27.トマトのアイス
子供はジェターク家の門前で、それこそ目と鼻の先で泣いていた。
エレメンタリースクール前位か?4,5歳位の小さな男の子だった。栗色のクリクリにカールした癖っ毛を揺らして、片手に溶けかけの真っ赤なアイス、空になってるもう片方の小さな手のひらは頻りに目を擦りながら、先刻耳にした時よりも派手に、過激に、ビービーと泣いている。
どうしてこんな所に子供が__?
毎日のように庭先に出てはいるが、子供の声は聞いたことが無かった。
ラウダさんの話では、この辺りでは多くの家庭で使用人が雇用されており、近年はそれに代わり家庭用家事代行ハロの起用も増えて来ているとか。通学にも大抵運転手付きの送迎車が配属されるそうで、そのせいで賑やかな声を耳にしないのかもしれない。各分野毎に専任の家庭教師が付く家庭も多いとのことで、彼の兄もそうだったらしい。彼はその兄に習い教わり、様々な智慧を与えられてきたことで、全能の神、またはスーパーヒーローのような憧憬を抱き、その背を必死に追ってきたと語っていた。
近隣住まいの子なのだろうか? まずは気さくな感じで声を掛けてみる。
「どうした、坊主」
声を掛けられた男の子は一瞬泣き止んで、こちらを見上げた後、さらに激しく泣き出した。
「あ、ちょっと待て。いきなりで悪かった」
しゃがんで目線を下げて、少しだけニット帽を上げて青い瞳を見せてみる。怪しい者じゃないぞと主張するため。しっかり視線を合わせると、男の子は深緑の瞳を数度瞬かせた。泣くのはもう忘れたようだ。
「どうしたんだ、母さんと逸れたか?」
「ううん、父さん。気付いたら父さんがいなくって……」
「父さんか__」
周囲をぐるりと見渡してみる。さすがはフロント屈指の高級住宅街。ボブの寝起きするジェターク家の屋敷以外も、一帯は皆敷地の広い一軒家、お屋敷と呼称するのが相応しい住宅ばかりだった。午後を少し回った時間帯柄なのか、元々車での通勤が主なのか、人っ子一人歩いていない。勿論、彼の父親らしき人影もない。
「どしたの__? おじさんも迷子なの?」
ボブがキョロキョロと周囲を確認してしていたからだろうか。男の子は逆に訊ねてくる。
「いや、おじさんは…そこの屋敷でな、庭仕事に従事しているおじさんだ」
「ここ、どこ……? 父さんと一緒だったんだけど、ちょっと余所見してたら、父さんいなくなってて。それで、探して走ってきたら__」
大きな眼に再び大粒の涙が湧いてくる。吸い込まれそうな色の深い緑だ。
……おいおい、ちょっと待てくれよ。また泣くつもりか。
「大丈夫だから! おじさんが一緒に探してやるから。一旦落ち着け、な?」
男の子は下唇を突き出しグッと奥歯を噛み締めている。そしてコクリと大きく頷いた。よかった、なんとか堪えた。眉根を寄せて顎先に梅干状の皺を作って、どうにかこうにか堪えている。
「よしよし、偉いぞ」
小さな肩を鼓舞するように軽く叩いてから、ゆっくりと立ち上がる。
「とりあえずだな、どっちから来たんだ?」
「んと、あっちだった、気がする」
指差す方向は交番とは反対方向だった。……気がするって、その情報確かなんだよな?
「あっちか__。じゃ、まずははぐれた場所まで戻ろう。父さんも探しに戻ってきてるかも知れないぞ」
手を引こうとして慌てて引っ込める。ここは慎重にいこう、このご時世だ、事案になるかもだから。
男の子の小さな手に握られた赤いアイスはまだ完全には溶けていない。逸れてから幾許も経ってはいないのだろう。
ボブは開け放したままの電子錠を振り返り、ちらりと目線を送ってから歩き出す。
大丈夫、すぐ戻る__。
付いてこられるかと訊ねると、男の子は向こうの方から若干べたつく可愛らしい手で、ボブの指先を握ってきた。仕方なく、その手を取ってそっと握り返す。
参ったな__、これ事案にならない? 大丈夫?
主に自分の不安を和らげようと、男の子に話を振った。
「家は近くなのか?」
「おうちは遠いよ、父さんと車で買物に来たの。おっきなおっきなお店があってね。何でも売ってるんだ、天井までぎっしり並んでて、どれもみんな大きいの。パンとかピザとかケーキとか、おじさんの頭よりも大きいよ。父さんより大きなでっかいクマさんとかもあるんだよ! とっても楽しい所だから、おじさんも今度行ってみたら良いよ」
「…そうだな、今度の休みに二人で出掛けてみるか」
男の子は、話す方に気が取られ不安が霧消したようだ。これで当面泣かれる心配はなかろう。
「おい、大丈夫か、アイス溶けてきてるぞ? それにしても派手な色のアイスだな、イチゴか? スイカか?」
「トマトだよ」
またトマトか__、ラウダさんも総裁の娘が推してるとか言って、最近毎晩食後にトマトジュースをつけてくるよな。
総裁の娘が流行らせてるって、よく考えてみりゃ、それ職権乱用じゃ?
それにしても、凄いな総裁の娘の影響力……。こんなところまで浸透してんのか?
「トマトか、変わってるな…。トマト味、好きなのか?」
「ううん、冒険したら失敗した、あまり美味しくないよ。おじさんにあげようか?」
「……いや、いい(取り合えずトライしてみるタイプなんだな)」
「遠慮することないのに」
「いや、腹減ってないし(急に馴れ馴れしいな…)」
そんな話をしながら小さな手を引き、子供の歩幅に合わせてちょこちょこ歩きで足を進める。ところが、最初の十字路で早速行き詰まってしまった。どの道から来たのか分からないらしい。男の子は腕を組み、首を捻りながら真剣に悩んでいる。
だよなぁ…子供の頃は視野が狭い。記憶だって薄ぼんやりしてて曖昧だ。分かるよ、俺の小さい頃の記憶もそうだから。しかも、必死で走ってきたんだもんな、そりゃ覚えてないのも当然だよな…。
うーん、うーんと悩む男の子の傍で、どうしよう…もう反対方向の交番に預けた方が早いんじゃ? と方針転換を申し出ようと口を開いた時だった。
「ダニーっ!! 一体どこ行ってたんだ!? 随分探したんだぞ!!」
「父さん!?」
ダニーと呼ばれたクリクリカールの男の子はその声に聞き覚えがあるらしく、すぐさま反応すると勢いよく振り返った。
「あ!!! 父さんっ!!」
柔らかい栗色の癖っ毛がふわりと揺れる。べちょべちょの液体になりかけているトマトのアイスは、彼の手の甲まで滴り落ちて、その小さな手を真っ赤に染めている。その赤い手を見た時、胸が一瞬ツキンと痛んだ。すでにフニャつくコーンを手から放り出し、男の子は一直線に駆け出した。
放り出された溶けかけのトマトアイスは、アスファルトにぐしゃりと落ちた。真っ赤な色がびしゃりと音を立てて、地面を汚す。
人工降雨時間の終了からは数刻が経っている。乾きかけの濃灰色に、じわりじわりと溶けて広がる、その鮮明な赤に目が留まった。
叩きつけられたそれは、破裂した何かに見えて、酷く痛ましく思えた。見てはいけないものを見てしまった後のような焦燥感を感じ、目を逸らしたくなった。
「ごめんなさいっ!! 父さんっ、御免なさい!!!よそ見してごめんなさい!!!」
ごめんなさい、父さん__。よそ見して、ごめんなさい。
ボブはポツリと呟いた。口が勝手に開いて、動いて、男の子が口にした言葉をそのまま反芻する。
ぼんやりとしていると、泣きじゃくる声が耳に届く。何故だろう。それがいやに悲痛なものに感じられるのは。
俺が、よそ見なんかしたから、父さんは__
父親に抱き上げられた男の子は、その首元にしがみ付いて。今度は安堵の涙を流しながら、あそこのおじさんが一緒に探してくれたんだと、こちらを指差しながら説明している。
視界の端で、それらの光景が朧げに映っている。事案にならずに済んで良かったと、ホッと胸を撫で下ろす一方で、じわりじわりと何かの不安と暗がりが、胸の中を占めてゆく。静かに、それは生の幕を下ろすように。次第に心の全てを覆っていく。
ふと、ボブは自分の異変に気が付いた。
眼球が、全く動かない__。
赤く染まった地面を見つめたまま、この眼は張り付いたように動かない。逸らしたいのに目が逸らせない。
何だ、これは__?
寒気がして思わず小さく身震いをする。
ボブは己の体を抱くように、片手でもう片方の肘を強く握り締めた。
何だろう、急に__。途轍もなく気分が悪いのだが。季節外れの風邪でもひいたのだろうか?
ひしゃげて広がる放射状。トマトのアイスは完全に溶けている。鮮やかな、鮮明な赤色だ。叩きつけたような形で広がって。そこからさらに流れ出して。吸い込まれること無く、鮮やかなまま根を張って。
それが、赤くて、紅くて、鮮やか過ぎて__。
真っ赤なヒトデがその腕を歪に伸ばしながら、地面を伝って這いずり回る。もがき苦しむように、ゆっくりと、流れ動いて、蠢いている。細い腕が、歩道の傾斜に沿って。つう、と、こちら側に腕を伸ばし始める。そろそろと、音を消して忍び寄るように見えた。気配を消して気付かれまいと、息を殺しているように見えた。
ぬるり、ぬるり。じっとりとした湿度を帯びたそれは。ヌメつきながら伸ばされる、その長い腕は__。ぺたり、ぺたりと悍ましい音さえ立てている気すらした。
歩道を汚すその色は、明らかなる意志を持って、小さく震えながら、細い腕を幾筋もこちらに伸ばそうとしているかのように思えた。
ひた、ひた、と。この手を、腕を、指先を、必死に握ろうとしているかのように思えた__。
もう、逃さないと言われている気がした。
……嫌だ、寄るな。触るな。
ふらふらと、半歩ばかり後退る。
何かを訴えるように。こちらをぐっ、と睨み付ける視線を感じた気がした。
……怖い。怖い。助けて。誰か__。
真っ赤な赤。目も眩むほど鮮明な赤。恐怖で硬直した体は動かない。手も足も、ぴくりとも動かせない。微動だに出来ぬままに、それに掴まれ侵食されて。
嫌だ、離してくれ。 誰か、助けて__。
悲鳴をあげたい、逃げ出したい。此処から、今すぐ。全速力で。なのに、それが出来ない。
「すみません、少し目を離した隙にいなくなってしまって__」
その声で我に返る。地面に釘付けになっていた視線を、引き剝がすようにして親子の方に無理やり戻した。
「……いや、良かったです。父さん、見つかって…良かったな……」
「うん、おじさん、どうもありがと」
「こらダニー、お兄さんだろう? すみません、ご迷惑をお掛けして。お世話になりました」
「いえ、俺は、何も__」
「ほら、お兄さんにバイバイしなさい」
手を振る父子の姿が小さくなるまで見送ると、ボブは作業着の胸の部分をギュッと握り締める。固い物体が手に当たった。ポケットの内の連絡用の通信端末だ。その存在に縋るような気持ちで、もう一度強く握り締める。それでもドクドクと早鐘を打つ心臓の音に気付いてしまうと、なおさら不安が煽られた。
どうしたってんだ……、何てことない出来事だろう。和やかな父子の再会の光景だ。
それがどうしてこんなにも胸に閊えるんだ?
乱れ打つ動悸は一向に止まらない。割れそうな頭の痛みが、さらに追い打ちを掛けてくる。ガンガンとドアがノックされる音に似た痛みの波。それが、引いては寄せてを繰り返している。
久方ぶりに表の世界に出てきたせい、なのだろうか?
それとも数月ぶりにラウダさん以外の誰かと話したからか?
このなんてことない出来事に、予想外のストレスでも感じているのだろうか?
俺って、そんなに繊細だったっけ__?
それとも、急に庭仕事に精を出したあまり、思わぬ疲労が溜まっているのだろうか?
確かに暫くは寝たきりに近い状態だったが、最近は1日外仕事に打ち込んだ日も、筋肉痛は感じない。体力が落ちているというわけでも無いと思う。
秋先の程よい気温であるはずなのに全身に寒気が走る。自然と握り締めていた拳が白くなって、指の先まで冷たくなってる。
視線は意図的に足元に落とした。さっきのアレに目を遣ったら__。
もう俺は戻って来れないかもしれない。
どこから? 何から? 分からない、何も分からない。分からないから、怖い。
あの飛び散る深紅の色が__赤い、赤いその色が、目に焼き付いて離れない。
恐ろしい色だと思った。
もう一度、胸のポケットを握り締める。そのまま震える指で端末を取り出し掛けてみたものの、ボブは思い留まり、そのまま腕を下ろした。連絡するような事ではない。第一、何をどのように告げれば良いのか分からない。
怖い、不安で心が潰れそうだ、辛い、助けて、そんな風に言うつもりか?
甘えるな。彼の立場の大変さ、困難さ、その多忙さ。それを言いたいのは彼の方だろ?
兎に角、今は__。
早くあの家へ。彼と暮らす我が家へ帰ろう。
鉛のように重たい身体を引き摺りながら、歩いて来た時の倍以上の体感時間を掛けて、開け放しのままになっていた小洒落たジェターク家の門前まで辿り着いた。内側から電子錠をロックすると、安堵からか目眩がして、目頭を押さえながら門塀に背中を預けた。
縺れる足で、時折敷石の段差に躓きながら、どうにか玄関まで辿り着くと、何故だろうか酷く懐かしく感じられる重厚な扉に手を掛ける。後ろ手で扉を閉めながら一息吐いて、先程からどうにも窮屈に感じられて仕方のないニット帽を玄関先で脱ぎ捨てた。髪を束ねたバレッタも、何だか苦しく感じて外して傍に落とした。
ポーチの鏡に映った自分の顔は真っ青だった。こめかみからは冷たい汗が幾筋も伝っている。
これはいったい__、俺は。どうしてしまったと言うんだ。
目眩は酷くなる一方だ。クラクラして、足元がやたらふらつく。冷たくなった指先を己の額に当てると、脂汗がじっとり手のひらにまで付いてきた。
屋敷に足を踏み入れてから、耐えられないほどの頭痛に加えて耳鳴りが酷い。耳の奥で囂しく鳴り続けるその音が、煩くて堪らない。耳を引き千切りたくなる衝動に駆られながら、足を引き摺り考える。
いや、違う。これは、頭痛でも、耳鳴りでもない__。
誰かが心の扉を激しく打ち付けている音。
出てこい!! 出てこい!! これ以上逃げるな、卑怯者!!!
割れるばかりの音量で誰かが__。俺の奥底で叫んでいるのだ。
それが。その耳を引き裂くような叫び声が。頭が割れるような痛みとなって。劈くばかりの耳鳴りになって__。
その耳鳴りの奥からさっきの父子の会話が小さく聞こえる。
「どこ行ってたんだ、探したんだぞ」
「ごめんなさい!!父さん御免なさい、よそ見しててごめんなさい!!」
地面に落ちたトマトのアイス。その真っ赤な、鮮明な赤__。
全身から汗が噴き出す。やっとの思いで寝室へと辿り着く。汗でべったり張り付く作業着を、放るように脱ぎ捨てた。
喉の奥がカラカラになって張り付いている。苦しくなって、咳き込んで、そのまま寝台に倒れ込む。
……ごめんなさい、父さん__よそ見してt__
父さん…ごめん…
どこ行ってたんだ、探したん…d…ぞ…
父さん、ごめん__俺が死んでいれば__父さんは__
真っ赤なトマト色が飛び散ったアスファルト__
それは。鮮明な赤、残酷なまでに紅い赤、突き付けられる俺の、俺の、俺の、罪の色__。
なんで…父さんじゃなくて、俺なんだ……俺が、死んでいれば……
そうだ!!!お前が死んでいれば、今頃あたしの父さんは!!!!
ヘルメットのシールド内にべったりと張り付いた赤い色。目も眩むほどの鮮明な赤。
じわりと鈍色の赤が滲むパイロットスーツ。それがモニターに映し出される。
カメラは全体を捉えきれずに、端の方は見切れている。
だが、その全てをこの目に焼き付けずに済んだことは、まだしも救いであったのかも知れない。
それでも、断片的に映り込んだそれを見て。息が止まった。
…グエル…か? 無事…だったか… 探したん…だ、ぞ?
苦しげな表情の中、無理やり作った微笑み、にもなり切れなかった、引き攣り笑い、のようなもの。
鳶色がかった飴色の__飴色の__、大好きなあの人の__
父さんっ!? 早く脱出しろっ!!!
俺が、今そっちに行く__か、
音の無い世界。
、ら__。
目の前で閃光を放つディランザ・ソル。
ボブは青い瞳を零れんばかりに見開いた。
あの日の光景が。あの人の優しい響きの最期の声が、あの日の自分の金切り声と共に鮮明に甦る。
両手が頭を抱え込む。突き上げるような吐き気に反射的に体が丸まる。あの時と同じように、再び息が止まった。ガクガク視界が回る。
生家はシンと静まり返っている。
誰もいない家。誰もいない部屋。
自室に飾られた大好きな父さんの写真が、脳裏に浮かぶ。
この屋敷に、二度と父さんは帰って来ない__。
俺のせいで、二度と__。
ボブとグエルは同時に絶叫した。
声にならない悲鳴を発した。鼓膜が裂けるような音が、耳を襲った。
心臓が凍り付く。
その音の悍ましさに__、いや違う、自分の罪の重さに戦慄したのだ。