Anonymuncule.

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#古関ウイ


「さて、次はこの子ですか。……うわぁ、これはまた酷い。立派な蛇革だというのに……経年劣化?いえ、物理的な損傷も……。これは、意図的に?だとしても、妙ですね……」

 修繕業務に励む古関ウイが新たに手に取ったのは、蛇革の革装本であった。歴史的な価値を主張している荘厳な外見は造りも拵えも豪華で繊細だというのに、ひび割れや色落ち、茶色や赤黒いシミ、果てには鈍い刃物で切りつけたような傷跡があった。

 素人目にもわかる、あまりにも酷い保存状態。普段ならば怒髪天を衝き、怒り狂いながらぶつぶつと文句を漏らすような場面であったが、今回のウイはいやに静かであった。その理由は、どことなく引っかかった違和感。

 よく観察してみれば刃物で裂かれたような表紙も、強引にちぎられたようなページもその断面が異様なまでに新しい。その反面こびりついたシミは析出しているのか触れるとポロポロと剥がれるものすらある。

 もちろん、つい最近傷つけられて持ち込まれたということもあり得る。しかし、それにしては傷口に埃を被り過ぎだ。汗染みやインクの染みだって今日明日でこんな風にはならない。

 本全体から感じる古臭さと損傷の真新しさのチグハグとした印象に、ウイはまるで本の時間が止まっているかのように感じていた。

「依頼は……シスターフッド。ひょっとして!…………いえ、何を馬鹿なことを。すぐに治してあげますからね」

 貴重な本だ。雑念が混じってはならないと呼吸を落ち着けて作業に取り掛かる。赤黒い染み。アセトンか何かでインクを拭い去ろうとした跡。通読の障害をどうにか掻い潜り、そこにあったはずの文章の一文字をも取りこぼさぬよう丹念に探る。

 絡み合ったページ端。変質した接着剤。濡れて張り付いた紙。そのどれもを一枚一枚丁寧に癒着を解いていく。

「それにしても……前の持ち主は何をしたらこの子にこんな恨みを抱けるんでしょうか?」

 長針が短針を2度ほど追い越し、一通り本としての体裁を整えたウイは独り呟く。

 目の前の本につけられた傷は、ただ単純に雑に扱っただとか、脆い本を丁重に扱わなかっただとか、そんな生半可な言い表し方ができるようなものではなかった。本に対して明確な害意や悪意、延いては殺意を抱いていなければ刻まれようのない損傷ばかり。自身と同程度、それこそ本に人格を認めるほどの執着が無ければきっとこうはならない。

 何がそこまで駆り立てたのか。いったいどんな内容なのだろうか。ウイの胸中に好奇心が湧き立つ。作業中に神話の類を記した本であることはわかっていた。補強用紙の掠れた文字も千切れた頁も彼女の前には大した障害にはならなかった。

 修復したページをそっと捲った、その瞬間。視界の端で、何かが蠢いた。机の上に、影が落ちる。それは、本から這い出たかのように、ぬらりとした質感を持つ、一匹の黒い蛇だった。鱗が鈍い光を放ち、赤い舌がチロチロと揺れている。

「あ?…………へぇあぁっ!!?」

 どてっ、と椅子から不格好に転げ落ち、積んであった古書に後頭部を強かに打ち付ける。

「いっ、たたた……。い、一体何が、ホログラムを出すような仕掛けなんてどこにも……」

 頭を押さえて見上げると、先ほどの蛇が幻覚ではなかったかのように、再び目の前に現れた。いや、現れたというより、本の中から直接飛び出し、鎌首をもたげた黒蛇が、ウイの眼球めがけて鋭く飛び掛かってくる。

「がっ!?あ!……ぐ、ぅ!」

 咄嗟に顔を背けるが、間に合わない。物理的な衝撃はないはずなのに、まるで眼窩を通じて何かが脳に這入ってくるような、悍ましい感覚。ズルズルと不愉快で忌まわしい存在が、我が物顔で脳に蔓延りとぐろを巻いて鎮座している。

 まずい!これはまずい! これだからシスターフッドは嫌なんだ!このっ……!

 ——その時、ウイの右手がピクリと震え、意思に反して机の上のペンへと伸びかけた。

「くぅ……おぉ!一体なにを!私にさせようと!」


【制限モードで起動しました】

【プロトコル『修繕作業』を開始します】


 ウイの手が意図せずに動く、それはペンに伸びているようで、まるで操り人形のように、指が勝手にインク壺を開け、ペン先を浸そうとしている。

「させ……ませんよそんなっ!」

 抵抗も虚しく、見えざる力に指先が導かれる。脳裏に直接、意味不明の文字やイメージが洪水のように流れ込んでくる。これは命令だ。この本が持つ本来の……あるいは歪められた目的を、私に遂行させようとしている。

  私の存在が再定義される。塗り替わる。置き換わる。脳細胞一つ一つが食い潰される。神経を一本一本支配される。怖い。早くしないと手遅れになる。ヘイローを砕かれるよりずっと酷い目に遭う。

 誰かに助けて貰わないと。私一人じゃどうしようもない誰か誰か……!怖い!苦しい!誰か助けて!

「誰……か、せんせ……」

 弱々しく漏れたその名に、脳内の異物が嘲笑うかのように蠢く。違う、そんなものではない、もっと確かな救済が、すぐそこにあるではないか、と囁きかけるように。 突如湧いた妙案。

「そうだ、そうだ……!アポピス様にご助力を願えばいいんですよ!」

 なぜ気づかなかったのだろう。アポピス様は苦しみを取り去り恐怖を排斥して私たちに絶え間ない幸福を与えてくださる存在。一人では歩くことすらままならない私たちに寄り添い行くべき道筋を照らしてくださる存在。暖かくて優しくて頼りになる存在。

 真っ先に頼るべきではないか。

 脳内に響く声があった。そうだ、それでいい、お前を救うのはそんな軟弱な人間などではない、と。甘く、抗いがたい響き。ウイは無意識のうちに、その声に応えていた。

「……はいっ!その通りです!」

 しかし、ペンが紙に触れる寸前、胸の奥底から燃え上がるような怒りが、その甘い囁きを焼き尽くした。本の修繕。それは誰にも、何者にも汚させてはならない、古関ウイの聖域だ。ましてや、こんな得体の知れない存在の言いなりになって、この本を捻じ曲げるなど!

「ふざ、けるな……!馬鹿にしてるんですか?私のことを。本を作り直す?本来の形に?それが、私の領分だとでも?せ、先生のことまで……!馬鹿にして!!」

 脳内で囁いていた声が、一瞬戸惑ったように揺らぐ。だがすぐに、粘つくような嘲笑が思考に絡みついてくる。そうだ、それが本来あるべき姿なのだ、と。抗いがたい響きが、ウイの怒りを捩じ伏せようとするかのように圧力を増す。ペンを持つ手に、再び意思とは無関係な力がこもりかける。

「なんっ……ですか?誰なんですか?嘲るのも大概にしてください……見縊るのもいい加減にしてください……っ!!!」

 ふざけるな、正気のまま治してやる。絶対に治してやる!他のことならいくらでも負けてあげましょう。ただこれだけは、こればっかりは絶対に譲ってはやらない!!

 咄嗟に補修用紙を手に取り、強引に書き殴る。内容はなんでもいい、書かせようとしていてそれに逆らえないなら、別の軸にずらして先延ばしにするしかない。とにかく間に合わせるな、思考より先に、考えるより早く、手を動かせ。綴れ、書き続けろ。これが諦めるまで、これが満足するまで。


【不明なエラーが発生しています】

【修正ツール『朽縄』を起動】


《従え》


 忍耐不可能な激痛が全身を襲う。

「ひゅっ……」

 横隔膜が痙攣して、吸い込んだ息で喉が鳴る。

 眼球が沸騰しているようで、爪の間に針を差し込まれているようで、手をハンマーで叩き潰されているようで、全身の皮膚が捲れ上がるようで、頭蓋の内を紙やすりで擦られているようで、全身の関節が逆に曲がり、胃は捩じ切れ、喉が裂け、肺が潰れ、腸が千切れ、子宮が焼け爛れている。

「……がっ!?はがっ……あ゛っ!……ぁ、あぐぁっ!かっ、はぁっ……!」

 絶叫すら許されない痛みに、ショックで心臓が爆ぜたかのような錯覚をする。脂汗がじとじと額に滲み出て、視界が明滅する。

「ぐっ!こんな筆圧で、まともに修繕できるわけないでしょう……!?嫌です!絶対に譲りません!」

《従え》

「断る……!」

 こうなれば意地だ。やってやるものか、絶対に折れてやるものか。

《従え》

「八釜しい」

 幾枚も言葉の羅列を書き連ね、やがて万年筆のペン先が、乾いた音を立てて紙の上を滑る。 インクが掠れる。もう、インク壺にはほとんどインクが残っていない。それでもどうしようなどと迷わなかった。

 震える手を握りしめ、微塵の躊躇いもなくペン先を手首に突き刺す。裂けた皮膚からドーム状に膨らんだ血液が、表面張力の限界を迎えて床へ流れ落ちる。その赤い筋にペン先を宛がい、血を吸わせて書き進める。

 書いて書いて、紙が失せて、血が出なくなって……。それでも、まだ脳裏で《従え》と声がする。まだ足りない。まだ終われない。ならば。 だから。ナイフで。修繕用の、鋭利な刃を手に取り、震える左腕を見据える。もっと深く、もっと多く。この本をあるべき姿に戻すために。いや、この忌まわしい命令から逃れるために。 私は。

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