のねェ提案だな、麦わら屋」
ローはうっすらと目を細める。
持ち上げた視線の先。佇む少女が逆光になって、輪郭を曖昧にしていく。
彼女の影と紐づく、古びた麦わら帽子に因んで付けた愛称は不思議と舌先に馴染んだ。穴あきだらけのローには珍しい感覚。その希少さに執着していると指摘されれば、完全な否定ができないくらいに。
空っぽの彼を慰めてくれる幻想の友。胸に空いた空洞を埋めてくれる存在。
少女がくすくすと声を上げた。ずい、とローの顔を覗き込み、軽い調子で続ける。
「あの夢は、忘れちゃった昔のことに関わっているのかもしれない。……ずっとそれで悩んでるんでしょ?」
図星を突かれ、ローは押し黙った。
過去。
人格形成に多大な影響を及ぼすもの。
ローの記憶は、六ヶ月前、この教会の一室で目覚めたところから始まっている。
それ以前は灰色の雪景色。
歩いても歩いても晴れることのない猛吹雪。何があるのかが知りたくて目を凝らしても、深い射干玉の闇が広がるばかり。
己は何者なのか。
何処から来て、何処へ行くべきなのか。
記憶をなくしたローにとって、人生とは何処まで行っても白と黒だけ。拭われることのない疑問の坩堝だ。
だからこそ、眼前で笑う幻想の友人との邂逅は埒外の幸運であった。彼女は、射干玉の闇に沈んだ外の世界への知見を豊富に所持していたからである。
世界を覆い尽くす塩水。財宝の伝説。灼熱と極寒に覆われた大地。天を覆う糸の檻。友人が紡ぐ『世界』はどれも恐ろしく、不可思議で。それでいて自分の足で確かめてみたい、という欲求を抱かせる魅力に満ちていた。
倦んでいたローの世界は、少女との語らいによって、少しずつ色付きつつあった。
しかし。
こればかりは、どうしようもない。
「夢なんてねェよ」ローはぽつんと呟く。
過去がないということは、理想がないということでもある。こういう経験をしたからこうしたい。こう感じたからあれをやってみたい。
そういった、人ならば当たり前にある欲求がローには存在しない。より正確に言うならば、何が自分の欲求なのか分からないのだ。
そのための判断材料が欠けているから。
「テメェの正体も曖昧なのに、そんなもの……あの夢だって、おれの過去とは限らねェんだ」
自分でも予想外なほど途方に暮れた声が喉を震わせた。特段堪えているつもりはなかったんだがな。頭を軽くかき、苦笑する。
本当に気にしたことなどなかった。
“神”は呪われた命が生を貪ることを許してくれた。そのために己は果たすべきことを為さねばならない。寝物語として懇々と聞かされた内容は、納得のいくものだった。
それは、嘘ではない。
嘘ではないから、困っているのだが。
ローは自分の手のひらを眺め、悩む素振りをあからさまに見せた。だが、やがて諦めたようにため息をこぼす。
「それに、お前も知ってるだろ。おれはここから出られない」
息を吸い、吐いた。
その顔はどこまでも透き通っている。
「神にこの命を捧げる。おれが今日まで生きることを許された、その恩に報いねェと」
何の感慨もない声。
そこには哀しみも苦痛も込められていない。ただ事実のみを口にしたとばかりに、心情の裏を伺うことのできない表情だった。
そんなローにきょとん、と目を丸くした少女が、ふいに手を伸ばす。
「じゃあ、今日はこれを“約束”にしよう」
ローが大きく身じろいだ。ひっくり返った声は、彼の動揺を如実に表している。
「聞いてなかったのか?おれは……!」
連なる言葉を遮るように、霞のような手のひらが項垂れるローの頭部をゆるゆると撫でた。出来の悪い弟を慰めるような、親愛の情に満ちた触れ方。
数度の慰撫の後、小さな手は両頬を包み、すりすりと撫でさする。
おもむろにローは腕を持ち上げた。
頬を撫でる手に重ねても、少女の手は握れない。透過し、自身の頬を触るだけに終わる。
ほら、どうせ幻覚だ。
結局これも、ただの自慰行為じゃないか。
苦しげに顔を歪めると、柔らかい感触が額に触れた。空気の振動が伝わってくる。
「ゆっくり考えてみて。次会うときに、ローの答えを聞かせてね」
魂ごと労わる声が、頭上から降りそそいでくる。それは、聞くものの心を癒す温もりがひたすらに込められたものだった。
「大丈夫。ローはもう、答えを持ってるはずだよ」
リノリウムの床を踏みしめながら、ローは思考を回していた。
幻が言い残した言葉。あの少女が脳から出力された幻覚症状である以上、その判断を下したのは自分自身ということになるが。
「おれは答えを持っている、か」
歩いてきた道を振り返る。
変わり映えのしない極彩色。陽光を通すステンドグラスは、この教会に蜘蛛の巣のごとく張り巡らされていた。
繊細な絵柄のひとつに目を凝らし、そのまま静止する。琥珀色の瞳をすがめ、ひとつ息をこぼした。
「……ダメだ。何も思い浮かばねェ」
「何がだめなの」
真下から声が届いた。
視線を落とす。
いるだけで周囲を冷やす気配。透徹とした赤い目がじっと見上げてくる。
「なんでもねェよ」ローは頭を振った。
「お前には関係ねェ。これはおれが解決すべき問題だ、……口を出すな」
「でも」
少女が一歩踏み出した。あどけない眼差しがローを射抜く。
「先生、が、心配してる。……貴方が悩んでいるようだから」
辿々しい口調と共に首を小さく傾げた。新雪の髪が頬に流れる。
希薄な反応ながらも、そこには強い意志が込められていた。珍しく食い下がる少女を見下ろし、ローは口を開く。
「本当に何でもないんだ。……先生にも、気にしないで欲しいと伝えてくれ」
これ以上話すことはない、とばかりに歩き出す。琥珀色の瞳には、哀しみに似た感情が薄く滲んでいる。
「でも……」
「頼む」小さく頭を下げる。
それを見た少女は軽く顎を引いて頷いた。
「わかった。……そこまで言うなら、今は聞かない」衣擦れの音を奏でながら、廊下の端に身体を寄せる。海月を思わせる動作だった。
「でも、後で先生に相談して」
遠ざかったまま、少女は瞳を伏せた。白髪の影で赤い瞳がわずかに波立つ。
静けさの漂う姿をしばし見つめ、ローは視線を進行方向へ戻した。
「気が向いたらな」ひら、と軽く手を振って、再び歩き出す。
「珍しいね」小さな声がローを穿つ。
「なんで、そんなに反抗的なの」
停滞した気配にわずかな亀裂が走る。意思の読めない表情が、少女を顧みないローを見つめ続けていた。
一瞬の間の後、静かに呟く。
「おれだけで、少し考えてみたいんだ」
「先生は“相談しろ”と言ってるのに?」
「いつ話すかはおれが決める」
ローの反応はにべもない。
「……メシは要らねェ。この話はまた今度な」
歩き去る後ろ姿を、少女はじっと見つめていた。ローが曲がり角を通過すると、その姿は完全に見えなくなる。それでも彼女はしばらく動くことなく、じっと一本道を見つめていた。
やがて、時計の針が動き出したかのように、少女の気配に生気が宿る。懐から電伝虫を取り出すと、慣れた動作で唇を寄せた。
「……トラファルガーの件ですが、想定より抵抗反応が強力、です。……処理は速やかに、した方が」
長閑な息遣い。
少女が持つ電伝虫が、ゆっくりと口を開く。
朝日の射し込む教会の一室。
大張りの窓の前に佇む男は、口元に薄い笑みを浮かべている。
「眠っても三十億かァ〜。ざァんねん、せっかくアムネシアに歳の近い友達が出来たのに」
沈黙を返す電伝虫にけらけらと笑声を出し、ガラスの向こう側に広がる空を見上げた。
「この世の癌、世界を侵す毒の花胤。“ニカ”の器を消すことで、ボクは……」
男は口を閉じた。呑み込んだ言葉の切れ端が床に落ちる。悲しみを孕んだ沈黙が漂う。
彼は空を往くカモメを見送ってから窓に背を向け、部屋を横断し、扉を開いて出て行った。
陽光が海を照らしていた。
跳ね返った日差しが風に舞う雪花を照らす。立ち並ぶ樹木が、瑞々しい命の匂いを雪原に色づける。
海波が岩崖にぶつかって砕けた。潮風に乗って、一羽のカモメが飛んでいく。
雪と星に愛された島、アルバポラール。
島を一望する丘の上に佇むひとりの少女。見つめるのは、緑に囲まれた標柱だ。まだ数年しか経っていないのだろう。ぽつんと立つ華奢な柱が太陽に照らされて白く輝く。
「……わたし、夢を叶えたよ」
穏やかな囁きが風に漂う。長い睫毛に縁取られるまぶたが伏せられ、周囲に静謐が満ちた。が、すぐにくるりと後ろを振り返り、口元に笑みを浮かべる。
「ギザ男」
逆立つ赤い髪。唇を彩る深紅のルージュ。すっかり見慣れた長躯の男。
ルフィの声に片腕を上げたキッドは、標柱の前で僅かに黙した。
意外なものを見た、とばかりにルフィの目が丸くなる。その様子を視界に収めたらしい。渋面になった男は、しかし静かな声で言葉を綴った。
「……ありがとよ。おかげで何とかなりそうだ」
「しししっ、それはチョッパーに言ってあげてよ。治療したのはわたしじゃないもん」
軽やかに笑い、ルフィは空を見上げた。白い筋を曳く雲が、まるで流星のように青天を横断している。
「なァ」
同じものを仰ぎ見ていたキッドが、ふいに口を開く。
「……まだ、諦められねェのか」
一陣の風が通り抜けた。
ルフィはキッドを見つめ返した。優しい緊張感が漂う。琴線に触れる言葉だっただろうに、彼女は自然体のまま。一点の曇りもない眼差しを受けたキッドは乱雑に髪を掻き回し、呆れたようなため息を吐く。
「もう三年だぞ。ついでにクソボケ野郎が行方を晦まして半年以上過ぎた。テメェが拘る理由は全部……なくなったと思うンだがな」
言い草とは裏腹に、その眼差しにはささやかな労りが込められている。相手が積年の好敵手だからこそ起きたキッドの気まぐれ。
らしくないことを言ったという意識があるのだろう。ガシガシと頭をかき、しかし普段の苛烈さが嘘のような声色で問いかける。
「それでも、行くんだな?」
丁寧に紡がれた言葉は、風に乗って柔らかく広がる。その心遣いが分かるから、ルフィは落ち着いていられた。
代わりに、無言のまま穏やかに微笑む。
そうして静かに目を閉じた。記憶に刻まれた情景が陽炎のように蘇る。
打ち付ける豪雨と荒波。
大好きな人が自分を糾弾する声。
──それがお前の選択か、麦わらのルフィ。
あの日の選択がもたらした訣別を想起し、ルフィはぼんやりと自身の手を見つめる。わずかな寂寞が覗く顔。
ふと、ルフィは目を開いた。
「わたし、今までだってやりたいようにやってきたわ」
不遜な発言とは裏腹に、その顔には一切の邪気がない。にこにこと笑っていると、軽い衝撃が後頭部に走る。
手加減されていたのだろう。大した痛みはなかった。
「やりたい放題しすぎなんだテメェはよ。それでおれらがどんだけ迷惑したことか」
「えー、わたしギザ男になにかしたっけ」
惚けた顔で宣うと、赤髪の男が噛み付くように吼えた。
「テメェらの乳繰り合いに何回巻き込まれたと思ってやがる!」
半目のキッドに笑いかけ、ルフィはくるりとその場で回転した。薄手のシャツがふわりとはためく。降り積もった雪の広場に、小さな足跡が辿々しく刻まれる。
生まれたての白鳥のように舞いながら、ルフィは謳う。
「諦められる恋なら、初めから好きになってないよ」
透き通った少女のセリフを、キッドは無表情で受け止める。
その場でくるくると三回転し、ルフィは立ち尽くした。海賊の頂に立つ姿からは想像のつかない、ひどく頼りなげな気配。
夢を叶えても、王になっても、ずっと迷子のまま。最後に心が晴れたのは、いったいいつのことだったか。
懐古するルフィにキッドが歩み寄った。ざくざくと雪を踏み荒らし、すぐ横に並ぶ。
そうして潮風に揺れる濡羽の髪に、手に持っていたものを押し付けるように被せた。
「ほらよ、受け取れ」
「……これって」
虚をつかれたように、ルフィは自らの頭部に手を伸ばす。長い旅路を共にし続けた誓いの証よりも柔らかい藁の感触。
過日、恩人に返した帽子。それによく似た、新品の麦わら帽子。
「ヤツに会いにいくなら必要だろ、“麦わら屋”?」
キッドはしたり顔で笑う。
ひどく懐かしい響きだった。離れて久しい相手だけが使っていた、特徴的な呼称。
彼の柔らかく低まった声で呼ばれるのが、堪らなく好きだった。
しばらく瞠目し、嬉しそうに破顔する。ぎゅっと帽子のつばを握りしめ、唇をうっすらと噛み締めて。
やがて、万感の思いを込めた声がキッドに届く。
「ありがとう、ギザ男」
「礼はいいからさっさと捕まえてこい」
ひらひらと手を振るキッドに、ルフィはそっと息を吐いた。弱気を見抜かれていたのか。一体いつから気づいていたのだろう。
カモメの鳴き声に誘われ、ルフィは眩しそうに空を仰ぐ。
橙色の光の粒がきらきらと雪を染め上げる。永冬の島に咲く奇跡の花。その風景を目に焼き付けて、決意に満ちた笑みを浮かべた。
この丘の向こう。
新たに抱いた夢の果て。願いが待つ地に思いを馳せ、標柱に刻まれた文言をなぞり、祈る。
「ねぇ、マキノ……わたしにも、恋ができたよ」
柔らかな風が吹く。
次の瞬間、ぐんと伸びた腕が樹木を掴み、肉体を空へと送り出した。ルフィは振り返ることなく飛び出し、誇らしげに宣言する。
「この夢だって叶えてみせるわ。……それでこそ、海賊王ってものでしょ!」
夢だ。
脈絡もなく、ローは確信していた。
きっとこれまでも見続けていて、目覚めるたびに沼底に沈んでみえなくなっていたもの。
上も下もない空間。自分という輪郭を保てない。思考する意識だけが宙に放り出されたような感覚。
唯一機能する視界に、フィルムを巻いたような映像が映し出されていく。
その日。
トラファルガー・ローは空を眺めていた。
絶景と称するほかない、星にまみれた風景が広がっている。大小の煌めきが覆う極天。突き抜けるように座す、冴え渡る蒼い月。雲ひとつない藍色は上質な絹のように濡れていた。甲板から見下ろす先には鏡合わせの天幕。凪いだ新世界の大海原一面にその景色が映し出されている。波のゆらぎさえ、ひとつの絵画のようで。
海で生きるようになって随分経つが、こんなものを拝んだのははじめてのことだった。
「すげェな…」ほう、と息をこぼす。
その声に反応したのだろうか。
腕の中で少女が身じろぐ。
呼吸にあわせて上下する華奢な肩。まろやかな頬に影を落とす、海風に吹かれ揺蕩う髪。トレードマークの麦わら帽子は、細腕の中でふわふわとつばを踊らせていた。その面差しは視界に入れた瞬間記憶から泡と消え、杳として窺い知れない。
「ん、ぅ」
夢から覚めかけるとき特有の、恍惚とした気配が吐息に混じる。ふら、と身を起こした彼女は仔犬のような仕草で瞼を擦った。無垢な瞳がひどく無防備にローを見上げてくる。
「すまねェな。起こしたか」
ローがすり、と形の佳い頭を撫でると、少女が胸元に擦り寄ってきた。いとけないぬくもりに古びた記憶をくすぐられる。
柔らかく、懐かしい感触。まだローの妹が生きていた頃の話だ。同じように、微睡む幼い子供の熱い頭を撫でた夜があった。
懐古と共に目を閉じ、ローは苦く笑む。あの子を思い出すたび感じていた痛みが和らいでいること。抱え続けた絶望が郷愁と混ざり合っていること。
それらに気づいたとき、この胸に灯ったひとつの焔。この女の手によって容れられた火は、名をつけ損ねたままに燻り続けている。
ふいに少女が顔を上げた。
ゆらゆらと黒目を揺らし、おもむろに口を開いて囁く。
「×××は死なないでね」
睦言というにはあまりにも切実な響き。何処までも悲痛な、祈りに満ちた声色だった。
ローの手が止まる。
返答までには数秒の間があった。
ぬるい手のひらが少女の頬に寄り添う。そのまま潮風でかさつくくちびるを親指で辿って、こつりと額を合わせた。
「……おれは、できねェ約束はしない主義だ」
甘やかすような声で、現実を突きつける。
彼らが身をやつす稼業はその性質上、常に死と隣り合わせだ。無論易々と死ぬ気はないが、それと同じように絶対を保証することもできない。ローはもちろん、少女もそれを身をもって知っているはずだ。
彼女は地獄を知っている。二年前。正義と悪がぶつかり合い、後の時代を割った大戦争で失ったもの。心許せる最愛の兄を亡くして崩れ落ちた精神。
よく持ち直したものだと、今でも思う。
だからこそ、先の言葉も叶わないと知っていながら口にしたのだろう。込められた感情とは裏腹に、透き通った眼差しでローの返答を受け止めていた。
そういう女なのだ。
ローが甘やかさなくても、ひとりで立ち直って歩いていける強さを持つ。あるいはひとりでは難しい時でも、器用に人の手を借りることができる靭さをも併せ持っている。
畢竟、数多くの国を救い、人を守った豪傑なのだ。その程度で打ちのめされるような弱さなぞ、持ち合わせている訳がない。
だから今から行うことも本当は、気休めにさえならない。ローの自己満足だ。だが一方で、いずれ敵対することが定められた長同士としてこの少女に向けることが許される、精一杯の誠実のかたちでもあった。
「“ROOM”」
ブウン、と耳慣れた音が鳴る。
星の数ほど唱えた一節を誦じたローは、目的のものを引き寄せて裂いた。
「明日なんざ、誰にも分かりゃしねェよ」
たとえば今、ローの手にある一枚の紙片だって、二月前の彼が聞けば鼻で笑う代物だろう。いくら少女から同じものを差し出されたからって、と。
──そんなものだ、人生なんて。
ぱち、とまばたきをする少女。その小さな手に、ちぎった紙片を握らせる。
「コイツがお前の手元にある限り、おれはこの海のどこかで旅を続けてる。お前がその気になりゃ、航路が重なることもあるだろう」
ローは穏やかに笑う。
生きていれば。生きてさえいれば。
何度だって会える。何だってできる。剣を向け合うことも。食を共にすることも。またこうして、ふたりで空を眺めることだって。
新時代は目前で。たとえ明日、どちらかがこの海の藻屑になるとしても。
この約束であれば、必ず果たせる。
果たしてやりたいと、切に思う。
「お前の知らないところで死ぬことはあるだろう。だから、お前の知らないうちに死ぬことはしないと約束する。……こいつに誓ってな」
「……うん」
「お前も、こないだ寄越してきたのをおれから奪わねェようにしてくれ」
「なぁにそれ、わたしは死んじゃダメなの?」
別にいいけど。おーぼーだね、×××。くふくふと花のような笑みを浮かべて、少女は差し出した紙片ごとローの手を掴む。
「しししっ……ね、×××。好きだよ!」
「だからな、おれは好きじゃ……、…いや」
お決まりの返しを口にしかけて、言葉を呑み込んだ。行き場をなくした思いだけが指先に留まって、少女のまろい額をつんと突く。絡みつく華奢な指が、触れ合う手のひらが燃えるように熱くて。
ローはもうひとつ、約束を渡したのだ。
彼女には見せる気すらなかった、祈りを。
「そうだなァ……今際の際にでも、気が向けば返事をしてやるよ。欲しけりゃ獲りに来い。××らしくな」
言葉を受け、その瞳が見開かれた。
しばらく硬直して、やがて意味を理解したらしい。少女は破顔した。こくこくと頷いて、桜色の口を開く。
かすかな呼吸音。
次の瞬間、猛吹雪が視界を覆った。
ごうごう。ごうごう。
打ち付ける灰色の雪が、今しがた取り戻したものを、再び奪い去ろうとしている。
「やめろ」ローは耐えかねたように蹲った。
「邪魔すんじゃねェ……!思い出さないと、おれは……!」
額に汗が浮かぶ。
風に押し潰されて、雪が冷たく凍りつく。恐慌で収縮する瞳孔は、眼前の風景に釘付けになっている。
いつもこうだ。
夢を見ているうちは何もかも鮮明なのに。目覚めるとこのぶ厚い氷に覆われて、何も思い出せなくなる。
ごうごう。ごうごう。
耳元で騒ぎ立てる風雪の奥。氷に包まれそうな記憶の蓋を無理やりこじ開ける。
万力を込めた腕の筋肉が膨張し、冷熱に触れてきしきしと傷つく。痛みのあまり、手を離しそうになる。
意識が今にも持っていかれそうだ。その前に奪い返さないと、掴み損ねてしまうだろう。
そうなれば終わりだと直感が騒ぐ。
もう二度と、この夢を取り返せないと。
「いやだ…!」
ローは暴虐のような圧迫感に抗うように、再び深淵に手をかけた。跳ね飛んできた水滴が脱力感を誘う。腕の痛みが強くなる。
頑張っても意味なんてない。
押し寄せる嵐が、何度でもあの光を攫ってしまう。取り返したものも、奪い去ってしまう。
それならいっそ。
諦めてしまったほうが、楽に。
「……なんて、言うかよ……!」
隙間に手を押し込むようにして、輝きを放つ欠片を掴み取る。
ローに呼びかけていた煌めきが、目の眩むような光を放つ。
「ぁ、ぐ……ッ」
星の泣く声が聞こえる。
それ以上抗うのは許さないとばかりに、ローを漂白し、塗りつぶしていく。
やがて意識は、冬の嵐に攫われていった。