621の恋愛相談 エア編
アーキ坊やとベイ太郎が大人気なので続きましたスピーカーから流れるさざ波の音が621の鼓膜を揺らす
コックピット越しに見える海は、黒々とした闇を湛えていた
その黒の上に立つようにACを着陸させれば、ザブンと言う音と共に機体が揺れる
だがそれも一秒にも満たない一瞬の事だ。すぐに胴体制御プログラムが作動し、揺れる機体を支える。中にいる621が揺れを感じる事すらない。全く持って快適なシステムだ
そのまま水面を滑る様にして機体は静かに海上を進んで行く
薄い朝靄を切り裂きながら進んで行く様は、いつの日か見た、自由自在に空を掛ける戦友の機体にも似て、思わず口角が上がるのを禁じえなかった
先のいざこざで、封鎖機構も既にここからは手を引いている
幾つか彼らに置いて行かれた無人機が蔓延っていたが、それらの監視をすり抜けて行く程度の事は、621にとっては朝飯前だった
そうして延々と続く靄の中を潜り抜け、ようやく目的の場所に辿り着く
その鉄とコンクリートで出来たバウムクーヘンの様な建物の名は、ウォッチポイントかつてウォルターの命を受けた621が訪れ、そして大規模なコーラルの噴出の影響で死に掛けた、彼にとってはある種の因縁の場所である
○○○
コックピットのドアを開けると、歓迎の挨拶と言わんばかりの勢いで生ぬるい風と潮の匂いが彼の身体に纏わりついた。じっとりとした空気が自身の髪や地肌を舐めて行くのに若干の不快感を感じながら機体を降りると、かつて見た時とは全く異なる風景が、彼の視界を満たしていた
ACから降りた事による視点の差、と言うだけではない
かつてここに来た時は、こんなにも海の香りは濃かっただろうか?
かつてここに来た時は、こんなにもさざ波の音は心地良かっただろうか?
かつてここに来た時は、こんなにも感慨深いモノだっただろうか?
ただの無感情な飼い犬だったあの時とは違う
万感の思いとでも言うべき感情が、621の胸中を満たしていた
「…………エア、少しいいか」
『はい、私は大丈夫です。……ですがその、寒くはありませんか?』
「いや? 大丈夫だが……」
『そう、ですか。予報によると、気温はこれから下がって行くようです。風邪を引かない様にして下さいね。レイヴン』
まだ肌寒い空気の中に彼の声が白い息と共に混じる
彼の内にある相棒のエアは、そんな彼の事を気遣うような調子で返答を寄越した
最低限の防寒装備はしているし、それほど寒さを感じている訳ではないのだが、俗に言う「見てるだけで寒い」と言うヤツだろう
実体を持たないコーラルの特異波形であるエアにとって、暑さも寒さも関係ない事ではあるのだが、長い間621と共に過ごして来たからか、徐々に感性が人間に寄ってきているらしい
そんな彼女の感性構築には、大分前にウォルターから621に与えられた情操教育用のビデオが多大な影響を与えているのだが、今は関係のない話だ
強いて言うならそのビデオの影響で二人は犬派になった
ともかく、彼女の心配そうな内心を察してか、彼は毛布を更に一枚纏い、持ってきたホットコーヒー入りの水筒に口を付けた
程よく温められたコーヒーと、徐々に熱が伝わり始めた毛布の相乗効果で冷えた自身の身体が暖められていくのを感じながら、ゆっくりと言葉を選ぶ様に621は口を開く
「……俺が、色々な所に行っていたのは、エアも知っていると思うが」
『はい、貴方と一緒にいましたから』
「その、だな」
『ええ』
「俺は、エアの事が好き、らしい」
『……そう、ですか』
淡々とした調子で放たれた告白に、エアも淡々と頷く
そして二人の間に降りてくる沈黙
しかし、その沈黙は、不思議と心地よいモノだった
「……ふぅ」
コーヒーの湯気と621の吐く息が混ざり、宙に溶けて行くのを何度か眺める
そうして何度か吐息が掻き消されて行くのを眺めた後、今度はエアの方から口火が切られた
『レイヴン』
「ああ」
『私も、貴方の事が好き、なのかもしれません』
「そうか」
そう曖昧な口調で返された答えを吟味する様に、グイッとカップの中のコーヒーを飲み干す
勢いよく流し込まれたソレに喉元がカッと焼かれるが、それも本当に一瞬のこと
胃に流し込んでさえしまえば、まるで何事も無かったかの様に彼の喉は平穏を取り戻していた
少し口内に苦みが残るのを感じながら一つ息を吐き、自分自身に言い聞かせる様に、出された答えを確かめる様にゆっくりと言葉を紡いだ
「なら、俺達は”両想い”と言う事になる、のか?」
『ええ、恐らくは。男女が互いに”好き”と言う感情を抱いている事を、”両想い”と言うのでしょう?』
「……やったー?」
『……わーい?』
寒空の下で、そんな何とも言えない会話が続く
カーラがいれば爆笑しながらツッコミを入れたし、ウォルターがいれば困惑しながら軌道修正するのだろうが、あいにくながらここには621とエアの二人しかいない
ひとしきりぎこちなく喜びあった後に、再び沈黙が降りる
今までのソレとは異なり、若干の気まずさが混じるソレを引き裂いたのは、申し訳なさそうに声を上げたエアの方だった
『すみません、レイヴン。ああは言ったものの、私はあくまで実体を持たない、コーラルに生じた波形です。……この感情が、貴方達人間と同じ”好き”という物なのかは、正直分かりません』
「…………」
『あっ、いやっ! 勿論、貴方に対して特別な感情を抱いているのは確かです!!』
「ああ、知ってる」
『で、ですが、本当の意味で”両想い”かは……』
「……実は、俺もそうなんだ」
『え?』
「いろいろな人にソレは”恋”だ”愛”だと言われては来たんだが……正直、あまり実感出来ていなくてな。まだ、自分の中で名前を付けられていないんだ」
『…………』
「ただ……」
そこまで言って、不意に621が立ち上がる
彼を取り囲んでいた朝靄はほんの少しの名残を置いて何処かへと流れ去り、辺りにはスッキリとした空気が漂っていた
一つ深呼吸をして澄み渡った地平線の向こうを見ると、藍色だった空に白が混じり始める
「…………」
海面から浮かび上がる様にして、一筋の光が覗く
冷え切った彼らの元に暖かい太陽の光が射しこんで来ていた
やはり夜明けの光と言うのは、どこで見ても美しく、安心出来るらしい
まだまだ表情筋の硬い621も無意識のうちに、安堵の溜息を漏らしていた
『これは……!』
眩い太陽が昇ると共に、どこか遠くの方で機械の動き始める音が鼓膜を揺らす
何処かでカモメの鳴く声が、魚の飛び跳ねる音が聞こえる
普段の戦場とは程遠い平穏さと目の前の光景の美しさに、思わずエアは息を呑んだ徐々に白んでいく地平線の眩しさに目を細めながら、621が口角を上げる
「……この光景を、見せてあげたいと思ったんだ」
『……レイヴン』
「いつの日か見た朝焼けが妙に記憶に残ってな。……やっぱり、綺麗だな」
『ええ……本当に、綺麗です』
キラキラと輝く海面が、彼らを照らす
ゆっくりと日が昇っていくのを、二人はただ眺めていた
○○○
そうしてすっかり日が昇り、コーヒーも残る一口か二口と言った所だ
懐に入れていたせいで少し溶けてしまったチョコを齧り、簡素な朝食代わりにする
コーヒーを飲むペースを間違えたな、と内心後悔しつつも、後悔した所で水筒が満ちる訳でもない。チビリチビリと唇を湿らす様にコーヒーを啜る。チョコの甘味とコーヒーの苦みで口内がとんでもない事になっているが、まぁ許容範囲だろう
味があるだけまだマシだ
そんな事を考えながらチョコの最後の一欠けを口に放り込む
それを流し込む様にコーヒーを飲み干してしまえば621の朝食は終わりだ
簡単に手を合わせてゴミを集める。企業にとってはなんの価値もない場所になったとはいえ、何か痕跡を残せば「怪しげな計画を……」だの、「あのウォッチポイントで何を……」だのあらぬ謂れを受ける羽目になるだろう
そんなこと、彼の望む事ではない
「よい……しょっと」
一息にコックピットに登り、ACのエンジンを吹かす
全身を揺らすACの駆動音と、ブースターの排気が彼を歓迎した
すっかり聞き慣れた機械のオーケストラが彼の鼓膜を揺らす
『レイヴン。今回は申し訳ありませんでした』
「ん? 何がだ?」
『いえ、今回は、貴方に対してハッキリと返事が出来なくて……』
「ああ……」
『……わざわざこんな所にまで連れて来てくれたのに』
先の621の告白に対して、曖昧な返答しか出来なかった事に対する謝罪だろう
申し訳なさそうに声を掛けてくるエアに対して、621はさも当然と言った様子で「気にするな」と返す。その気遣いがより一層彼女の申し訳なさを加速させるのだが……それ以上に、彼の優しさに感激するのが、エアと言う女だった
そんな621に対する感謝7割、申し訳なさ3割を籠めた声色で話しかけて来る彼女の声を無視する程、今の彼は狭量ではなかった
『ところでレイヴン。ひとつ聞きたいのですが……』
「ん?」
『どうして、ここを選んだのですか? 私の方でも調べて見たのですが、ここより安全な絶景スポットがいくつも出てきましたよ?』
そう言いながらコックピットの画面に幾つかおススメのスポットが紹介される
雪を被った山麓に、木漏れ日に満ちた森林。綺麗な月を写す湖面の写真には、621も思わず感嘆の声を漏らした。もっと端末で探してみれば、更なるスポットが見つかるのだろう
だが、わざわざ無人機達の監視をすり抜ける手間を負ってでもこの場所に来たのは理由があった
「ああ、その理由なんだがな」
『ええ』
「初めての”デート”は、エアと初めて出会った場所でしようと思ったんだ」
『……!』
そう言ってにこやかに笑う彼の顔を見て、エアの波形が乱れる
普段より熱く、まるで燃え上がる様な感情にエアの脳内は既にショート寸前だ
気のせいか、それともコーラルに酔ったのか(自分自身がコーラルだと言うのに!)レイヴンの顔が光り輝いて見える。彼の声が脳内に直接届く様な感覚がする。彼の全てが、素晴らしいと思える
そんな突如として溢れ出した感情に混乱するエアを他所に、621は気ままに話し掛ける
「なぁ、エア」
『っひゃぁ!? な、なんですかレイヴン!?』
「ひとつ、約束をしてくれないか?」
『や、約束、ですか? 一体、どんな……』
「……この感情に」
『え?』
「エアに対するこの感情に名前が付けられるようになるまで、俺と一緒に居てくれないか」
瞬間、世界が止まる
エアにとって、これほどまでに真剣な表情の621を見たのは初めての事だ
そして、これほどまでに感情が乱されたことも
レイヴンの輝きが、より一層増して見える。最早、エアの視界には彼しか映っていなかった
『わ、わてゃし、わたし、も……』
声が上手く出ない。今まで当たり前の様に出来ていた交信が出来なくなる
普通ならパニックになってしかるべき状況だと言うのに、この感覚に喜びを感じる自分がいる
そんな何処か倒錯的な快楽を覚えながら、必死にエアは返答を試みる
だが、言葉を発する事は愚か、己の中で渦巻くその情動に名前を付ける事すら出来ない彼女に、返答する余裕はなかった
『レイ、ヴン……!』
「エア……?」
目の前の人物に対する愛おしさと、それを上手く伝える事が出来ないもどかしさで思考がグチャグチャになる。心配そうにこちらに声を掛けて来てくれる事すら、今の彼女にとっては毒だ
621としては先の言葉はあくまで個人的なお願いであり、特段返事を急がせるつもりもない小さな約束のつもりだったのだが、やはりこの男は罪な男である
しかしそんな二人の甘い蜜月を終わらせるかの様に、無機質なコール音が鳴る
すぐさま思考をC4-621から独立傭兵レイヴンへと切り替え、端末の向こうにいる己の主、ウォルターからの電話に応答する
ほんの数秒前までは己の中の感情に慌てふためいていたエアも、彼の纏う空気が変わったのを察し、意識を切り替える
【621、仕事の時間だ】
「分かった、ウォルター」
【詳細は端末に送る。確認しろ】
「ああ」
端的な、しかし互いに対する強い信頼を感じさせられる会話を終え、懐に端末を仕舞う
ここから目的の場所へはそれなりに距離がある。だが、機体の残エネルギーに問題はなし。弾丸に至っては一つたりとも減っていない状態だ。彼の戦闘センスとエアの補助があれば、余裕で帰還出来るだろう
ざっくりと次の任務にまつわる情報に目を通し、本格的にACを駆動させる
天気は快晴、風は微風。大空へと羽ばたくには持って来いの天気だ
ブースターの出力を上げ、離陸体勢を取る
「……行こうか、エア」
『はい、レイヴン。これからも……いえ』
『いつまでも、私が貴方をサポートします!』