地獄からの脱出RTA 9月9日/昼ー②
小学校に入るか入らないかの頃、幼い糸師凛が最初に気付いたのは匂いだった。
事故にあったというあの日に両親を取り巻いていたのと同じ匂いが、時折ふっと兄からするのだ。兄ちゃんまで連れて行ってしまわないでと、ただただ怯えてしがみついていた…それが血の匂いだと気づいてからはいっそうの事。
またやってきた九月九日は、だから怖くて一日中兄から目を離さずに過ごした。
そうして冬のある朝、その匂いが兄の身体についた本物の傷からの匂いだと覚って怖さの色合いが変わり
次の九月九日日。地獄がぽっかりと口を開けている中に自分たち兄弟はとうにいて、血だらけの兄を敷き物に凛は生きていたのだと知らされた。
ひとつまたひとつと大事なものが奪われ。ゆく道が両側から削り取られ。
執拗に砕かれていった兄の心の、かろうじて残されている…サッカーに没入している時にプレーの中に透かし見える部分を今は、必死で握りしめ続けている。
地下へゆっくりゆっくり下っていく坂を、行き止まりの真っ暗な場所へ追い込まれていくような数年間だった。それが。
それがまさかこの、九月九日に
「母さん…っ!」
兄と二人で駆けこんだ病室。
ゆっくりと首が動き、この数年どれほど呼びかけても閉ざされたままだった母の瞼がヒクリと揺れる。
そして薄くだが姿を見せたのは、確かに母の、瞳だった。
ああそうだ、こんな風に優しい色合いの眼を向けていつも「おかえりなさい」を言ってくれてたのだと、ヤスリをかけたように消されかかっていた記憶が一瞬で鮮明さを取り戻す。
夕焼けの帰り道、つないだ手、凛のいる前だとにいちゃんを「おにいちゃん」と呼ぶけれどたまに「冴」と呼ぶ声の響き、たくさん褒めてくるおかあさん本人がいつも誰より嬉しそうで
「あ…あり、がと。ありがとうかあさん、生きててくれて」
こぼれたのは、感謝の言葉だった。
母はまだ喋るのはおぼつかないようだったが、兄を促して一緒に握った手はあたたかで、凛の話しかけた言葉にはぎゅっと握り返すことで応えてくれた。
凜は数年ぶりのハグをして、母の耳元に伝えた。
「母さん、俺もサッカー始めた。それで兄ちゃんと約束したんだ。いつか…」
『二人で世界一になる』は今ここからの成り行き次第なので言葉を選びなおす。
「いつか、世界一のストライカーになった兄ちゃんの、隣にいる。おれのいちばんは…それだから」
母の唇が「り」の形に動いているのを承知で、凜は身を離した。ゲームソフトのメッセージ作成画面が、脳裏にチラつく。
【あの先生は、あんたの後見人やら財産管理の立場を返せって言われて大人しく返す人?】
答えはNO、だ。
折しも九月九日、下手をすれば元よりも更に事態を悪化させるナニカが待ち受けていると考えた方が良い…手を打つ為に今動けるのは自分しかいなかった。
「母さん、疲れただろうから今はしっかり休んで」
「兄ちゃん。俺戻ってくるまで、母さんのこと守っててあげててよ」
「あれ、面会はもういいの?」
顔見知りの看護婦さんに
「神社!御礼参りと、あと父さんのことも起こしてってお願いしてくる!!」
いかにも子供らしいと思わせるような言葉を返し。
守られるだけの子供の立場を脱ぎ捨てて返上した凜は、病棟を後にした。
<防犯ブザー買うなら、子供用の文具とか学用品売ってるとこか、このあたりならホームセンターじゃない?>
病院から駅の方への道を駆けていた凛は、耳のイヤホンから聞こえてくる音声に『了解』の印としてポケットの上からゲーム機を一つ叩いた。
YESなら一回、NOなら二回。声に出して応えられない凛の側からの、それが合図だった。
盗聴や盗撮をされてる可能性は無いかと尋ねられた時、凛には思い当たる節がありすぎたからだ。
(あのクズ野郎、自分が留守の間の俺たちのこと知ってるそぶりあったからな)
二匹のウサギが仲良く遊ぶ絵本を兄が読み聞かせてくれた日の夕飯、男が「ごちそうだよ」と出してきたのはウサギのテリーヌだった…
<あ。駅の向こうにあるホームセンター、在庫あんの確認>
ポケットを一つ叩いて、凜は雑念を振り払った。
所詮親の代理人の立場でしかないあの男が、兄や自分をこれからもいいように扱おうとするなら、真っ先に狙われるのは母だった。…それに気付かせてくれただけでも、音声の向こうの相手との出会いは幸運だったと凛は思う。
母の手元には確実に助けを呼べる手段を用意せねばならない、だからこその防犯ブザーだ。
(ああ、ツイてんのは母さんのほうか)
この音声でのやり取りはひとえに、息子たちへのプレゼントとして両親が用意してくれてあったゲームソフトに、ボードゲームをただ対戦するだけではなく相手との手紙の交換、更には対戦中のおしゃべりも楽しむためのボイスチャット機能までもがついていたおかげだった。
白い少年(名乗らなかったがフレンド登録名は『セイ』だった)は、とっくに旧型になっていたゲーム機とソフトを、たまたま祖母とのやり取りの為に持ち込んでいたという。その繋がりが、幸運が、凛に味方してくれていた。
<まあしっかりやんなよ。俺だってばーちゃんの病院が事件現場とか勘弁してほしーし>
その声を聞きながら凛は一つ目の神社へ駆け込み、健康にまつわるお守りを全種類二つずつ買いあさってはお宮に一礼して出て行った。
そうしてまた、駅の向こうにある次の神社へ。
神頼みのためなどではなく、運命を自分たちのほうへ引き摺り寄せるために。
やがて
「ばーちゃんの手術、終わったんですか?」
病院の玄関前のロータリー、分離帯代わりの花壇に腰かけて『ゲーム』をしていた白い髪の少年が、最新作のシューティングゲームの音をストップして立ち上がった。
「ええ。もうすぐ麻酔がさめるから、お疲れ様って言ってあげてね」
「じゃあ無事に…」
「今のところ異常は見られませんから、順調なら明日からお食事も食べられますよ」
呼びに来た看護婦と連れ立って歩き始めた少年は、ホールの公衆電話のところにいた凛の姿に、何も反応せずに通り過ぎていく。人目のあるところでは絶対に無関係を装わなきゃダメだと、そう最初に告げてきたのは少年のほうだった。
「ありがとな。白いの、…ご利益あった」
白いお守り袋を手に、凛は受話器に向かう態でそう告げる。
「先生も大丈夫だっておっしゃってたわ、だからそんなに心配しないで。おばあ様には笑いかけてあげるのが、一番のお薬ですからね」
安心させようとしているのだろう明るい声で『先生』を誇らしげに語る看護婦の横で、ポンっと一つ叩かれるポケット。
凛は、そっと息を吐きだした。
親切を装って距離を詰めてはこない、その距離感は悪くない相手だったがそれでも全部は話せないし、話す気もなかった。
この先はただ、兄としてきたサッカーだけが道しるべだった。
(兄ちゃん)
物心ついたころからずっと見詰め続けてきた、誰よりもカッコイイあのプレー。
シュートフェイクでつっこませる、自分でいくと見せかけてパスで裏をかく、敵の読みを誤らせて、常に敵より先へ――
(……にいちゃん)
そうして九月九日の夜が、訪れる。
地獄からの脱出RTA 9月9日/昼ー② 了