EPISODE OF ALBA POLAR-中編-

EPISODE OF ALBA POLAR-中編-


 遠くで、何かが焦げる甘い臭いがする。

 鼻が曲がりそうな臭気だ。その衝撃でようやく意識を取り戻す。

 いつの間にか自室に戻っていたらしい。全身から噴き出す冷たい汗が体温を奪う。ローは肩で息をしながら、寝台から身を起こした。

「……忘れて、ねェ」

 その顔は青褪めていた。確かめるような声音で繰り返し、のろのろと頭を押さえる。

 ローの脳裏に、無音の夢が反響した。

 同じ風景。一日も欠かさず見ていた、忘れてもなお忘れられなかった記憶。

 優しい星と豪雨。

「い……っ」

 彼岸と此岸の境界を越えた夢の気配が、膨大な濁流となって押し寄せてくる。こめかみに針で刺したような痛みが走った、その時。

「目が覚めたの!?」可憐な声が耳に届く。

 ローの意識が、夢の中から現実に向けられた。

 そこにいたのは、この半年ですっかり見慣れた少女の姿。手が添えられた部分が沈み込み、寝台のしわを波打たせている。

 彼女は信じられないものを見るような目で、ローを見ていた。

「あ……生きてる、…生きて……」

 深い森から響く木霊のような声が、精神を強く揺さぶる。

 ローは眼下で震える少女に手を伸ばし、その腕を掴んで引き寄せ、懺悔するように抱きしめた。

 燃えるような温度は、霞とはほど遠い。まろい頭に手を置いて、そろりと動かす。ばねのように押し返してくる頭皮。

 さらさらとした髪の奥、不思議な弾力感のある形のいい頭部は、片手で掴めるほどに小さなつくりをしている。

「朝の話だが」

 その肩に顔を埋めたまま、寝物語を聞かせるように囁く。

「正直、まだ考えつかねェ」凪いだ海のような声でローは言う。

 ゆっくりと身体を離し、ぽかんとする少女の顔をじっと見つめる。その目には星が宿っていた。旅人が導べとする一番星、どんな嵐の中にあっても消えることのない輝き。

 ローの口元がかすかにほころび、慈しみに満ちた手つきが両頬を優しく覆う。

「けど……そうだな。海を見てみたい。麦わら屋が好きだっていうなら、悪いもんじゃないだろうからな」

 夜ごとに聞かされた胸踊る冒険譚。波瀾万丈で、少しも計画性なんてなくて。それなのに、自分も旅をしてみたいと思わず考えてしまうくらい、眩しい。

 その物語に必ず出てくる、世界を覆うほどの水。人生のすべてをこの教会で過ごした自分には想像もつかない光景。

 それをこの目で確かめたい。

 ローの言葉に、少女は大きな目を揺らめかせた。限界まで見開かれた双眸は、星屑のように光っている。

「叶うよ」震える声で彼女は言った。

「そのためにわたしはここに来たんだから」

「……は?待て、お前」

 聞き捨てならないセリフを耳にした気がして首を傾ける。問い詰めようと口を開きかけたのと同時に、凄まじい爆発音が部屋を裂いた。

 視界が橙色に染まり、熱風が吹き荒れる。急激に温められたことで膨張した空気が弾けた。

 生存本能がけたたましい警鐘を鳴らす。

「危ねェ!」

 咄嗟に目の前の生き物を抱え込む。同時に、衝撃波が部屋を蹂躙した。

 身体が宙に浮く。

 そのまま水平に吹き飛ばされた。横薙ぎに飛ぶ身体をねじり、迫り来る壁と少女の間にロー自身を盾にするようにして挟み込む。

「がは……っ」

 後頭部を勢いよく壁に叩きつけたことで、一瞬意識が刈り取られた。壁材が弾け飛ぶ。耐えきれずに肺に溜まった空気を全て吐き出す。ずるりと床にもたれかけ、しかし驚くべき俊敏さで抱きしめた少女ごと身を半回転させた。

 直後、濁流のような風圧が部屋の壁を完全に破壊する。圧縮された空気と壁に挟まれ、ローは全身を押し潰された。


 破壊の波動は、教会全域を覆っていた。

 建物内にいる全ての生命に対し猛り狂うような爆発が、連鎖反応を起こしたようにあちこちで発生する。

「四皇が何故ここに」叫ぶ声が爆破音にかき消された。蹂躙の気配が充満する。

 爆風に吹き飛ばされた青年が床を転がり、ぐったりと弛緩する。その床ががらがらと音を立てて崩れ、青年ごと土煙の中に消えていく。

 あらゆる悲鳴が、憤激の声が、起爆した爆破物の余波にかき消される。

 その崩壊は表と裏、全ての出入り口から広がっていた。逃げ場はどこにもない。

 歴史の影に隠れて行われていた非道の報いが牙を向いていた。全てに平等な暴力となって。

「あ……」

 か細い声が喉を滑り落ちる。

 倒壊する建材に挟まれた白髪の少女が、力なく空を仰ぎ見た。

 降りそそぐ瓦礫に頬が切り裂かれるが、身動きは取れなかった。

 彼女の食した実は、生物に干渉する類いのもの。身体能力は常人並みだし、圧倒的な災害を乗り越える力もない。

 そして、今やその足は骨が折れ砕け、まともに歩くことも叶わない有り様だった。よしんば挟まれた身体を抜き出したとしても、走って逃げることすら叶わない。

「もっと……備える、べきだった……」

 うわ言のように喉を震わせ、ぐったりと弛緩する。抵抗が無意味なら、疲れるだけの行為に奮闘する意味はどこにもないだろう。

 投げ出された腕に、微細な破片が降りそそいだ。鋭利な部分が細かな傷を付けていくが、白い面差しは小揺るぎもしない。

 透明な精神にふとひとつの記憶が蘇る。むせ返るような血と饐えたような臭い。冷たい拷問の気配が漂う、薄暗い密室。

 教会の皮を被ったこの建物のすぐ下、アムネシアと呼ばれる少女が働いていた施設の一角。

 そこに囚われた標的は、自分を焦げつくような憎悪の眼差しで睨みつけていた。大切にしているものを害そうとするものを、決して許しはしないと苛烈な眼光は叫んでいた。

 あんな目に遭っても、上官の要求を何ひとつ呑まなかった海賊。自分がどうなろうとも、命をかけて相手を守ろうとする愛。

 あのとき自分は、こんなに愛しても無意味だなんて可哀想だなあって思ってた。

 お互い喧嘩別れしたんだって、上官は笑って言っていたから。仲良くない相手のために壊れちゃうなんて馬鹿だなあって。

 でも違った。

 全てを敵に回すほど愛しているのは、あなただけじゃなかったんだね。

「……よかったね、トラファルガー」

 シンナバー・アムネシアは生まれて初めて、誰かのために心を震わせた。

 人の頭ほどの大きさのコンクリートが、轟音を伴って落ちてくる。それを眺める透き通った赤目には、危機感も怯えも見受けられない。彼女はただ、透明な眼差しで死を見上げていた。

 薄い唇が微笑みの形に変わる。

 そして、その微笑みごと瓦礫の中に消えていった。


 どくん。

 ローの心臓が音を立てて跳ねた、その瞬間。

 脳がかき回されるような激痛が走った。

 永遠に続くはずの冬が薙ぎ払われ、灰色に覆われた景色が白日にさらされる。

「……おれ、は」

 琥珀色の双眸が揺れた。

 額の文様が明滅し、ローの身体が弛緩する。右腕が力なく床に伸びた。

「トラ男!」悲鳴じみた叫びが部屋に響く。

 ルフィは脱力した腕から這い出て、ローの顔を覗き込んだ。

 ローは完全に自失していた。苦悶の表情にも似た顔で、眉間に皺を寄せている。

 ルフィは、重力を感じさせないしなやかさでローを担ぎ上げた。落としてしまわないよう、しっかりと。

「ここを離れなきゃ……!」自分自身に言い聞かせるようにしながら、全速力で全壊した部屋を飛び出した。


 周囲は地獄絵図の様相を晒していた。

 建物内に設置した爆弾は、きっちり仕事を果たしたらしい。砕けたステンドグラスが砂塵のように舞い、半壊した建物を幻想的に彩っていた。

 剥き出しの支柱が、罅だらけの壁が、鉄骨をさらす天井が、まばたきをひとつするたびに粉塵を吐いて壊れていく。

「この……っ!」

 降りそそぐ瓦礫を弾き飛ばす。片腕とは思えない的確さで、道を切り拓いていく。

「目標発見!」叫ぶ声と、風を切る音。

 ルフィは本能で身を翻した。

 すぐ横を鉛玉が掠めていく。振り向いた先には、小銃を構えた白服が十数名。

「“死の外科医”と“麦わら”の両名を捕捉しました!」

「作戦開始。総員……撃てェ!」

 最前列の男が号令をかける。

 その瞬間、向けられた銃口全てが火を吹き、背負ったローに向けて斉射された。

「何すんの!」

 ルフィが叫び、銃弾の雨に身を躍らせた。

 気を失ったローを庇うように、両手を伸ばして覆い被さる。ぐるぐると巻きついたゴム質の肌が凶弾を次々と跳ね返していく。

「わたしには効かないわ、ゴムだから!」

 身体をそのままに、首だけで下手人を睨みつける。

「よくもトラ男を狙ったな……!」

 片足を軸に、襲撃者を蹴りつける。相手の爪先がふわりと浮き上がり、轟音を立てて壁を砕いて吹き飛ばされた。痛みに絶叫する声が戦場に響き渡る。

 ルフィはその場で跳躍した。片腕ではるか上空の鉄柵を掴み、重力などないかのように自在に跳び、眼下の敵に覇気をぶつける。

 圧倒的な王の怒気に触れた人間がばたばたと倒れていく。ルフィはその上を軽やかに舞う。

「トラ男には、指一本触れさせないから!」

 空気を裂くようにして、巨大化した拳が振るわれた。砲弾のように敵を打ち据え、次々と薙ぎ払っていく。

 まさに一方的な蹂躙だった。

 とても片腕を使えない少女一人を相手にしているとは思えない戦力差。海を制した王の名は伊達ではない。戦意をなくして膝をつき、パニックを起こす者さえ現れる始末だ。

 その時だった。

「ぅ、あァア!!」

 最初に薙ぎ倒したはずの男が立ち上がり、奇声を発しながら駆け出した。懐から抜いた短刀を振りかざし、そのまま前傾姿勢となり、獣じみた速度で迫ってくる。

 そこへさらなる銃弾が降りそそぐ。ローの右頬を弾丸が掠めた。

 それを目にするや否や、ルフィは構えかけていた拳を緩め、迷うことなくその場に留まる。

 意識がなければ、わずかな自衛すらできない。そして背負った男はルフィとは異なり、只人と変わらない身体構造をしている。銃弾に当たれば死んでしまうのだ。

「こ、…の……!」

 下手人がルフィに肉薄したのと同時に、ようやく銃撃が止む。

 間髪入れず、無防備にさらされた肩甲骨へさくりと刃が突き刺さった。ルフィの身体から鮮血が噴き出す。無数の銃弾に撃たれた男が凄惨な笑みを浮かべ、咆哮した。

「シネ、こノ……魔女メ!」

「うる……っ、さい!邪魔!」

 怒鳴り返して身を翻し、瀕死になった男の腹に拳を振り抜いた。筋繊維ごと破壊する一撃が内臓を揺らす。血を吐いて倒れた男を足蹴にし、粘度のある血痰に咽せいだ。

「ぅ、……ごほ、」

 背後から刺し貫かれた心臓が痛む。

 腕を伸ばし、刃物を引き抜く。

 栓が抜けたように鮮血があふれ、濡れた床に落ち、雨水に薄まって広がる。絶えず色が足されるため、ルフィが立つ周辺は赤墨で描いた水墨画のような有り様になった。

「い……っ、つぅ……」

 壁に手をついて何とか立ち上がり、周囲を見渡す。小銃の弾が完全に切れたのだろう。青褪めた表情の敵が後ずさり、砕けたガラスを踏む。

 その音が合図だった。

 眠るローを瓦礫の影に隠し、幽鬼のように立ち上がる。烈しい怒りで軋む黒目を見開いて、両足に力を込め、跳躍した。

「う、うわぁあ!!」

「撃て!誰か、はや」

「落ち着けバカ、刃物を使え!」

 次々と悲鳴が上がる。

 強化された腕が屈強な男の胸を突く。しなやかな脚が鈍器となって武器を握る敵を穿つ。

 跳躍したルフィは勢いを殺さず、全身で体当たりをした。ぶつかった相手は味方を巻き込んで水平に吹き飛ぶ。

 その場を疾風のように駆け、最初にローへ銃口を向けた男の銃身を踵落としでへし折ったかと思うと、回し蹴りを見舞う。

 理性をかなぐり捨てたルフィが奮う剛腕が相手の骨を砕き、意識を刈り取っていく。十数名いた政府の精鋭たちが、成す術なく倒されていった。

 最後の一人が震える声で呻く。

「なんという……」

 苛烈な闘志が迸る双眸を見つめ、驚嘆の息を洩らす。そのまま横殴りに吹き飛ばされ、悲鳴すら発せず意識を飛ばした。

 その衝撃がとどめとなった。

 罅だらけの壁に致命的な亀裂が奔り、轟音と共に崩れていく。

 朦朧とする意識を叱咤し、ルフィは動かないローを深く担ぎなおした。そのまま振り子の要領で崩落の現場から離脱する。

 怒号と共に、むせ返るような土煙が上がる。建材が凄まじい悲鳴を上げて、秩序の暗部が地上から消え去った。



 濃灰の雲がたちこめている。

 砂煙が漂う破壊の跡地で、わたしは彷徨い歩いていた。

 ひどい有り様だった。

 子供が積み木遊びをした後のような、無秩序な崩壊。倒壊した鉄骨と壁が互いを突き刺しあい、砕けたリノリウムの床を極彩色のガラス板が装飾している。

 高台に物々しく構えていた教会は、もはや見る影もない。瓦礫の山に呑まれた地下施設も、とうぶん日の目を見ることはないだろう。

 よろよろと歩くわたしの足元で、踏み砕かれた建材がふたつに割れる。わたしが通った瓦礫道には流血痕が点々と続いていた。まるで足跡のように。

 昏い雨が降り始めた。

 冬島に降る雨は、雪のように冷たい。吐き出した息は白くて、むき出しの手足がじんと震える。

 ふとわたしは立ち止まった。

 ちょうどすり鉢のように拓けた場所に出られたからだ。とろとろと周囲を見渡し、ゆっくりまばたきをする。

 つい今しがた出来た破壊痕なのに、もう何十年と放置された廃墟のように裏寂れていた。ぱらぱらと木片が落ちる音と、鼻につく血と火薬の匂いだけが漂っている。

 わたしはくんくんと鼻を動かし、油の臭いが遠いことを確認して頷く。

 ここなら大丈夫だろう。そう判断し、ふらふらと歩みを進め、比較的瓦礫の少ない場所に、背負っていたトラ男を横たえた。

 後は、くま達を待つだけだ。

 一仕事を終えた安堵で、深く息を吐く。

「……ぅ、ごほ」

 咳きと共に吐血した。

 全身の力が抜け、その場に倒れる。砕けた床材に鮮血が広がっていく。手足の末端から熱が逃げる感覚に、わたしはかすかなため息をこぼした。

「やっぱ……り、毒……かァ」

 かつての経験から耐性はついたものの、それはあくまで「毒に強い」というだけのもの。決して無毒化できる訳ではない。

 あの敵がいったい何の毒を塗っていたのかは分からないし、興味もないが。

 どっちにしても致命傷だし。いくらなんでも心臓に穴が空いたらわたしも死ぬ。チョッパーがいれば違ったかもだけど。

 この場に頼れる船医はいない。つまり、そういった救命措置も期待できない。

 ここが、わたしの旅の終わり。

「けほ……ごほっ」

 軋む身体を叱咤し、地面を這いずる。

 トラ男の傍に行きたくて。けれど、あと少しで指が届くというところで動けなくなった。それなのに不思議と口角が上がる。

 三年ぶりの再会だった。

 ところどころに擦傷こそあるが五体満足みたい。よかった。もしかしてちょっと痩せた?でも、たくさん食べていっぱい寝たらまた元気になってくれるよね。

 すぐ近くに感じるくま達の気配。トラ男が大好きなやつらだから、もう大丈夫。

 トラ男のことを操っていた能力者も、作戦通り、ブルックが倒してくれただろうから。いや、ブルックじゃないかもだけど。

 何にせよ、これでトラ男は自由だ。もう一度、彼の意思のままに旅をできる。

「やった……やったよ、まきの、……みんなァ……」

 兄を守れず、故郷を守れず。

 大切なものばかり、業火の中に取りこぼしてしまったけれど。今度こそ、守りたいものを守り通せたのだ。

 その充足感が、わたしの心を満たしていく。まぶたが重たくて、目を閉じる。

 脳裏に仕舞い込んでいた記憶が浮かぶ。

 美しい星と、優しい温度。わたしの頭を撫でてくれた、大好きなぬくもり。

 ああ、これだけは申し訳ない。

 まさかこっちが約束を破ることになるとは思わなかったから、本当に悪いと思ってる。

「と、……らお」

 あの約束、忘れててくれないかな。

 ……無理だろうなあ。

 だってトラ男、めちゃくちゃしつこいもん。こういうのだって、いつまでも覚えてるタイプでしょ。

 トラ男は悪くないんだし、さっさと切り替えてくれると嬉しいんだけど。優しいヤツだから、それも難しいかなあ。

「やくそく、まもれそうにないや……」

 それでも、守れてよかったと思うよ。

 この歓びが、どれほど身勝手なものだとしても。トラ男は自分でケジメを付けて、ちゃんと幸せになれるヤツだから、きっと大丈夫。

 最初は傷になったとしても、いつかわたしの屍を乗り越え、わたしの知らない海を自由に生きて、思うままに旅をしてくれますように。

 トラ男の航路に、いつまでも光があふれていますように。

 それだけで、わたしはしやわせだから。



 ローは意識を取り戻した。

 無数の打撃痕。意識を壊された人体があちこちに倒れている。吹き飛んだ壁。くり抜かれた天井。支柱だけが頼りなく佇む、建物の様相を喪った跡地。ざあざあと雨が降りそそぎ、あらゆる生物の体温を奪っていく。

 ロー以外、誰も意識を保てていない。人が死んでいないことが不思議なほど、圧倒的な崩壊が起きていた。

 這いつくばりながら前に進んだ。

 鉄錆びた臭い。リノリウムの床に広がるおびただしい赤。手のひらで触れると湿った音が響き、べったりとローの手を汚す。

 それに構うことなく、その先にあるものに向けて、彼は必死に手を伸ばした。

 自分という存在が欠落して以降、心に落ちた闇を祓い続けてくれた幻。蓋をされた記憶の箱をこじ開けて、隙間からひとつずつ取り出してはローに渡してくれた影法師。きっとそうしてくれる女だと、己を構成する記憶全てを奪われてなお信じた相手。七つ歳下の女の子。

 “麦わら屋”が床に転がっていた。

 彼女の血濡れたくちびるがかすかに動く。

「…、……ろー」

 吐息のような囁き声を受け、ローはふらふらと身を起こした。よろめきながら傍らで膝をつき、傷口を検分する。

 救いようがないことは瞭然だった。胸部に刻まれた刀傷。たったひと突き刻まれたそれは、まっすぐ心臓に到達していた。

 肺に逆流した血液が呼吸を堰き止めているらしい。ごろごろと嫌な音を立て、力なく胸を上下させている。

 頬から赤みが引き、青紫色に変色した。

 明らかな死相だ。

 恐る恐る華奢な身体を抱き起こすと、彼女の口から血塊があふれ出した。ローの顔色が変わる。恐怖で強張る腕を叱咤し、赤黒いそれが止まるまで背中をさする。

「ご、ほ……っ、ロー、…ろぉ、」

 苦悶の表情。心細そうな声量は、迷子になった幼子が親を求めてすすり泣いているようだった。

 これ以上傷に障らないよう、ローは自身の頬で少女の呼吸を確かめた。産毛すら動かない。空気を温めるだけの息づかいしかできないようだった。

「おれはここだ。ここにいる。……もう喋るな、傷に障るぞ」

 労りを込めた声を受け、黒い瞳がローを捉えた。途端に口元をほころばせ、ひとかたまりの空気に音を乗せる。

「ぁ、……怪我は、ない?」

 ローは目の前が真っ赤になった。

 この後に及んで。

 死にそうなのはお前だろう。辛いのも痛いのも苦しいのも、おれじゃなくてお前だろう。こんなに怪我して血を流して、人の心配なんかしてる場合か馬鹿。まずはテメェの心配が先だろ。

 脳内で間欠泉のごとく噴出する言葉の数々。力なく呼吸を繰り返す、その激情をぶつけるべき相手。

 息を吸う。

「ああ。お前のおかげだよ、麦わら屋」

 千の言葉を呑み込み、必死に微笑みかける。噛み締めた口端に血が滲む。刃物で切ったような痛みが走ったが、心底どうでもよかった。

 そんなことよりも、少しでも多く彼女の苦痛や不安を和らげてやりたくて。ローはその一心で、叫び狂う魂をねじ伏せ、小さな身体を労わるように撫でた。

「よかった……」

 少女が深く息を吐く。強張っていた身体の緊張がほぐれ、ローの腕にぐったりと重みがかかった。

 ローは黙して少女を抱え直す。

 少しでも乱暴に扱えば、その瞬間にひび割れてしまいそうなほどに弱っている。これ以上、わずかな負担さえかけたくなかった。

 腕の中で瀕死の呼吸を繰り返す、真新しい麦わら帽子を身につけた、ローの幻覚だと思い続けていた現実。

 六ヶ月間、ローの傍で語り続けた友人。

 過去の記憶を取り戻し始めたことで、彼女が話していたのはロー自身が体験した出来事だったと理解できた。

 何もかも、仕舞い込みきれなかった記憶の断片が、幻の形を取っていただけだ。

 この少女と同じように。

「あのね……びっくり、したんだよ」

 意識が現実に引き戻される。

 苦しそうな呼吸はそのままに。陽射しに溶け出してしまいそうな声が、優しくローに語りかけてくる。

「……ふふ…忘れても、……わたしを…そうやって、呼んで…くれる、なんて……」

 そうだ。思い出せない。

 暗がりから少しずつ、ローをローたらしめる記憶は戻ってきている。だが足りない。

 交わらない視線が、弱っていく彼女の容態を如実に表しているのに。おれは、そんなお前の名前を呼んですらやれない。

 その事実に喉を詰まらせ、項垂れた。

「うれしかった、なぁ……。もう、呼んでもらえないって、思ってた……から……」

 少女の笑顔に、ローは視線を彷徨わせた。なにか喜んでもらえるようなことをした記憶はない。

 これほどの怪我を負うような事態だ。むしろ足手まといだったんじゃないのか?そんなふうに笑うな。怒れよ、お前のせいだって責めてくれ。

 魂が絶叫している。強迫観念に近い衝動がローを突き動かす。おい、と声をかけると、そこに被せるようにして少女が言葉を紡ぎ始めた。

 初めて聞く声だ。穏やかで、寂しげで、どこまでも慈しみに満ちている。

「だい、じょうぶ。くまたちに……あったら。そしたら……ぜんぶ、おもい、だして……、」

 言葉尻が途切れた。

 今までで一番ひどい発作が起きる。ぶるぶると痙攣したかと思うと、信じられない量の血を吐き出した。苦しむ少女の声がローを侵す。

 脳がガンガンと揺らされ、ローの視界が明滅した。記憶の蓋が激しい音を立ててがなる。

 半開きの闇の向こう。聞き慣れた声で誰かが喚いている。その女を満足させるな。守れ、引き留めろ。死なせるな。何かひとつで構わないから、生にしがみつく理由を渡せ。

 追い立てられるままに思考を回した。ひとりでに唇が言葉を結ぶ。

「やめろ……やめてくれ」

 死ぬな。死なないでくれ、生きてくれ。

 こんなところで終わるな、お前が夢を叶えるところを、世界を変える瞬間を見せてくれ。

 ……夢?

「そうだ」ローの声が強さを取り戻す。「夢はどうするんだ。お前は……海賊王になるのが夢なんだろ!こんなところで死ぬんじゃねェ!」

 その答えの前には、数秒の空白があった。途切れ途切れだったはずの息が穏やかに凪いでいく。虚ろいでいた瞳が、子供のように叫ぶ男を映す。

「わたしの夢は」ふいに少女が囁いた。問いかけへの応えではない。ただその喉を通り抜ける声は、子を守る母のように穏やかなもので。

「ローをここに連れてきたときに、ぜんぶ、叶ったよ」

 重い音がひび割れた床に落ちる。咳き込む少女の息遣いに、再びどろりと湿ったものが混じった。赤黒い血痰は彼女の青褪めた肌を汚し、痛ましいものへと変えていく。

 なんでそんなことを言うんだ。まるで、生きることを諦めたみたいに。

 絶望に凍りつくローの耳朶に、恥じらいを滲ませた声がそっと触れる。

「すき……だいすき……ずっと……すきだよ……」

 ついに痛みを感じる段階を過ぎたらしい。険しさが遠ざかり、安らいだ顔で言葉を紡いでいく。

「ね、ロー……。わたしと…なかよく、してくれて……ありが…とう……」

 力なく囁いた少女が深く破顔した。

 満足そうに、幸福そうに。その表情は天使のように無垢だった。頬の裂傷から新たな血がこぼれ出す。

 同時に眦から一筋の涙が流れ落ちる。ふたつの液体は混ざり合い、溶け合って、床に吸い込まれていった。

 黒い瞳がローを見上げる。

 混乱と焦燥でぐちゃぐちゃになった、お世辞にも綺麗とはいえない表情。そんなものを、まるでなにか眩しいものを見るかのように柔らかく細めて。

 静謐とした沈黙が空間を漂う。

 ふと痙攣するように彼女の肩が跳ね、傷だらけの片腕が持ち上がった。空中を彷徨うように揺蕩って、ローの顔を支えに寄り添う。

 ほっそりとした親指がローの唇をなぞり、そのまま手のひら全体で頬を包んだ。紅を引くようにして、鮮血がローを彩る。

 少女の唇の動きが無音のまま、何かの単語を綴った。たった三文字で構成された、馴染みのない単語。最後の一文字を紡ぎ終えた口から、彼女の肺に残った空気がこぼれ、呼吸に似た音となってあふれ出していく。

 やがて力尽きたように焦点が拡散して濁り、まぶたが伏せられた。

 小さな手が脱力して空中に垂れる。何か決定的なものが彼女の身体を抜け出し、曇天の彼方へ去っていく。

 同時に、ローの胸元で何かが燃え始めた。熱を持つ場所をまさぐると、小さな紙切れがまろび出てくる。

 震える手で取り出した。

 紙片は端から焦げ、黒い塵となって風の中に消えていく。一瞬の出来事だった。

 ローは空っぽになった腕を動かし、動かなくなった少女を強く抱きしめた。

 限界まで見開かれた両眼が、彼女が流した血の痕に固定される。その琥珀色の双眸に、まったく別の映像が映し出されていく。


 ライオンを模った舳先。そこに腰かける少女の後ろ姿。風に乗って揺れる黒髪と、トレードマークの麦わら帽子。

 耳の奥で、誰かの声が反響する。

 ──ルフィ、トラ男くんが来てるわよ。

 声に反応したのか少女が振り向く。宝石のような瞳がローひとりを映し、とろりと幸福そうにゆるむ。自分に恋をしたのだと笑う、世界で一番可愛い女の子。

 しなやかな両腕がぐんと伸び、立ち尽くす男の懐目掛けて小さな身体ごと飛び込んでくる。幻想のぬくもりがローの全身を包み込んだ。

 目頭が燃えるように熱い。鼻腔をくすぐる少女の香りが記憶の蓋を優しく開く。

 そうだ。お前からはいつも、陽だまりと潮風の匂いがしたんだ。

 自動的に口が動き、声帯を震わせる。

「……麦わら屋」

 レコードを再生するように、過去の自分と今の声が重なっていく。

 額に刻まれた消えかけの紋様が淡く光る。そうして、端から溶けるようにほどけ去った。

 一陣の風が吹く。

 夢は終わり、腕の感覚が還ってくる。

 脱力しきった人間は重いはずなのに、抱え込んだ彼女の身体は驚くほどに軽くて。消えた命の重みを思い、目を閉じる。

 体温を奪っていく雨の音。崩れた建物の残骸が押し流され、大地に散らばる音。世界から隔絶されていた意識に、失われたものを突きつける音が届く。

 いつかの夜、彼が眠る毛布に潜り込んできた少女。満点の星空の下、微睡みながら眺めた寝顔にそっくりの表情。

 ただ寝ているだけだと言われれば信じてしまいそうになるほどに。

 ぬくもりを遺すまぶたにくちづける。

 その時、唐突に思い至った。

 もし仮に、この胸に宿る感情を言葉にして伝えたとしても、応えはもう永遠に分からないのだということを。

 ルフィと同じ恋を返せなくても、同じ質量の心を渡すことはできた。

 笑ってくれるだろうか。照れるのだろうか。実は泣き虫な彼女のことだから、もしかしたら泣いてしまうのかもしれない。

 それでも、きっと喜んでくれただろう。

 いつだって、選択肢はそこにあったのだ。伝えてさえいれば。たった一言。かつて、ローが恩人からそうやって送り出して貰ったように、言葉にしてさえいれば。

 けれど、その選択肢は潰えた。

 ルフィは二度と目覚めない。

 ローに微笑みかけてはくれない。

 死んでしまったから。

「う、ぁあ、ぁああぁあ!!!」


 降りそそぐ雨が雪に変わる。

 ローの全てを奪う悪夢の象徴。

 白い結晶は寄り添う男女を止まり木にし、しんしんと降り積もる。

 全ての音が吸い込まれていく中、ローはひたすらに泣き叫び続けた。

 灰色の空からもたらされるものが、世界を白く染めるまで。



 天高くカモメが飛ぶ。

 くるくると、まるで少女が海原を駆け回るかのように。全てを振り切って響く鳴き声は、今は亡き好敵手の笑い声に似ていた。

 果ての地に至った嵐そのもの。目の眩むような恋を貫いた女。

 片腕を空に翳し、キッドは唇を噛み締めた。

「……くそったれが」

 彼女は生き、そして死んだ。

 キッドが知る真実なぞ、結局はそれっぽっちだ。歴史の本文を読み解いても書き手の人生は飲み干せないように、彼女の内情を知ることはもはや叶わない。もとより興味もないが。

 繊細な乙女心なんて厄介なシロモノ、わざわざ暴く必要ないだろう。

 いくらなんでも悪趣味が過ぎる。あの女の真意は、海だけが知っていればいい。

 だから、これはただの義理だ。

 こんな恋の仕方があるのだと、生き様で示した好敵手への。

 それに、キッドとは違う結末を迎えたその花を、このまま萎びさせたくないと思うくらいには愛着もあった。

 ふう、とひと息。

「だから言ったろ、トラファルガー。ちゃんと掴んどけって。そうしねェとそういう女は早死にするンだよ」

 項垂れ、硬直する肩が小さく跳ねる。

 ローは緩慢な動作で振り返り、澱んだ琥珀色の瞳でキッドを見上げた。そうして虚をつかれたように数度まばたきを繰り返す。

「……ユースタス屋?なぜここに」

 訝しむローを無視して、雪原を踏みしめながら歩みを進める。脳裏に思い描くのは、いつか見た夏の花じみた満開の微笑み。

 キッドは肩をすくめた。

「“諦められる恋なら、初めから好きになってない”んだったか」

 テメェが、その恋が報われたことを知らずに死んだというのなら。せめて最期に抱いた祈りくらい、叶えられたってバチは当たらねェはずだろ。

 空を見上げ、吐き捨てるように呟く。

「オイ、これで借りは返したからな」

 言うが否や、ローの襟首を掴んだキッドが能力を発動させた。凄まじい速度で形成された鉄塊に捕まり、全力で陸地を離れ始める。

 ローが抱えていたルフィの遺体を置き去りにして。砕けた床材の上で横たわる少女が、あっという間に豆粒のように小さくなる。

「おい離せ!麦わら屋が……!」

「その麦わらのご所望だ、クソ野郎!」

 手を伸ばし、叫んでいたローの声が急に途切れ、引き攣れた呼吸音に変わった。絞られた喉からにじみ出る、空気が抜けた笛のような音。声にならない叫び。

 見開かれた琥珀色の瞳に、信じがたいものが映る。

 正義の御旗。

 一隻二隻ではない。何十という艦が島を囲んで、砲台を熾していく。

 強烈な閃光。ふたりの足下を、砲弾が尾を曳いて飛んでいく。島の中腹に着弾し、大地を抉りながら炸裂した。間髪入れず、同威力の弾が次々と襲いかかってくる。

 薄墨を垂らしたような空が、真昼のように照らし出された。

「なん、で」

 ローは愕然とした声で言った。

 その目の前で島の樹木が倒壊する。

 咄嗟に飛び降りようとしたその背を、キッドが容赦なく羽交い締めにした。

「離せよユースタス屋ァ!」

 身悶えながらローが叫ぶ。見開かれた双眸からはとめどなく涙があふれていた。

「やめろ……ふざけんじゃねェぞ!」

 視界の先で、丘陵が抉られ、樹木が暴風に呑み込まれ、大地が無に還っていく。

 砲弾が着弾し、炸裂し、荒々しく破壊を撒き散らす。空間ごと爆ぜてねじれ、ルフィが置き去られた付近を紙細工のように引き裂いた。

 叫びは悲鳴に変わる。

「もう動きやしねえよ!ただ寝てるだけだろ!眠ってるだけだ!なんでそれもダメなんだよ!何も、……何もしてねェだろうが……!」

 慟哭するローを嘲笑うように、全ての軍艦から放たれた真紅の熱球が、アルバポラール島に牙を剥く。

 膨大な光。

 どん、と爆ぜる音。一瞬の静寂。

 次の瞬間、衝撃波が島を蹂躙した。

 天空まで届きそうな煉獄の赤光が奔る。

 膜状の炎が島全体を覆い、内側に向けて爆縮した。外殻が触れたもの全てが融解する。倒れた木々が炭化し、大地すら燃えて蒸発した。

 大気が泡立ち、のたうつ。

 後には何も残らない破壊の一撃。

 荒々しく舌を打ったキッドが、脱力したローを鉄塊の上に引きずり戻す。ローはその場にへたり込み、呆然として眼下の光景を見つめていた。

 熱風で溶けた雪が雨となって、乾いた頬を流れ落ちる。夜露のようだった飛沫は霧雨に変化し、船乗りの星を意味する名を冠した、永冬の島の跡地となった渦潮に降りそそぐ。

 風が手招くように強く吹いた。

 底なしの絶望に囚われた眼差しで、ローは呆然と呟く。

「死後の、安らぎすら……それを悼む心すら……奪うのか」

 誰も答えない。

 着陸地点を見据えるキッドの双眸には地獄の業火が宿っていたが、それだけだった。

 食いしばった歯の奥で、ローは声にならない叫びをあげた。

 そのまま意識が闇に沈む。

 最期に感じた最愛の少女と同じ温度が、つむじ風となり、ローの隣を駆け抜けていった。


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