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あの時の溜息の意味を、ここの所ずっと考えている。


夜の密会なら幾度となく重ねたけれど白昼の逢瀬は初めてだと、陽光を受けて輝くジャングルポケットの髪を見てしみじみと感じ入っていた、あの日。もう十日ほども前になろうか。

ふわふわと浮き立つまま彼方此方と連れだって歩き、最後に寮部屋に寄っていかないかと言い出したのはジャングルポケットからだ。

誘われたからには、同室のナリタトップロードは留守なのだろう。わかりきっているはずの不在を、それでも確かめるかのようにナリタトップロードの領域を見やってしまうのは、最早、治しようがない癖のようなものかもしれない。その机上に、苦い菊の一場面が飾られている。

じわりと胸に広がる苦さは、きっと一生背負っていく。そういうレースだったから。その苦味がレースのものだけで、自分以外の二人の笑顔には穏やかな感情しか沸かないことに、心底ホッとした。

その瞬間に、視界が暗転した。

腕を引かれて抱き込まれたのだと理解が及んだのは次の瞬間で、その途端にバクンと何か破裂したような音が響く。声を出さずに済んだのは僥倖だったと、今でも思う。そうして今ならば、あの音が心臓の音だったのだと腑にも落ちた。

あの只中にあっては、それどころではなかったのだ。

何せ、次に襲いかかってきたのは全身を走る熱。それが目の裏に収束して、グラグラと意識が揺れる。息苦しさはレース中ですら感じたことがないくらいだ。とてもじゃないが、持たない。

『ちょっと、待って欲しい……』

何度思い返しても、この時の声が震えたかどうかを思い出せない。

込み上げてくる熱を散らさなければと瞬きに懸命で、顔など上げる余裕はまるで無くて。どうにか息をする隙間を求めて、僅かに腕を押し返した。

そこへ、深く長い溜息が零れて耳を打った。

働きが鈍った脳では咄嗟に溜息だと判別も出来ず、耳が忙しなく揺れる。揺れはしても何の気配も拾わない。いよいよこれは顔を上げねばと漸く考えついたと同時に、すい、と、ジャングルポケットが離れて背を向けた。

瞬き一つ、いや、二つ。

あっという間に離れた背が、ドアを開け放って。

『じゃあ、な……』

たった一言だけ渡された、その言葉を握り締めたまま呆然と今に至る。

あの日の出来事が夢では無かったと、あれが溜息だと確信するまで三日。ジャングルポケットからの連絡が途絶えていると認識するまで七日。自分から連絡してみようかと迷って今日まで。

ぐずぐずと可能性を捏ねくり回していた溜息の意味を、向き合うことを避けていた結論を、そろそろ受け入れなければいけない時期かもしれない。

皐月の単冠から零れる粒子、纏っていたその紗幕を落として見たのがあの醜態だ。それは、溜息くらい吐くだろう。

周章狼狽する無様さへの落胆か。

冷静さの欠片も無い恐慌への軽侮か。

はたまた化けの皮の厚さに呆れ果て、言の葉すら惜しんだのかもしれない。

所詮は、代役の成り上がり。瑕疵の一つで、あっという間に役を降ろされる。


降ろされて、しまった。


漸く直視した現実は、しかし、受け入れるとなるとまた更に時間がかかるだろうと思われた。

何とも往生際の悪いことだと自嘲の笑みを刷いて、表情筋の強張りを意識する。

それほど、動かしていなかったろうか。

ゆるりと巡らせた視線の先には、印のついたカレンダーと、バナナチップスが盛られた小皿がある。レース前には食が一層細くなるオペラオーに、何くれと軽食やお菓子を進めてくれる同室のビワハヤヒデが、年末のグランプリにはまだ早いだろうにと首を傾げながらも置いていってくれた心尽くしだ。

とはいえ、流石の引退レースである。普段より少し早くナーバスになったとて、それほどおかしいとは思われないだろう。

ならば。

それならば、もう少し猶予がある。

受け入れ難い現実に、思考が最低の逃げを打つ。

それも、グランプリまでには立て直してみせるからと、逃げるに任せて。

味のしない心尽くしを、空にした。

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